目次 地理的位置 諸民族の流入 モルドバ公国 の建国 シュテファン 大公時代の繁栄 オスマン帝国 とロシアの進出 独立と統一の動き ルーマニア北東部の地方名。ロシア語などではモルダビアMoldaviaと呼ぶ。歴史的モルドバは旧モルドバ公国領の地方を指し,それは時代によって若干変化しているが,一般にルーマニア人はシュテファン大公の時代の領土をモルドバとみなしている。それは東カルパチ山脈とドニエストル川 にはさまれた地域で,北はブコビナ に接し,南は黒海とドナウ川下流までであるが,南西部のワラキアとの境はドナウ川支流のブザウBuzǎu川とさらにその支流のミルコブMilcov川の線とされている。現在は東カルパチ山脈とプルート川 にはさまれた地域を指し,プルート川以東はモルドバ共和国 (旧ソ連邦のモルダビア社会主義共和国が1991年に独立し改称)となっている。
地理的位置 地形は東カルパチ山脈の走る西部はもとより,北部もその支脈が走り山岳丘陵地域が多いが,南部へ下るにしたがい平坦地となり,かつては中央アジアから帯状に延びるステップ地帯の一部をなしていた。このように外へ向かって開かれた地形であるため,モルドバの歴史は古くからステップの遊牧民族(スキタイ,ペチェネグ,クマン,モンゴル,タタール)との交渉が深く,このほかに北東のスラブ人(キエフ・ロシア人,ポーランド 人,ウクライナ人,コサック)や西から東カルパチ山脈の峠を越えてくるトランシルバニア 人(セーケイ),ドイツ人,ハンガリー 人,さらには南方から侵略して数世紀にわたってモルドバを支配したオスマン・トルコなどとも深いかかわりをもってきた。またトランシルバニアやワラキアのルーマニア人との交流が絶えなかったこともモルドバの歴史に重要な意味をもっている。
諸民族の流入 古代にはこの地域にスキタイやトラキア人が居住していたが,前1世紀トラキア人の一支族ダキア 人の王国が形成されると,その領土となった。106年ダキアはローマ帝国に滅ぼされ属州ダキアとなった。モルドバはその属州には含まれず自由ダキア人の地と呼ばれていたが,しだいにローマ化されていったものと考えられる。271年ローマは撤退しいわゆる民族移動期に入るが,とくに6世紀にはスラブ人がこの地に移住した。キエフ・ロシア国家の最盛期にはその支配はモルドバ北部にまで及んだが,他方10世紀以降ペチェネグ やクマンCuman(ロシア語ではポロベツ人 )の侵入もしだいに強まり,12~13世紀初めにはこの地に白クマン国が成立し,原住民は貢納を義務づけられた。1241年モンゴルの侵入によってクマンの国家は崩壊し,やがてキプチャク・ハーン国 の支配下に置かれたが,その後もモンゴル人はしばしば東カルパチ山脈を越えて略奪を行ったため,ハンガリー王はトランシルバニアの保全のためにもモルドバの確保を必要とした。
モルドバ公国の建国 モルドバ公国の建国はこのような歴史的背景のもとで行われたのであるが,17世紀のある年代記は次のように述べている。〈ある日マラムレシュ (トランシルバニアの北部)のドラゴシュ・ボダDragoş Vodaは狩りに出て1頭の野牛を見つけ,川のほとりまで追いつめてそれを殺した。そしてドラゴシュはそこで貴族たちと宴をはったが,広闊なその地が気にいり,そこに居をかまえることにした。
こうしてドラゴシュはモルドバの最初の公になった。彼はその狩りを懐かしみ野牛の頭部を国の紋章とし,また野牛を川まで追いつめて倒れた愛犬モルダにちなんでその川をモルドバ川と名づけた〉。現代の歴史家はこれをドラゴシュがハンガリー王の家臣としてモルドバを受封したと解釈し,次いで同じくマラムレシュからきたボイェボド のボグダンBogdan(在位1359-65)がハンガリー軍を破って1359年に建国したとしている。この事実は,マラムレシュから移住したブラフ人と呼ばれていたルーマニア人は少数であったことから,すでにモルドバには多数のルーマニア語を話すモルドバ住民が居住し,彼らがボグダンを支持したことを示している。公国の首都は初めバイアBaiaに置かれ(15世紀にスチャバに移された),ハンガリーの圧力に対抗するため,1387年ペトルPetru1世(在位1375ころ-91ころ)はポーランド王の宗主権を認めた。また14世紀末からはオスマン帝国の脅威も加わり,1456年にはスルタンへの貢納を余儀なくされた。
シュテファン大公時代の繁栄 このように当時の東ヨーロッパ における三大強国のはざまにありながら独立を目ざし,公国の最も輝かしい時期を築いたのがシュテファン大公 (在位1457-1504)であった。彼はまずポーランド王と同盟を結び,1465年に当時ハンガリーとワラキアが支配していたドナウ川下流の港市キリアChiliaを奪い,67年にはハンガリー王マーチャーシュ1世の軍を迎え討ってバイアで大勝した。次いでスルタンへの貢納を拒否し,75年にバスルイVasluiの会戦でスレイマン・パシャ軍を破った。そのため翌年にはメフメト2世の率いるオスマン軍が侵攻し,ラズボイェニRǎzboieniの戦でシュテファンは敗れたが,首都スチャバを占領しようとするスルタンの企図は挫かれた。その後オスマン軍は84年キリアとアッケルマン を占領,85年にはスチャバを攻略し,シュテファンも92年にはスルタンへの貢納を認めざるをえなかった。