フランスの哲学者、数学者。3月31日、中部フランスのトゥレーヌ地方のラ・エイ生まれ。
父ジョアシャンJoachim Descartes(1563―1640)はブルターニュ高等法院評定官。10歳のときイエズス会のラ・フレーシュ学院に入学した。そこで教えられたスコラ的学問に飽き足らず思い、卒業後は「世間という大きな書物」において学ぼうと決意して旅に出る。1618年、志願将校としてオランダ軍に入り、オランダの医師イサーク・ベークマンIsaac Beeckman(1588―1637)と知り合い、物理数学的研究への刺激を受け、やがて「普遍数学」の構想に達する。この年(1618)、ドイツで三十年戦争が起き、旧教軍に入る。1619年11月10日のこと、1日の休暇をドナウ川のほとりの小村で過ごすこととなったが、「終日炉部屋の中でただひとり閉じこもり」、静かに思索にふけった。この夜、三つの夢をみたが、そのなかで真理の霊が神によって送られてきたと感じ、哲学全体を彼一人の力で新たにする仕事を神から与えられたと信じた。1620年、軍籍を離れて旅に出、北ドイツ、オランダを経てフランスに帰り、やがてまたイタリアに出かけ、1625年からはパリに滞在、メルセンヌなどの自然研究者と交わる。
1628年秋、長年心にあった学問改革の計画を実行する決意を固め、オランダに移住し、以後20年間各地を転々としながらオランダに隠れ住む。その最初の9か月間、形而上(けいじじょう)学の短論文の執筆に従事したが、1629年3月、弟子のレネリHenricus Reneri(1593―1639)からイタリアで観察された「幻日現象」の解明を求められたことを機縁として、中途で自然研究に転じ、やがてそれは全自然学を包括する『宇宙論』の構想へと発展していく。これが完成し、いざ印刷というときにガリレイ事件が起こる。1633年6月23日、ガリレイはコペルニクスの地動説を支持したために、ローマの宗教審問所から有罪の宣告を受けた。これを知ったデカルトは、地動説を重要な内容とした『宇宙論』の公刊を断念、そのかわりに1637年、『方法序説』および『屈折光学』『気象学』『幾何学』の3試論を世に問うた。さらに1641年には形而上学の主著『省察』を出し、1644年には『哲学原理』、1649年には『情念論』を刊行する。この前後からデカルト思想の革新性が世に注目され始め、さまざまの論争に巻き込まれていく。こうして、かつて「自由の国」としてたたえたオランダもしだいに住みにくくなった。おりしも、スウェーデンのクリスティーナ女王から熱心な招請があったので、1649年秋、ストックホルムに赴くが、5か月たらずの滞在ののち肺炎となり、1650年2月11日、同地で54年の生涯を閉じた。
[伊藤勝彦 2015年5月19日]
近代哲学の父といわれる。数学者としては、幾何学に代数的解法を適用した解析幾何学の創始者として知られている。数学的明証性を学問的認識の模範と考え、数学的方法を一般化して「普遍数学」の構想に到達した。物理数学的研究を通じて、たとえば、物には重さという実在的性質があるから落下する傾向をもつのだ、と説くようなスコラ的自然学ではどうしても満足できなくなって、「物質即延長」と説く機械論的自然観に導かれた。ところが、この物質即延長というテーゼは、物質現象の数学的解法を可能にするばかりでなく、人間の精神性・自由意志を確保するという役割を果たすことに気づくようになる。ここから、自分の道徳的・宗教的関心と新しい数学的自然学を一つの体系において統一することができるという確信を得て、新しい哲学の建設を企てるに至ったのである。その哲学体系は1本の樹(き)に例えられ、根は形而上学、幹は自然学、枝は医学・機械学・道徳の三つで、この最後の道徳こそ人間的知恵の究極だという。
[伊藤勝彦 2015年5月19日]
1637年に公刊された『方法序説』は、「良識bon sensはこの世でもっとも公平に配分されているものである」ということばで始まる。この書は、しばしば思想の領域における「人権宣言」と称されてきた。しかし、深くこの一文を読めば、そこに秘められている懐疑的調子は覆い隠しがたい。けっして良識の普遍性を楽観していたのではない。その証拠に、「すべての人は同一の自然的光(サンス)を備えているから、彼らは同じ観念を抱いているはずだと思われる。ところが、……この光を正しく使用する人は、ほとんど絶無なのだ」と断言しているくらいである。いうまでもなく、彼は事実としての人間理性の平等を主張しているのではない。むしろ反対に、いまはどこにも存在しない理性能力の平等な発現を未来において実現しようではないか、と人々に訴えかけているのである。そのためには、なによりも理性を順序正しく導くところの方法が必要だといっているのである。
