武内宿禰(読み)タケノウチノスクネ

デジタル大辞泉 「武内宿禰」の意味・読み・例文・類語

たけのうち‐の‐すくね【武内宿禰】

大和朝廷の初期に活躍したという伝説上の人物。記紀によれば第8代孝元天皇の曽孫で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、大臣となり、神功皇后を助けて新羅しらぎ出兵などに功績があったという。葛城かつらぎ・巨勢こせ・平群へぐり・蘇我そが・紀氏などの祖とされる。

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精選版 日本国語大辞典 「武内宿禰」の意味・読み・例文・類語

たけのうち‐の‐すくね【武内宿禰】

  1. 大和朝廷の初期、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五朝二四四年間仕えたという伝説上の人物。蝦夷地の視察、神功皇后を助けての新羅出兵、また、香坂・忍熊二王子追討に活躍したという。葛城・平群(へぐり)・巨勢(こせ)・蘇我・紀などの古代の豪族は彼の子孫というが、いずれも史実としては信じがたい。

たけしうち‐の‐すくね【武内宿禰】

  1. ⇒たけのうちのすくね(武内宿禰)

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改訂新版 世界大百科事典 「武内宿禰」の意味・わかりやすい解説

武内宿禰 (たけうちのすくね)

大和朝廷初期の伝説上の人物。《古事記》では建内宿禰と記す。タケシウチノスクネ,タケノウチノスクネとも読む。孝元天皇の孫(《古事記》)または曾孫(《日本書紀》)で,景行朝初年,紀直(きのあたい)の女を母として紀国で生まれたとされる。景行天皇の51年正月の宴に〈非常(おもいのほか)に備へて〉門下に侍し忠誠を賞され,同年棟梁の臣となり,記によれば成務,仲哀,応神,仁徳(紀では景行から仁徳)朝の大臣をつとめたという。この間,仲哀死後に神功(じんぐう)皇后とともに神託を聞き,皇后の朝鮮出兵後は,応神即位のために忍熊王(おしくまのみこ)の軍を破り,太子(のちの応神)に従って気比(けひ)大神を拝し,即位へと導く。応神天皇9年,弟の甘美内(うましうち)宿禰に讒されるが,盟神探湯(くかたち)に勝って潔白を示す。仁徳朝にも瑞祥に関連した二つの伝承がある。

 《公卿補任》に〈在官244年春秋295年〉と記されているこの人物の物語はもちろん史実とはいえない。仁徳天皇以外はすべて実在しない天皇にかけて伝承が語られていること,忍熊王討伐の話が本来和邇(わに)氏の持っていた伝承であったことなどがその証となる。《古事記》孝元天皇条にはその7人の男子が波多,巨勢(こせ),蘇我,平群(へぐり),葛城,紀など27氏の祖となる系譜を伝える。過去に大臣となった伝承を持つ氏族,大和南西部を中心とした豪族を網羅したこの系譜もまた作為されたものであろう。だが作為にもその目的がなければならない。これについては蘇我氏がその権勢を示すために,蘇我馬子をモデルとして6世紀末前後に作ったとする説,藤原鎌足をモデルとして7世紀末に作られたとする説がある。後者は,系譜や物語にかかわる天皇がほとんど非実在者であること,《風土記》に神功皇后の物語が多く,武内宿禰の記事は絶無なので,両者の結合は記紀成立時であること,文武天皇の宣命に鎌足と武内宿禰とを近侍の重臣として等視する事実のあることなどを根拠とする。しかし蘇我氏の祖先伝承はこれが唯一であることを考えると,ただちに後説にも従い得ない。皇室の姻族として葛城氏を継いだ蘇我氏が,まず葛城氏との血族系譜を作ったのが根幹となっていたはずであり,大臣としての武内宿禰像が成立するのは7世紀後半以後であろう。
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武内宿禰 (たけのうちのすくね)

→武内宿禰(たけうちのすくね)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「武内宿禰」の意味・わかりやすい解説

武内宿禰(たけしうちのすくね)
たけしうちのすくね

記紀などにみえる伝承上の人物。『日本書紀』によると、父は孝元(こうげん)天皇の孫にあたる屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)、母は紀直(きのあたい)氏の祖先莵道彦(うじひこ)の娘の影媛(かげひめ)。『古事記』では、孝元(こうげん)皇子の比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)を父、木国造(きのくにのみやつこ)の祖先宇豆比古(うずひこ)の妹の山下影日売(やましたかげひめ)を母と伝え、その7子は、波多(はた)、許勢(こせ)、蘇我(そが)、平群(へぐり)氏ら27氏の始祖とされている。景行(けいこう)、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)、応神(おうじん)、仁徳(にんとく)の五朝にわたって仕え、その間、景行朝には東国を巡察し、成務朝には初めて大臣となり、さらに仲哀の死後、神功(じんぐう)を助けて新羅(しらぎ)征討を行うとともに、麛坂(かごさか)・忍熊(おしくま)二王の反乱を鎮めたという。もちろん、これらはあくまで伝承の域を出ず、後代に創作された部分が少なくない。しかし、物語のなかにはなお古い伝承的要素を残している部分もあり、その原像は5世紀代に活躍した幾人もの武将たちのイメージを1人の人物に集約したものであったと考えられる。

