四天王寺(読み)してんのうじ

精選版 日本国語大辞典 「四天王寺」の意味・読み・例文・類語

してんのう‐じ シテンワウ‥【四天王寺】

大阪市天王寺区元町にある寺。和宗の総本山。もと天台宗。山号は荒陵山。聖徳太子の創建と伝えられる。日本最初の官寺。伽藍(がらん)の配置は四天王寺式といわれ、中門、塔、金堂、講堂が南北に一直線に並ぶ。「扇面法華経冊子」「七星剣」懸守(かけまもり)などの国宝を所蔵。荒陵寺(あらはかでら)。難波大寺。御津寺(三津寺)。諸国大寺。堀江寺。天王寺。

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デジタル大辞泉 「四天王寺」の意味・読み・例文・類語

してんのう‐じ〔シテンワウ‐〕【四天王寺】

大阪市天王寺区にある和宗の総本山。もと天台宗。山号は荒陵山。聖徳太子の創建と伝える。四天王寺式伽藍がらん配置をもち、承和3年(836)以降たびたび焼失、現在の伽藍は、第二次大戦後復興されたもの。寺宝に、扇面法華経冊子などがある。荒陵寺あらはかでら。御津寺。難波大寺。堀江寺。天王寺。

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日本歴史地名大系 「四天王寺」の解説

四天王寺
してんのうじ

[現在地名]天王寺区四天王寺一丁目

国鉄天王寺駅の真北約七〇〇メートル、茶臼ちやうす山の北東方にある和宗総本山。荒陵山敬田院と号し、本尊は救世観音荒陵あらはか(「新抄格勅符抄」所引の大同元年牒・「日本後紀」大同三年九月一六日条)ともいい、略して天王寺(「続日本後紀」承和四年一二月八日条)ともいう。飛鳥時代、外交・軍事上の要衝であった上町うえまち台地のほぼ中央、難波津を俯瞰する地に聖徳太子の発願により創建され、古代には北に難波なにわ(跡地は現東区)があった。南大門から熊野街道(阿部野街道)が南進し、西門付近に熊野神社が祀られていた。同社はもと大江岸おおえのきし(現東区)にあった窪津くぼつ王子で一に渡辺わたなべ王子とも称し、熊野九十九王子の第一王子であったが、のち鳥居前に移され、大正四年(一九一五)堀越ほりこし神社に合祀された。

天災・戦火で度々壊滅の危機に遭い、現諸堂宇も第二次世界大戦後の再建であるが、国道二五号に面した南大門跡から北に中門・五重塔・金堂・講堂が一直線に並び、塔・金堂を回廊で囲んだいわゆる四天王寺式伽藍配置は、創建以来動かず忠実に再現され続けてきたことが発掘調査により明らかとなっている。この中心伽藍部を敬田きようでん院といい、「四天王寺旧境内」として国史跡に指定される。寺内に広大な墓地をもち、宗派を越えた庶民の信仰を得、春秋二季の彼岸などには多数の市民が参詣する。

〔草創期〕

四天王寺の創立事情について「日本書紀」崇峻天皇即位前紀に次のような話がある。用明天皇の死後、皇位継承と崇仏論争・政権争奪に絡んで大臣蘇我馬子と大連物部守屋が鋭く対立した。馬子は諸皇子・諸氏に勧めて守屋討滅軍を起こし、厩戸皇子(聖徳太子)もこれに従った。戦闘は守屋の本拠地渋川で激しく交わされたが、守屋軍が圧倒的に強勢で馬子軍は三度退却した。このとき軍後に従っていた厩戸皇子は白膠木ぬりでを伐取って四天王像を作り、「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」と発願、馬子も諸天王・大神王に寺塔の建立と三宝の流通を誓願した。その結果、馬子方は大勝し守屋を滅ぼすことができたので摂津国に四天王寺を造立、守屋領有の奴・宅地を寺に寄進したという。しかし「日本書紀」にはこの後、推古天皇元年条にも「是歳、始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」という記事がある。この始造記事の重複は、「聖徳太子伝暦」所引の「暦録」や「上宮聖徳太子伝補闕記」のような玉造たまつくり(現天王寺区・東区)草創・荒陵移建説を展開させた。

