ニーチェ(英語表記)Friedrich Wilhelm Nietzsche

デジタル大辞泉 「ニーチェ」の意味・読み・例文・類語

ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)

[1844~1900]ドイツの哲学者。ギリシャ古典学、東洋思想に深い関心を示して近代文明の批判と克服を図り、キリスト教の神の死を宣言。善悪を超越した永遠回帰のニヒリズムに至った。さらにその体現者としての超人の出現を求めた。生の哲学実存主義の先駆とされる。著「悲劇の誕生」「ツァラトゥストラはかく語りき」「権力への意志」など。

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精選版 日本国語大辞典 「ニーチェ」の意味・読み・例文・類語

ニーチェ

  1. ( Friedrich Wilhelm Nietzsche フリードリヒ=ウィルヘルム━ ) ドイツの哲学者。実存哲学の先駆者。キリスト教的・民主主義的倫理を弱者の奴隷道徳とみなし、強者の自律的道徳すなわち君主道徳を説き、その具現者を「超人」とした。機械時代・大衆支配時代に対する批判は、一面ファシズムの支柱ともなった。著「ツァラトゥストラはかく語りき」「善悪の彼岸」「道徳の系譜学」「権力への意志」など。(一八四四‐一九〇〇

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改訂新版 世界大百科事典 「ニーチェ」の意味・わかりやすい解説

ニーチェ
Friedrich Wilhelm Nietzsche
生没年:1844-1900

ドイツの思想家。ザクセン州リュッツェン近郊のレッケンで,プロテスタントの牧師の家に長男として生まれた。父母ともに代々牧師の家庭である。こうした伝統のもついわゆるドイツ的内面性,内面性に必ずつきまとうある種のラディカリズム,さらに小市民性,そして小市民性に必ずつきまとうこの小市民性自身への批判は,ニーチェの思想的体質とでもいうものの重要な要素である。早く父を失ったが奨学金を得て名門ギムナジウムのシュールプフォルタ(プフォルタ学院)に入る。クロプシュトックやフィヒテも学んだこの寄宿制のギムナジウムは,ドイツ人文主義の精神に依拠してギリシア語,ラテン語の厳しい教育を行っていた。ここでの古代との出会いは彼の生涯を決定するものとなる。

 こうした古典古代を範としたゲーテ時代以来の新人文主義,しだいに危機に瀕しつつあるプロテスタント神学,そしておりから個別科学のうちにまで台頭しつつあった19世紀の代表的思想傾向としての歴史主義--これがニーチェの出発点となった時代の知的状況である。その背景には,ヘーゲルに代表される壮大な政治・社会思想としてのドイツ観念論の体系が,台頭しつつある新しい産業社会を前にして崩壊し,さらには1848年の革命に挫折し啓蒙の思想を実現しえなかった市民層が,新たな世界観的拠りどころを求めていたという事態がある。政治的幻滅の中で,政治的にはきわめて保守的なショーペンハウアーペシミズムが流行のきざしを見せ,やはり革命失敗の苦い経験から政治と芸術の架橋を放棄し,〈総合芸術〉に19世紀の克服を求めたR.W.ワーグナーが知識人層および支配層の注目を引きはじめていたころである。ニーチェの思想形成は,こうした19世紀ドイツ市民社会の知的状況に深く根ざしている。

1864年ニーチェはボン大学に入り当初は母の希望もあって神学を学ぶが,すぐに古典文献学専攻に変わり,やがて師のリッチュルFriedrich Ritschl(1806-76)の転任にともないライプチヒ大学に移る。ライプチヒで彼はショーペンハウアーの哲学を知り,ワーグナーの謦咳(けいがい)に接する。ショーペンハウアーの《意志と表象としての世界》をニーチェは偶然に古本屋で見かけ,表題への直感的な関心から購入し,魅入られるように一晩で読んだという。彼をひきつけたのは,われわれの生が〈生きんとする意志〉のエゴイズムであるというペシミスティックな世界観と,救済としての芸術というショーペンハウアーの思想である。またあるサロンでたまたまライプチヒ訪問中のワーグナーと知り合い,同じくショーペンハウアーに共鳴する彼の芸術思想やバイロイト祝祭劇場の計画に心酔する。こうしてショーペンハウアーのペシミズム,ワーグナーの音楽,そしてしだいに形成されつつある非人文主義的な独自のギリシア観,この3者の統合が若きニーチェの目ざすところとなる。

