飯や惣菜で手軽に食事をさせる店。飯を丼などに盛切りにしたので,一膳飯屋とも呼んだ。江戸では明暦の大火(1657)後,浅草金竜山(待乳(まつち)山)の茶店が奈良茶と銘打って,茶飯に豆腐汁,煮しめ,煮豆などを添えて売り出して評判になった。《西鶴置土産》(1693)によると,当時京坂にはまだこうした種類の便利な店は存在せず,《守貞漫稿》はこの奈良茶が日本の食店(飯屋)の元祖であろうといっている。しかし,大火後の江戸には復興事業のために大量の労働人口が地方から流入しており,そうした人々を対象として飯を売る煮売屋ができたことも考えられる。寛文(1661-73)ころから〈けんどんそば切り〉ができ,それにならった〈けんどん飯〉〈食慳貪(めしけんどん)〉は上方でも見られるようになった。〈けんどん〉は慳貪,倹飩,見頓などと書き,語源については諸説があり,山崎美成(よしなり)と滝沢馬琴が〈けんどん争い〉と呼ばれる有名な論争をしているが,〈けんどん酒〉といった用例から考えて,盛切りにしたものを,物惜しみするとか,無愛想だという意味で〈慳貪〉と称したようである。こうした飲食店が階層分化を始めるのは江戸時代後期に入ってからで,明和・安永(1764-81)ころから高級な料理茶屋が出現し,その対極としての飯屋が確認されるようになる。つまり,けんどん飯の名称をより明確にした一膳飯の名が見られるようになるのである。しかし,飯屋という最も実質的な外食施設が広く普及するのは,明治以後の近代化の中で産業構造が変化し,日常的に外食を必要とする勤労者や学生が増加し,大正中期に官営の簡易食堂がつくられ,以後大衆食堂の続出を見るようになってからのことといえる。
→飲食店
執筆者:鈴木 晋一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1630年代に、京には、路傍などで食器に飯を盛り切りにした一膳(いちぜん)飯を、庶民相手に食べさせる一膳飯屋があった。また、1657年(明暦3)の江戸大火以後に浅草で奈良茶漬(ちゃづけ)飯を食べさせる茶屋の茶漬飯屋ができた。19世紀に入ると、江戸、大坂、京で茶漬飯屋や一膳飯屋が繁盛した。旅籠(はたご)屋などでも一膳盛りという下直(げじき)な昼食を出すようになった。多く都市下層民を対象としていた。1890年代には、居酒屋と並んで、車夫、土方、小商人らを顧客とし、飯屋は一膳飯屋として下等な飲食店のこととなった。都市の盛り場や場末に多くでき、縄暖簾(のれん)、軒行灯(あんどん)に安売りの看板を下げていた。そのころの献立は丸三蕎麦(そば)、深川飯、馬肉飯、煮込み、焼きとり、田舎(いなか)団子などである。このほか細民を相手とした飯の量り売りの残飯(ざんぱん)屋もあった。1910年代に入ると、飯屋とは簡単な食事を賄う簡易食堂をさすようになった。
[遠藤元男]
『松原岩五郎著『最暗黒の東京』(1893・民友社/復刻版・1980・現代思潮社)』
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新