江戸幕府直轄地(幕領)の俗称。江戸時代には御料所もしくは御領と呼んだ。1603年(慶長8)に開かれた江戸幕府は,徳川氏の蔵入地(くらいりち)を引き継いで直轄領を形成し,慶長(1596-1615)末年には200万石程度であったが,諸大名の改易・転封を通じて拡大し,元禄(1688-1704)末年には400万石を超えた。その後1744年(延享1)に461万石に達して江戸時代のピークを記録したが,やがて漸減に向かい1838年(天保9)には419万石であった。天保期の全国総石高3055万石のうち,大名領73.6%(2249万石),旗本領11.6%(353万石),禁裏・寺社領1.0%(33万石)に対して天領は13.7%の割合であった。天領の分布は全国68ヵ国中47ヵ国に及び,1838年には関東筋94万石,奥羽筋55万石,信越筋73万石,海道筋74万石,近畿筋63万石,中国四国筋39万石,西国筋22万石と広がっており,幕府の膝元である関東,京・大坂を囲む近畿,東海道を擁する海道筋,米作地帯の出羽・越後方面に集中していることが判明する。このほか鉱山のある佐渡,但馬生野,石見大森,山林のある飛驒,流通上重要な都市である大坂,長崎などをも直轄した。以上から政治・軍事上および財政・経済上から見て枢要な地帯に,天領が配置されていると理解できるが,なかんずく貿易港長崎と貨幣鋳造原料を産出する主要鉱山を直轄したことの意義は大きい。
天領の支配は,石高5万~10万石前後に1人の代官(郡代)を置いたが,一部は大名預地(預所(あずかりしよ))と称して近隣の藩に預けて年貢米の徴収を委託した。江戸には町奉行を置くほか,主要な拠点には遠国(おんごく)奉行(大坂,京都,駿府,伏見,奈良,堺,山田,日光,下田,浦賀,新潟,佐渡,長崎,箱館,兵庫(幕末),神奈川(幕末))を置いて支配した。1838年には,代官支配地328万石,大名預地76万石,遠国奉行支配地14万石であった。遠国奉行は老中支配で,上層の旗本が任命され,二人役(江戸と現地の交替制)で,配下に与力・同心などの地役人(じやくにん)をもち,代官は勘定奉行の支配で,下層の旗本が任命された。江戸の役宅と任地の陣屋とを往復し,配下には数人の手付(てつき)・手代(てだい)をもったが,いずれも独自の軍事力をもたないから,領内の百姓一揆によって陣屋が襲われるなど緊急の場合には近隣の藩から武力の援助を仰がねばならなかった。天領の年貢米の多くは,村から直接河川もしくは海上を舟運で江戸の御蔵(おくら)へ回送され,幕府財政の収入となり,残りは大坂・二条・駿府城などの籾蔵(もみぐら)に回送・貯蔵されて不時の凶荒に備えられた。
1868年(明治1)大政奉還ののち徳川氏は静岡藩に移封され,旧直轄地の大半は維新政府の没収するところとなり,旧大名領の藩に対し県と呼称されたが,71年廃藩置県とともに旧藩領との区別は消滅した。県時代は,一般には朝廷(天皇)の直轄領と映り,天朝領もしくは天領と呼ばれたが,ここからさかのぼって,旧幕時代の直轄地をも天領と呼ぶようになったのである。
執筆者:大口 勇次郎
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江戸幕府の直轄領の俗称。天領とは本来、朝廷(天皇)の直轄領のことを称したが、明治維新の際、旧幕府領の大半が明治政府の直轄県つまり天皇の直轄領になったともみられたことから、さかのぼって幕府直轄領を天領とよぶようになった。正式には御料(御領)、御料所、公領、公儀御料所と称した。天領は、徳川氏の蔵入地(くらいりち)が関ヶ原の戦いを経て1603年(慶長8)の幕府開設後に拡大され、慶長(けいちょう)末年には約230万石に達し、元禄(げんろく)年間(1688~1704)には約400万石となり、全国68か国のうち47か国内に分布した。