さて、この書はなによりも「方法の話」である。『彼(つまり著者自身)の理性を正しく導き、諸学における真理を探求するための方法についての話、ならびに、この方法の試みである光学、気象学および幾何学』というのが、詳しい題名であった。ギリシア語の方法methodosは、meta(に従って)+hodos(道)ということだが、この語源どおり、自分がどういう道筋に従って真理を探求してきたかを示してみせただけのことで、人がそれを手本として見習うかどうかは本人の自由意志にゆだねられている。
デカルトの方法の四則というのは、驚くべきほど単純なものである。要するに、もっとも単純な諸事実の明証的直観と、これらを結合する必然的演繹(えんえき)という二つに帰着する。しかし、その方法を実際に駆使して、自然認識や形而上学的認識を導き出したばかりでなく、「生活の指導、健康の保持、すべての技術の発明」にも役だつような知識を導き出したのである。この書はフランス語で書かれた最初の哲学書であり、その意味でも記念碑的著作であった。
[伊藤勝彦 2015年5月19日]
デカルト形而上学の内容は『省察』においてもっともよく示されている。この書の第1版の表題は、『神の存在と霊魂の不死が証明される第一哲学の省察』となっている。しかし、実際には、精神の不死そのものを直接の結論とする論証が示されているわけではない。そこで第2版では、より正確にこの書の内容に添うように、『神の存在、ならびに人間の精神と身体との区別が証明される第一哲学の省察』と改題された。
デカルトの形而上学的思索は、いわゆる方法的懐疑から出発する。学問において確実な基礎を打ち立てようとするなら、少しでも疑わしいものはすべて疑ってみることだ。感覚はときとして誤るものだから信頼できず、私がいまここに、上着を着て炉端に座っているということも、これが夢でないという絶対の保証はないから信じられない。だが、こうして世界におけるすべての物の存在を疑わしいとして退けることができても、このように考え、疑いつつある私自身の存在は疑うことができない。このようにして、「われ思う、故にわれ在り(あり)」(コギト・エルゴ・スムcogito ergo sum、ラテン語)という根本原理が確立され、この確実性から世界についてのあらゆる認識が導き出される。
私は疑いつつあるのだから不完全な存在である。その不完全な存在から完全なる存在者の観念が結果するはずがない。なぜなら、原因のうちには結果におけるのと同等、あるいはそれ以上の実在性がなければならないことは理の必然であるから。そこで、私のなかにある神の観念がどこからきたかといえば、それは無限に完全な存在者、つまり神自身に違いないといわざるをえない。ここから、神の存在が証明される(結果からの証明)。このほか、神の無限なる完全性という概念的本質のうちには必然的に存在が含まれている。存在も完全性の一つなのだから、存在を欠いた神というのは、一つの完全性を欠いた最高の完全性というに等しい自己矛盾的概念なのだと説く、いわゆる「本体論的証明」によっても神の存在が結論される。
さらに、神が完全な存在者である以上、誠実であり、人を欺くはずがないということから、われわれが明晰(めいせき)判明に認識するとおりに物体が存在することが結論される。物体(身体)の存在が証明されたのち、精神は思考することによってのみ、すなわち身体なしにも存在しうるものであり、身体はただ延長をもつものである限りにおいて存在するものであることが確認され、こうして心身の実在的区別が論証され、スコラ的自然観の根本前提、つまり実体形相の思想や目的論的考え方が徹底的に打破されると同時に、自由意志の主体としての精神の自立性が確認されたのである。
[伊藤勝彦 2015年5月19日]
精神と身体とを厳しく分離する二元論の立場に徹底してきたが、生涯の終わり近くになって、精神であると同時にまた身体でもある不可思議な存在、つまり人間を論ずるに至った。すなわち、心身関係の問題を詳細に論じた『情念論』を執筆したのである。
人間の基本的情念として、驚き、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみ、の六つをあげている。これらの情念はすべて外的対象の刺激に応じて、身体のうちに引き起こされた動物精気の運動によって生じたもので、精神自らの力で引き起こされたものではない。しかし、そのことは自覚されないので、情念の働きが精神それ自体のものとして受け取られ、理性的意志によって統制されないまま、内部から激発する。そこで、これに対処するためには、そのメカニズムを客観的、機械論的に分析して、その原因を認識し、それによって情念を主体化すること、すなわち、それのもつ受動性を能動性に変えて自由意志の能動性に合一させることが必要となる。ここから、理性的意志によって情念を徹底的に支配し、断固たる判断を下す「高邁(こうまい)の心」を説くデカルト道徳が生まれてくるのである。
