モルドバ(英語表記)Moldova

翻訳|Moldova

精選版 日本国語大辞典 「モルドバ」の意味・読み・例文・類語

モルドバ

(Moldova) ヨーロッパ東部、バルカン半島北東部の共和国。ルーマニアウクライナと国境を接する。一六世紀にトルコの支配下にはいり、一八一二年ロシアに併合、一九二四年ソ連によりモルダビア自治共和国(のちモルダビア社会主義共和国)が成立。九一年独立を宣言。黒土地帯で小麦・ブドウを産する。首都キシニョフ。旧称モルダビア。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「モルドバ」の意味・わかりやすい解説

モルドバ
Moldova

ルーマニア北東部の地方名。ロシア語などではモルダビアMoldaviaと呼ぶ。歴史的モルドバは旧モルドバ公国領の地方を指し,それは時代によって若干変化しているが,一般にルーマニア人はシュテファン大公の時代の領土をモルドバとみなしている。それは東カルパチ山脈とドニエストル川にはさまれた地域で,北はブコビナに接し,南は黒海とドナウ川下流までであるが,南西部のワラキアとの境はドナウ川支流のブザウBuzǎu川とさらにその支流のミルコブMilcov川の線とされている。現在は東カルパチ山脈とプルート川にはさまれた地域を指し,プルート川以東はモルドバ共和国(旧ソ連邦のモルダビア社会主義共和国が1991年に独立し改称)となっている。

地形は東カルパチ山脈の走る西部はもとより,北部もその支脈が走り山岳丘陵地域が多いが,南部へ下るにしたがい平坦地となり,かつては中央アジアから帯状に延びるステップ地帯の一部をなしていた。このように外へ向かって開かれた地形であるため,モルドバの歴史は古くからステップの遊牧民族(スキタイ,ペチェネグ,クマン,モンゴル,タタール)との交渉が深く,このほかに北東のスラブ人(キエフ・ロシア人,ポーランド人,ウクライナ人,コサック)や西から東カルパチ山脈の峠を越えてくるトランシルバニア人(セーケイ),ドイツ人,ハンガリー人,さらには南方から侵略して数世紀にわたってモルドバを支配したオスマン・トルコなどとも深いかかわりをもってきた。またトランシルバニアやワラキアのルーマニア人との交流が絶えなかったこともモルドバの歴史に重要な意味をもっている。

古代にはこの地域にスキタイやトラキア人が居住していたが,前1世紀トラキア人の一支族ダキア人の王国が形成されると,その領土となった。106年ダキアはローマ帝国に滅ぼされ属州ダキアとなった。モルドバはその属州には含まれず自由ダキア人の地と呼ばれていたが,しだいにローマ化されていったものと考えられる。271年ローマは撤退しいわゆる民族移動期に入るが,とくに6世紀にはスラブ人がこの地に移住した。キエフ・ロシア国家の最盛期にはその支配はモルドバ北部にまで及んだが,他方10世紀以降ペチェネグやクマンCuman(ロシア語ではポロベツ人)の侵入もしだいに強まり,12~13世紀初めにはこの地に白クマン国が成立し,原住民は貢納を義務づけられた。1241年モンゴルの侵入によってクマンの国家は崩壊し,やがてキプチャク・ハーン国の支配下に置かれたが,その後もモンゴル人はしばしば東カルパチ山脈を越えて略奪を行ったため,ハンガリー王はトランシルバニアの保全のためにもモルドバの確保を必要とした。

モルドバ公国の建国はこのような歴史的背景のもとで行われたのであるが,17世紀のある年代記は次のように述べている。〈ある日マラムレシュ(トランシルバニアの北部)のドラゴシュ・ボダDragoş Vodaは狩りに出て1頭の野牛を見つけ,川のほとりまで追いつめてそれを殺した。そしてドラゴシュはそこで貴族たちと宴をはったが,広闊なその地が気にいり,そこに居をかまえることにした。

 こうしてドラゴシュはモルドバの最初の公になった。彼はその狩りを懐かしみ野牛の頭部を国の紋章とし,また野牛を川まで追いつめて倒れた愛犬モルダにちなんでその川をモルドバ川と名づけた〉。現代の歴史家はこれをドラゴシュがハンガリー王の家臣としてモルドバを受封したと解釈し,次いで同じくマラムレシュからきたボイェボドのボグダンBogdan(在位1359-65)がハンガリー軍を破って1359年に建国したとしている。この事実は,マラムレシュから移住したブラフ人と呼ばれていたルーマニア人は少数であったことから,すでにモルドバには多数のルーマニア語を話すモルドバ住民が居住し,彼らがボグダンを支持したことを示している。公国の首都は初めバイアBaiaに置かれ(15世紀にスチャバに移された),ハンガリーの圧力に対抗するため,1387年ペトルPetru1世(在位1375ころ-91ころ)はポーランド王の宗主権を認めた。また14世紀末からはオスマン帝国の脅威も加わり,1456年にはスルタンへの貢納を余儀なくされた。

