アラビア半島(読み)アラビアハントウ(英語表記)Arabian Peninsula

デジタル大辞泉 「アラビア半島」の意味・読み・例文・類語

アラビア‐はんとう〔‐ハンタウ〕【アラビア半島】

アラビア

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改訂新版 世界大百科事典 「アラビア半島」の意味・わかりやすい解説

アラビア半島 (アラビアはんとう)
Arabian Peninsula

西南アジアの南西部にある巨大な半島。アラビア語でジャジーラ・アルアラブJazīra al-`Arab(〈アラブの島〉の意)。メソポタミア,シリアから南東方向へ突出する。形は爪先を北東にむけた太くて短い長靴に似て,北東はペルシア湾とオマーン湾,南東はアラビア海とアデン湾,南西は紅海とその支湾のアカバ湾によって,それぞれ画されている。長さ約2300km,幅1200~1800km,面積約259万km2

アラビア半島は,地質時代の古生代から中生代にかけて,アフリカ大陸,オーストラリア大陸,インド半島などともつながって存在していた,いわゆるゴンドワナ大陸のなごりの陸塊で,全般に台地状である。陸塊の基盤をなすのは始原代の堅固な花コウ岩,片麻岩であるが,古生代以降の長い地質時代を通じて陸塊は緩やかな昇降運動をくりかえしたため,沈降期の海進によって,基盤岩の上には砂層などの古生代以降の地層がほとんど水平の状態で堆積している。しかし,新生代第三紀のアルプス・ヒマラヤ造山運動期に,紅海の部分が断層で陥没して地溝帯となり,インド洋と通じた結果,アラビア半島はアフリカ大陸から分離した。その地殻運動の際,アラビア半島の陸塊そのものも西から東に向かって緩やかに傾動したため,紅海に近い西縁部がアラビア半島の分水嶺となっている。また,陸塊が傾動したために,基盤岩の上の古生代以降の地層は,半島西部では浸食作用によって削り去られており,花コウ岩,片麻岩が表層に現れている。

 地塊の傾動に加えて,半島の西縁では地殻運動によって生じた断層沿いに溶岩の噴出がみられ,いたるところに溶岩台地をつくりながら分水嶺の高度を一段と高めている。分水嶺山地は,北から順にヒジャーズ山地(1000m級),アシール山地(2000m級),イエメン山地(3000m級)と呼ばれ,最高峰はイエメン山地のハドゥールḤaḍūr(ナビー・シュアイブ)山(3760m)である。また,イエメン山地から東へ延びる半島南縁のハドラマウト山地も,南北の分水嶺をなし,その高度は2000mに達する。

 半島の東半部は,東のペルシア湾に向けて緩やかに傾斜する標高1500~2000mの高原をなし,水平に堆積した古生代以降の地層が,東に向かうほど新しい時期に堆積した地層に置きかわりながら,順次現れる。なお,地層のかわり目には,浸食の程度の差によって生じるケスタと呼ばれる地形が数列にわたってみられ,急な崖を西に向けている。

 なお,アラビア半島の南東端のオマーン湾に臨む地方はゴンドワナ大陸に由来する陸塊とは異質であり,アルプス・ヒマラヤ造山帯に属する褶曲山脈,アフダル山地(最高峰3018m)が横たわっている。

 海岸部の平野は,東部のペルシア湾岸地方などを除いては全般に狭小である。ペルシア湾岸にカタル半島やバーレーン島がみられるほかは,海岸線は変化に乏しい。

中緯度高圧帯に位置するために気候は乾燥し,年降水量はほとんどの地域で100mmに達しない。そのため広く砂漠に覆われ,特に南部のルブー・アルハーリー砂漠はサハラ砂漠なみの超乾燥気候下にある。そのほか北部のナフード砂漠,中部のダフナーDahnā'砂漠も著名である。乾燥気候下でもときに一時的な豪雨がみられるが,その際に地表に刻まれるワジ(ワジ,涸(か)れ川,水無し川)の河谷は,乾燥気候と結びついた独特の地形で,それは古来自然の交通路となっている。また,地下水流が地表に近づいた所では,泉や井戸となり,とくに多量の地下水が湧出する所がオアシスで,農耕,遊牧,隊商貿易の拠点となっている。