 69年ニーチェはその俊秀ぶりを認められて,学位取得以前であるにもかかわらずスイスのバーゼル大学の古典文献学教授に招聘される。弱冠24歳,異例の抜擢(ばつてき)である。バーゼルでは,ルネサンスを描いて有名な,またギリシア文化に単なる理性の明るさではなく,情念の深淵を見る老碩学ブルクハルトと知り合う。ブルクハルトに対する畏敬の念は波乱含みの彼の人間関係にあって最後まで変わらなかった。70年普仏戦争が勃発するとニーチェも志願して看護兵として従軍するが病を得て除隊する。

この時期に書かれたのが処女作《悲劇の誕生》(1872)である。有名な〈アポロン的〉と〈ディオニュソス的〉の二つの概念を軸にして古代ギリシアにおける悲劇の成立,隆盛,そして没落が描かれている。アポロンは夢の神であると同時に,夢で見る光り輝く形象の神であり,その形象の規矩正しさという点で知性の鋭敏さに通じる神である。それに対してディオニュソスは,別名バッコスが示すように,陶酔と狂宴の神,生の底知れぬ情念とわき上がる歓喜の神である。また生存の苦悩がそのまま歓喜へと昇華する美の象徴ともなる。ニーチェはギリシア悲劇におけるコロスがディオニュソスの陶酔の歌であるとし,歴史的にもそこに悲劇の起源を見る。それに対して舞台上の俳優の所作はそのディオニュソスが見る美しい仮象としての夢の形象であるとされる。ディオニュソスはともすると単なる獣性に陥りやすく,アポロンはひからびた知性の不毛に退化しやすいが,その両者のせめぎ合いからアッティカ悲劇におけるたぐいまれな調和が達成され,ギリシア人の本来的ペシミズムが美によって救済されたとニーチェは論じる。そしてその世界を極端なアポロン性としてのソクラテスが不毛な知性主義によって解体したのだとされる。それ以後は現在に至るまでヨーロッパでは,アレクサンドリア的科学主義による人間の卑小化が続いているというのである。

 したがって《悲劇の誕生》は普通に言われているようにアポロンとディオニュソスの対立を描いたものではなく,両者のあるべき関係とあるべきでない関係との対立を描いたものである。本書の最後でニーチェは,ソクラテスによって崩壊せしめられたギリシア悲劇の世界がワーグナーの楽劇において再来することを願っている。過去の再解釈によって現代文化の創造を目ざしたきわめて実践的な書物であるといえる。だがこのようなもくろみは当然のことながら既成の学界の厳しい反発を招き,ニーチェは事実上アカデミズムから追放されてしまった。

この世間の無理解という経験を受けて,ニーチェは1873年から76年にかけて四つの《反時代的考察》と題した論文を出版する。第1論文《ダーフィト・シュトラウス,告白者にして著述家》(1873)では,普仏戦争の勝利がそのままドイツ文化の勝利であると思い込んだ市民層の代弁者D.シュトラウスのうちに〈教養俗物〉の典型を見た鋭い批判がなされており,《生に対する歴史の利害》と題した第2論文(1874)では,事実を詮索するだけで思想を欠いた歴史主義が病気として診断されている。第3論文《教育者としてのショーペンハウアー》(1874)および第4論文《バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー》(1876)では師と仰ぐショーペンハウアーとワーグナーがこうした時代においてもつ意義が説かれている。当時ワーグナーはスイスの〈四つの州の湖〉のほとりに家族と居を構え,《ニーベルングの指環》の完成に没頭しており,足繁く来訪するニーチェとのいわゆる〈星の友情〉が深まっていった。

 76年ついにバイロイトの祝祭劇場が完成し,そのこけら落しとして《ニーベルングの指環》の上演が皇帝の臨席のもとに行われた。ニーチェも当然招待されたが,そこで彼が見たのは,〈文化国民〉と称する思い上がりにとっぷり浸った醜悪なドイツ市民層と仲直りし,さらには彼らに追従するワーグナーの姿であり,ニーチェの嫌うキリスト教的中世的なものをドイツ的とみなし,それに帰ろうとする--やがてそれは《パルジファル》となって結実するが--ワーグナーの姿であった。ニーチェはいたたまれなくなり,田舎の保養地に逃げ出してしまう。ワーグナーとの友情の決裂であり,ここまでが通常ニーチェの思想的発展の初期とされている。