このように当時の東ヨーロッパにおける三大強国のはざまにありながら独立を目ざし,公国の最も輝かしい時期を築いたのがシュテファン大公(在位1457-1504)であった。彼はまずポーランド王と同盟を結び,1465年に当時ハンガリーとワラキアが支配していたドナウ川下流の港市キリアChiliaを奪い,67年にはハンガリー王マーチャーシュ1世の軍を迎え討ってバイアで大勝した。次いでスルタンへの貢納を拒否し,75年にバスルイVasluiの会戦でスレイマン・パシャ軍を破った。そのため翌年にはメフメト2世の率いるオスマン軍が侵攻し,ラズボイェニRǎzboieniの戦でシュテファンは敗れたが,首都スチャバを占領しようとするスルタンの企図は挫かれた。その後オスマン軍は84年キリアとアッケルマンを占領,85年にはスチャバを攻略し,シュテファンも92年にはスルタンへの貢納を認めざるをえなかった。なお16世紀初めにオスマン帝国はモルドバの南東部(ブジャク地方)にタタール人(クリム・ハーン国にいたモンゴル系住民)を移住させ,モルドバの領土は狭められた。モルドバの窮状とオスマン勢力の伸展をみたポーランド王は97年にモルドバを攻撃したが,トランシルバニア軍,ワラキア軍,オスマン軍の援軍を得てレンツェシュティLenţeştiの戦でこれを破った。その後ポーランドとは99年に条約を結び平和を確保したが,晩年のシュテファンは自治権と領土の保障が得られるならばスルタンの宗主権を認めざるをえないと考えるにいたった。彼が短期間ながら独立を達成できたのは,国の中央集権化のために努力し自由な共同体農民の支持を得たことにもよるが,さらに東西貿易の関税収入による財政的基盤があったからである。彼の最初の対外的軍事行動が東西貿易の主要港キリアの奪取に向けられ,またトランシルバニアのブラショブ商人とポーランドのリボフ商人にしばしば恩恵を与えて貿易の増進に最大の配慮を払ったこともこの事実を裏づけている。また彼は戦闘のたびに建立したといわれるほど多くの教会または修道院を建てたが,その中にはプトナ,ボロネツ,ニヤムツなどの修道院があり,それらは中世モルドバ文化の最大の遺産とみなされている。このほかアトス山のゾグラフ修道院にも寄進してそれを改築した。

シュテファン大公以後約300年間オスマン帝国のモルドバに対する支配はますます強化され,ペトル・ラレシュPetru Rareş(在位1527-38,41-46)のように貢納を拒否する公が出ても,大貴族の反対とオスマン軍の重圧の前にすべて失敗に帰した。モルドバにオスマン支配から脱却する機会を与えたのは,17世紀後半に始まるオーストリアとロシアの南進政策であった。1710年スルタンの推薦によってモルダビアの公位に就いたD.カンテミール(在位1710-11)は,11年4月ロシアのピョートル大帝と秘密軍事同盟を結んでオスマン帝国と戦ったが,同年7月プルート河畔のスタニレシュティの戦でオスマン・タタール連合軍に包囲されて降伏し,カンテミールは捕虜になった。その後の条約によりカンテミールはロシアへ亡命し,ピョートル大帝に厚遇されたが,以後ロシアとの関係は深められていった。オスマン政府はモルドバの統治をいっそう強化するためギリシアのファナリオット出身のマブロコルダトNicolae Mavrocordat(在位1709-10,11-15)を公に任命し,1821年までファナリオットの時期がつづいた。この時期には現地貴族の間から公が選出されなかったばかりでなく,外交権の喪失,軍隊の縮小など,自治権に対する大幅な制限が加えられた。ファナリオット出身の諸公とその従者は,任期終了後も現地にとどまりモルドバの貴族となる例が多く,ギリシア文化の影響も強められた。公用語も以前のスラブ語に代わってギリシア語が用いられるようになり,法典もギリシア語で書かれ,首都のヤシにはギリシア・アカデミーが設立された。この間にもオスマン帝国の衰退は著しく,1774年キュチュク・カイナルジャ条約で黒海商業の独占権を失った。同年オーストリアはホティンを除くブコビナ地方を領有,1812年にはロシアがホティンを含むプルート川以東のモルドバ(ベッサラビア)を領有し,以後この地方にはロシア人の植民が大規模に行われることとなった。