[塚口義信]


武内宿禰(たけのうちのすくね)
たけのうちのすくね

→武内宿禰

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百科事典マイペディア 「武内宿禰」の意味・わかりやすい解説

武内宿禰【たけうちのすくね】

〈たけのうち〉〈たけしうち〉とも。大和朝廷の初期に活躍した伝承上の人物。記紀によれば,東国を視察,成務(せいむ)朝に大臣(おおおみ)となり,神功(じんぐう)皇后に従って新羅(しらぎ)を征し,景行・成務・仲哀(ちゅうあい)・応神・仁徳の5朝にわたって仕えたという。蘇我(そが)・葛城(かつらぎ)・巨勢(こせ)・平群(へぐり)などの諸氏の祖先とされる。
→関連項目紀貫之|巨勢氏|蘇我氏|平群氏

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「武内宿禰」の解説

武内宿禰 たけしうちのすくね

記・紀にみえる人物。
孝元天皇の孫とも,曾孫ともされる。景行から仁徳にいたる5代の天皇につかえ,蝦夷(えみし)地視察,神功(じんぐう)皇后の新羅(しらぎ)出兵をたすけるなどし,大臣(おおおみ)をつとめたとされる。大臣をおおくだした葛城(かずらき),平群(へぐり),巨勢(こせ),蘇我(そが)ら28氏の共通の祖先とされている。「古事記」では建内宿禰。「たけのうちのすくね」ともよむ。

武内宿禰 たけのうちのすくね

⇒たけしうちのすくね

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旺文社日本史事典 三訂版 「武内宿禰」の解説

武内宿禰
たけしうちのすくね

記紀の伝承にあらわれた大和政権の大臣
「たけのうち」とも読む。巨勢 (こせ) ・平群 (へぐり) ・葛城 (かつらぎ) ・蘇我 (そが) 4氏の祖とされる。景行〜仁徳5天皇に大臣 (おおおみ) として仕え,神功 (じんぐう) 皇后に従って三韓征討に従事したという。伝説では300歳をこえる長寿者。

武内宿禰
たけのうちのすくね

⇨ たけしうちのすくね

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「武内宿禰」の意味・わかりやすい解説

武内宿禰
たけのうちのすくね

「たけしうちのすくね」ともいう。古代,大和朝廷初期に活躍したといわれる伝承上の人物。「記紀」によれば,孝元天皇の子孫,日本最初の大臣,神功皇后の新羅征伐に従軍し,景行,成務,仲哀,応神,仁徳の天皇に仕え,二百数十年間,官にあったという。蘇我,葛城,平群,巨勢の4氏の祖ともいわれる。

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世界大百科事典(旧版)内の武内宿禰の言及

【武内宿禰】より

…これについては蘇我氏がその権勢を示すために,蘇我馬子をモデルとして6世紀末前後に作ったとする説,藤原鎌足をモデルとして7世紀末に作られたとする説がある。後者は,系譜や物語にかかわる天皇がほとんど非実在者であること,《風土記》に神功皇后の物語が多く,武内宿禰の記事は絶無なので,両者の結合は記紀成立時であること,文武天皇の宣命に鎌足と武内宿禰とを近侍の重臣として等視する事実のあることなどを根拠とする。しかし蘇我氏の祖先伝承はこれが唯一であることを考えると,ただちに後説にも従い得ない。…

【武内宿禰】より

…これについては蘇我氏がその権勢を示すために,蘇我馬子をモデルとして6世紀末前後に作ったとする説,藤原鎌足をモデルとして7世紀末に作られたとする説がある。後者は,系譜や物語にかかわる天皇がほとんど非実在者であること,《風土記》に神功皇后の物語が多く,武内宿禰の記事は絶無なので,両者の結合は記紀成立時であること,文武天皇の宣命に鎌足と武内宿禰とを近侍の重臣として等視する事実のあることなどを根拠とする。しかし蘇我氏の祖先伝承はこれが唯一であることを考えると,ただちに後説にも従い得ない。…

【巨勢氏】より

…現,御所市古瀬)とした臣姓の有力古代豪族。その祖,巨勢小柄宿禰は,武内宿禰の子と伝承されており,蘇我氏,波多氏,葛城氏らとともに,武内宿禰の後裔と称していた。巨勢氏の本拠地は,曾我川の上流に近い山間で(コセの地名は,こうした地形に基づく),紀伊に至る紀路が走る要衝である。…

【武雄神社】より

…旧郷社。主神は武内宿禰,副神は仲哀,応神両天皇と神功皇后。社伝では天平年間(729‐749)伴行頼の創祀という。…

※「武内宿禰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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