この1876年の冬ニーチェは病気のゆえに大学を休み,友人や,以前から知り合いの女性解放論者マイゼンブークとともにイタリアに行き,後に彼の思索に重要な役を占める地中海世界とラテン的な文化風土を知る。やがて彼の哲学のスタイルとなるアフォリズム(断想)を書きため出したのもこのころである。このアフォリズムをまとめて《人間的な,あまりに人間的な》(1878-80)と題して世に出したが,これによっていわゆる中期の批判的思想が始まる。そこでは今まで偉大とされていた芸術家や宗教家の人間的な側面を剔抉(てつけつ)して,既成の偶像の暴露心理学的解体が試みられている。こうしたアフォリズムはドイツ語としても“からし”のきいたすぐれた文章で書かれており,後に彼がルター以来のドイツ語の最大の書き手と自慢するのも無理からぬほどのものである。

 だがワーグナーとの決裂の痛手もあって,年来の偏頭痛その他の病気はしだいに悪化し,79年には大学の職を辞し,その後の10年間は夏は主としてアルプスのエンガディーン地方,冬は地中海のほとりの保養地というように一所不住の漂泊の哲学者の生活を送りながら,哲学的散文を書き続ける。81年には《曙光》,82年には《華やぐ知慧》が次々と出る。いずれもアフォリズム集である。《曙光》では特に権力感情の分析が展開され,ヨーロッパ的価値観の底に潜むニヒリズムと〈力への意志〉という後期の問題関連の萌芽が認められる。《華やぐ知慧》には批判的解体に伴うペシミズムから新たな晴朗さへの回復がはっきりと認められる。この時期の81年,ニーチェはスイス・アルプスのシルバプラナ湖畔で永劫回帰の覚知に達し,いっさいが〈力への意志〉である以上,宇宙と歴史の変動は永遠に自己回帰を続ける瞬間からなっているとの思想を得ている。

翌1882年にはザロメとの不幸な恋愛があったが,翌年初頭,ジェノバ郊外のポルトフィノで《ツァラトゥストラ》の着想を抱き,彼の言によれば,“嵐のような”筆の運びでまたたくまに第1部が完成した。この作品は第4部(1885)まで書かれるが,第4部になると出版者がつかず私家版で出さざるをえないほどに世間からは無視されていた。古代ペルシアのゾロアスター教の創始者ゾロアスター(ドイツ語でツァラトゥストラ)を主人公にしたこの哲学的物語は,山を出た主人公がさまざまな経験をしながら,永劫回帰の思想に到達し,その恐ろしさに耐えつつもこの思想を告知できるようになる〈大いなる正午〉が到来するまでの過程を描いたものである。ニーチェの書いたものの中で必ずしも最重要とは言えないが,その詩的表現,豊かな比喩のゆえに,《悲劇の誕生》と並んで最も有名になった作品である。そしてこの《ツァラトゥストラ》で後期の思想が始まったと普通に言われている。

 後期には〈力への意志〉,ニヒリズム,超人,永劫回帰,〈価値の転換〉といった中心的思想の多少なりとも連関した叙述をめざして,さまざまな変奏を加えたアフォリズムが書きつがれていく。《善悪の彼岸》(1886),《道徳の系譜学》(1887),《偶像の黄昏》(1889),《ニーチェ対ワーグナー》(1888脱稿),《ワーグナーの場合》(1888),《アンチキリスト》(1888脱稿),そして自伝的著作《この人を見よ》(1888脱稿)などがそうした作品群である。それらの中でニーチェはヨーロッパの形而上学,つまりキリスト教的プラトン的理念と価値観を,無の上に立てられた楼閣であり,基本的にはニヒリズムの現れであると論破し,このような旧来の価値の転換を〈力への意志〉と永劫回帰によって果たそうと試みている。《悲劇の誕生》の形姿で言えば,ソクラテスに代わるディオニュソスの美と力を価値の源泉にしようとする試みである。

