デジタル大辞泉 「南」の意味・読み・例文・類語
なん【南】[漢字項目]
[学習漢字]2年
〈ナン〉方角の一。みなみ。「南下・南極・南端・南部・南方・南北・南洋/以南・江南・指南・西南・東南」
〈ナ〉1 みなみ。「南殿」
2 梵語の音訳字。「南無」
〈みなみ〉「[名のり]あけ・みな・よし
[難読]
〈ナン〉方角の一。みなみ。「南下・南極・南端・南部・南方・南北・南洋/以南・江南・指南・西南・東南」
〈ナ〉
〈みなみ〉「



してその鼓面を上から鼓つ。器には底がなく、頸部の四方に鐶耳があり、そこに紐を通して上に
けると、南の字形となる。殷の武丁期に貞卜のことを掌った貞人に
(なん)という人名があり、その字は南を鼓つ形に作る。〔説文〕六下に「艸木、南方に至りて、枝任(しじん)あるなり」とし、任をしなやかの意に用いるが、苗族が用いた銅鼓は古くは南任(なんじん)とよばれ、いまもかれらはその器をNanyenとよぶ。「南任」がその器名である。〔詩、小雅、鼓鍾〕に「
を以てし南を以てす」とあって、単に南ともよばれた。〔韓詩
(せつ)君章句〕に「南夷の樂を南と曰ふ」とみえる。また〔礼記、明堂位〕に「任は南蠻の樂なり」とするが、南任がその正名である。この特徴的な楽器によって、南方を南といい、苗族を南人とよんだ。卜辞に「三南・三羌」のように、西方の羌人(きようじん)と合わせて、祭祀の犠牲に供せられることがあった。犬首の神盤古を祖神とする南人は、羊頭の異種族羌族とともに犠牲とされたが、牧羊族の羌人のように捕獲は容易でなく、卜辞にみえる異族犠牲は、ほとんど羌人であった。南方は一種の聖域と考えられ、〔詩、周南、樛木〕には「南に樛木(きうぼく)
り 
(かつるい)之れに
(まと)ふ」のように、南は、一種の神聖感を導く発想として用いられる。
した楽器の象で、市・孛とは関係がない。孛は
(つぼみ)のふくらむ形である。
(なん)の或(ある)体を楠に作る。南n
mは古くは
(侵)tsi
mの韻。〔詩、小雅、鼓鍾〕では欽・琴・
(音)・僭と韻し、〔詩、
風、燕燕〕では
・心と韻している。
▶・南衙▶・南
▶・南郭▶・南岳▶・南学▶・南
▶・南冠▶・南
▶・南徼▶・南
▶・南金▶・南薫▶・南渓▶・南軒▶・南荒▶・南山▶・南
▶・南枝▶・南至▶・南詞▶・南狩▶・南巡▶・南廂▶・南人▶・南垂▶・南征▶・南
▶・南船▶・南饌▶・南
▶・南端▶・南天▶・南渡▶・南土▶・南蛮▶・南藩▶・南風▶・南
▶・南辺▶・南畝▶・南圃▶・南邦▶・南北▶・南奔▶・南冥▶・南溟▶・南面▶・南門▶・南籥▶・南游▶・南離▶・南
▶出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
観測点から見た地平面の方向を方位といい,東西南北の4基点をもとに,北から北北東,北東,……,東,……南南東,南,南南西……など16方位で呼ぶのが一般的である。北半球の中緯度地方で太陽の見かけの運動を観測すると,東から昇り,南の空を通過し,西へ沈む。したがって,古代人は〈南〉を太陽の通る方向と認識していたようで,英語のsouth(ドイツ語Süd)の原義はsunsideである。古来,中国や日本では十二支(干支(かんし))で方位を呼び,南は午に当たる。
伝統的日本人は南という方位にたいして何を感じたか,また南ということばから何を思い描いたか。まず,天武朝(672-686),持統朝(686-697)ごろ最も盛行を極めた陰陽五行思想の摂取・応用が基礎となって,爾後律令宮廷儀礼から民間生活習俗に至るまでの広い範囲にわたり,古代中国哲学の空間論および時間論の枠組みが大きな影響をもっていた。すなわち,南の方位とは,五行でいえば火(陽の気で,熱と光とをもつ)を,五色でいえば赤を,五時でいえば夏を,十干(じつかん)でいえば丙丁(草木が伸長し充実した状態)を,十二支でいえば午(万物が繁盛の極を過ぎて衰微のきざしを見せはじめたさま)を,九星でいえば九紫(高貴,頭脳,名誉,麗,表,争などを意味する)を,易卦(えきか)でいえば離(火,日,天,中女の相をあらわす)を,それぞれ意義し,それぞれが陰陽五行論哲学の理論的システムのなかで矛盾なしに作用すると考えられたのである。矛盾なしにと述べたが,その一例を挙げると,遠く南海の孤島にあると信じられた補陀落(ふだらく)(日本では和歌山県熊野地方がこの観音浄土に至る入口に擬せられた)への渡海(補陀落渡海)が〈子(ね)月〉(旧11月)と定められ,また渡海の船を送り出す補陀洛山寺の位置からすると那智滝の滝壺が〈子方〉(北,水気,坎宮(かんきゆう),一白をあらわす方位)に正しく位置するのは,このように周到綿密に計算されて形成された〈子午軸〉をたどるかぎり〈午(うま)方〉(南,火気,生命繁茂)なる観音浄土への到達は必ず可能なはずと信じられたためである。陰陽五行思想は,かくのごとく,日本人の伝統的感性の深層部分に浸透していたのである。
