ハリソン(Lou Harrison)(読み)はりそん(英語表記)Lou Harrison

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ハリソン(Lou Harrison)
はりそん
Lou Harrison
(1917―2003)

アメリカの作曲家。オレゴン州ポートランド生まれ。9歳のとき北カリフォルニアに移住し、青少年期をそこで過ごす。1934年にバーリンゲーム高校を卒業後、サンフランシスコに移住。その後モダン・ダンスのダンサーで振付師のボニー・バードBonnie Bird、レスター・ホートンLester Horton(1906―1953)などと活動し、サンフランシスコとオークランドでジョン・ケージとの打楽器コンサートを行った。ハリソンとケージは粗大ごみの廃棄所などを探し、自動車のブレーキドラム植木鉢などを使った新しい打楽器の響きを求めた。

 1934~1935年作曲家ヘンリー・カウエルHenry Cowell(1897―1965)に師事。カウエルがハリソンのためにかけたレコードで初めてインドネシアガムラン音楽の響きを耳にし、さらにサンフランシスコ湾内のトレジャー島で行われた金門橋博覧会(1939~1940)でガムランのライブ演奏をはじめて聴く。

 1941年ハリソンとケージは、打楽器四重奏曲『ダブル・ミュージック』を作曲することに同意し、各々が楽曲の2パートずつを受けもって完成させた。1942年ロサンゼルスに移り、アルノルト・シェーンベルクに師事する。翌1943年ニューヨークに移り、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙のコンサート批評欄を執筆し、1944~1947年同紙に300に及ぶコンサート評を寄稿した。また『モダン・ミュージック』Modern Music誌、『リッスン&ビュー』Listen & View誌でもコンサート批評を執筆する。

 他方モダン・ダンスとのコラボレーションも継続し、1949~1951年、舞踊家マーサ・グレアムの弟子で、作家ジョゼフ・キャンベルJoseph Campbell(1904―1987)の妻ジーン・アードマンJean Erdman(1916―2020)と多くの舞台作品を創作した。『ソルスティス(至点)』(1950)と題されたバレエ音楽もその一つで、夏至と冬至に対する人間の原始的な恐れを描いた作品である。

 1951年にノース・カロライナ州アッシュビルのブラック・マウンテン・カレッジ(ケージ、マース・カニンガムらが教育にあたった実験的な芸術学校)の教師になり、1953年には再びカリフォルニアに移った。

 1961年「東西の音楽の出会い会議」に出席するため船で東京に向かった。船中、オクターブの5音階での分割による可能性を探り(著書『ルー・ハリソンのワールド・ミュージック入門』Music Primer(1971)で詳しく述べられている)、チェレスタと打楽器のための『コンチェルト・イン・スレンドロ』(1961)を、インドネシアのスレンドロ(半音がない5音階)に似た音階で作曲した。

 ハリソンはその後日本から韓国、さらに翌1962年には台湾も訪れさまざまな楽器を学び、アジアの楽器のためのアンサンブル曲を作曲。1975年からはガムランを集中的に研究、ヨーロッパの楽器を取り入れたインドネシアの打楽器オーケストラのための作品も作曲。その後、スタンダードなアンサンブルも作曲するようになり、『弦楽四重奏曲』(1979)、『変奏三重奏曲』(1987)、『三重奏曲』(1990)などを発表した。

 ブルックリン交響楽団とブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージックの委嘱作品である『第4交響曲 ラスト・シンフォニー』(1984~1990)は、アメリカ先住民の音楽、古代の音楽、アジアの音楽などさまざまな要素が、西洋のオーケストラという形態のなかに織り込まれ融合された作品である。ハリソンは、アジアを中心とする異文化の音楽語法を学び、西洋の楽器と融合させることにより独自のスタイルをつくり上げた、たぐいまれな作曲家である。

[小沼純一]

『柿沼敏江・藤枝守訳『ルー・ハリソンのワールド・ミュージック入門』(1993・ジェスク音楽文化振興会)』

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