日米安全保障条約の改定に反対して展開された、日本の戦後史上、最大の国民運動。安保闘争は1960年(60年安保闘争)と1970年(70年安保闘争)の2回に分けられる。
[荒 敬]
日米安保条約の改定に反対して1959年(昭和34)から1960年にかけて展開された国民運動。1951年9月8日サンフランシスコ講和条約とともに調印された安保条約は、「極東における国際の平和と安全」を目的として米軍の日本駐留を認めたが、アメリカが日本への防衛義務を負わない片務条約であった。当時から国民のなかには、安保条約が憲法第9条に背馳(はいち)することや世界平和や日本の安全に資するものとはならない、などの理由で反対論が存在した。
[荒 敬]
1958年9月、岸信介(のぶすけ)内閣は、外相の藤山愛一郎をアメリカに派遣して国務長官ダレスと安保条約改定交渉に入った。改定の焦点は、条約の片務性解消と事前協議制に絞られた。国民のなかからは、新条約が自衛隊の増強を義務づけていること、米軍の行動の大半が「事前協議」事項になっていないこと、条約の適用地域が限定されていないこと、また新条約が片務的関係を改め「相互防衛」条約に近づくことから事実上の軍事同盟になり、以前にも増して日本がアメリカの軍事戦略に深く組み込まれること、などを理由として反対の声が強まった。
安保反対闘争は、1958年秋の警察官職務執行法改定反対闘争(警職法反対闘争)を勝利に導いた共闘組織に基づく運動の成果を学んで組まれた。1959年3月、総評、中立労連、原水協(原水爆禁止日本協議会)、護憲連合、平和委員会、日本社会党(共産党はオブザーバー)を中心に134団体が参加する安保改定阻止国民会議が結成され、同会議は第二次世界大戦後の日本における最大規模の国民的統一行動組織として翌1960年7月までに23次に及ぶ全国的統一行動を展開した。当初「安保は重い」といわれたが、1959年8月の原水禁大会を経ると少しずつ運動は盛り上がっていった。反対闘争の最初の画期は、1960年1月に岸全権団がアメリカで条約を調印し、舞台が国会に移ってからであった。調印阻止闘争は有効に組まれなかったが、国会で「極東」の範囲、事前協議制、国会の条約修正権など新条約の危険が明らかにされると、院外でも国会請願が行われ、反対運動は活発化していった。しかも5月上旬にはアメリカのU2型偵察機が旧ソ連上空で撃墜され、同型機が厚木飛行場にも配備されていることが暴露されると、国民の安保条約に対する関心も高まっていった。
このような状況のなかで岸内閣は、1960年5月19日、衆議院安保特別委員会に続いて、同日の深夜、本会議で、野党と反主流派を除く自民党主流派だけで安保条約を強行採決するという挙に出た。政府の強行突破は、安保闘争をその広さと深まりにおいて質的に転換させ、闘争の第二の画期を形づくることになった。学生、文化人、労組員、一般市民など多くの人々が自発的にデモに参加して連日国会を取り巻くという情勢となり、運動は爆発的に広がった。総評を中心とする労働組合も6月4日と15日の両日、抗議ストに入った。6月10日には、大統領アイゼンハワー訪日の打合せのため来日した大統領秘書のハガチーが羽田空港でデモ隊に包囲され、ヘリコプターでアメリカ大使館に脱出するという事件が起こった。
一方、反対運動内部には、運動の目標や方法をめぐって意見対立があり、全体として統一した闘争とはなっていなかった。そこに6月15日の事件が起こった。「整然」たるデモに飽き足らない全学連主流派は、国会突入戦術をとっていたが、同日夜、国会構内で警官隊と衝突、混乱のなかで東大生樺美智子(かんばみちこ)が死亡した。世論は沸騰し、岸内閣は翌16日午後の閣議でアイゼンハワーの訪日延期を決定せざるをえなくなった。一方、それまで反対運動の進展に大きな役割を果たしてきた各新聞は、17日「共同宣言」を発表し、暴力を排除し議会主義を守れと訴え、運動を牽制(けんせい)し始めた。反対運動は、16日、17日に続いて、18日には空前の33万人が国会包囲デモに参加し、盛り上がっていった。19日、新安保条約は自然承認され、岸首相は翌20日引退を表明した。