 アラビア半島の中でも,イエメン山地地方は,夏にインド洋のモンスーンの影響をうけて年に500mmを超える降水に恵まれる。

アラビア半島の人口は約1900万を数えるが,人口密度は1km2あたり平均わずかに6人にすぎない。住民のほとんどはアラブで占められる。しかし海岸部にはインド人,パキスタン人,イラン人,東アフリカ系黒人など,非アラブ的要素もみられる。また近年は石油ブームにともなう工場・都市の建築事業と関連して,西欧諸国や日本,韓国などからの来住者も多い。住民のほとんどがイスラム教徒であり,その大部分がスンナ派に属する。

 乾燥気候が卓越し,その制約をうけるため,農業が営まれるのは降水量の多いイエメン山地やアフダル山地の山間の谷筋,あるいは砂漠のオアシスにほとんど限られる。その中でイエメン地方は,夏の雨に恵まれるために農業が盛んであり,古くから〈幸福なアラビアArabia Felix〉の名で知られてきた。農作物はアラビア半島全般では,小麦,ブドウ,ナツメヤシなどが卓越する。

 一方,広大な範囲を占めるステップでは,いわゆるベドウィンによって,羊,ラクダをともなった遊牧が営まれている。また,都市では,市(スーク,バーザール)を中心に商業活動がみられ,都市間を結ぶ長距離の隊商交易も重要性をもつ。なお,海岸部の住民は漁業や海運に長じている。

 ペルシア湾沿岸一帯は1930年代の発見にかかる世界的な油田地帯であり,とくに第2次大戦後は新油田も次々と発見され,急速にその生産額をあげてきた。初期には石油の開発機構が,アメリカ,イギリスなどの国際石油資本によって支配され,国家収入もあまり潤うことがなかったが,60年代からは徐々に国有化が進み,石油需要の増大にともなう価格の騰貴もあって,産油国の経済は大いに潤っている。また石油収入の裏づけによる工業,都市の近代化の勢いは,近年めざましいものがある。

 アラビア半島の大半はサウジアラビアによって占められるが,南西端から南縁部にかけてはイエメンがあり,ペルシア湾岸から南東部にかけては,クウェート,バーレーン,カタル,アラブ首長国連邦,オマーンの5ヵ国がある。
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アラブの民族的伝承はアラブを南アラブと北アラブとに分けるが,イエメンハドラマウトから成る南アラビアと,ヒジャーズナジュド以北の北アラビアは,有史以来別々の歴史世界を形成してきた。古く高度の文明を発展させたのは南アラビアで,そこには神殿を主とする巨大建造物および大規模な灌漑施設の遺跡と,のちのアラビア文字とは異なる独特の文字で記された多くの碑文が残されている。碑文の言語は明らかにセム語族に属し,文字はフェニキア文字との類似が指摘されている。宗教は天体崇拝を主とした偶像崇拝の多神教で,南アラビアの文明全体に肥沃な三日月地帯のセム語族系文明の強い影響のあったことが推定される。南アラビアでは前8世紀以降,サバ,ミナ,カタバーン,ハドラマウト,ヒムヤル等の一連の古代南アラビア王国が興亡した。その繁栄の基礎は灌漑農業と,ハドラマウト特産の乳香のほか,インド,東南アジアからもたらされた香料を地中海世界に運ぶ遠隔地通商にあり,古代ギリシア・ローマの文献で南アラビアが〈幸福なアラビア〉と称されたのは,南アラブの商人のもたらした豊富な香料のためである。

 北アラブの名の初見は前854年の戦争を記録したアッシリアの碑文であるが,そこに記されたアラブは明らかに,シリア砂漠周縁の遊牧民を指している。シリア砂漠は歴史的には北アラブの世界に属し,彼らはヘレニズム時代にナバテア(ペトラ),パルミュラの両王国を建設し,中継貿易によって栄えた。アラビア半島そのものについては,前2世紀ごろヒジャーズ北部にデダン(現在のウラー)の王国が続き,紀元前後の1,2世紀に,同じ地域にリフヤーン王国が栄えた。