このほかに,日本人が何か特別な南方観を持ったとすれば,それはきわめて新しい時代の産物である。そのことは,近世を代表する百科全書派的学者の著述のなかにみえる語源説を検討してみればわかる。
新井白石《東雅》(1719成稿)は,つぎのように説く。〈ミナミとはミノミにて,海の見えし方といふなるべし〉〈上古の時この葦原中国,其北方は越の山重り隔りて,南方は海見えたりしかば,其方をさし名づけて,ミナミとはいひしなり〉と。谷川士清(ことすが)《倭訓栞(わくんのしおり)》(1776成稿)は〈みなみ,南をいふ。日本紀に明字もよめり,皆見ゆの義,日の南する時ハ万物皆明かなるをいへり,みんなみともよめり〉と説く。上古,東方へ勢力を伸長していく大和国家からみて〈南方は海見えたりしかば〉ミナミといったとする新井白石説も,太陽が南へまわったときは〈皆見ゆの義〉でミナミといったとする谷川士清説も,格別に常識からはずれた理屈づけを行っているのではない。これらはある意味で陰陽五行説に根ざしているとさえ解しうるような語源説をなすといってよいだろう。
ところが明治近代になってから,在野の知識人のあいだに〈南進論〉が唱えられるようになったが,これこそはまったく異質のミナミ観の提起であった。志賀重昂(しげたか),田口卯吉,菅沼貞風,竹越与三郎らが,政府の北進理論に反対し,西欧列強による南洋地域の植民地化に注意を向けさせ,ひろく国民を〈海の思想〉に目ざめさせようとして論陣を張った。この〈南進論〉は明治末期から大正期に入ると一転して実利的な経済主義の側面を強調するようになり,とくに第1次世界大戦後のベルサイユ講和条約によって旧ドイツ領南洋群島が日本の委任統治領に帰してより以後は,台湾とならんで南洋の諸島が日本政府の〈南進政策〉の〈拠点〉と考えられ,これが昭和期の〈圏思想〉につながる伏線の役割を果たすことになる。しかも,そのような国策レベルだけでなしに,南洋へ渡って行く移民や南洋にあこがれを抱くようになった庶民のあいだに,いつ知れず〈南洋観〉〈南進論〉のような一種の思想がつくりだされるようになっていった。これについては,戦前戦後の日本人にとって,〈南進論〉〈南洋観〉が劣等観を吹き飛ばす役割を果たし,一方また,原日本のイメージを呼び起こす役割をもになった,という矢野暢の指摘がある。
執筆者:斎藤 正二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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方角の一つ。日の出る方向(東)に向かって右手の方向で、北とは反対である。方位として十二支を分配するときは午(うま)となり、北の子(ね)と結び天頂を通過する線は子午線(しごせん)とよばれる。四季では南は夏に配せられ、月では8月が南にあたる。語源的には皆見(みなみ)、すなわち「皆の見る方向」であることは家屋の構造などからもうなずかれることである。英語の南southの語源は、太陽の見える側sunsideからきているとされている。南はそれだけで南風、南に行くこと、地名(例、大阪の盛り場ミナミなど)としても用いられる。
[根本順吉]
「聖人は南面して天下に聴く」(『易経』「繋辞上篇(けいじじょうへん)」)のことばで知られるように、中国では君主は南向きで臣下に対面したので、「南面」の語は君主の位につくことや、君主として天下を治めることをいった。古代中国の伝説上の王黄帝が発明したという指南車(周公の発明とも)が、つねに南をさし教えていたというのも、太陽が照り輝く南の方角と密接な関係があったとみてよいだろう。また、日本の寝殿造で、南に面した部屋を「みなみおもて(南面)」といって、正客を入れるところとするのも同様の考え方からであろう。これらを庶民的な生活感覚でとらえたのが「南竹藪(たけやぶ)、殿隣(とのどなり)」の諺(ことわざ)で、日当り、風通しの悪い住居をいう。
[宇田敏彦]
…イギリスの南極探検家。アイルランドのキルキーに医師の子として生まれる。…
…観測点から見た地平面の方向を方位といい,東西南北の4基点をもとに北,北北東,北東,東北東,東……など16方位で呼ぶのが一般的である。北は,観測者が太陽の昇る方向(東)に向いたとき左手に当たる方向で,英語のnorthもインド・ヨーロッパ語系のner(on the leftの意)に由来している。…
※「南」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
[名](スル)二つ以上のものが並び立つこと。「立候補者が―する」「―政権」[類語]両立・併存・同居・共存・並立・鼎立ていりつ...