プランク(読み)ぷらんく(英語表記)Max Karl Ernst Ludwig Planck

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

プランク(ドイツの理論物理学者)
ぷらんく
Max Karl Ernst Ludwig Planck
(1858―1947)

ドイツの理論物理学者。キールの生まれ。曽祖父(そうそふ)はプロテスタント神学者、父は法学教授であった。1874年ミュンヘンの中級学校を卒業したころ、プランクは数学、音楽に才能を示し、また古典語にも興味を抱いたが、ミュンヘン大学、ベルリン大学では数学や物理を学び、クラウジウスの熱理論、とくに熱力学第二法則に感銘を受けて物理への志望を固め、第二法則に関する論文によってミュンヘン大学から学位を得た。1880年同大学の教職に就任、1885年キール大学の員外教授となり、ゲッティンゲン大学の懸賞に応募して論文「エネルギー保存の原理」を提出、二席を獲得した。1989年には、前々年(1887)に物故したキルヒホッフの後継者としてベルリン大学に着任、まず助教授と理論物理研究所(新設)の所長、ついで1892年に教授の地位を得、2年後(1894)プロイセン科学アカデミー会員に加えられ、ベルリン物理学会を通じての交際範囲も広くなって、活発な研究を展開し始めた。
 研究は、物理化学的に興味深い現象(不均質系の平衡、浸透圧、電離など)の熱力学的考察に始まって、1890年代後半から熱放射の問題に移った。熱放射については古くから関心が寄せられてきたものの、物理的にはキルヒホッフ(吸収と発散との関係、黒体の概念)、シュテファンとボルツマン(全波長にわたる放射強度と黒体の熱力学温度の4乗との比例性)、ウィーン(放射強度が最大である波長と黒体の熱力学温度との反比例性、遠赤外より短い波長の範囲での放射強度の波長分布)の研究成果が発表されたばかりであったから、プランクは、熱放射の熱力学的および電磁気学的な本性の追究に手を染めた。しかし、在来の(古典)物理学の立場からの論究は難渋し、一方、高温工業や照明技術との関連から熱放射の問題を重視したドイツ国立物理工学研究所での実験の進展に伴い、理論研究の前途に容易ならぬ障害があることが予想されるようになった。プランクは、まず折衷的な方法論で活路を開き(1900年10月)、続いて、エネルギーの離散性の仮説を設け、それを基として正しい熱放射波長分布法則を導いた(プランク定数の発見)。これがいわゆる量子仮説であって、量子論、量子力学への道はここで初めて開かれたのである。
 ただしプランク自身はこの仮説の革命的意義を強調するよりも、むしろ古典的な理論との融和に心を砕いていた。量子論が広く支持されるに至るには、アインシュタイン(光量子仮説、1905年)、デバイ(固体比熱の量子論、1912年)などの寄与が必要であった。
 一方でプランクはアインシュタインの特殊相対論の意義をただちに認め、1913年ベルリン大学学長に就任したときアインシュタインを同大学の教授に招いた。またプランクはプロイセン科学アカデミー会長(1912)、カイザー・ウィルヘルム科学振興協会の会長(1930)その他の要職につき、学界をリードした。理論物理学の教科書5巻、熱力学、熱放射論の書物は、行き届いた著述として定評があった(いずれも邦訳されている)。科学論、宗教論の著作も多い。「エネルギー量子の発見、物理学の進歩に対する貢献」により、1918年のノーベル物理学賞を翌1919年に受けた。
 1926年ベルリン大学退官後、ナチスの不当な政策や家族の戦死・病死、空襲による被災などに苦しみ、ゲッティンゲンで死去した。カイザー・ウィルヘルム協会は1948年にマックス・プランク科学振興協会として再建され、プランクの名を後代に伝えている。[高田誠二]
『A・ヘルマン著、生井沢憲・林憲二訳『プランクの生涯』(1977・東京図書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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