 古代南アラビア王国の最後のヒムヤル王国は前2世紀の末ごろに興り,後3世紀にサバ,4世紀にハドラマウト王国を併せて南アラビアを統一した。しかしこのころから南アラビアの社会と経済に重大な変化が生じ始めた。その最初の徴候はササン朝ペルシアとアビシニア(エチオピア)のアクスム王国の一時的なイエメン占領で,4世紀半ば過ぎにはキリスト教も伝えられた。灌漑農業の荒廃を象徴するマーリブのダムの決壊は,4世紀から6世紀半ばまでに数回繰り返された。やがてササン朝がペルシア湾経由,ビザンティン帝国が紅海経由でインド洋貿易に乗り出し,南アラブの商人の活躍の余地はなくなった。生活のよりどころを失った南アラブの一部は,遊牧民となって北方への移住を余儀なくされ,半島全体で遊牧生活が支配的となり,南アラブは北アラブの文化的影響に屈する結果となった。

 イエメン,ヒジャーズ,それに半島東部の海岸地帯にはいくつかの都市とオアシス集落があったが,特に5世紀の末に北アラブのクライシュ族の住みついたメッカは,多神教の神殿カーバを擁し,定期市と結びついた巡礼の対象としての東方の聖地を保護していただけでなく,6世紀半ばの少し前,イエメン,シリア,イラク,アビシニアへの遠隔地通商を開始し,アラビア半島で最も栄えた町となっていた。

イスラムを創唱した預言者ムハンマドは,メディナへのヒジュラ(移住,622年)のあと半島各地のアラブ遊牧民の小集団,辺境地帯の小君主,それにユダヤ教徒,キリスト教徒の集団と個別に盟約を結び,前2者にはイスラムの信仰とザカート(救貧税)の支払を課し,後2者には信仰の維持を認めたがジズヤ(人頭税)の支払を強制した。632年にムハンマドが没すると,遊牧民と小君主のあるものはザカートを支払わず,偽預言者と呼ばれるものの活動もあった。初代カリフのアブー・バクルが偽預言者を討伐すると,彼らもザカートの支払を再開し,それまでムハンマドと盟約を結んでいなかった集団も次々にメディナのカリフの権威に従い,アブー・バクルはこのような遊牧民の動向を見守りながらアラブの大征服に乗り出した。

 第4代カリフのアリーがラクダの戦に勝ってそのままクーファに居を構え(656),ムアーウィヤがダマスクスによってウマイヤ朝を開く(661)に及び,帝国内におけるアラビア半島の政治的・経済的・戦略的意義は失われ,カリフの任命する複数の総督によって分割統治された。アラブの生活と社会構造は前イスラム時代と変わらず,ウマイヤ朝,アッバース朝の支配時代を通じて,半島では遊牧生活が支配的であった。その間にあって,メッカの有力者イブン・アッズバイルが9年間(683-692)カリフと称してウマイヤ朝に対抗し続けたことは,アラビア半島の最後の政治的自己主張にほかならなかった。

 半島全体の重要性は失われたとはいえ,二聖都メッカとメディナはイスラムの信仰および学問の中心地として特別の地位を占め,歴代のアッバース朝カリフは食料の確保,衛生の維持などに細心の注意を払った。ハールーン・アッラシードは23年間のカリフ在位中,9回メッカ巡礼を行い,そのたびごとに莫大な金品を市民に贈ったことで有名である。だが,ヒジャーズ地方を除いてアッバース朝の統治の実はあがらず,やがて9世紀の半ばごろイエメンのサーダにザイド派のラッシー朝が自立し,その後サヌアに移り,断続を繰り返しながら1962年のクーデタまで続いた。9世紀末から10世紀初めにかけて,イスマーイール派の活動もイエメンで活発となり,同じころバフラインを中心とする東アラビアでは,カルマト派が擬似国家(894~11世紀末)を建設した。彼らは930年の巡礼月にメッカを襲撃し,カーバの黒石をバフラインに持ち去ったが,20年後,ファーティマ朝カリフの指示でカーバに返還した。