[伊藤勝彦 2015年5月19日]
『三宅徳嘉・所雄章・三輪正他訳『デカルト著作集』全4巻(1973/増補版・2001・白水社)』▽『野田又夫他訳『世界の名著27 デカルト』(1978・中央公論社)』▽『三木清訳『省察』(岩波文庫)』▽『落合太郎訳『方法序説』(岩波文庫)』▽『伊吹武彦訳『情念論』(角川文庫)』▽『伊藤勝彦著『デカルト・人と思想』(1967・清水書院)』▽『伊藤勝彦著『デカルトの人間像』(1970・勁草書房)』▽『所雄章著『人類の知的遺産32 デカルト』(1981・講談社)』▽『野田又夫著『デカルト』(岩波新書)』
フランスの哲学者,科学者。ラテン名はレナトゥス・カルテシウスRenatus Cartesiusで,例えばデカルト学派・デカルト主義者をフランス語でカルテジアンcartésienと呼ぶのはこれによる。精神と物質の徹底した二元論,機械論的自然観などによって近代科学の理論的枠組を最初に確立した思想家として,あるいはあらゆる不合理を批判検討することを教えた〈理性〉による解放者として,あるいはまた〈コギト(思惟,意識)〉の哲学の創始者として以後の思想に大きな影響を与え,しばしば〈近代哲学の父〉と呼ばれる。
フランス中部トゥーレーヌ州のデカルト(旧名ラ・エー)にブルターニュ高等法院評定官の子として生まれ,1606年ころイエズス会のラ・フレーシュ学院に入って約8年間人文学やスコラ哲学などを学び,またルネサンスの自然哲学にも接した。ついでポアティエ大学で法律学を修め,16年法学士になったが,数学以外の学校の学問に失望し,広い世界を見るべく18年ころ旅に出た。まず志願将校としてオランダ軍に入り,18年末オランダの科学者ベークマンIsaac Beeckman(1588-1637)を知って,自然学の研究に数学を利用する新しい方法を教えられるなど,強い影響を受けた。翌年ドイツへ行って三十年戦争を戦うカトリック軍に入り,その冬,南ドイツのノイブルクに駐屯中〈炉部屋〉で思索を重ね,数学の解析の方法を学問の普遍的方法として一般化し,これによってあらゆる学問を統一する見通しを得るとともに,この仕事に一生を捧げる決心をした。この方法についての思索はさらに深められ,最初の重要な著作《精神指導の規則》(1628ころ執筆,未完)となった。その後ドイツやイタリアを旅し,あるいはフランスにとどまって数学の研究を続けたが,とくに26年以後の数年はパリにあってメルセンヌ,ミドルジュClaude Mydorgeら新しい科学者を知り,数学のほかに光学の研究もして光線の屈折における〈正弦の法則〉を発見した。28年ころからはオランダに居を移し,以後約20年間各地を転々としながらこの国に隠れ住んだ。オランダでの〈最初の9ヵ月〉は形而上学的思索に専念したが,ローマで観察された幻日現象の報告をきっかけに自然学の研究に移り,33年には《光論》と《人間論》とから成る《宇宙論》を完成した。しかし同年のガリレイ断罪を知ってその発表を断念し,代りに《屈折光学》《気象学》《幾何学》の三つの〈試論〉に,序文として《方法叙説》を付けて37年に刊行した。このうち《幾何学》は幾何学と代数学を結合して解析幾何学を(フェルマーとともに)創始した業績として知られている。41年には形而上学の主著《省察》が,ホッブズ,アルノー,ガッサンディらの〈反論〉と著者の〈答弁〉を付けて刊行され,44年には自然学をも含むその体系のほぼ全容を示す《哲学の原理》が出版された。また43年以後ファルツ選挙侯の王女エリーザベトへの書簡を通じて道徳に関する省察を深め,そこから49年の《情念論》が生まれた。そしてこの最後の作品出版の年の秋,スウェーデンのクリスティーナ女王に招かれてストックホルムに行き,翌年2月肺炎のため同地で急死した。
