阿波国(読み)アワノクニ

デジタル大辞泉 「阿波国」の意味・読み・例文・類語

あわ‐の‐くに〔あは‐〕【阿波国】

阿波

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日本歴史地名大系 「阿波国」の解説

阿波国
あわのくに

四国島の東部に位置し、現徳島県域を占める。北東は播磨灘、東は紀伊水道、南は太平洋に面する。北は讃岐国、西は伊予国、南西は土佐国に接し、北東は鳴門海峡を隔てて淡路国となる。

古代

〔クニの展開と凡直国造〕

服属した地方族長を国造に任ずるという大和王権の地方支配制度としての国造制は、遅くとも六世紀中期には広く定着していたと考えられている。六世紀後半に至り、山陽・南海地域では凡直国造という新たな国造が現れる。凡直国造については諸説あり、六世紀半ばまでに成立している小国造を併合し、その領域を統括したより広域の国造とする説などが出されているが、凡直国造を六世紀末に出現する二次的国造とし、それ以前の小国造(一次的国造)とは区別することでは共通している。五八九年の隋の中国統一と、引続く朝鮮半島への侵攻という東アジアの政治情勢の激動のなかで、地方支配をより強化しようとしている大王権力の施策の一環として凡直国造の設置がなされているのである。

阿波地域については、一〇世紀に成立している「国造本紀」に「粟国造」「長国造」が現れている。ここに記載された国造は六世紀中期から七世紀後半の間に実在した国造と考えられており、両国造とも七世紀後半をさかのぼる時点から存在していた。このうち長国造については勝浦かつうら川・那賀なか川・海部かいふ川流域で構成されるクニの首長が長直の姓(カバネ)を与えられてなったものであろう。またのちの三好みよし美馬みま両郡を中心とした吉野川中流域については、讃岐と深く結び付いて発展していた地域であり、「国造本紀」には現れないが、佐伯直氏を首長とするクニを構成していたとみてよい。いずれも第一次的な小国造として六世紀半ばには姿を現していたのであろう。一方、吉野川下流域ののちの板野いたの名方なかた・阿波三郡に勢力をもつ粟凡直氏は「地名(粟)+大押(凡)+直」を名乗っており、六世紀末になって大王権力に組織されたものとして姿を現している。吉野川下流域の広さと豊かさとからみて、六世紀後半以前に「国造本紀」には現れていない第一次的な小国造に対応する複数の地方首長が存在しており、東アジアの政治情勢の激動のなかで地方支配強化を急ぐ大王権力の後援のもとに、それら首長を統括するものとして凡直国造の地位に粟凡直氏がついたととらえてよい。研究史のうえで阿波三国説が出されているが、これをこの時期の政治状況とみなすならば正しい把握であり、六世紀末の推古朝以降七世紀中期にかけては三つの「クニ」とそれを統括する国造が併存するという体制が存在した。

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改訂新版 世界大百科事典 「阿波国」の意味・わかりやすい解説

阿波国 (あわのくに)

旧国名。現在の徳島県。阿州。

南海道に属する上国(《延喜式》)。律令制以前の阿波は忌部(いんべ)氏が活動した北方の粟国(あわのくに)と三輪系の海人(あま)の活動した南方の長国(ながのくに)に二大別されていたとされる。なお,吉野川上流の西部に別の1国を考える阿波3国説もある。令制下,2国(あるいは3国)は合一し,名方(のちに名東,名西),板野,阿波,麻殖(おえ),美馬(みま)(のち三好が分出),勝浦,那賀(のち海部が分出)の7郡がおかれる。国府が名方郡(現,徳島市国府町)におかれ,国分寺・国分尼寺もその近くに所在すること,さらに延喜式内社50社(大社3,小社47)のうち,大社の大麻比古(おおあさひこ)神社(板野郡),忌部神社(麻殖郡)など3社とも北方にあることに示されるように,古代の阿波の政治・文化の中心は北方吉野川流域におかれていた。北方,南方いずれも大河が形成する沖積平野が活動舞台になっているため,農民たちにとって,いかに水を制御していくかが重要な課題であった。条里制施行の跡は各所に現存しているが,山城国とともに水田とならんで陸田を農民に班給することが認められている国であり,水田は少ない。古代の技術水準下での水の制御のむずかしさを物語っている。しかし,そのなかでも吉野川下流に8世紀中期に東大寺が作った新島荘の絵図を見ると,堤防を作り輪中の方式で低湿地を耕地化していく状況がうかがえ,耕地拡大と水田化の努力は一貫してつづけられている。