天領は、大名・旗本の改易や転封・知行替(ちぎょうが)え、創設のためあてられたので、総石高(こくだか)は固定化されていなかったが、1744年(延享1)の総石高463万石、年貢高180万石を最高に、以後減少の傾向がみられた。分布状況は関東・東海・畿内(きない)を中心に北国・奥羽に多く、とくに政治・財政・交通・軍事上の要地に設けられ、年貢の基幹をなした米や商品作物の生産地域、都市・港湾や鉱山・山林地帯に重点的に分布していた。1730年(享保15)には、天領のうち郡代・代官支配地360万石、大名預所(あずかりしょ)74万石、遠国奉行(おんごくぶぎょう)支配地13万石に分けられていた。各天領の年貢米や金銀は江戸・大坂に集められ、勘定所(かんじょうしょ)の管轄下に置かれ、幕府財政の重要な基盤になった。
[村上 直]
『村上直著『天領』(1965・人物往来社)』▽『同「江戸幕府直轄領の地域的分布について」(『法政史学』25所収・1973・法政大学)』▽『同「近世後期、幕府直轄領の地域的分布について」(『法政史学』34所収・1982・法政大学)』
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江戸幕府の直轄地(幕領)の俗称。近世においては,幕府の直轄地は御料(ごりょう)・御蔵入などといわれ,天領とはよばれなかった。1868年(明治元)旧幕府直轄地が,そのまま明治維新政府によって接収,府・県として維新政府が直轄体制を引き継いだ。しかし当時,一般には大名領である藩領に対して朝廷の直轄地,すなわち天朝の領地と認識され,天朝領あるいは天領とよばれた。その後この呼称を旧幕府領時代までさかのぼらせ,天領とよぶことが定着した。
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…江戸時代の各地に散在する幕領(天領)に,宝暦・天明期(18世紀後半)以降存在した村役人の代表。個々の代官所支配管下全体(=郡中)の庄屋(名主)を代表する〈惣代〉の意味で,郡中惣代庄屋(名主)と呼ばれる。…
…最初の寛永の巡見使は,大御所徳川秀忠が死去し3代将軍家光が名実ともに政権を掌握したのを機に,また寛文の巡見使は4代家綱の政権の確立期に,それぞれ派遣されたが,5代綱吉の天和の巡見使以降,代替り直後に派遣されるようになった。 巡見使は原則として全国に派遣されたが,寛永の場合は6ブロックに3人ずつ(万石以上,使番,両番(書院番と小性組)により構成),寛文の場合は〈陸方衆〉として6ブロック(ただし1664年派遣の関東を除く)に3人ずつ(使番,書院番,小性組により構成),〈海辺衆〉として2ブロックに2人ずつ(船手等により構成),天和と宝永の場合は8ブロックに3人ずつ(使番1人,両番2人により構成)の編成で,御料(幕領と天領)・私領の区別はなかった。ところが宝永の巡見使のもたらした報告により全国の施政・民情の実態を知った幕府は,とくに直轄領の監察強化を企図し,1712年から翌年にかけて,全国の幕領を14のブロックに分け,各3人ずつ(勘定,支配勘定,徒目付(かちめつけ)により構成)の〈国々御料所村々〉巡見使を派遣した。…
…江戸時代に地勢によって区分された行政区画をいう。幕府勘定所では天領を関東筋,(東)海道筋,北国筋,(五)畿内筋,中国筋,西国(さいごく)筋と区分した。また藩によっては各郡に筋名が見られることや2郡にまたがる場合もある。…
…江戸時代,幕府直轄領(天領)の農村に課せられた付加税の一種。五街道の問屋,本陣の給米や宿場入用に充てる目的で,村高100石につき米6升の割合で徴収した。…
…
[支配機構]
幕藩体制の下では,一部の寺社・朝廷領を別とすれば全国の土地,人民は御料,私領に区分された。御料は幕府直轄領(天領)であり,佐渡,足尾,石見などの主要鉱山や,大坂,京都,江戸,長崎などの主要都市もその中に含まれていた。私領は公儀と主従関係にある部将に預けられた知行地で,その部将の公儀との間の位階制的序列によって,大名領(大名),旗本領(旗本)に区分された。…
…江戸時代,幕府直轄領(天領)農村に課せられた高掛物と呼ばれる付加税の一種。江戸城台所の六尺と呼ばれる人夫の給米として,村高100石につき米2斗の割合で徴収した。…
※「天領」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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