旧来の学問をすべて否定して真の学問を創造しようとしたデカルトにとって,方法はとりわけ重要な意味をもっていた。その方法は数学の明証性を範とし,解析の方法を一般化したもので,《精神指導の規則》において詳述されたのち《方法叙説》第2部に四つの規則としてまとめられた。これによれば,(1)精神に明晰判明なもののみを真と認め,速断や先入見を排除すること(明証性の規則),(2)問題をできるだけ多くの小さい部分に分けてもっとも単純で認識しやすい要素を見いだすこと(分析の規則),(3)もっとも単純なものからもっとも複雑なものへと思考を順序正しく導くこと(総合の規則),(4)見落しがないかどうか十分に再検討すること(枚挙の規則),を方法の要諦とするが,既知の事柄の論証を主としたスコラ論理学に代えて〈発見の方法〉を明示したこの規則は,以後諸科学の方法そのものとなったばかりでなく,分析にすぐれ明晰を愛するフランス的知性の形成に影響したといわれる。
デカルトはその哲学体系を一本の木にたとえ,その根は形而上学,幹は自然学,枝は医学・機械学・道徳と考えた。このように形而上学は他の諸学を支え基礎づける〈第一哲学〉であって,そこでは神の存在,精神と物質の存在ならびに両者の実在的区別が証明されるが,その形而上学的思索はまず〈方法的懐疑〉から始まる。彼は絶対的に確実なものを求めてすべての感覚知を否定する。感覚はときとして人を欺くからである。一見明白な数学的真理も疑われる。邪悪な霊が人間を欺いているかもしれぬからである。しかしこのようにすべてを疑ったのちにも疑いえぬものがある。それは疑う私,すなわち〈考える私は在る〉という真理である。〈われ思う,ゆえにわれ在りJe pense,donc je suis; Cogito,ergo sum〉。ついで精神としての私の存在から神の存在が必然的に導き出される。すなわち疑う,不完全な私が自己の不完全性を自覚しうるのは私の中にすでに完全性の観念(生具観念)があるからだが,この完全性の観念は不完全な存在である私が創造しうるものではなく,私の外に実在する完全者すなわち神が私の精神に刻みつけた観念でしかありえないのである。このようにして今やその存在が確実となった神の〈誠実性〉を根拠として,外界の存在もまた証明される。すなわち私の中には外なる物体についての多くの感覚的観念があり,私はこれらが外なる物体から来たと信じる自然的傾向をもつ。ところで誠実な神が私を欺くことはありえない以上,このことは私の外に物体的な世界が実在することを示す。ただしこれら感覚的観念の表象的内容自体は物体の真の姿を表すものではなく,物体の本質は精神がそれについて明晰判明に理解する〈延長(広がり)〉以外にありえないのである。
無限の広がりをもつ等質の物質が全宇宙を構成する。物体の本質は延長であるから空間は物体にほかならず(真空の否定),広がりは本来どこまでも分割しうるから物質の最小単位は存在しない(原子の否定)。神に創造されたこの無限で等質の物質に神が一定の運動量を与えると,それは無数の微小部分に分かれて運動を始め,その結果われわれが見る宇宙の万物が形成される。こうして質の相違はすべて量の差に還元され,宇宙の構造から地上の物体,気象現象,光の性質まですべてがただ等質の物質の諸部分の〈大きさ〉〈形状〉〈運動〉のみによってまったく機械的に説明されるとともに,同一の運動法則(慣性の法則や衝突の法則など)が全宇宙を貫いて支配する。彼はまた生命現象をも機械的に理解し,たとえば動物は一つの自動機械とみなされるのである(動物機械論)。
デカルトによれば,人間の身体もまた,心臓を一種の熱機関とするきわめて精巧な自動機械にすぎない(人間機械論)。しかし人間は動物と違って精神をもち,しかも本来は実在的に区別されるべき精神と物体がここでは固く結びついて一体をなしている。その意味で人間は,単なる精神でも物体でもない第三の独特な世界を形づくっている。そこでは心身が互いに働きかけ,互いに動かされ,たえず能動と受動の関係にある。身体の働きかけを受ける精神の受動passionが情念passionであり,情念のメカニズムは体内の動物精気の動きによって生理学的に説明される。一方,精神の能動は意志の働きである。そして自己の身体をも含め,すべてが機械的必然に支配されるこの世界の中で,自由な意志を行使して情念や欲望を統御しうる自己に対する尊敬すなわち〈高邁〉の心こそ,あらゆる徳の〈鍵〉なのである。このようにデカルトの道徳はストア主義的色彩を強く帯びながら,また同時に欲望や情念を,認識することによって統御する道を示そうとする。ここに終生学問と知恵の一致を求めたデカルトの変わらぬ姿を見ることができよう。
執筆者:赤木 昭三
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1596~1650