 8世紀に頂点をむかえる律令政治も,9世紀に入ると変質をはじめるが,そのなかで地方行政のたてなおしに努力する良吏とよばれる一群の官人があらわれる。阿波介山田古嗣は代表的な良吏の一人で,治水などに力を注いでおり,彼が作ったと伝えられる池が今ものこっている。しかし,902年(延喜2)に作られた板野郡田上郷戸籍において,その大半が老女と記載され,偽籍が公然と行われていることにあらわれているように,個々の班田農民を戸籍・計帳によって把握していくという律令支配体制は,阿波においてもとどめがたく解体に向かっている。そして瀬戸内海全域をまきこみ,阿波にもその影響が波及してくる10世紀中期の藤原純友の乱を契機に,平安後期にかけて在地領主層が地域の支配者として徐々にその力をたくわえ,成長していく。この時期の在地領主層はみずからの所領を守るために中央の権門・寺社にその所領を荘園として寄進しているが,阿波においても,石清水八幡宮領板野郡萱島(かやしま)荘,長講堂領麻殖郡麻殖保,その他多くの荘園があらわれており,その背後での在地領主層の活発な動きを推測させる。そして,平安時代も末期になると,阿波の最有力の武士である田口成良(成能)が源平の戦いに際し平氏側の有力武将として屋島に向かう源義経と戦うなどの活動をしており(のちに彼は源氏側につく),争乱は阿波一国をまきこんで,そのなかで時代を中世へと変えていく。

源平争乱のさなか,1185年(文治1)鎌倉幕府は守護・地頭設置の勅許を獲得する。そしてこの勅許をうけて,佐々木経高が淡路・阿波・土佐3国の守護に任ぜられる。阿波の中世のはじまりである。承久の乱(1221)後,佐々木氏に代わって阿波の守護として入部するのが小笠原氏である。小笠原氏は長清以後,阿波国内に一宮氏(名西郡),三好氏(三好郡)などの一族を配置し,鎌倉時代を通じて阿波最強の一族として繁栄する。また,承久の乱のときに小笠原氏以外に東国から飯尾氏(麻殖郡),岩松氏(勝浦郡)などが入部しており,在地はえぬきの三木氏(麻殖郡),海部氏(海部郡)などとともに,阿波の有力武士団を構成する。

 中世,阿波の耕地は古代よりも一段と拡大した。鎌倉初期にあらわれる春日社領名東郡富田荘は,奈良時代の開発の最前線に位置した新島荘よりもさらに河口に近い低湿地に立地している。古代から中世にかけて,水と闘いつつ耕地拡大は着実に前進した。このように拡大された耕地を背景に,70余荘をかぞえる阿波の中世荘園が展開していき,さらにこれら荘園が広範な武士団の活動舞台になっていく。石清水八幡宮領勝浦郡櫛淵荘,高野山領海部郡宍咋(ししくい)荘などで典型的に示されている,地頭と本所・領家との長期にわたる紛争は,このような武士団の積極的な動きの一端を示している。鎌倉時代も末期になると,阿波東部の海上で海賊の活動が目だちはじめる。これは荘園支配体制および鎌倉幕府の支配体制を崩壊させる原動力となった悪党の活動の阿波におけるあらわれであり,時代は南北朝の動乱を経て室町時代へと入っていく。