1821年のエテリア蜂起とワラキアのブラディミレスクの率いる農民蜂起は,ファナリオット支配を終わらせ,現地貴族出身の公が選出されることになった。26年ロシア・オスマン帝国間に結ばれたアッケルマン条約でかつてのモルドバの自治権が承認され,露土戦争後に結ばれた29年のアドリアノープル条約ではモルドバの自治はさらに拡大され,事実上オスマン帝国の支配からはほとんど解放されたが,その代りロシアがその保護者となった。29-34年ロシア軍は駐留をつづけ,開明派のP.D.キセリョフ将軍がワラキアとモルドバを統治した。この時期1832年にワラキアより1年遅れてモルドバの組織規程がつくられ,近代的改革(公の権限の制限,国内関税の廃止,軍隊の創設,議会開設)が行われたが,マルクスが賦役の法典と呼んだように,農民に対しては過酷な賦役の規定を含んでいた。48年3月,ウィーンやハンガリーでの革命に呼応してモルドバでも革命の準備が行われたが事前に弾圧され,同年6月オスマン軍がワラキア革命鎮圧のためにワラキアを占領すると,それを口実にロシア軍もモルドバを占領した。48年革命の失敗の経験から,ワラキアでもモルドバでも統一を求める声が高まってきた。国内にも一部の大貴族をはじめとする統一反対派の勢力が強かったが,ロシアはオスマン帝国を弱体化するために両公国の統一を望んでいた。クリミア戦争を終結させた56年のパリ条約は両公国の統一を一歩進め,立法や司法において統一の準備的措置がとられた。そして59年1月ワラキアとモルドバの両議会はともにクザを公に選出し,こうして統一が実現した。以後,モルドバとワラキアは,トランシルバニアを含めルーマニアの民族独立の動きを強めるが,これについてはルーマニアの歴史の項で詳述することにする。
ベッサラビア →モルドバ[国] →ルーマニア →ワラキア
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「モルドバ」の意味・わかりやすい解説

モルドバ

◎正式名称−モルドバ共和国Republica Moldova/Republic of Moldova。◎面積−3万3848km2。◎人口−408万人(2012)。◎首都−キシナウChisinau(キシニョフKishinyov。67万人,2012)。◎住民−モルドバ人75.8%,ウクライナ人8.4%,ロシア人5.9%,ガガウズ人4.4%など。◎宗教−ロシア正教。◎言語−モルドバ語(公用語),ウクライナ語,ロシア語。◎通貨−モルドバ・レウMoldova Leu(複数レイLei)。◎元首−大統領,ニコラエ・ティモフティNicolae Timofti(1948年生れ,2012年3月就任,任期4年)。◎首相−パベル・フィリプ(2016年1月発足)。◎憲法−1994年8月発効。◎国会−一院制(定員101,任期4年)。最近の選挙は2014年11月。◎GDP−60億ドル(2008)。◎1人当りGNI−1100ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−26%(1997)。◎平均寿命−男65.0歳,女72.6歳(2007)。◎乳児死亡率−16‰(2010)。◎識字率−98%(2008)。    *    *ヨーロッパ南東部,ウクライナとルーマニアに囲まれる共和国。住民の76%はモルドバ人で,モルドバ語はルーマニア語に非常に近い。国土の大部分は黒土の丘陵性平原で,ブドウ,トウモロコシ,小麦,テンサイ,ヒマワリ,ジャガイモ,野菜などを産し,牛,豚,羊の牧畜が行われる。キシナウ(キシニョフ)を中心に食品,織物,建設資材などの工業もある。 1359年,現在のルーマニア北東部からモルドバ共和国にかけての地域にモルドバ公国が成立した(モルドバ(地方)参照)。15世紀末からオスマン帝国(トルコ)の支配下に入り,露土戦争の結果,1812年プルート川以東の地(ベッサラビア)がロシア領となった。第1次大戦後ルーマニアに編入されたが,1940年ソ連が占領し,モルダビア・ソビエト社会主義共和国を樹立した。第2次大戦中は1941年―1944年ドイツ・ルーマニア軍に占領された。1991年8月に独立を宣言,以来,反ロシア・民族自主路線の政権が続いた。2001年2月総選挙でモルドバ共産党が大勝,4月にボローニン同党議長が大統領に選出された(2005年4月再選)。7月には世界貿易機関(WTO)に加盟。モルドバ人のなかにはルーマニアとの統合を主張する勢力がある一方,ロシア人の多いドニエストル川東岸地域はプリドニエストル共和国として一方的に独立を宣言,モルドバからの分離独立に強硬な姿勢をとっている。
→関連項目コサックブカレスト

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モルドバ」の意味・わかりやすい解説

モルドバ
Moldova

正式名称 モルドバ共和国 Republica Moldova。
面積 3万3843km2沿ドニエストル共和国 4163km2を含む)。
人口 295万4000(2021推計)。
首都 キシナウ