フランスの哲学者,数学者。思索と研究の生活の大部分をオランダで送った。解析幾何学の創始などの自然科学上の業績のほかに,『方法叙説』『省察』『哲学原理』『情念論』などにより近代哲学の父とされている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…1628)は,近代実証的生理学の基礎をなすものとされている。フランスの二元論哲学者R.デカルトは,彼の著作が自分の主張する動物機械論を立証することを喜んで,自著に紹介したために,ハーベーの所説はヨーロッパの知識階層に広く知られるようになった。
[実証的医学の発達]
デカルトの二元論は,人間に特徴的な自覚する存在という精神の側面と,物質的な身体の側面をはっきり区別した。…
…このconscientiaが英語のconscience(良心)やフランス語のconscience(意識)になるわけであるが,ドイツ語でも,古形のGewissenからBewusstsein(意識)が独立したのは,やっと18世紀のC.ウォルフからであるという。 意識という語のとくに近代的な意味は上述の(2)にあると考えられるが,その確立はデカルトとともに始まったと言ってよい(彼は多くはコギタティオcogitatioという語を使ったが)。彼が精神を〈考えるもの(レス・コギタンス)〉と規定したとき,そのコギトとは自己意識にほかならなかったからである。…
…しかもこの量は二つの物体の衝突の際,やりとりがあっても総和はその前後で変わらない(保存される)。R.デカルトはこの理由で多様な運動の中で運動量(彼自身quantité de mouvementと呼んだ)こそが保存される量であると考え,宇宙の全運動量は保存されると主張した。この立場からデカルトやその支持者は,運動の原因としての力や運動の変化は,運動量の変化(または変化率)で測ることができると考えた。…
…彼は1600年ごろ,木材の上に立てた釘の頭に金づちの頭よりずっと重い物を載せても釘は木の中に入らないが,金づちを振り上げて打つだけでなぜ釘は楽に木材に打ち込まれるのかを問題にし,運動する物体には何か固有の“ちから”があると考えた。これについてR.デカルトは44年の著書で,衝突現象で運動量mv(mは物体の質量,vは物体の速度)が保存されることに注意し,全宇宙における総運動量が不変であり,運動量こそが運動する物体のもつ“ちから”であると主張した。デカルトやその支持者たちの考え方からすると,運動や運動の変化の原因としての(外から働く)力は運動量の変化として測られることになる。…
…このような立場は,一方では人間の思考や認識に対する否定的な態度さらにはニヒリズムにつながるが,他方では断定的な判断を避け,経験と生とを導きの糸として探究を続行しようとする実証主義的態度にもつながる。また懐疑論はつきつめていけば論理的矛盾に陥る――〈真理の認識は不可能である〉という断定は真理に関する一つの絶対的判断である――ので純粋な形では主張することができないが,それほど徹底しない場合でもそれ自身のために主張されるよりは,従来の見解を打倒するための武器あるいは疑うことのできない真理を発見するための手段(デカルトの方法的懐疑はその典型)として用いられることが多い。 西洋哲学史上,懐疑論がとくに問題になるのは古代と近世初期である。…
…その意味で,哲学は元来,広義の科学哲学として開始されたとも言いうる。現代に直接連続する科学哲学の原型としては,近世初頭のデカルトの哲学を挙げることが至当であろう。彼は当時の数学や自然科学を範型として,いわゆる〈方法的懐疑〉を遂行し,コギト(われ思う)の明証性に至り,心身二元論の哲学を構築し,やがて現在に至る科学哲学への道の先鞭をつけることになる。…
…古代インドでは,身体を意味する言葉は〈カーヤkāya〉と〈シャリーラśarīra〉の二つがあるが,カーヤは要素の集まり,シャリーラは〈生体〉ないし〈死体〉の意味である。 近代に入って,身体の見方に大きな影響力をもったのはデカルトの物心二元論である。キリスト教の霊肉二元論には,道徳的判断,つまり肉体を罪の源泉とし,霊魂のみが神に通ずるとする見方があったが,デカルトの二元論は道徳的判断をとり払って,理論的見地から物質と精神を分けている。…
…感覚が認識論の中で主題的に考察されるようになったのは,近世以降のことである。デカルトが方法的懐疑の途上で,感覚に由来する知識を人を欺きやすいものとして真っ先に退けたように,大陸合理論においては一般に感覚の認識上の役割は著しく軽視されている。カントにおいては,感覚は対象によって触発されて表象能力に生じた結果を意味するが,〈直観のない概念は空虚であり,概念のない直観は盲目である〉の一句に見られるように,彼は感性的直観と概念的思考の双方を重視した。…