四天王寺
してんのうじ

[現在地名]津市栄町一丁目

安濃あのう郡北部丘陵が東へ突出た先端の山裾にある寺院。曹洞宗、塔世山と号し、本尊釈迦如来坐像。かつては境内の北側に南面する薬師堂があり、薬師如来坐像を中央に、右に阿弥陀如来坐像と胎蔵界大日如来坐像、左に阿如来坐像・千手観音坐像・薬師如来坐像があった。中尊のほかはいずれも二メートルほどの大像で、平安末期の様式を示し、五体とも国宝に指定されていた。昭和二〇年(一九四五)の爆撃で消滅し、わずかに中尊の薬師如来像とその胎内納入物のみが辛うじて戦災を免れて現在の本堂脇壇に祀られている(国指定重要文化財)。寺伝は聖徳太子の建立という。境内から奈良時代に近いとみられる古瓦を出土し、四天王寺という寺名および寺の裏山の鳥居とりい古墳から、奈良時代の鍍金押出仏を出土していることなどからみて、この地方での古代仏教文化の重要拠点であったと考えられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「四天王寺」の意味・わかりやすい解説

四天王寺 (してんのうじ)

大阪市天王寺区にある寺。荒陵山と号し,荒陵(あらはか)寺,天王寺ともいう。もとは天台宗,第2次大戦後独立して和宗本山となる。

 587年物部守屋討伐のとき聖徳太子が四天王に戦勝を祈願して寺院の建立を発願し,593年(推古1)造営に着手したと伝える。1955年の調査で飛鳥~奈良時代の瓦が塔,金堂,中門周辺から出土し,草創伝承と造営の継続を裏づけた。伽藍配置は中門,塔,金堂,講堂を南北中軸線上に並べる四天王寺式として知られている。623年新羅大使献上の金塔,舎利,幡などが施入され,648年(大化4)阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)は塔内に四天王像を安置し,霊鷲山像(りようじゆせんぞう)を造り,塔内四隅には斉明天皇のために天智天皇発願で造立した大四天王像が安置された。封戸,寺領もしばしば施入され,交通の要衝であった難波の海に面し,四天王をまつることにより,京畿の西方を守護する存在とされ,律令国家と天皇の安寧を祈る官大寺として,尊崇と厚い保護をうけた。

 836年(承和3)塔への落雷,960年(天徳4)の火災をへて,律令的官寺体制の解体の進行は四天王寺に危機感をあたえた。寺僧たちは太子の霊場を主張することで,寺勢の興隆と寺領の維持拡大をはかる。1007年(寛弘4)金堂から発見された《四天王寺御手印縁起》がそれで,藤原道長の帰依と助成を期待して寺僧が偽作したものとされている。御手印縁起は聖徳太子が作成して手印を印したというもので,予言の書として世間の注目をあつめた。御手印縁起には,当寺は昔釈迦説法の地で麗水(亀の井の水)が東流し,宝塔,金堂は極楽土東門の中心で,太子の頭髪と舎利を安置すること,資財,田園はすべて四天王が摂領し,当寺への施入は太子の加護をえ,浄土への結縁であり,寺物の横領は仏法滅亡し内乱となること,四箇院(敬田院,施薬院,療病院,悲田院)の建立のことが記され,後世までの四天王寺信仰の基礎をなす。縁起の出現以後,上皇,女院,貴族や道俗男女が参詣し,寺家興隆の目的は遂げられた。