 ブワイフ朝,セルジューク朝の武家政治の時代(946-1194),アラビア半島は名目的なファーティマ朝の宗主権のもとにあった。半島の各地に群小勢力が割拠し,メッカにはハサン家(アリーの長子ハサンの子孫),メディナにはフサイン家(アリーの次子フサインの子孫)の地方的政権が確立し始めていた。ファーティマ朝を滅ぼしたアイユーブ朝は半島の宗主権を握り,サラーフ・アッディーンが派遣した兄弟トゥーラーン・シャーTūrānshāhの開いたイエメンのアイユーブ朝(1174-1229)は,ほぼ半世紀続いたあと,そのメッカ総督の開いたラスール朝(1129-1454)に取って替わられた。エジプト・シリアでアイユーブ朝のあとを継いだマムルーク朝は,ヒジャーズの宗主権をも受け継ぎ,イエメンでラスール朝を継いだターヒル朝(1446-1516)はマムルーク朝の武力干渉によって滅んだ。オスマン帝国のセリム1世はマムルーク朝を滅ぼすと(1517),〈二聖都のしもべ〉という称号を用いたが,オスマン帝国の権威がヒジャーズとイエメンで確立されたのは,その子スレイマン1世の時代においてであった。

 それより先,ポルトガル人のインド洋進出が始まり,彼らは1508年にオマーンを占領し,その後ペルシア湾貿易の覇権を巡ってオランダとポルトガルの競争が続き,17世紀には東インド会社のイギリスが進出した。ヒジャーズはハサン家の支配のもとで事実上独立し,オマーンではイバード派のヤールブ朝(1624-1741)が興ってポルトガル人を追放した。

ナジュド地方東部のダルイーヤの族長ムハンマド・ブン・サウードMuḥammad b.Sa`ūdが,ワッハーブ派の創始者ムハンマド・ブン・アブド・アルワッハーブと手を携えて新しい国づくりを始めたのは,18世紀半ばのことであった。ワッハーブの教えはベドウィン戦士の士気を奮い立たせ,昔ながらのベドウィン同士の戦いはジハードとして意義づけられた。1765年にムハンマド・ブン・サウードの没したとき,半島の中・東部の大部分はサウード家の支配に帰しており,それはサウード王国,またはワッハーブ王国と呼ばれる。19世紀の初めワッハーブ王国はイラクのシーア派の聖地カルバラーを襲い,メッカとメディナを占領した。オスマン帝国のスルタンはエジプトのムハンマド・アリーにワッハーブ王国の討伐を命じ,その息子トゥースーンの率いるエジプト軍は,1811年にサウード軍を二聖都から追い,もう1人の息子イブラーヒームは18年にダルイーヤを陥れてワッハーブ王国を滅ぼした。

 24年,ムハンマド・ブン・サウードの孫のトゥルキー(在位1824-34)は,エジプト軍守備隊からリヤードを奪還し,第2次ワッハーブ王国が再建された。その子ファイサル1世Fayṣal Ⅰ(在位1834-38,43-65)は,一時オスマン帝国によってカイロに幽閉されるが,43年に牢獄を脱出して復位し,半島の中・東部にその支配を広げた。1839年にアデンを占領(1937年直轄植民地)したイギリスは,1835年以降ペルシア湾沿岸とアデン東方の群小首長国と条約を結んで保護下に置いていたが,北部ナジュドのハーイルの族長イブン・ラシードを後援し,91年,第2次ワッハーブ王国はイギリスとオスマン帝国の援助を受けたラシード家によって滅ぼされ,サウード家の一族はクウェートへの亡命を余儀なくされた。

 年若いアブド・アルアジーズ・ブン・サウードが,ワッハーブ王国(サウード王国)復興のため,わずか40人の従者を引き連れてクウェートをあとにしたのは,1901年のことであった。彼は02年に奇襲によってリヤードを奪還すると,ベドウィンの定住化とその戦士としての組織化に努力し,13年にはペルシア湾沿岸のハサー地方のトルコ軍を追い,20年にはヒジャーズの南の紅海沿岸の地アシールを併せ,21年にはラシード家の本拠ハーイルを占領した。当時ヒジャーズでは,第1次世界大戦下のアラブ反乱の名目上の代表者シャリーフ(ハサン家のものの称号)フサインが,イギリスの援助のもとにヒジャーズ王として支配していた。アブド・アルアジーズは,24年にフサインを追ってヒジャーズを併せ,27年には〈ナジュドおよびその属国の王〉と称し,同年,イギリスとのあいだにジュッダ条約を結んで,初めて独立国として国際的に承認され,32年,国名をサウジアラビアと定めた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アラビア半島」の意味・わかりやすい解説