なお16世紀初めにオスマン帝国はモルドバの南東部(ブジャク地方)にタタール人(クリム・ハーン国にいたモンゴル系住民)を移住させ,モルドバの領土は狭められた。モルドバの窮状とオスマン勢力の伸展をみたポーランド王は97年にモルドバを攻撃したが,トランシルバニア軍,ワラキア軍,オスマン軍の援軍を得てレンツェシュティLenţeştiの戦でこれを破った。その後ポーランドとは99年に条約を結び平和を確保したが,晩年のシュテファンは自治権と領土の保障が得られるならばスルタンの宗主権を認めざるをえないと考えるにいたった。彼が短期間ながら独立を達成できたのは,国の中央集権化のために努力し自由な共同体農民の支持を得たことにもよるが,さらに東西貿易の関税収入による財政的基盤があったからである。彼の最初の対外的軍事行動が東西貿易の主要港キリアの奪取に向けられ,またトランシルバニアのブラショブ商人とポーランドのリボフ商人にしばしば恩恵を与えて貿易の増進に最大の配慮を払ったこともこの事実を裏づけている。また彼は戦闘のたびに建立したといわれるほど多くの教会または修道院を建てたが,その中にはプトナ,ボロネツ,ニヤムツなどの修道院があり,それらは中世モルドバ文化の最大の遺産とみなされている。このほかアトス山のゾグラフ修道院 にも寄進してそれを改築した。
オスマン帝国とロシアの進出 シュテファン大公以後約300年間オスマン帝国のモルドバに対する支配はますます強化され,ペトル・ラレシュPetru Rareş(在位1527-38,41-46)のように貢納を拒否する公が出ても,大貴族の反対とオスマン軍の重圧の前にすべて失敗に帰した。モルドバにオスマン支配から脱却する機会を与えたのは,17世紀後半に始まるオーストリア とロシアの南進政策であった。1710年スルタンの推薦によってモルダビアの公位に就いたD.カンテミール (在位1710-11)は,11年4月ロシアのピョートル大帝と秘密軍事同盟を結んでオスマン帝国と戦ったが,同年7月プルート河畔のスタニレシュティの戦でオスマン・タタール連合軍に包囲されて降伏し,カンテミール は捕虜になった。その後の条約によりカンテミールはロシアへ亡命し,ピョートル大帝に厚遇されたが,以後ロシアとの関係は深められていった。オスマン政府はモルドバの統治をいっそう強化するためギリシアのファナリオット 出身のマブロコルダトNicolae Mavrocordat(在位1709-10,11-15)を公に任命し,1821年までファナリオットの時期がつづいた。この時期には現地貴族の間から公が選出されなかったばかりでなく,外交権の喪失,軍隊の縮小など,自治権に対する大幅な制限が加えられた。ファナリオット出身の諸公とその従者は,任期終了後も現地にとどまりモルドバの貴族となる例が多く,ギリシア文化の影響も強められた。公用語も以前のスラブ語に代わってギリシア語が用いられるようになり,法典もギリシア語で書かれ,首都のヤシにはギリシア・アカデミーが設立された。この間にもオスマン帝国の衰退は著しく,1774年キュチュク・カイナルジャ条約で黒海商業の独占権を失った。同年オーストリアはホティンを除くブコビナ地方を領有,1812年にはロシアがホティンを含むプルート川以東のモルドバ(ベッサラビア )を領有し,以後この地方にはロシア人の植民が大規模に行われることとなった。
独立と統一の動き 1821年のエテリア 蜂起とワラキアのブラディミレスク の率いる農民蜂起は,ファナリオット支配を終わらせ,現地貴族出身の公が選出されることになった。26年ロシア・オスマン帝国間に結ばれたアッケルマン条約 でかつてのモルドバの自治権が承認され,露土戦争後に結ばれた29年のアドリアノープル条約 ではモルドバの自治はさらに拡大され,事実上オスマン帝国の支配からはほとんど解放されたが,その代りロシアがその保護者となった。29-34年ロシア軍は駐留をつづけ,開明派のP.D.キセリョフ 将軍がワラキアとモルドバを統治した。この時期1832年にワラキアより1年遅れてモルドバの組織規程がつくられ,近代的改革(公の権限の制限,国内関税の廃止,軍隊の創設,議会開設)が行われたが,マルクスが賦役の法典と呼んだように,農民に対しては過酷な賦役の規定を含んでいた。48年3月,ウィーンやハンガリーでの革命に呼応してモルドバでも革命の準備が行われたが事前に弾圧され,同年6月オスマン軍がワラキア革命鎮圧のためにワラキアを占領すると,それを口実にロシア軍もモルドバを占領した。48年革命の失敗の経験から,ワラキアでもモルドバでも統一を求める声が高まってきた。国内にも一部の大貴族をはじめとする統一反対派の勢力が強かったが,ロシアはオスマン帝国を弱体化するために両公国の統一を望んでいた。クリミア戦争 を終結させた56年のパリ条約は両公国の統一を一歩進め,立法や司法において統一の準備的措置がとられた。そして59年1月ワラキアとモルドバの両議会はともにクザ を公に選出し,こうして統一が実現した。以後,モルドバとワラキアは,トランシルバニアを含めルーマニアの民族独立の動きを強めるが,これについてはルーマニアの歴史の項で詳述することにする。 →ベッサラビア →モルドバ[国] →ルーマニア →ワラキア 執筆者:萩原 直