 寺内では太子をまつる聖霊院,塔,金堂,講堂,宝蔵,亀の井の巡拝,絵殿での太子絵伝の絵解き,舎利供養,六時堂念仏,西門外念仏所の念仏がコースで,法会と舞楽と念仏がはなやかに営まれた。とくに西門は極楽の東門にあたるとされ,西門外念仏所は12世紀に入って念仏の中心となった。出雲聖人の主導した百万遍念仏は,貴賤をとわず,道俗男女が一定期間参詣して念仏し,鳥羽法皇や藤原忠実・頼長らも参加した。西門外の海は極楽への道として,夕日に浄土の想いをはせる日想観(につそうかん)を修し,入水往生を遂げる聖や尼が少なくなかった。《梁塵秘抄》に往生の聖地としてうたわれ,往生伝や《今昔物語集》などの説話に,往生を願う人びとや四天王寺での往生が記される。四天王寺は念仏聖の集まる地として知られ,熊野,高野山,磯長太子廟,善光寺とともにその拠点となり,彼らによって念仏と太子信仰が各地に広められた。融通念仏をはじめた良忍や法然,親鸞,一遍など鎌倉仏教の宗祖たちの参籠も伝えられ,四天王寺の信仰をさらに増幅させることとなる。また西大寺叡尊,忍性が入寺して真言律をひろめ,寺家を修造し,非人の救済と組織化にあたった。寺の周辺には太子の霊験を求めて,体制から疎外された非人,乞食,病者,漂泊の説経師や熊野比丘尼ら下級芸能者が集まり,さまざまの奇跡が語られた。説経《信徳丸》の物語はこうした背景のうちに成立し,謡曲《弱法師(よろぼし)》や浄瑠璃《摂州合邦辻(せつしゆうがつぽうがつじ)》にひきつがれてゆく。

 御手印縁起の内乱の予言=未来記は,12世紀後半にはじまる保元・平治の乱,源平争乱のなかで深刻にうけとめられ,当寺に深く帰依した慈円は《愚管抄》に記し,《平家物語》も未来記の予言は平家の都落ちをさすと述べた。承久の乱後,後鳥羽上皇の敗北を予言した石文が境内から出現し,藤原定家は日記に書きとめている。後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐を計画したとき,天皇の勝利を予言した未来記が出て,天皇は勝利の確信をえ,1335年(建武2)御手印縁起を書写し,当寺に奉納した。また吉田定房,北畠親房,楠木正成らも未来記の予言を信じて行動した。未来記は応仁の乱のときにも出現し,内乱のたびに注目を集めた。

 南北朝の内乱以後寺域はしばしば戦場となり,1576年(天正4)織田信長により灰燼と化したが,豊臣秀吉の援助と勧進活動により1600年(慶長5)再興,15年(元和1)再度焼失,19年(元和5)天海が復興し,以来日光輪王寺の末寺となった。寺内諸堂は大坂三十三所観音霊場札所にあてられ,諸堂巡拝は三十三所巡礼と同じとされて参詣者がたえず,寺外の門前町には店が並び,芸能が演じられてにぎわった。

 1773年(安永2)伽藍大破,1801年(享和1)火災,1934年台風災害,45年戦災など,たび重なる被害をくぐりぬけ,そのつど勧進活動により復興され,太子の霊場,先祖供養の寺として信仰され,生きつづけている。寺外は繁華街として変貌したが,寺域,伽藍配置はほとんど変動せず,同じ位置に再建され,造営時の配置を知るうえで貴重な存在である。法会,行事は,正月の修正会(どやどや),太子を祖とする大工の祭りである手斧始(ちようなはじめ),4月22日太子忌日に六時堂前の石舞台で舞楽を奏する聖霊会(しようりようえ),6月30日愛染まつり,8月9日千日詣など,大阪市民の年中行事として親しまれている。とくに春秋の彼岸と8月の盂蘭盆(うらぼん)には近畿一円からの参詣者が境内を埋めつくし,経木をもち,亀の井で水を手向けて供養し,諸堂の読経と線香の煙と引導鐘の音が絶えることなく終日にぎわう。寺宝には太子所持を伝える丙子椒林剣(へいししようりんけん),七星剣(ともに飛鳥時代),平安時代後期に奉納された千手観音小像,《扇面法華経冊子》,御手印縁起原本,同後醍醐天皇宸筆本,鎌倉~室町時代の太子信仰を伝える太子絵伝,太子像・画像,太子曼荼羅,豊臣秀吉筆四天王寺造営目録などがあり,西門外の石鳥居は1294年(永仁2)忍性の再興である。
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百科事典マイペディア 「四天王寺」の意味・わかりやすい解説