…この種の超越的で非経験的なイデアの意味が逆転し,再び人間の精神の直接の対象として経験的,具体的な存在を意味するようになったのは近世哲学においてである。たとえばデカルトは観念に次の3種を区別した。第1は,人が先天的に所有している生得的,あるいは本有的な観念(生具観念)であり,公理的な諸真理,因果など,とりわけ神の観念がそれである。…
…機械論の再出発は17世紀初頭のヨーロッパで行われた。その背景には中世における建築技術の発達や機械時計の完成,さらに大砲の開発による投射体の運動の研究や航海術の進歩に伴う位置決定の課題などがあったのであるが,17世紀はじめに,それまで支配的な自然観・社会観であった目的論的・有機体論的なアリストテレス主義と,隠れた性質を認めるヘルメス主義を批判してF.ベーコンが新しい要素論を唱え,デカルトが魂と物体を明確に区別して物体から内的目的や隠れた性質を排除し,自然を〈延長〉としてとらえ,運動を位置の変化として幾何学的に研究する方法を打ち立てて,近代の機械論が成立した。すなわちデカルトは,当時完成した機械であった時計をモデルとして,自然を外から与えられる運動によって〈法則〉に従って動く部分の集合であると見たのである。…
…未知のものを求めるのに,それを既知のものと総合して方程式として表し,これを計算によって単純なものに還元すればよいのである。P.deフェルマーやR.デカルトは,座標の導入によって図形を数の間の関係式によって表せば,幾何学は代数化し,代数学の方法により幾何学が研究できるという,いわゆる解析幾何学の着想を得た。とくにデカルトはこの考えを彼の有名な著書《方法叙説》(1637)の付録の一つである《幾何学》において述べ,この方法は幾何学に発見性と統一性を与えることを強調した。…
…それはまちがいないが,ニュートン自身がそうした自然像の持主であったとするのは誤解である。実際には,物理学的な決定論のプログラムはデカルトが書き,そのプログラムのなかにニュートンの運動法則が取り込まれたと考えるべきではないかと思われる。デカルトは,創造主としての神の全知・全能を重んじる立場に立ち,この自然は創造された時点において,神の全知・全能の表現の結果,もはや手直し不要な形で〈仕上げ〉られている,したがってその運行も完全に神の計画どおりに進むと考えた。…
…眼鏡は中世にすでに存在したが,17世紀初頭にこの眼鏡レンズから望遠鏡が発明され,これに続いて顕微鏡も作られた。望遠鏡はその発明直後に,ガリレイによって実用的なものに改良されたが,理論的研究のほうはケプラーとデカルトによってなされた。ケプラーはレンズによる結像理論を打ち立て,さらに,水晶体はレンズであり,網膜上に対象の倒立像が作られることによって視覚が成立することを明らかにした。…
…
[近代合理主義の成立]
近代合理主義は,神的理性からの自然的理性の独立・自立としてあらわれ,市民階級の興隆や自然科学の発達などの動きと結びつき,それらを通してしだいに推し進められていく。その過程で決定的な段階を画したのは,デカルトの哲学であった。それによって人間的理性=自然的理性は,初めて他のなにものにも拠らず,自己を根拠づけうるようになったからである。…
…ただし,医学思想の発展をみた古代ギリシア・ローマ期では,ヒッポクラテスが〈脳によってわれわれは思考し,見聞し,美醜を区別し,善悪を判断し,快不快を覚える〉と記して以来,心の座を脳や脳室に求める考えが支配的になり,この系譜はルネサンス期をへて19世紀初頭のF.J.ガルの骨相学にまで及んでいる。 心の問題を身体的局在説の迷路から解き放ち,思惟を本性とする固有の精神現象として定立したのはフランスのデカルトで,彼がいわゆる松果腺仮説を提出したのも,心身の相関をそれで説明しようとしたものにほかならない。心が固有の精神現象であるなら,その成立ちや機能を改めて考える必要があり,17世紀後半からの哲学者でこの問題に専念した人は多い。…
…直線,平面,空間における点に数または数の組を対応させて点の位置を表すしくみを座標系といい,点に対応する数または数の組をその点の座標という。座標を初めて考えたのはR.デカルトであり,彼はそれによって解析幾何学を創始し,幾何学的な図形を数の関係で表して幾何学を代数を用いて研究するという方法を開発したのである。この方法はその後に生まれた多くの幾何学の研究にも用いられ,それらに応じて各種の座標が導入された。…
…そこには自然から人間的要素としての色やにおいなどの〈第二性質〉や〈目的意識〉などが追放され,もっぱらこれを〈大きさ〉〈形〉〈運動〉などの自然自身の要素に分解して因果的,数学的に解析していく近代の機械論的自然観(機械論)が成立することになる。これを徹底的に遂行したのがデカルトである。彼はこのシナリオを貫徹するために,物体から〈実体形相〉という生命原理を除去し,これを一様な幾何学的〈延長〉に還元し,逆に心や霊魂とよばれてきたものは〈純粋思惟〉として純化する。…
