定慶(読み)ジョウケイ

デジタル大辞泉 「定慶」の意味・読み・例文・類語

じょうけい〔ヂヤウケイ〕【定慶】

鎌倉時代慶派の仏師。
大仏師法師定慶。鎌倉前期に活躍。作、興福寺東金堂の維摩居士ゆいまこじ像、同寺の梵天・帝釈天像など。生没年未詳。
肥後法眼定慶。鎌倉前期から中期に活躍。作、大報恩寺准胝じゅんでい観音像、鞍馬寺聖観音像など。生没年未詳。
越前法橋ほっきょう定慶。鎌倉後期に活躍。伝存作品はないが、法隆寺新堂の日光・月光菩薩像などの修理に従事したことが知られる。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「定慶」の意味・読み・例文・類語

じょうけいヂャウケイ【定慶】

  1. [ 一 ] 鎌倉前期の仏師。大仏師法師定慶。快慶とともに鎌倉彫刻様式を創造した。作に、興福寺の「梵天像」など。
  2. [ 二 ] 鎌倉中期の仏師。大仏師肥後法眼定慶。作に、東京芸術大学蔵「毘沙門天像」など。
  3. [ 三 ] 鎌倉後期の仏師。越前法橋定慶。法隆寺新堂の「日光・月光菩薩像」を修理。
  4. [ 四 ] 室町時代の仏師。備後房定慶。明応年間(一四九二‐一五〇一)、長谷造仏に携った。

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百科事典マイペディア 「定慶」の意味・わかりやすい解説

定慶【じょうけい】

鎌倉時代の仏師。当時,定慶を名乗る仏師が3人あり,運慶の次男,あるいは康慶の弟子と伝える大仏師法師定慶(生没年不詳)は興福寺維摩像(1196年)や金剛力士像(1190年―1198年ころ)を残している。肥後法眼定慶〔1184-?〕は,同じく慶派の仏師で,鞍馬寺の聖観音像,東京芸術大学蔵の毘沙門天像などの作者。越前法橋定慶(生没年不詳)は1283年に法隆寺西円堂薬師如来像を,1284年に同寺新堂の日光菩薩月光菩薩像を修理したことが知られている。前2者は,図像や技法に宋代彫刻の影響が認められるが,その関係は明らかでない。

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改訂新版 世界大百科事典 「定慶」の意味・わかりやすい解説

定慶 (じょうけい)

鎌倉時代の慶派の仏師。この名の仏師は鎌倉時代に大仏師法師定慶,肥後法眼(ほうげん)定慶,越前法橋(ほつきよう)定慶の3人がいたと考えられる。(1)大仏師法師定慶 康慶の弟子ともいい1196年(建久7)興福寺東金堂維摩居士像,1202年(建仁2)同寺梵天,帝釈天を造っており,同時代の金剛力士像も建久年間(1190-99)の彼の作とする記録もあり,興福寺や春日社を中心に製作したことがわかる。宋代彫刻の作風を加味した,やや執拗な写実傾向を示す作家で,非常にすぐれた技量を見せている。(2)肥後法眼定慶 1224年(元仁1)京都大報恩寺の六観音像6軀(もと北野天神社経王堂像)と東京芸術大学蔵の毘沙門天像,27年(安貞1)鞍馬寺の聖観音像を造り,42年(仁治3)兵庫石龕寺の金剛力士像,56年(康元1)岐阜横蔵寺の金剛力士像などの作があり,鎌倉へも下向したという記録がある。彼は造像銘文で自分の名に〈坪坂住〉とか〈南方派〉と肩書きしており,その名からいっても慶派一門ではあろうが,何かの事情で奈良地方で独立して仕事をしていたかとも思われる。(1)の定慶よりさらに宋風影響の強い作家である。(3)越前法橋定慶 13世紀末の記録にあらわれるが,作品はのこっていない。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「定慶」の意味・わかりやすい解説