[荒 敬]
安保闘争は、条約改定を阻止できなかったが、大統領アイゼンハワーの訪日を阻止し岸内閣を退陣させた。反対運動内部が統一しきれなかったため、安保闘争の評価も大きく分かれることになり、それがのちに革新陣営の分裂をもたらす一つの要因となった。安保闘争が1年半の歳月にわたって大きな国民運動として展開されたのは、安保条約がかならずしも日本の平和を保障するものではないと国民の多くが考えていたからであった。また1960年4月19日以降の運動の高揚は、政府の強行採決が多くの国民に民主主義そのものへの挑戦として受け止められたからであった。安保闘争の意義は、戦後の平和主義と民主主義とが国民のなかに根づきつつあったことを示したところにあったといえよう。
[荒 敬]
1970年(昭和45)の日米安全保障条約の改定を阻止するために展開された、おもに1969年から1970年にかけての反安保闘争。
[荒 敬]
60年安保闘争後、社共は共闘組織の指導方針をめぐって対立し、安保改定阻止国民会議は活動停止状況に陥った。地域共闘などの積み重ねと再統一の要求によって、1961年3月28日、「安保条約反対・平和と民主主義を守る国民会議」が再発足した。しかし原水爆禁止運動の分裂を契機として、1963年3月、横須賀(よこすか)・佐世保(させぼ)の米原潜寄港反対統一行動を最後にその機能は停止してしまった。
1965年2月にアメリカがベトナムで北爆を開始すると、世界各地でベトナム反戦運動が高まった。日本でも4月に市民団体の連合体として「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)が発足、反戦運動の展開のなかで、1969年までに300以上の運動体を結集し、70年安保反対運動の一翼を担った。
また1968年に全国の大学で学園紛争が拡大し、70年安保闘争の前哨(ぜんしょう)戦の様相を呈した。首相佐藤栄作をはじめ自民党主流は、60年安保反対闘争の再現を警戒した。1969年1月に東大安田講堂を占拠していた全共闘学生を排除するため機動隊が導入されるが、各大学でも学生による封鎖と機動隊による強行排除が繰り返された。この状況下で「70年安保改定阻止」が革新政党・民主平和勢力の課題として浮上した。4月28日の沖縄デーでは、沖縄の即時無条件全面返還・安保条約廃棄をスローガンに社共両党の統一行動が実現し、中央集会には13万人が参加した。
沖縄はベトナム戦争で重要な役割を担っていたが本土返還の要求を背景に、1969年5月アメリカ政府は、1972年に沖縄を返還し、沖縄の核兵器を撤去するとともに沖縄基地にも事前協議制を適用するとの方針を決定した。また、日本政府は1969年8月、大学の閉校廃校の権限を文部大臣に与える「大学の運営に関する臨時措置法」を強行採決で成立させた。これを契機に学園紛争は鎮静化した。
自民党は1969年10月、日米安保条約を「相当長期に自動継続すること」を決定した。沖縄返還を実現し、安保条約を自動延長することで70年安保改定問題の乗り切りを図った。これに対して、社共、総評ほか二百数十団体は、10月21日、沖縄返還・安保廃棄と佐藤訪米阻止をスローガンに統一行動をおこし、中央8万人、全国600か所で86万人が参加した。60年安保以来、最大規模の行動となった。また首相訪米前の11月13日には62単産(単位産業別組合)94万人が本土・沖縄で統一ストに入った。
1969年11月の日米首脳会談に基づく共同声明では「日米安保条約の堅持」を強調し、「韓国の安全は日本の安全にとって緊要」という韓国条項を盛り込み、沖縄の返還を認めるが基地の継続的保持を確認した。安保体制のなかでの日本の積極的な役割が明示されたのである。