…間脳の第三脳室後上壁が膨隆して発生し,間脳とは短い柄で連続している。 17世紀のフランスの哲学者R.デカルトは,松果体を精神の座とし,両眼で知覚された外界の現象は,脳のなかを走る糸によって松果体へ伝えられ,松果体は,その刺激に応じて,〈精気(エスプリ)〉を中空の管によって全身の筋肉へ送ると考えた。松果体を精神の座とすることはまちがいとしても,〈脳内の糸〉を神経,〈精気〉をホルモン,〈中空の管〉を血管と置き換えてみれば,不思議なことに,現代の松果体機能に関するわれわれの知識によく符合している。…
…この時期に人工言語が注目を浴びた背景には,(1)政治・宗教を巡る各国の抗争により,共通語として存続しえなくなったラテン語に代わる〈国際語universal language〉の必要性と,(2)あいまい性や非論理性を一掃しえない自然言語に代わり,哲学や科学の発展に寄与しうる論理的で精密な〈哲学的言語philosophical language〉の確立が叫ばれるに至った,ヨーロッパ文化全般の自閉的状況がある。
[歴史]
1629年,学問の国際交流により知の革新と活性化をめざしたデカルト,メルセンヌらは,記号・音韻・意味の結び付きがきわめて恣意的である既成言語を批判し,数字のように精密に概念を表現できる哲学的言語の創出を提案した。これに呼応してコメニウスは,中世以来の言語教育が〈単に言葉を暗記させるだけで事物や概念の本質を学ばせていない〉点を改善する抜本策を人工言語に求め,この運動に参加した。…
…しかしその作用がどんな仕掛けで起こるのかを納得のゆく形で答えた人はない。その代表者であるデカルトも,身体と心の絡みの中心を松果腺としただけで,松果腺と心の絡みを説明できなかった。そこで,そのような作用はない,心と身体とは二つの時計のようにうまく調子がそろって平行しているのだ,というのがフェヒナーが平行論Parallelismusと名付けたものである(心身平行論)。…
…パスカルは晩年書き残した宗教的断章によって知られる思想家でもあった。 しかしこの世紀の数学史,科学史上のもっとも大きな人物としては,R.デカルト,I.ニュートンおよびG.W.ライプニッツを挙げるべきであろう。 デカルトは,近世合理主義の基礎を定めた哲学者である。…
…したがって,ここでは人間における身体と精神はまったく異なった秩序に属するものであって,精神は身体から分離可能であるばかりでなく,むしろ身体の穢れから浄化されるべきものと考えられる。近代になっても,たとえばデカルトは,身体は空間的広がりを本性とする物体の秩序に属するのに対し,精神ないし理性は思惟を本性とするそれとは別の秩序に属すると見る物心(身心)二元論を説くが,その場合も人間理性は大いなる理性である神につながるものと考えられている。そのため,デカルト以後の近代初期の哲学においては,これら異なる秩序に属する心身がどのような関係にあるのかという問題をめぐって,相互作用説,平行論,機会原因論,予定調和説など多様な仮説が提出されることになる。…
…また筋運動の力学的理解を基礎づけたG.A.ボレリはガリレイの弟子であった。17世紀において生命の機械論が提起される機は熟しつつあり,デカルトがそこにあらわれたのである。かれこそ生命現象の因果的理解の観念を科学の中に据え,近代生命科学を出発点につかせた学者であった。…
…次いでさらに1000年後のルネサンスと宗教改革の時代に,一方ではギリシアの古典文化復興の流れのなかで,他方ではキリスト教界内部でのプラトン=アウグスティヌス主義復興の動きのなかで再び更新され,西洋の基本的思考様式を規定し近代ヨーロッパ文化形成の青写真となる。たとえば近代哲学の創建者と見られるデカルトにしても,まさしくプラトン=アウグスティヌス主義復興の運動(オラトリオ会)との結びつきのなかでその思想を形成し,超自然的な〈理性〉を原理とする形而上学的思考様式を確立したのである。形而上学自然
【形相(エイドス)と質料(ヒュレ)】
ギリシア語のエイドスeidosは〈見る〉という意味の動詞エイデナイeidenaiに由来し,イデアideaと同根,〈見られるもの〉〈形〉を意味し,ラテン語ではformaと訳された。…