 南北朝動乱のなかで,小笠原氏に代わり,阿波守護として入部してきたのは足利氏の一族である細川氏である。動乱の初期,細川氏は板野郡に秋月城を築き,吉野川流域平野部の武士を足利方に組織するとともに,ここを拠点に四国全体の経営を行ない,室町幕府の基盤固めに貢献する。ただ,細川氏がおさえたのは平野部であり,剣山周辺の三木氏,菅生氏などの山岳武士,一宮城(名西郡)の一宮氏,さらには伊島(那賀郡)の海賊などは,南朝方について細川氏に抵抗した。しかし動乱も後期になると,彼らの活動もおさえられ,細川氏はその居城を吉野川下流の沖積平野のただなかにある板野郡勝瑞(しようずい)に移し,阿波全域にその支配を及ぼした。それ以後,室町時代を通じて勝瑞城を根拠地とした阿波の細川氏(下屋形)は京都の細川氏(管領,上屋形)とならんで,中央政界で大きな力を行使していく。戦国時代に入って,10代将軍足利義租の子義冬は那賀郡平島の地に入り,その子孫は平島公方と称しているが,これも細川氏の庇護のもとで起こったことである。しかし,戦国の争乱がうちつづくなかで,阿波小笠原氏の流れをくむ三好氏が台頭してきて,細川氏の基盤はほりくずされる。三好長慶,義賢の代にいたると,長慶が京都で実権をにぎるのと呼応して,弟の義賢は阿波の全権を掌握し,戦国大名として支配を行う。戦国大名の分国法の典型の一つである《新加制式》は義賢の子長治の代に出されたものである。阿波は細川氏,三好氏の根拠地ということもあって,南北朝期以後五山の高僧,連歌師などがしばしば訪れており,武士層の文化水準は高かった。また,阿波に特有なものとして阿波板碑がある。これは阿波特産の青石を用いた石製の供養塔婆であり,鎌倉末期にあらわれはじめ,南北朝期には阿波全体に広がり,さらには阿波以外の諸国にも移出されるまでになる。御師(おし)-檀那という形で一族単位,一郷一村単位の師檀関係が結ばれる熊野信仰も,室町時代には阿波一国に広範に広がっている。1575年(天正3)土佐の長宗我部元親は海部郡に侵入し,82年には勝瑞城を攻略し,三好氏は3代にして滅んだ。元親はその後,白地城(三好郡)を根拠地に四国全体の制覇をなしとげていくのである。
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1585年(天正13)四国平定に際して豊臣秀吉蜂須賀正勝,家政父子を阿波国に封じた。蜂須賀氏は居城を渭津(いのつ)(徳島)に定め,城下町の経営をはかった。関ヶ原の戦では家政の子至鎮(よししげ)が東軍に属し,戦後淡路一国を加増され石高は25万6940石となった。蜂須賀氏は入国以来新田・塩田開発など殖産興業に力を入れ,なかでも吉野川流域でのアイ(藍)作は阿波藍として名を高めた。収益が多いだけに専売制がきびしく1756年(宝暦6)には藍玉税廃止を求める一揆が名西郡を中心に計画された。また米作は南部の那賀川流域で行われ,米不足が庄屋十郎兵衛の肥後米密輸入事件を引き起こした。農民に対する年貢率は六公四民にちかく,全国に類の少ない麦年貢がかけられるなど農民の生活は苦渋にみちていた。身居(みずわり)(身分のこと)の細分規定や藩政期十数回に及ぶ棟付改めがそのことを示している。文教面では中期以降,柴野栗山・那波魯堂の儒学,吉井直道・永井精古・池辺真榛(まはる)の国学があり,賀川玄悦の《産論》が実学面で注目される。浮世絵師の東洲斎写楽が阿波出身といわれ,民間では阿波浄瑠璃が盛行し,人形師として馬の背駒三,鳴洲,源兵衛,人形富などが輩出した。

 1841年(天保12)凶作と物価高にあえぐ農民に増徴策をとったことに端を発し,三好郡を中心とし阿波郡にいたるタバコ作地帯で一揆(上郡(かみごおり)騒動)が起こった。62年(文久2)藩主茂韶(もちあき)の上洛を機に徳島藩も幕末の政争にまきこまれていった。家老稲田邦稙,天羽生岐城,小杉榲邨(すぎむら),安芸梅軒などが討幕派として活躍した。69年(明治2)茂韶は版籍を奉還し知藩事となるが,淡路洲本城代の家老稲田氏の家臣が淡路の分離独立を求め,徳島藩士の襲撃をうける騒動(庚午事変)が起こり,徳島県からの淡路分離の遠因をつくった。71年7月廃藩置県,徳島県が置かれ,同年11月名東県となり,76年高知県に合併され,80年徳島県が再置された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿波国」の意味・わかりやすい解説