 だがこうした哲学的な面と並んでニーチェのアフォリズムの中には,ドイツ文化についての深い洞察,モンテーニュ,モーツァルト,ハイネなど,敬愛してやまなかった人々への美しいオマージュがあることも忘れてはならない。さらに彼がワーグナーの対極に位置する南国的音楽として愛したビゼー,鋭い臭覚で見いだしたモーパッサン,バルザックなどフランスの作家たち,そして最晩年に強く関心を抱いたドストエフスキー,キルケゴールについてのアフォリズムや書簡を見ると,ニーチェがまさに19世紀の思想的危機を全身で生きていたことがわかる。

 だがそういうニーチェも特に《ツァラトゥストラ》以後は思想界から完全に忘れられた存在であった。たまに訪れる人があっても,結果として孤独感を深めることの方が多かった。ところが87-88年ころになるとフランスのテーヌが好意的な評価を示し,デンマークのG.M.ブランデスが講義に取り上げ,再び顧みられる兆候が現れはじめた。しかしその直後89年1月ニーチェはトリノの街頭で発狂する。発狂後は妹と母親に引き取られ,影のような生活を送ったのち,1900年ワイマールで死去した。

1892-93年ころからニーチェの名はしだいに広まり,90年代の終りには,ブランデスやザロメの評伝も手伝ってヨーロッパ中にニーチェ・ブームともいえるほどの熱狂が生じはじめた。ジッド(特に《地の糧》)やG.B.ショー(特に《人と超人》)の仕事にもニーチェの著作は大きな影響を与えたし,またドイツでもホフマンスタール,ムージル,T.マン,そして表現主義を含むモデルネの文学に深く多層的な影響を与えている。哲学的に本当にニーチェが消化されはじめたのは,第1次世界大戦によってニーチェの予言したヨーロッパのニヒリズムが顕在化した1920年代以降といえるが,やがてハイデッガー,ヤスパース,レーウィットなどのすぐれた解釈が陸続と現れはじめる。ナチスがニーチェを政治的に悪用したこともあって,第2次大戦後は一時期タブー視されていたが,ようやくフランスでのニーチェ受容をきっかけにして,今日ポスト構造主義的な読まれ方がドイツでも行われはじめている。

 日本ではすでに1901年に高山樗牛が,《太陽》掲載論文《美的生活を論ず》の中でニーチェを持ち上げて以来,特に《ツァラトゥストラ》が,やがては《人間的な,あまりに人間的な》などのアフォリズム群が広く読まれはじめた。13年に出た和辻哲郎の《ニイチェ研究》は当時としては世界的に見てもきわめてすぐれた解釈である。しかし全体的には大正教養主義以降の知識人たちの中では,ニーチェはヨーロッパの思想史的コンテクストを離れて人生論的に語られることが多く,ようやく第2次大戦後になって氷上英広や,ハイデッガーを介した渡辺二郎らによって本格的研究が進み,ヨーロッパ思想の枠組みに置き入れ直されたニーチェとの思想的対決が行われはじめたといえる。
ニヒリズム
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百科事典マイペディア 「ニーチェ」の意味・わかりやすい解説

ニーチェ

ドイツの哲学者。ザクセンの牧師の息子。ボン,ライプチヒ両大学に学び,ワーグナーショーペンハウアーに傾倒した。古典文献学の師F.リッチュルに認められ,24歳でスイスのバーゼル大学教授,同僚にブルクハルトがいて大きな感化を受けた。1879年大学を辞し,10年に及ぶ漂泊を経て1889年発狂,ワイマールに没。処女作《悲劇の誕生》(1872年),主著《ツァラトゥストラ》(1883年―1885年),遺稿《力への意志》に至る著作群でなされたあらゆる〈価値転倒の試み〉にあっては,その矛先をソクラテス的主知主義,ドイツの〈教養俗物〉,ワーグナー,キリスト教的プラトン主義等々へと向けながら,一貫して生の充溢を彼岸へと回収するニヒリズムと形而上学の克服が目指されている。著作にはほかに《人間的な,あまりに人間的な》(1878年―1880年),《曙光》(1881年),《華やぐ知慧》(1882年),《善悪の彼岸》(1886年),《道徳の系譜学》(1887年),《偶像の黄昏》(1889年)。20世紀思想の責務はニーチェの課題の深化にあると言って過言ではなく,とりわけ構造主義以降の諸思潮に多様なかたちでのニーチェ再読の動きが見られる。
→関連項目アンチキリスト生田長江永劫回帰エーベルランカトリシズムキリコクロソウスキーザロメ椎名麟三実存主義主意主義シュティフター新ロマン主義スクリャービン生の哲学高山樗牛ディオニュソス帝国文学ディリアス登張竹風バタイユブランデス