…上述のヘーブンでは,想像が過去の単なる再現ではなく,〈精神自身の理想に従った,自身の意志と創意による〉再現だという,その創造性が強調されている。 近世においては,例えばデカルトは,想像力による数学的命題の証明を否認しながらも,それが純粋知性の洞察を形象的に直観化してくれるところから,想像力を知性の不可欠な補助手段とみなしている(《省察録》)。D.ヒュームも,〈想像のほとばしりほど理性にとって危険なものはない〉としながら,他方では〈想像力の一般的でより確定した特質〉が悟性にほかならないともいっている(《人性論》)。…
…そうした自然力は,必ずしもつねに表現型をとるわけではなく,むしろ潜在力として〈隠れてoccult〉いる。ルネサンス期の新プラトン主義に由来する錬金術的,占星術的,魔術的自然観は,デカルトを除く〈近代科学者〉といわれる人々にも多かれ少なかれ共有されたが,ケプラーからニュートンにいたる〈万有引力〉の着想の系譜もその伝統に属するし,さらに,ゲーテ以降のドイツ・ロマン主義や,自然哲学のなかに登場する〈力Kraft〉という概念も,同じ流れにある。この〈Kraft〉が,表現型としては多様であれ,自然の事物のなかにつねに一定に保たれる〈エネルギー〉という科学的概念の原型でもある。…
…それは,推論によって得られたものではなく,むしろすべての推論が前提にすべきもっとも基本的な命題と考えられるからである。例えば,デカルトは,〈同一の第三者に等しい二つのものは互いに等しい〉といった公理をその例にあげている。彼にとっては,〈三角形は三つの直線によって限られている〉とか,さらには〈私は存在する〉といった命題でさえ,理性によって直観される〈生具観念〉であり,そしていわゆる〈演繹〉も,ただ直観の運動にほかならなかった。…
…彼は万物は人間の身体はもちろん,魂をも含めて,いっさい,原子とその運動に由来すると考えた。近世において,強く機械論的な傾向を示したのがデカルトである。彼は人間の身体は精巧な自動機械であるとみなした。…
…近代とは逆に,subjectumが即自的実在を,objectumが主観的観念を意味していたわけである。近代初頭のデカルトのもとでも,realitas objectivaは単なる表象のうちで思い描かれる事物の事象内容を意味していた。このように知覚とは,それ自体で現前している存在者が心に投影され,再現されることだという考えから,知覚表象もrepraesentatioと呼ばれたのである。…
…現在では,一般に,空間のなかにある広がりを占め,人間の感覚によってその存在を確認することができるような何ものかは,すべて物質として理解される。この一応の定義は,デカルトによるところが大きいが,これに従えば,物質は第1に精神と対立する。なぜなら,精神は空間のなかに広がりをもたず,したがってまた,人間の感覚によってその存在を確認されることはなく,しかもデカルト的なコギト(われ思う)によって,その存在が明証的となるからである。…
…ルネサンス期にヨーロッパ世界は,広義の新プラトン主義の奔入を受け,非常に動的で一種魔術的な自然観を新しく手に入れた。静的で整然たる秩序を合理的と考えるスコラ学と,新たに加わった動的で象徴主義的な自然の姿を合理的と考えるルネサンス自然観との葛藤や融合のなかから,コペルニクス,ケプラー,ガリレイ,デカルト,ニュートンらの,16世紀後半から17世紀へかけてのいわゆる科学革命期の仕事が生まれてくる。彼らの仕事は,しばしば,今日の物理学の基礎を築いたと考えられるが,少なくとも歴史的にみる限り,ことはそれほど単純ではない。…
…ラ・ロシュフーコー,ラ・ブリュイエールがまず思いうかぶ名前である。また,デカルトとパスカルの名前も,17世紀の文学史から逸することはできない。人間の思考する能力を重んじ,近代の合理主義的思想の基礎を築いたデカルトは,〈古典主義〉の理念の形成にも貢献していると思われるが,同時代への寄与もさることながら,むしろ18世紀以降,理性と良識を中核とする人間の本性の尊重という面において,〈カルテジアニスム(デカルト主義)〉は文学にも大きな影響を投げかけつづける。…
…機械じかけの人形を製作することは,それ以降近世にかけて特に盛んに行われるようになり,近代的ロボットの前史を形成した。これに加え,みずからも自動人形を所有したデカルトの出現とともに,人間の身体生理機構を一種の機械とみる考え方がフランスを中心に広まり,ラ・メトリー《人間機械論》(1748)などの出版をみた。人間が機械から区別される要因は,魂や理性をもつことにもとめられたが,18世紀にはこれすら機械的な本質をもつとする考え方も生じた。…
※「デカルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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