(中田易直)
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安土(あづち)桃山時代の貿易家、土木事業家。本姓は吉田氏、幼名与七、名は光好。吉田氏は近江(おうみ)佐々木氏の流といい、了以は角倉家5代とされる。角倉家は応永(おうえい)(1394~1428)のころ現れた徳春(とくしゅん)を初代とし、徳春およびその子宗臨(そうりん)はともに医術に長じた。了以の祖父宗忠(そうちゅう)は、1544年(天文13)亀屋五位女(かめやごいめ)から洛中帯座座頭職(らくちゅうおびざざとうしき)ならびに公用代官職を獲得し、またこのころ嵯峨(さが)大覚寺境内に土倉(どそう)(高利貸)業を始め、嵯峨角倉は豪商としても著名になった。了以の父宗桂(そうけい)(意庵(いあん))は遣明(けんみん)使節策彦周良(さくげんしゅうりょう)に従って入明(にゅうみん)し、医者としても高名であった。しかし了以は医業を継がず、算数・地理を学び、当時勃興(ぼっこう)してきた海外通商および国内の建設諸事業に進出した。すなわち、徳川家康の知遇を得て1603年(慶長8)以後10年まで数回にわたり異国渡海の朱印状の交付を受け、安南(アンナン)・東京(トンキン)地方に貿易船を派遣し、それ以後は子の玄之(はるゆき)(素庵(そあん))が貿易事業を継承した。土木事業では、1605年に丹波(たんば)・山城(やましろ)を結ぶ大堰(おおい)川の疎通を計画、翌年これを完成したほか、幕命により富士川、天竜川の疎通を行い、京都では高瀬川を開削(かいさく)した。この結果、角倉家はこれら河川の通船支配権を獲得し、また搬出材木によって上方(かみがた)の有力材木商となるなど多大の経済的利益も得た。晩年、琵琶(びわ)湖の疎水計画をたて、勢多(せた)―宇治間の舟行と琵琶湖水位の低下による新田開発を図ったが実現には至らなかったという。
[村井益男]
『林屋辰三郎著『角倉了以とその子』(1944・星野書店)』
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安土桃山時代の海外貿易商で,河川開発家。近江国愛知郡吉田郷を出自とし,吉田が本姓。祖父宗忠が洛西嵯峨で土倉営業に成功し,屋号を角倉と称する豪商となった。了以の父宗桂は,吉田家の家業であった医術にすぐれ,策彦(さくげん)周良に従って明(中国)に渡り名声を高めた。了以は宗桂の長子で,通称与七,諱(いみな)は光好,了以は法号である。性格は豪放不羇(ふき)で海外雄飛を志し,また土木建設にも興味をもった。1592年(文禄1),豊臣秀吉から朱印状を得て安南国に角倉船を派遣したとも伝え,弟宗恂や息子角倉素庵の協力を得て,1603年(慶長8)以降海外貿易に従事したのは明らかである。全国諸河川の通船のための開削工事も積極的に行った。06年着工の大堰(おおい)川開削が最初で,辛苦の末に丹波と京都間の通船に成功した。以後幕命をうけて07年には富士川,翌年には天竜川の疏通にも取り組んだ。京都では,京都経済の大動脈となった高瀬川の舟運を開いた。
執筆者:鎌田 道隆
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1554~1614.7.12
織豊期~江戸時代の京都の豪商・朱印船貿易家。幼名与七,諱は光好。了以は号。父は嵯峨の土倉(どそう)の角倉家の一門で医家の吉田宗桂,妻は本家筋で従兄の栄可の女。土倉の経済力を背景に,海外貿易と河川開発事業にたずさわった。朱印船貿易家としてはトンキンに船を派遣し,子の素庵(そあん),孫の厳昭がこれを継承した。1606年(慶長11)嵯峨の大堰川,翌年富士川の疎通を実現させた。10年方広寺大仏建立のため鴨川に水道を開き,翌年には高瀬川の運河を開通させて淀川経由で京と大坂を直結させた。このように高度な技術と財力を基盤に,幕府初期の経済交通政策に多大の役割を演じた。
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…織豊期になると材木の需要が急増し,豊臣秀吉は1588年(天正16)宇津,保津,山本などの筏士に朱印状を与えてこれを保護した。一方開削工事も積極的に行われ,山国郷では97年(慶長2)から2回にわたって大工事を施し,角倉了以は1606年保津峡の開削を完成した。筏問屋は1597年保津村に14軒,山本村に3軒存在し,同じころ嵯峨,梅津,桂の材木屋は三問屋仲間を結成した。…
…1591年(天正19)豊臣秀吉は御土居の築造に当たり,その東端を鴨川西岸とし,古代・中世以来の洪水の防止をはかった。1610年(慶長15)には,方広寺大仏殿造営の材木運搬のため角倉了以が鴨川の開削(水路化)に着手した。洛東と伏見(淀・鳥羽一帯)の高低差約6尺を土木工事によって水平化することに成功,〈淀・鳥羽之船直に三条橋下に至る〉ようになり(《(駿府記》),物資の輸送が格段に円滑化された。…
…多くは10~15cm程度の大きさで,江戸中期から登場した。一説には,貿易商角倉了以(すみのくらりようい)が晩年京の西郊嵯峨に隠棲してこの種の人形を愛好し,製作を奨励したことから名付けられたともいう。やがてこの技法は江戸にも伝わり,京都製とは別に〈江戸嵯峨〉の名が生まれ,また厚味のあるその彩色法から〈置上げ人形〉とも呼ばれた。…
…軍需物資の調達・輸送,金融,城下町整備などで活躍し,ときには代官的な役割を果たした。大堰川,富士川,高瀬川などを開削して米や物資の輸送を可能にし,通船料取得の特権をえた角倉了以や,大坂の道頓堀川を開削して水上交通と市街の発達に寄与した安井道頓,中之島を開発して市場を開いた淀屋个庵(こあん)などが著名である。彼らは幕藩権力と結びつき,政商的性格をもっていた。…
…近世初期,角倉(すみのくら)了以によって開削された運河で,京都市中と大坂,伏見との物資輸送に利用された。1611年(慶長16)起工,14年完成。…
※「角倉了以」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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