大念寺(読み)だいねんじ

精選版 日本国語大辞典 「大念寺」の意味・読み・例文・類語

だいねん‐じ【大念寺】

茨城県稲敷市江戸崎甲にある浄土宗の寺。山号は正定山。院号は知光院。天正一八年(一五九〇)創建。開山は源誉慶巖。関東十八檀林の一つ。智光院。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本歴史地名大系 「大念寺」の解説

大念寺
だいねんじ

[現在地名]河南町大ヶ塚

うめ川の西岸だいつか南東部の上山うやまにある。融通念仏宗、山号紫雲山、本尊二十五菩薩来迎図。元亨年間(一三二一―二四)本山大念仏だいねんぶつ(現平野区)中興の祖法明が開創した河内六別時の一で、石川別時と称された。この場合の別時とは別時念仏を修する念仏道場をいう。寺蔵の「紫雲山歴代録」には「石川別時講中辻本住持之事」として、大念仏道場から念仏講の講元である辻本へ、さらに寺院へと展開していった過程が詳述される。

大念寺
だいねんじ

[現在地名]大山崎町大山崎 上ノ田

天王てんのう山南東麓、宝積ほうしやく寺参道右側にある。浄土宗。見仏山と号し、本尊阿弥陀如来。知恩院二七世徳誉光然の開基。光然は弘治元年(一五五五)没。永禄元年(一五五八)五月五日の正親町天皇綸旨(大念寺文書)は光然を開山に秦(井尻)長助が檀那として建立したことを記し、勅願寺に列している。また「大念堂」と記した宸筆勅額も下賜された。江戸時代には離宮りきゆう八幡宮(現大山崎町)の社領から六石八斗余を受けている(京都御役所向大概覚書)。元治元年(一八六四)禁門の変に際し、長州藩の宣徳隊・尚義隊が宿営し、兵火に焼失した。本堂は明治一一年(一八七八)の再建。本尊木造阿弥陀如来立像は、もと法然の門弟で浄土宗西山派の開祖証空が、仁治四年(一二四三)念持仏として善峰往生よしみねおうじよう(現京都市西京区)で造立、円仁自刻と伝える真如しんによ(現京都市左京区)の本尊を模刻したもの。

大念寺
だいねんじ

[現在地名]茨木市安威三丁目

阿為あい神社の東隣にあり、浄土宗で安威山善法院と号する。本尊阿弥陀如来。中世に大織たいしよく堂と称し、宝暦一一年(一七六一)の大織堂縁起(寺蔵)によれば大織冠藤原鎌足の長男定慧の開基。鎌足は定慧の師恵隠に帰依し、彼のために一宇を建立したが、恵隠は定慧を開基として自らは第二世となったという。その後退転したが天正年間(一五七三―九二)専誉が大山崎おおやまざき(現京都府乙訓郡大山崎町)の大念寺から来住、念仏道場として中興したと伝える。なお元禄九年(一六九六)の浄土宗寺院由緒書(増上寺史料集)には、当寺は鎌足の墓所に造られたもので、古く仏閣僧坊が甍を並べていたが、定慧が鎌足の遺骸を和州多武峯とうのみね(現奈良県桜井市)に改葬したため寺坊も破壊して五宇だけとなった。

大念寺
だいねんじ

[現在地名]佐世保市早岐町

陣之内じんのうち川の右岸にある。見仏山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。天文一〇年(一五四一)肥後国宇土うと(現熊本県宇土市)城主の川尻隠岐守が開基となって創建したと伝え、開山には諦誉を招いたという(寺院明細帳)。あるいは見仏山来迎院と号し、平戸誓願せいがん寺末で、永禄元年(一五五八)諦誉による開山ともいう(蓮門精舎旧詞)。境内に元和四年(一六一八)川尻家が世話役となって角柱塔墓碑が建てられ、正面に善誉宗仙と刻まれる。元禄元年(一六八八)火災で焼失、同一〇年八世の定誉が再建。

大念寺
だいねんじ

[現在地名]福山市寺町

賢忠けんちゆう寺の西、光政こうしよう寺の北にある。かつては現在光政寺のある地域も門内であった。見仏山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。開山は済生竜天で福山城開城の時、神辺かんなべ(現深安郡神辺町)にあった大念寺の寺基を移したという。神辺にあった時、豊臣秀吉が肥前名護屋なごや(現佐賀県東松浦郡鎮西町)からの帰途、立寄って休息、中国明朝の呂紀の絵「蓮に水鳥」の対幅を与えられたといい、什宝となっている。

大念寺
だいねんじ

[現在地名]江戸崎町江戸崎

江戸崎の中央の台地にある。正定山知光院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。浄土宗関東十八檀林の一。開山は聖蓮社源誉慶巌。江戸崎城主蘆名盛重の帰依を受け、天正一八年(一五九〇)に創建された。慶長五年(一六〇〇)焼失したため、筑後国の善導ぜんどう寺に移っていた慶巌が戻り、同七年に再建された。同年に蘆名盛重が佐竹氏秋田移封に伴い所領を没収され、当寺は大檀越を失ったが、同年一一月二五日に徳川家康東条とうじよう庄内(蒲ヶ山村)に五〇石の寺領を寄進している(「徳川家康朱印状写」大念寺文書)

大念寺
だいねんじ

[現在地名]天理市苣原町小字谷脇

苣原ちしやわら町集落の中心部にある。向台山と号し、融通念仏宗。本尊阿弥陀如来。開山は良忍で、法明が中興したと伝える。本尊阿弥陀如来は平安後期の様式で、ほかに平安末期の薬師如来・不動明王などを安置する。薬師如来は近隣の須賀すが神社境内の薬師堂から明治初年の神仏分離の際に移したものという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大念寺の言及

【関東十八檀林】より

…しかし最後にできた深川霊巌寺は24年(寛永1)の開山であるので,制度としての確立はそれ以降のことである。かくして成立した十八檀林は,開山の年代順に相模鎌倉光明寺,武蔵鴻巣勝願寺(埼玉県鴻巣市),常陸瓜連常福寺(茨城県那珂郡瓜連町),江戸芝増上寺,下総飯沼弘経寺(茨城県水海道市),下総小金東漸寺(千葉県松戸市),上総生実(おゆみ)大巌寺(千葉市),武蔵川越蓮馨寺(埼玉県川越市),武蔵滝山大善寺(東京都八王子市),武蔵岩槻浄国寺(埼玉県岩槻市),常陸江戸崎大念寺(茨城県稲敷郡江戸崎町),上野館林善導寺(群馬県館林市),下総結城弘経寺(茨城県結城市),江戸本所霊山(りようぜん)寺(東京都墨田区),江戸下谷幡随院(東京都小金井市,もと台東区浅草神吉町),江戸小石川伝通院,上野新田大光院(群馬県太田市),江戸深川霊巌寺(東京都江東区)である。学問所としての檀林はやがて幕府の寺院統制下で行政の一端をにない,一,二の変動はあったが宗教行政の中心となった。…

※「大念寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android