1970年4月28日の沖縄デーには、社共などの統一行動がもたれたが、6月23日、日米安保条約は10年間の固定期間が満了し、自動延長された。政府は自衛力の整備を強調しつつ、「今後は安定的な自動継続の時代に入る」という声明を発表した。この日の安保条約廃棄をスローガンとした全国統一行動には77万人が参加した。
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1969年には60年安保以来、最大規模の統一行動と政治目標をかかげたストも行われ、運動は広がりをみせ、マスコミも「静かな盛り上がり」と評した。結果は安保条約の自動延長を阻止できず、60年に比べて共闘体制は著しく立ち遅れ、政治改革とも結びつかなかった。その点で敗北感・挫折感も深かった。激烈な学生運動は分裂し混迷を極め、社会党・総評の力量も低下していった。
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『信夫清三郎著『安保闘争史』(1961・世界書院)』▽『神田文人著「60年安保闘争の評価」(歴史学研究会他編『70年代の歴史認識と歴史学の課題』所収・1970・青木書店)』▽『大江志乃夫著「安保闘争」(『岩波講座 日本歴史22』所収・1977)』▽『日高六郎編『1960年5月19日』(岩波新書)』▽『歴史学研究会編『日本同時代史 4』(1990・青木書店)』▽『藤原彰他著『新版日本現代史』(1995・大月書店)』
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アメリカと日本との同盟関係の根幹である日米安全保障条約の改定に反対する闘争。日米安保条約は1951年(昭和26)調印,52年4月に10年ごとの検討を前提に発効したが,最初の継続期の60年安保闘争が有名。この条約は日本に再軍備を要求するものと一般にうけとられ,59年3月社会党・総評・原水協などが安保改定阻止国民会議を結成,共産党もオブザーバーとして参加。58年12月に誕生したブント系全学連も反対闘争に全力をあげた。60年に入って国会周辺はこれらの抗議デモが連日渦巻き,最大の盛り上がりをみせた6月15日の全学連の国会突入闘争の警官隊との衝突の中で,東大3年生樺(かんば)美智子が死亡した。新安保条約は6月19日参議院で自然承認されたが,予定されていたアイゼンハワー米大統領の来日は樺の死などの衝撃によって中止され,岸内閣は退陣。70年の安保再継続時にも抗議集会・デモ,ストライキなどが行われたが,その後80年と90年には反対行動はみられなくなった。
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…しかし,この時期の平和・反基地の運動は,組織が広がるにつれ,政党・労組組織による主導権争いが表面化し,無党派市民層を失望させ運動から離れさせた。 自発的な市民による政治抵抗運動が,市民運動として自覚的に展開されるのは,日米安全保障条約の改正に反対する1960年の安保闘争においてである。政党・労組・学生が主体となった〈安保改定阻止国民会議〉主催のデモの外側に,いわゆる〈一般市民〉による抗議デモの輪が広がった。…
… 1960年の新条約締結は,一方では50年代における日本の軍事力増強と経済発展,および政府による憲法9条解釈の転換(〈戦争の放棄〉の項参照)とによって,日本が〈自助と相互援助〉の条件を基本的には満たすようになったと判断されたこと,他方ではアメリカの世界戦略が同盟国の軍事力をより重視する方向で再編されたことによって実現したと考えられる。なお,基地闘争に見られるような,旧条約の不平等性への国民の批判や,1959年から60年にかけて高揚した安保闘争が,新条約に与えた複雑な影響も忘れてはならない。こうして60年の日米安全保障条約は,不完全ながら〈自助と相互援助〉に基づく相互防衛条約=軍事同盟条約となった。…
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