ヨーロッパ東部の内陸国。西はルーマニアと,他の三方はウクライナと国境を接する。国土は東のドネストル川と西のプルト川にほぼ挟まれて位置し,大半は丘陵性の平原からなる。中央部に最も高い丘陵(最高点 429m)がある。気候は比較的温暖で,平均気温は 1月-5~-3℃,7月 20~23℃。年降水量は北部で 560mm,南部で 300~400mmである。北部が森林ステップ地帯,南部はステップ地帯に属し,森林面積は少ない。国土の 3分の2がチェルノゼムからなり,肥沃である。住民の約半数がモルドバ人,ほかにはウクライナ人,ロシア人などがいる。またガガウズ人(トルコ系)もおよそ 4%を占める。国土の大半は歴史的にベッサラビアと呼ばれる地域で,その領有をめぐり,古来多くの変遷をみた。1918年ベッサラビアがルーマニア領となったのち,ソビエト連邦領として残った小地域に 1924年モルダビア自治ソビエト社会主義共和国が成立。これに 1940年返還されたベッサラビアを加えてモルダビア=ソビエト社会主義共和国が形成された。1991年5月現国名に改め,8月独立して 12月に独立国家共同体 CISに参加。1992年国際連合加盟。ガガウズ人,ロシア人の民族問題を抱えている。特にロシア人が多数を占める東部ドネストル地域(→沿ドニエストル共和国)の 1990年の分離独立宣言は,内戦に発展した。農業が盛んで,果樹栽培地帯になっている。また,工芸作物はテンサイ,タバコ,香油採取作物の栽培に特化している。ブドウ,砂糖,ワイン,果実缶詰,油脂を特産。主産業は工業で,食品加工が中心であるが,機械(トラクタ,冷蔵庫),繊維,化学(染料,ゴム製品,医薬品)などの工業がキシナウ,チラスポリベリツイなどで発展している。主要交通機関はキシナウ,ベリツイを中心に放射状に延びる鉄道,ハイウェーで,ドネストル川,プルト川では水運が行なわれる。

モルドバ
Moldova

ルーマニア東部の地方,歴史的名称。モルダビア Moldaviaともいう。カルパート山脈から隣国モルドバとの国境を流れるプルト川にかけて広がる地域をさす。1940年以前はブコビナベッサラビアも含んでいた。14世紀中頃モルドバ公国となり,その後たびたびロシア,トルコなどの侵略を受けたが,1859年ワラキア公国と統合,1861年ルーマニア公国と改称。中世にはスチヤバが首都であったが,のちヤシが首都となり,政治,文化,経済の中心地として発展した。スチヤバに残る内部・外部ともにフレスコ画で覆われた 16世紀の聖堂は,北部に点在する同様の 6聖堂とともに 1993年世界遺産の文化遺産に登録。2010年,スチェビツァ修道院の復活聖堂が追加,拡大登録された。(→ルーマニア史

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

知恵蔵 「モルドバ」の解説

モルドバ

モルドバはルーマニア系の住民の多い国で、ルチンスキー前大統領は欧州連合(EU)加盟を戦略目標としていた。2001年4月に独立後初の議会による大統領選挙が行われ、共産党委員長のウラジーミル・ウォロニンを大統領に選出した。そのためモルドバは、一気にロシアに接近するかに見えた。しかし、グルジア政変(バラ革命)に続いて04年末にウクライナで国民の反政府運動が盛り上がり親欧米政権が成立(オレンジ革命)して、ウォロニン大統領は態度を一変させ、サアカシュビリ・グルジア大統領やユーシェンコ・ウクライナ大統領と連携して反ロシア・親欧米の姿勢を明確に打ち出した。親ロ政策を続ければ国民の反政府運動が燃え上がると考えたからである。またウォロニンは「プリドニエストル共和国」からのロシア軍撤退を強く要求している。さらに、05年4月にはGUUAMの首脳会議を積極的に開催し、反ロシアの民主的選択共同体にも加盟した。これに対して06年ロシアはモルドバの主要輸出品であるワインなどの輸入禁止措置で応じ、モルドバは苦しい対応を迫られ、2007年には禁輸解除の交渉が続いた。

(袴田茂樹 青山学院大学教授 / 2008年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

世界大百科事典(旧版)内のモルドバの言及

【ルーマニア】より

…ルーマニアは英語よみで(ただしRumaniaとも綴る),ルーマニア語ではロムニアRomâniaと呼ぶ。東は黒海に面し,北東はモルドバ共和国(旧ソ連),北はウクライナ,北西はハンガリー,南西はセルビア,南はブルガリアに囲まれ,国境の延長は3190km。行政区域は1特別市(首都のブカレスト),40県に分かれる。…

※「モルドバ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android