アラビア半島
あらびあはんとう
Arabian Peninsula

西南アジアの南西部にあって、メソポタミア、シリアから南東方向へ突出する巨大な半島。南東はアラビア海、アデン湾に臨み、北東はペルシア湾(アラビア湾)、オマーン湾によって、南西は紅海とその支湾アカバ湾によって、それぞれ限られる。長さ約2300キロメートル、幅1200~1800キロメートル、面積約300万平方キロメートル。アラブ人によって、ジャジーラル・アラブJazīra al-‘Arab(アラブの島)とよばれることもある。

 大半の地域はサウジアラビアによって占められ、ペルシア湾岸から南東部にかけてはクウェート、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーンの国々が、また南部にはイエメン共和国が、それぞれ存在する。

 地質時代の古生代から中生代に、アフリカ大陸、オーストラリア大陸、インド半島ともつながって存在していたゴンドワナ大陸の名残(なごり)の陸塊で、陸塊の基盤をなす始原代の花崗(かこう)岩、片麻(へんま)岩が半島西部の地層を形成する。他方、半島東部には、陸塊の沈降期に堆積(たいせき)した古生代以降の地層が水平に重なっている。東部、西部で地質が異なるのは、新生代第三紀に紅海の部分が陥没してアラビア半島がアフリカ大陸から分離した際、半島の地塊が東に緩やかに傾動したため、西部にもあった堆積層がその後の侵食作用で削り取られた結果である。なお、地塊の傾動に加えて、半島の西縁は断層沿いに溶岩の噴出もあって高度が高く、半島の分水嶺(ぶんすいれい)を形成し、南部のアシール山地で標高2000メートル、南端のイエメン山地で標高3000メートルに達する。最高峰はイエメン山地のハドゥール山(3760メートル)。アデン湾、アラビア海に臨むハドラマウト山地も標高2000メートルを超える。他方、半島東部は、東へ向けて緩やかに傾斜する標高1500~200メートルの高原を呈し、地層の変わり目には崖(がけ)を伴ったケスタ山地が並走する。また、南東端のオマーン地方には、アルプス‐ヒマラヤ造山帯に属するアハダル山脈(最高峰3018メートル)が横たわる。海岸部の平野はペルシア湾岸などの東部を除いては全般に狭小である。海岸線は出入りに乏しく、ペルシア湾岸にカタール半島やバーレーン島が変化を与えているにすぎない。

 夏にインド洋の季節風の影響によって降水のあるイエメン山地地方や、冬に降水をみるアハダル山脈地方を除いては、年降水量は100ミリメートル程度にすぎず、気候は乾燥している。そのため広く砂漠に覆われ、サハラ砂漠なみの超乾燥地域をなす南部のルブ・アル・ハーリー砂漠や、北部のナフード砂漠、中部のダハナー砂漠は著名である。乾燥気候下で降る一時的な豪雨によって刻まれるワジ(水無川)の河谷は、地表の地形に変化を与えている。

 人口は約3800万で、人口密度は1平方キロメートル当り約13人と少ない(1994)。住民のほとんどはアラブ人であるが、ほかにインド人、パキスタン人、イラン人、東アフリカ系黒人などが若干認められる。宗教はイスラム教が支配的であり、ほとんどがスンニー派に属する。

 乾燥気候によって制約されるため、農業が営まれるのはイエメン山地地方や砂漠のオアシスなど水の得られる所に限られる。ステップではラクダ、ヒツジなどを伴った遊牧生活が営まれている。都市ではスーク(バザール)を中心に商活動が行われ、都市間には長距離交易に従事する隊商の活動もみられる。海岸部の住民は漁業や海運とのかかわりが大きい。ペルシア湾沿岸地域は1930年代の発見による石油資源の宝庫であり、近年の新油田の相次ぐ発見と石油価格の高騰は、この地域の産油国経済を大いに潤し、工業化、都市の近代化も促進されてきた。

[末尾至行]