阿波国
あわのくに

南海道に属する大国で、現在の徳島県にほぼ一致する。古くは粟国(あわのくに)と長国(ながのくに)の2国が『国造本紀(こくぞうほんぎ)』などにみえるが、645年(大化1)以来阿波国の称が使用されている。『和名抄(わみょうしょう)』には板野(いたの)、阿波、美馬(みま)、三好(みよし)、麻殖(おえ)(植)、名方(なかた)(のち名東(なひむかし)、名西(なにし))、勝浦(かつら)、那賀(なか)の8郡に分轄され、47郷が存在した。国衙(こくが)は名方郡に属し、現徳島市国府(こくふ)町の府中(こう)にあって、大御和(おおみわ)神社と真言宗大坊(だいぼう)(千輻寺(せんぷくじ))の一帯が比定されている。南海道の重要な位置を占め、畿内(きない)からの文化の流入も早かったことが、各地に散在する寺院跡などから、その事情を知ることができる。国分寺は近くの徳島市矢野にあり、国分尼寺跡も近くの名西郡石井町の尼寺にある。また荘園(しょうえん)は53荘8保(ほ)1厨(くりや)で、そのうち名東郡に富田、名東、郡東、新島(にいじま)、枚方(ひらかた)、観音寺の各荘と大豆処、津田島別納、芝原保。勝浦郡に生夷(いくひな)、勝浦、篠原、勝浦新、太奈、櫛淵(くしぶち)のほか三昧田(ざんまいだ)。板野郡に泊、萓島、矢上、富吉、小島、井隈(いのくま)、堀江、板西、板西下、日置の各荘と河崎、光富の保。那賀郡に竹原、大野、牛牧(うしき)、阿良多(あらた)野、福井、那賀山、平島、立江、坂野の各荘と桑野保、桑乃御厨。海部郡に日輪、宍咋(ししくい)の2荘。阿波郡に秋月、朽田(くちた)、東拝師(はやし)、西拝師の3荘と国衙領郡原(こおりばら)。麻植郡に麻植、山田、高越寺(こうつじ)、河輪田の各荘と国衙領種野(たねの)山。美馬郡に穴吹(あなぶき)荘。三好郡に金丸、福田、井川、三野田、田井、太井の各荘と稲用(いなもち)保。名西郡に浦、名西、高橋などの各荘があった。

 源平合戦後の1185年(文治1)佐々木経高(つねたか)が最初の守護として入部し、鳥坂城を守護所としたが、承久(じょうきゅう)の乱(1221)のとき新守護小笠原長経(おがさわらながつね)に倒された。南北朝内乱期に阿波に入った細川和氏(かずうじ)は現阿波市土成(どなり)町の秋月に軍府を置き、四国の経営に着手したが、その弟頼春(よりはる)は1341年(興国2・暦応4)に守護となり、2代守護頼之(よりゆき)は1367年(正平22・貞治6)に室町幕府の初代管領(かんれい)に就任した。そのため弟の詮春(あきはる)が守護となり、京と阿波の両細川家は補完関係にあって権勢を誇った。しかし8代守護持隆(もちたか)は執事三好義賢(よしかた)に倒され、この下剋上(げこくじょう)によって阿波は三好氏が領国の一円支配を目ざした。しかしたびたびの畿内への出兵で戦力を消耗し、そのすきをついて土佐の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)は阿波に進攻し、1582年(天正10)阿波は長宗我部氏に支配されることになった。ところが1585年豊臣(とよとみ)秀吉による四国征伐のため元親は土佐に退き、功により阿波18万石は蜂須賀家政(はちすかいえまさ)に与えられた。翌年に吉野川デルタ上に徳島城が完成し、居城は一宮から徳島に移された。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに際して豊臣秀頼(ひでより)に阿波を返上した家政は出家して高野山(こうやさん)に入り、嫡子至鎮(よししげ)は徳川方として戦功をたて、阿波は至鎮に与えられた。その後、蜂須賀氏は転封されることもなく、1615年(元和1)には淡路国を加増されて25万石の太守として、1869年(明治2)の版籍奉還まで支配した。

 近世の阿波国は、吉野川流域の北方は有名な阿波藍(あい)の大産地であり、那賀(なか)川流域の南方は米作地帯を形成し、鳴門(なると)海峡に面する撫養(むや)塩田は有数の塩業地帯であった。版籍奉還によって徳島藩が置かれ、1871年7月廃藩置県で徳島県となり、同年11月名東(みょうどう)県と改称されたが、1876年に名東県が廃され、阿波国は高知県に併合され、淡路国は兵庫県に管轄された。さらに1880年に徳島県が再置され、現在に至っている。

[三好昭一郎]

『『徳島県史』(1967・徳島県)』『三好昭一郎他著『阿波の歴史』(1975・講談社)』『藤原之憲編、新井藍水訳『阿波志』(1932・郷土史刊行会)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「阿波国」の意味・わかりやすい解説