定慶
じょうけい

鎌倉時代の慶派(けいは)(七条仏所)の仏師。この名の仏師は当時3人いたと考えられる。大仏師法師(ほっし)定慶、肥後法眼(ひごほうげん)定慶、越前法橋(えちぜんほっきょう)定慶(いずれも生没年不詳)がそれである。第一の法師定慶は康慶の弟子ともいわれ、1196年(建久7)に興福寺東金堂維摩居士(ゆいまこじ)像、1202年(建仁2)に同寺梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)像をつくっており、同寺の金剛力士像も建久(けんきゅう)年間(1190~99)の彼の作とする記録がある。興福寺や春日(かすが)大社を中心に宋(そう)代彫刻の作風を加味した写実的な傾向の制作を行い、優れた技量を示した。第二の肥後法眼定慶は、1224年(貞応3)に京都大報恩寺の六観音像6躯(く)と毘沙門天(びしゃもんてん)像(東京芸術大学)、27年(嘉禄3)に鞍馬寺(くらまでら)聖観音像、42年(仁治3)に兵庫石龕寺(せきがんじ)の金剛力士像、56年(建長8)に岐阜横蔵寺の金剛力士像などの作があり、鎌倉へも下向したという記録がある。彼は造像銘文で自分の名に「坪坂住」とか「南方派」と肩書しているので、慶派一門ではあろうが、なにかの事情で奈良地方で独立していたかとも思われ、第一の定慶よりさらに宋風の影響が強い。第三の越前法橋定慶は鎌倉後期の13世紀末の記録に現れるが、法隆寺新堂の日光・月光菩薩(ぼさつ)像などの修理の事実があるだけで、作品は残っていない。

[佐藤昭夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「定慶」の意味・わかりやすい解説

定慶
じょうけい

鎌倉時代の仏師。寿永年間から約 100年間に定慶と称する仏師が3人存在し,伝記が不明で混同されることが多い。 (1) 運慶の次男で康運を改め,大仏師法印定慶と称した慶派の仏師。写実的作風に宋風の影響を強く受け,作品に寿永3 (1184) 年の春日大社散手面,建久7 (96) 年の興福寺『維摩居士』,建仁1 (1201) 年益田家の『帝釈天』,翌年の興福寺『梵天』『金剛力士』などがあり3人のなかで最も有名。 (2) 康慶の弟子で肥後法眼定慶と称した仏師。宋様式の影響を受けた作風で,貞応3 (24) 年の『毘沙門天』 (東京芸術大学) ,嘉禄2 (26) 年の鞍馬寺『聖観音』,建長8 (56) 年の横蔵寺『金剛力士』などの遺作がある。 (3) 越前法橋定慶と称した仏師。弘安6 (83) 年に法隆寺西円堂『薬師如来』,翌年に同寺新堂『日光・月光菩薩』などを修理したことが知られる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「定慶」の解説

定慶(2) じょうけい

1184-? 鎌倉時代の仏師。
元暦(げんりゃく)元年生まれ。元仁(げんにん)元年制作の大報恩寺六観音像,嘉禄(かろく)2年の鞍馬寺(くらまでら)聖観音像,仁治(にんじ)3年の丹波氷上(ひかみ)郡(兵庫県)石龕(せきがん)寺の金剛力士像などをのこした。運慶の次男康運と同一人物とする説がある。通称は肥後別当,肥後法橋(ほっきょう)など。

定慶(1) じょうけい

?-? 鎌倉時代の仏師。
康慶の弟子といわれる。元暦(げんりゃく)元年(1184)制作の春日大社の散手(さんじゅ)の舞楽面,建久7年の興福寺東金堂の維摩居士(ゆいまこじ)像,建仁(けんにん)元年の同寺の帝釈天(たいしゃくてん)像などがのこる。

定慶(3) じょうけい

1246-? 鎌倉時代の仏師。
寛元4年生まれ。弘安(こうあん)6年法隆寺西円堂の薬師如来像,翌年同寺新堂の日光・月光菩薩(がっこうぼさつ)像の修理をした。通称は越前法橋(えちぜんほっきょう)。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「定慶」の解説

定慶
じょうけい

生没年不詳。平安末~鎌倉前期の仏師。運慶・快慶とほぼ同時期に活躍。作風は徹底した写実性と中国宋代美術の受容を基調とする。代表作は,1196年(建久7)の興福寺東金堂維摩(ゆいま)居士像(国宝)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「定慶」の解説

定慶
じょうけい

生没年不詳
鎌倉時代の慶派の仏師
運慶の2男康運の改名という。写実的な作風で,興福寺『維摩像』『梵天像』などの作品がある。

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世界大百科事典(旧版)内の定慶の言及

【鎌倉時代美術】より

…彫刻界では運慶や快慶からその子や弟子たちの世代に入る。康勝が一瞬の動態を写生的にとらえた空也上人像(六波羅蜜寺)を,定慶が宋代彫刻の過度の写実をとり入れた聖観音像(鞍馬寺)をつくったのはこの時期である。なかんずく運慶の長子湛慶は運慶の力動感あふれる存在性と快慶の絵画的あるいは説明的ともいえる写実とを調和させた様式を確立し,1251‐54年(建長3‐6)に蓮華王院本堂(三十三間堂)の復興造仏を成し遂げた。…

※「定慶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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