歴史

アラビアでの考古学的調査は少ないが、旧石器時代からの人類の存在は確認されている。紀元前五千年紀の土器も出土し、前三千年紀の神殿、都市、墳墓がバーレーン島で発掘調査されており、この時代からメソポタミア文明とアラビアの東部とは密接な関係があったことが判明した。南アラビアでは前一千年紀からいくつかの国家が興亡した。サバ王国が最大の国家であったが、紀元前後のころからヒムヤル王国が強勢となり、4世紀には南アラビアを統一した。これらの王国の民は、サバ王国の首邑(しゅゆう)マーリブにある巨大なダムの遺跡に象徴されるように、高度な農業社会を維持し、独特な文字による碑文を今日に残している。半島の北部とシリア砂漠は、ラクダを飼育する遊牧民と、ラクダで荷を運ぶ商人の世界であった。彼らは荒野の民の意味でアラブとよばれていた。古くは前8世紀のアッシリア王の碑文がアラブに言及し、『旧約聖書』やヘロドトスの『歴史』にもアラブに関する記述がある。彼ら北アラビアのアラブは2世紀ごろから南アラビアに進出し、しだいにこの地を北アラブ化していった。一方、南アラビアの民も遊牧民化して北アラブの文化を受け入れ、北アラビアに進出した。5~6世紀には北アラブも南アラブも半島全域で混住したが、それぞれの出自意識をもっていた。

 アラブの宗教は南北ともに偶像を祀(まつ)る多神教であったが、3世紀ごろからユダヤ教やキリスト教もアラブの間に浸透していった。南アラビアのヒムヤル王国の最後の王はユダヤ教徒であったが、キリスト教徒であるエチオピア王の軍に敗れ、525年王国は滅んだ。半島の西部にある町メッカは多神教徒の聖地であった。6世紀後半から7世紀初頭にかけて、南アラビアはエチオピアの勢力を追ったササン朝ペルシアの領土となり、半島の東部一帯もササン朝ペルシアの政治的影響下に置かれていた。しかし、メッカがある西部はどこにも支配されない地域で、そこにイスラムの勢力が勃興(ぼっこう)した。610年ごろからイスラムを説いた預言者ムハンマド(マホメット)は、622年に生まれ故郷メッカを捨て、メディナに移った。メディナに拠(よ)ったムハンマドは、630年メッカを征服し、以後メッカ、メディナの2都市はイスラムの2聖都となり今日に至っている。ムハンマド没後、正統カリフは、メディナを本拠地にして半島のアラブを集め、広大な地域を征服した。征服者となった半島の住民は征服地の各地に定着した。彼らが半島の住民の言語、すなわちアラビア語を各地に広め、またイスラム教を広めた。しかし、661年のウマイヤ朝の成立とともに、イスラム世界の政治的中心はアラビアを離れた。

 ウマイヤ朝からアッバース朝にかけて、アラビアは広大なイスラム帝国の一部であった。10世紀ごろからイスラム世界が政治的に分裂すると、アラビアの東部はイラクを支配する王朝の統治下に、西部はエジプトを支配する王朝の統治下に入ることが多かった。しかし、アラビアの各地の土着の勢力も強く、しばしば自立し、イバード派やザイド派などのイスラム教の少数派の政権もときには誕生した。18世紀にアラビアにイスラム改革運動の一つであるワッハーブ派の運動がおこり、政治的運動と結び付き今日のサウジアラビア王国の基をつくった。また19世紀にイバード派とザイド派の政権が復興して、今日のオマーンとイエメンの基となった。20世紀に入ると半島の東部の油田が開発され、第二次世界大戦後、東部の土着勢力は次々と独立国家となった。1973年10月の第四次中東戦争を契機に、アラビアの諸国は石油資源を自らコントロールし始め、その力を背景にして世界を動かす力を保持するようになった。

[後藤 明]

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百科事典マイペディア 「アラビア半島」の意味・わかりやすい解説

アラビア半島【アラビアはんとう】

西アジアの大半島。約259万km2。政治的にはサウジアラビア,クウェート,バーレーン,カタール,アラブ首長国連邦,オマーン,イエメンに分かれる。高原状地形で紅海沿いに半島西部を南北に走る分水嶺がある。中央部は熱帯乾燥地帯で,ルブー・アルハーリー砂漠ナフード砂漠となり,砂漠地帯が全土の3分の1に達する。ペルシア湾に臨む東海岸は豊富な油田地帯で,世界一の石油生産地であり,英,米,日本などにより開発されている。 住民の大半はアラブで,ステップ地帯ではベドウィンが遊牧を営む。古くは〈幸福なアラビアArabia Felix〉と呼ばれ,特に今のイエメンの地は肥沃な地方であった。7世紀ムハンマドが出てイスラムを広め,西アジア,北アフリカへアラブ・ムスリムが進出。ウマイヤ朝アッバース朝などのイスラム帝国が建設され,メッカメディナはイスラム世界の聖都となった。16世紀にオスマン帝国の支配に服したが,18世紀半ばにワッハーブ派の運動が起こった。第1次大戦中オスマン帝国の支配を脱し,1926年アブド・アルアジーズ・ブン・サウードナジュドヒジャーズを統合し,1932年国号をサウジアラビアとして半島のほとんどを統一した。
→関連項目西アジア