阿波国
あわのくに

現在の徳島県。南海道の一国。上国。もと粟国造,長国造が支配。粟国は忌部氏の根拠地で,式内社忌部神社はその祖神アメノヒワシノミコトを祀り,名神大社。また長国は海部の勢力下にあり,那賀郡の式内社和耶神社は海部の祀った神社という。国府,国分寺はともに現在の徳島市におかれた。『延喜式』には阿波 (あは) ,麻殖 (をゑ) ,板野 (いたの) ,名東 (なひむかし) ,名西 (なにし) ,美馬 (みま) ,三好 (みよし) ,勝浦 (かつら) ,那賀 (なか) の9郡がみえ,鎌倉時代初期からは海部郡が加わる。また『和名抄』には郷 47,田 3414町余が記載されている。鎌倉時代,文治2 (1186) 年佐々木経高が守護となり,承久3 (1221) 年には小笠原氏。承久の乱に際し土御門上皇は初め土佐に流されたが,のち貞応2 (23) 年,当国に移され,寛喜3 (31) 年この地に崩御。南北朝時代には細川氏が支配したが,室町時代には細川氏,三好氏,松永氏と支配が代った。 10代将軍足利義稙は細川氏の専横を忌み,淡路を経て阿波国に来て,大永3 (1523) 年撫養 (むや) で没したが,その子孫は那賀郡平島にあって,阿波公方を称した。戦国時代の天正3 (75) 年には長宗我部元親が土佐から侵入して一時支配した。同 13年豊臣秀吉は長宗我部氏をくだし,蜂須賀氏を阿波国に封じた。蜂須賀家政は関ヶ原の戦いのとき西軍に属したが出陣せず,子の至鎮が徳川方であったため旧領を保った。江戸時代を通じて蜂須賀氏の徳島藩は変らず,幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県で徳島県となり,のち名東県に改められたが,1880年に徳島県となる。

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百科事典マイペディア 「阿波国」の意味・わかりやすい解説

阿波国【あわのくに】

旧国名。阿州とも。南海道の一国。今の徳島県。《延喜式》に上国,9郡。中世,小笠原氏,細川氏が守護。のち三好氏,長宗我部氏らが支配。近世,蜂須賀氏が領有。→徳島藩
→関連項目藍住[町]四国地方徳島[県]富田荘

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藩名・旧国名がわかる事典 「阿波国」の解説

あわのくに【阿波国】

現在の徳島県域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で南海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の徳島市国府(こくふ)町におかれていた。南北朝時代以降細川氏が勢力を伸ばし、近世には蜂須賀(はちすか)氏が支配した。同氏は1615年(元和(げんな)1)に淡路(あわじ)国を加増され、25万石の大名として幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により徳島県となったが、名東(みょうどう)県と改称、1876年(明治9)に高知県に併合されたが、1880年(明治13)に徳島県が再設置された。◇阿州(あしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「阿波国」の解説

阿波国
あわのくに

粟国とも。南海道の国。現在の徳島県。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では板野・阿波・美馬(みま)・三好・麻殖(おえ)・名方東(なかたひがし)(名東)・名方西(名西)・勝浦(かつら)・那賀の9郡からなる。国府・国分寺は名東郡(現,徳島市),国分尼寺は名西郡(現,石井町)におかれた。一宮は大麻比古(おおあさひこ)神社(現,鳴門市)。古代には畠作の割合が大きく,水田不足のため陸田も口分田として班給された。「和名抄」所載田数も3414町余と少ない。養蚕が盛んで,「延喜式」でも各種の糸・織物の貢進を規定。平安末期に那賀郡から海部(かいふ)郡が分立。鎌倉時代は小笠原氏,室町時代は細川氏が守護となり,戦国期には三好氏が支配した。1585年(天正13)長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降した豊臣秀吉は阿波国に蜂須賀正勝を封じ,蜂須賀氏の徳島藩が幕末まで続く。1871年(明治4)廃藩置県により徳島県となる。

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世界大百科事典(旧版)内の阿波国の言及

【徳島[県]】より

…面積,人口,経済がともに全国の100分の1を占めるため,〈100分の1県〉と呼ばれてきたが,高度経済成長にともなう地域格差の拡大によって,近年は100分の1の水準の維持も困難になってきている。
[沿革]
 県域はかつての阿波国全域にあたり,江戸時代は淡路国とともに徳島藩蜂須賀氏の所領であった。1871年(明治4)廃藩置県によって徳島藩は徳島県となり,同じく阿波・淡路両国を管轄した。…

※「阿波国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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