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旺文社世界史事典 三訂版 「ニーチェ」の解説

ニーチェ
Friedrich Wilhelm Nietzsche

1844〜1900
ドイツの哲学者
初め文献学を志し,バーゼル大学の教授となったが,音楽家ワグナー,歴史家ブルクハルト,哲学者ショーペンハウエルに傾倒し,『悲劇の誕生』『反時代的考察』を著した。やがて『ツァラトゥストラはかく語りき』(1885),ついで『この人を見よ』で超人と永劫 (えいごう) 回帰思想を説いた。「超人」とは何かは具体的ではないが,人間の目標であり,奴隷としてでなく,孤高に耐え,主体的に生きることで超人を生みだす架け橋となれると言っている。生の哲学,実存哲学の先駆者とされる。普仏 (ふふつ) 戦争に従軍して健康を害し,大学教授の職をすてた。1889年に倒れ,11年間母と妹の看病をうけたのち没した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ニーチェ」の解説

ニーチェ
Friedrich Wilhelm Nietzsche

1844~1900

ドイツの哲学者。生の哲学といわれる。ヨーロッパ文化の退廃はキリスト教の支配によるとし,新しい価値の樹立を主張。そのため,「神は死んだ」と叫び,力への意志,永劫(えいごう)回帰,超人などの思想を説く。主著『ツァラトゥストラはかく語った』など。

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「ニーチェ」の解説

ニーチェ

「ツァラトゥストラはかく語りき」等の著書で知られる哲学者。音楽の分野でも交響詩、ピアノ曲、声楽曲の作品を残している。

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

世界大百科事典(旧版)内のニーチェの言及

【ウィラモーウィツ・メレンドルフ】より

…厳密な学問的対象把握と詩的想像力の両翼に支えられた彼の方法は,とくに《ホメロス研究》(1884),前古典期抒情詩人の諸研究,エウリピデス《ヘラクレス》注釈(1887),そして《アイスキュロス悲劇作品》校訂(1914)などの,驚嘆すべき実りを結んだ。1870年代,ニーチェの《悲劇の誕生》に対する彼の破壊的な批判攻撃は大スキャンダルを招いたが,彼の学問的展望をいささかも曇らせることはなかった。【久保 正彰】。…

【永劫回帰】より

ニーチェ最晩年の思想を表すものとして有名な用語。〈永遠回帰〉とも言う。…

【エンペドクレス】より

ディオゲネス・ラエルティオスの記載した彼の伝記は華やかであり,死者をよみがえらせたとか,神としてあがめられるため火山エトナの火口に身を投げて死んだとかいう話までが伝えられている。ニーチェはこの伝記をもとにしてエンペドクレスを〈医師と魔術師,詩人と雄弁家,神と人,学者と芸術家,政治家と僧侶〉のいずれともきめかねる中間的,活動的人間としている。彼には二つの著作《自然について》と《浄め》があった。…

【神の死】より

ニーチェの用語。〈神は死んだ〉と説いたニーチェにとって,神の死とは単にキリスト教の超克ではなく,ニヒリズムの宣言でもあった。…

【体】より

… このような近代の身体観に対して,現代では,しだいに反省が起こってきている。ニーチェは近代合理主義の人間観を批判し,〈近代人は身体の重要性を忘れている〉と主張した。彼の考え方は,S.フロイトの深層心理学の先駆である。…

【ザロメ】より

…1880年チューリヒで神学,哲学等の勉強を始めるが,胸を病み,青鞜運動の重要な存在であったマイゼンブーク女史を頼ってローマに移る。女史はワーグナーやニーチェの友人であり,ザロメは彼女を通じて82年ニーチェおよびその友人P.レーとも知り合う。三人には奇妙な三角関係が生じるが,レーと暮らし始めた彼女はニーチェの求愛を退ける。…