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アラビア半島」の意味・わかりやすい解説

アラビア半島
アラビアはんとう
Arabian Peninsula

西アジアの南西端にある半島。長さ約 1900km,最大幅 2100km,面積約 260万 km2。北部のシリア砂漠との境界は地理的に明確ではないが,南西は紅海でアフリカと,北東はペルシア湾とオマーン湾でイランと限られ,南はアデン湾に面している。その大部分は高原性の台地で,西に高く東に低い。南西端と南東端で最も高く,イエメンでは富士山頂とほぼ等しい。地形学的には西のアラビア楯状地と,それよりも新しい北東,東,南東の堆積地域から成る。堆積地域は主として石灰岩から成り,砂岩や頁岩も多く,最古の堆積物は古生代前期のものである。中生代のジュラ紀と白亜紀のなかには,地下 3200m付近に多量の石油とガスを埋蔵する。その大部分の地域は乾燥気候区に属し,河川はすべて涸れ川 (ワディ) で,広大な砂漠が発達している。なかでも南部に広がるルブアルハーリー砂漠は,暑さのきびしい砂砂漠で,無人ともいえる地帯が広がり,正確な国境線は未確定である。このように過酷な気候は,アラビア半島内部を長く外界から閉ざし,ローマ帝国も前 25~24年に征服を試みたが失敗している。7世紀に半島東部に起ったイスラム教は,またたくまに北アフリカから中央アジアにまで普及し,アラビア半島は初めて世界の脚光を浴びるにいたった。半島の住民はオアシス農民と遊牧民 (ベドウィン) とから成り,闘争,略奪の歴史を繰返した。オスマン帝国の時代になって,初めてアラビア半島内部は外部世界の征服を受けたが,それでも軍隊の常駐はできなかった。政治的統一を達成するのに貢献したのは,20世紀前期に登場したイブン・サウードである。彼はトルコ軍を破り,イギリスを主とするヨーロッパ列強の干渉には巧みに妥協して,1932年,半島の大半を占めるサウジアラビアの建国に成功した。現在でも半島の大半は荒涼たる砂漠ややせた草地であり,遊牧民の生活舞台となっているが,オアシスも多く散在し,人口比率からはオアシス農民のほうが多い。イエメンの高地は雨が多く,農業がかなり発達している。 30年代から東海岸で世界最大の埋蔵量をもつ油田が開発され,石油の産出量が増大するにつれて,この地域の発展はめざましい。わずかな鉄道と自動車道を除くと,近代陸上交通の発達は遅れ,隊商路も依然利用されている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アラビア半島」の解説

アラビア半島(アラビアはんとう)
al-Jazīra al-‘Arabīya

アジア大陸南西端の大半島。政治的にはサウジアラビア王国イエメンオマーンクウェートバハレーンカタルアラブ首長国連邦の7カ国からなる。海岸に沿って山脈が走り,特にイエメンは最高4000mに達する高原である。内陸の南北に,ルブ・アル・ハーリーとナフードの大砂漠があり,両者の中間がナジュド台地である。雨量は非常に少なく,イエメン以外は農業に適しない。前8世紀頃以降,イエメン,ハドラマウトに一連の古代南アラビア王国が栄えたが,4世紀頃にはその文明も滅亡し,6世紀以降繁栄の中心はメッカに移った。ムハンマドヒジュラにより,一時メディナが政治の中心となったが,アリークーファへの遷都と,メッカの僭称(せんしょう)カリフ,アブドゥッラー(624~692)の没落により,アラビア半島は完全にイスラーム世界の一辺境となった。その後,ウマイヤ朝アッバース朝ファーティマ朝オスマン帝国の支配を受けたが,ヒジャーズやイエメンには地方的政権が存続し,1926年,サウジアラビア王国が正式にアラビア半島の大部分を支配することになった。この地域が国際政局のなかで注目されるようになったのは,石油資源の発見以後である。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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