四天王寺【してんのうじ】

大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山。古くは荒陵寺,難波寺等といい,天王寺とも。本尊救世観音。聖徳太子が物部守屋の乱に際し,戦勝を祈願して四天王を安置したのに始まるといわれる。593年現在の地に移し,敬田院,悲田院,施薬院,療院を置いて,太子の理想である仏教の興隆と社会救済事業に努めた。中門・五重塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ伽藍(がらん)配置は法隆寺式よりも古い形式で四天王寺式といわれる。創建以来たびたび火災にあい,第2次大戦で焼失。戦後,鉄筋コンクリートで再建された。古くから太子信仰の中心として信仰を集め,また西門は極楽の東門として落日を拝む風習が盛んであった。扇面法華経冊子,懸守(かけまもり)等多くの名品を所蔵。
→関連項目大阪[市]貝寄風画像【せん】熊野街道聖徳太子太子伝天王寺天王寺[区]中村岳陵若草伽藍跡渡辺津

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「四天王寺」の解説

四天王寺
してんのうじ

荒陵(あらはか)寺・難波(大)寺・堀江寺・天王寺とも。大阪市天王寺区にある和宗総本山。荒陵山(こうりょうざん)と号す。「日本書紀」では用明2年,蘇我馬子(うまこ)による物部氏討伐に従軍した厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)が四天王像を刻み,造寺を誓って戦勝を祈願,593年(推古元)に難波の荒陵に当寺を建立したと伝える。623年には新羅(しらぎ)から贈られた舎利(しゃり)や金塔などを納めた。この頃いわゆる四天王寺式伽藍配置が整えられた。平安時代には太子信仰の隆盛で貴族や庶民の信仰を集めた。また浄土信仰の隆盛にともなって,浄土の入口と観念されるようになり,西門から夕日を拝む行為が流行し,海に入水する者もあった。河内・摂津両国に多くの寺領をもち,たびたび罹災したが復興された。当寺には敬田院・施薬院・悲田院・療病院の4院が存在し,仏教的実践としての社会福祉事業の拠点とされ,忍性(にんしょう)も別当として入寺した。1576年(天正4)にも石山合戦の兵火をこうむったが,のち豊臣秀頼により復興された。旧境内は国史跡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「四天王寺」の意味・わかりやすい解説

四天王寺
してんのうじ

大阪市天王寺区元町にある寺院。造営は推古1 (593) 年と伝えられ,荒陵寺ともいう。主要伽藍は南北中軸線上に,南から南大門,中門,塔,金堂,講堂の順に配され,塔と金堂を包む回廊がめぐっている。この種の配置を一般に四天王寺式と呼んでいる。寺は建立後,幾度か罹災しているが,その都度ほぼ旧規に則して復興され,国宝の『扇面法華経冊子』をはじめ,長い寺史を物語る多くの寺宝が伝わる。なお大規模な発掘調査により旧規模が解明された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「四天王寺」の解説

四天王寺
してんのうじ

大阪市天王寺区元町にある寺
聖徳太子が四天王を本尊として建立。中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ四天王寺式伽藍 (がらん) 配置を持つ。当初の遺構は存在しないが,位置はもとのまま。平安末期には法皇・貴族の参詣が多く,中世以降は太子信仰により庶民に信仰された。