【実存主義】より

…彼はとくに《哲学的断片への後書》(1846)において,客観的真理が人間を生かすのではなく〈主体性内面性が真理である〉と語り,単独者として神の前で主体的に生きる人間を宗教的〈実存〉と呼んだ。ニーチェもまた不断に脱自的であらざるをえない人間を〈力への意志〉に基づく〈超人〉と名づけ,無意味な自己超克を繰り返しているかに思われる運命を肯定することに意味を発見した。〈実存哲学〉の語が定着するのは,第1次大戦後の動向のうちとくに《存在と時間》(1927)に表明されたハイデッガーの哲学を念頭に置いて,これを〈人間疎外の克服を目指す実存哲学〉と呼んだF.ハイネマンの著《哲学の新しい道》(1929)以降であり,ヤスパースがこれを受けて一時期みずから〈実存哲学〉を名のった。…

【真理】より

…彼らは,存在者がそれにふさわしい経験においてあらわに立ち現れていることを根源的真理と見るのであり,これは原初のalētheia的真理概念の復権と見てよい。なお,ニーチェのように〈真理とは,それなくしては特定の種類の生物(人間)が生きることができないような一種の誤謬である〉といった思いきった真理観を提出した哲学者もいる。【木田 元】
【インド】
 インドで真理・真実を表す語はさまざまであるが,その代表はタットバ,サティヤである。…

【西洋哲学】より

…まずこれを確かめるために,両者の自然観を見てみよう。 ソクラテス以前,つまりニーチェのいわゆる〈ギリシア悲劇時代〉の思想家のほとんどが《自然(フュシス)について》という同じ表題で本を書いたという伝承があるが,そこからも推測されるように,古い時代のギリシア人にとってもっとも基本的な思索の主題は〈自然(フュシスphysis)〉であった。タレスにはじまりアナクサゴラスやデモクリトスにいたる,主としてイオニア文化圏で活躍した〈ソクラテス以前の思想家たち〉を,アリストテレスが〈フュシオロゴイphysiologoi〉ないし〈フュシコイphysikoi〉,つまり〈フュシスを論ずる人たち〉と呼んだのも,そのゆえである。…

【祟り】より

…また今日の新宗教運動の多くが,現在の不幸や病気の原因を先祖の霊の祟りの作用であると説明し,その祟りの消除のため先祖供養を勧めているのも,古くからの祟り信仰に基礎をおいたものということができるであろう。 以上述べてきた祟り現象の諸相は,要するに特定の人間の執念や怨念が凝りかたまって呪詛霊となり,それに感染することによって異常現象が発生するというものであるが,これはある意味でニーチェのいう〈ルサンティマン(怨恨感情)〉の発現と類似している。かつてニーチェは,原始キリスト教の成立とフランス革命の発生の心理的動機を,社会の水平化現象をひきおこすルサンティマンによって説明しようとした。…

【超人】より

…ドイツの哲学者ニーチェの著作《ツァラトゥストラ》(1883‐85)の中で,人間にとっての新たな指針(和辻哲郎の用語では〈方向価値〉)として情熱的に説かれた言葉。その熱っぽさが,19世紀末の微温的市民社会と精神的閉塞状況からの脱出を願う青年知識層に広く迎えられた。…

【ツァラトゥストラ】より

…ドイツの哲学者ニーチェの主著《ツァラトゥストラはこう言ったAlso sprach Zarathustra》(1883‐85)の略称。全4部から成る。…

【罪】より

…ペラギウスの自力的道徳主義はアウグスティヌスによって退けられたが,教会は正統と異端の争いをかかえ,全体としてみて現世的・道徳主義的な罪の理解にとどまらざるをえなかったといえる。これはニーチェがキリスト教の矮小化とみて批判の俎上(そじよう)にのせたことでもある。ユングは,西洋のキリスト教がプラトンの〈エロス〉と対立するあまり,罪理解も対象的なものに縛られていたと指摘するが,これも象徴化の不十分さを指摘したものと解される。…

【ニヒリズム】より

…また革命的無政府主義の創始者バクーニンはニヒリストたちの党派と手を握って革命を扇動した。 だが現代思想にとって最も重要なのは,ニヒリズムに関するニーチェの思想である。ロシアのニヒリストたちがアレクサンドル2世を暗殺して処刑された年,すなわち1881年の秋の遺稿で,ニーチェはすでに,おそらく彼らの立場を指してニヒリズムという語を用いている(のちのいわゆる〈能動的ニヒリズム〉)。…

【ハイデッガー】より

…彼は各学期の講義でヨーロッパ哲学史の由緒あるテキストの克明な解釈と根源的な批判を通じて,ますます近代哲学の限界を明らかにし,同時に《存在と時間》の本旨を深化して新しい地盤をたしかめることに努めた。その歩みはのちの多くの論著,なかんずく《ニーチェ》(1961)のうちにたどることができる。 33年ハイデッガーは不本意ながらフライブルク大学総長となり,ナチスの大学再編にもそれなりに荷担せざるをえなかった。…

【パースペクティビズム】より

…18世紀初頭にライプニッツが〈単子論〉を説き,すべての単子(モナド)はそれぞれの視点から,それぞれの表象能力に応じて全世界をおのれのうちに映し出すと主張した。1880年代にニーチェが,すべての存在者の根本性格を〈力への意志〉と見るその最後期の思想においてこの考えを受けつぎ,認識とはけっして客観的な真理の把握などではなく,〈力への意志〉を本質として不断に生成しつつある存在者が,その到達した現段階を確保せんがために,それぞれの力の段階に応じて遠近法的に世界を見る見方にすぎないと主張した。この考えは,20世紀スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットにも受けつがれる。…

【ペシミズム】より

…森鷗外がこのハルトマンに共感し,昭和初年に厭世自殺をした芥川竜之介が遺書のなかでマインレンダーの名を挙げていることは有名である。ショーペンハウアーの強い影響下にあった初期のニーチェが,それまで〈清朗闊達〉を本質とすると見られていた古代ギリシア文化の根底に,暗いペシミズムがひそんでいることを見ぬき,《悲劇の誕生》(1872)を書いたこともよく知られていよう。オプティミズム【木田 元】。…

【無神論】より

…そして,ロシア革命以来,その無神論は社会主義国家のイデオロギーの重要な柱となっている。 ニーチェは唯物論者ではないが,徹底した無神論者である。ニーチェの無神論は〈神は死んだ〉という命題に集約される。…

【ルサンティマン】より

…圧制的な支配者に対する大衆の行動や思想には,表面上いかに高貴な倫理性が標榜されていようとも,しばしばこの屈折した怨みの激情ないし復讐欲がこめられている。F.W.ニーチェはキリスト教道徳の核たる〈愛〉はユダヤ教に由来する憎悪,復讐の裏返しの精神的態度にすぎないとし,M.シェーラーはプロレタリアートの革命精神をとり上げ,少数支配者に対する羨望(せんぼう)から生じた多数者(大衆)のルサンティマンの発現であるとして,いずれも大衆側ルサンティマンが結晶したものだと主張した。意識下に抑圧されているいわば〈本音〉を暴露していくこのニーチェらの考え方は,その後深層心理学の発展によって,合理化論ないし防衛機制論として体系化されている。…

【ワイマール文化】より

…だがワイマールの思想についていえば,それは第1次大戦と革命後に突如出現したのでなく,前世紀の1890年代から世紀末にかけての大衆化状況の中で醸成されていたといえるだろう。 文学と芸術における表現主義,ニーチェの〈神の死〉宣告,フロイトの精神分析,ユングの深層心理学,マッハの感覚要素論は,従来の学問観に強い衝動を与えずにはいなかった。実証主義と歴史主義,さらにそれらを母胎にした社会科学はその基底を問責された。…

【ワーグナー】より

…70年,前年の長男ジークフリートの誕生を祝って管弦楽のための《ジークフリート牧歌》を作曲,妻コジマの誕生日に贈った。またこのころからワーグナーは哲学者ニーチェと親しくなり,ニーチェはその著作《悲劇の誕生》などにおいて楽匠に対する敬愛の思いを披瀝したが,のち種々の理由からこの二人は反目するようになった。 ワーグナーはかねてから自己の楽劇上演のために劇場を建設することを意図していたが,76年バイエルンの小都バイロイトに劇場が完成し,そのこけら落しには,大規模な楽劇《ニーベルングの指環》全曲(1854‐74)が上演され,全ヨーロッパから名士たちが集まり盛況をきわめた。…

※「ニーチェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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