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デジタル大辞泉プラス 「四天王寺」の解説

四天王寺〔大阪府〕

大阪府大阪市天王寺区にある寺院。もと天台宗。和宗総本山。山号は荒陵山。6世紀末ごろ、聖徳太子の発願により、四天王像を本尊として創建されたと伝わる。現在の本尊は如意輪観音。伽藍配置は四天王寺様式。六時礼讃堂などは国の重要文化財に指定。

四天王寺〔三重県〕

三重県津市にある寺院。曹洞宗中本山。山号は塔世山。創建は不詳だが、寺伝では聖徳太子の建立としている。

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事典 日本の地域遺産 「四天王寺」の解説

四天王寺

(大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「四天王寺」の解説

四天王寺
(通称)
してんのうじ

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
四天王寺伽藍鑑
初演
宝暦7.4(大坂・大松座)

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世界大百科事典(旧版)内の四天王寺の言及

【極楽】より

…鳳凰堂は当時〈極楽いぶかしくば,宇治の御寺を敬へ〉と歌われていた。また四天王寺の西門が,難波の海を隔てて,極楽浄土の東門の中心に当たると考えられ,彼岸の中日には落日のかなたに極楽が望まれると信じられた。四天王寺の西方海上で死ぬと,直ちに極楽に往生できると思い,投身入海するものもあった。…

【寺院建築】より

…百済では公州と扶余に寺院址を残し,遺構には扶余定林寺址五重石塔,益山弥勒寺址多層石塔がある。伽藍配置は中門,塔,金堂,講堂を一直線上に置いた百済式伽藍で,日本に波及して四天王寺式伽藍と呼ばれる。定林寺址,金剛寺址,軍守里廃寺は中門と講堂を回廊で結び,金堂を囲う四天王寺式伽藍であり,弥勒寺址は回廊が金堂と講堂の中間で閉じる日本の山田寺伽藍と同形式である。…

【慈善事業】より

社会福祉【古川 孝順】
〔慈善事業の歴史〕

【日本】

[古代]
 古代における慈善事業を概観すると,まず僧尼・皇族・貴族・地方官吏・豪族など個人による慈善救済活動がある。この面では,聖徳太子の四天王寺の施薬院など四院の設置ほかの事績が想起されるが,伝説的要素が強く確かなことは不明である。その点,詳細な史料の残る奈良時代の僧行基の活動は質量ともに特筆でき,後世の慈善事業に与えた影響も大きい。…

【聖徳太子】より

…聖徳太子の称は《懐風藻》の序文(751)が初見。初め上宮(うえのみや)に住み,後に斑鳩宮(いかるがのみや)(いまの法隆寺東院の地)に移ったというが,14,15歳のころ蘇我馬子の軍に加わって物部守屋を討ち,そのとき四天王に祈念して勝利を得たので,のちに難波に四天王寺を建立したという。《日本書紀》によれば,592年(崇峻5)11月に馬子が崇峻天皇を殺すと,翌月に推古女帝(敏達天皇皇后)が即位し,翌年(推古1)4月に太子を皇太子にして万機を摂政させたというが,この時期はまだ大兄(おおえ)の制が行われており,単一の皇位継承予定者である中国的な皇太子の制がすでに存在したかどうかは疑わしく,《日本書紀》以前に太子のことを太子と記した確かな史料もほとんどない。…

【天王寺方】より

…雅楽演奏専門家(楽人,伶人,楽師などと称す)の出身系統を示す名称。大阪四天王寺所属の楽人を指す。雅楽は宮廷を中心とする伝承と,諸大寺社に擁された独自の系統があり,宮廷には平安中期ころに楽所(がくそ)が組織され,楽人は世襲された。…

【物部守屋】より

…この軍勢の前に守屋は渋河の家で敗死した。以後,物部氏は衰勢に向かったが,守屋の奴と宅の半分は新たに造営されはじめた四天王寺(荒陵(あらはか)寺)の寺奴と田荘とされた。【門脇 禎二】
[伝承]
 物部守屋はその後の仏教流通の世情のなかで,もっぱら〈仏法のあた〉とみなされた。…

※「四天王寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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