煎茶とは茶葉を湯で煎じて飲むこと,抹茶(挽茶(ひきちや))以外の日常に飲む茶あるいはその茶葉を総称する場合もある。茶の湯(茶道)に対して,煎茶の煎法,手前,作法を煎茶道という。
〈煎茶〉の文字の,日本における文献上の初見は《日本後紀》の815年(弘仁6)に嵯峨天皇が,近江国唐崎に行幸し,その帰路梵釈寺に立ち寄ったときの記録である。〈大僧都永忠,手自煎茶奉御(手自ら茶を煎じ奉御)……〉と記されている。しかしここに書かれた〈煎茶〉の文字が,茶葉を煎じるという意味で使われているのかどうかは不明である。というのは当時の日本の飲茶・喫茶の風習は中国唐代の喫茶趣味の影響を受けたもので,そのとき飲まれていた茶の具体的な内容は陸羽の《茶経》にくわしく述べられている。団茶あるいは餅茶と呼ばれ,蒸した茶葉を臼でつき乾燥させ,固められたものであった。飲む場合は,その団茶を火であぶり,砕いて粉にし,熱湯の中に入れて煮るというもので,塩や葱(ねぎ),薑(はじかみ),棗(なつめ),橘皮,茱萸(ぐみ),薄荷(はつか)などをも混入していた。《日本後紀》に示された〈煎茶〉は,おそらくこの唐代の団茶に等しいものであろうと考えられている。
日本の喫茶の内容は,つねに中国の変化に大きくその歩調を合わせており,平安時代は唐代の団茶の風が,鎌倉時代は宋代の抹茶の法が伝えられ,江戸時代の初めころからは明代の煎茶法がしだいに一般化し,今日に至っている。つまり煎茶は,茶の飲み方としては,もっとも新しいということになるが,明代以前の中国に煎茶法の行われていた可能性もあり,今日日本で抹茶が併飲されているように,団茶,抹茶,煎茶の時代区分を厳密に分けることは難しい。
茶の湯とは異なる喫茶趣味として,煎茶が日本で意識され始めたのは,室町時代の後期ころからで,とくに五山の僧たちのあいだにその傾向が強く見られた。茶の湯を意識し,対立的な傾向を強めるようになったのは江戸時代に入ってからのことである。後水尾天皇の第六皇子でのち天台座主にもなった尭恕(ぎようじよ)法親王(1640-95)は〈歌と茶湯は大のきらいにて〉〈一生薄茶もまいらせず,煎茶のみなり〉(《槐記》)という興味深い姿勢を貫いている。
日本の煎茶道の始祖には,売茶翁(ばいさおう)の名で親しまれている柴山元昭(のち高遊外(こうゆうがい)と称した。1675-1763)が一般に考えられている。彼は肥前国神崎郡蓮池(現,佐賀市蓮池町地区)に生まれ,11歳で同地の竜津寺(黄檗山万福寺末寺)に入り,月海と号した。同寺は栄西禅師が中国より持ち帰った茶の種を播いたといわれる脊振山を仰ぐ地にあり,また売茶翁は煎茶の招来者ともいわれる隠元を宗祖とする黄檗僧であったから,早くから煎茶に関心を寄せていたと思われるが,33歳のとき長崎に至り清人の茶を煮るのを見て学んだといわれる。売茶翁が東山に通仙亭と称する小さな茶店を設け,〈茶銭は黄金百鎰(いつ)より半文銭までは,くれ次第,ただのみも勝手,ただよりはまけもうさず〉の風流な売茶稼業を始めるようになったのは,1735年(享保20)61歳のときであった。しかし彼の売茶活動は,単なる街頭の茶売りというものではなく,新しい茶道の提唱でもあった。しかもその精神的な背景としては,《売茶翁偈語(げご)》の自題に〈盧同正流〉と書いているように,陸羽とともに喫茶を愛好したことで知られる唐代の詩人,玉川子盧同(ぎよくせんしろどう)の世界が考えられる。つまり盧同の〈茶歌〉の詩に示された仙境こそが,また彼の煎茶が究極的に求めようとする精神的世界でもあった。こうして唐代詩人の超俗的な生き方が強い影響力を発しているわけだが,それはまた唐代文化の模倣とさえいわれる日本の平安時代の貴族文化に対する憧憬とも重なっていた。中国的な文人趣味と王朝貴族の風雅との二重性格をもった日本の煎茶の世界は,こうした背景をもって誕生したのである。
煎茶の飲用,または趣味としての楽しみは,高遊外売茶翁が〈煎茶〉を主唱する以前から,とりわけ長崎などの地で盛んだったが,文雅の色彩と道としての求道性を付与した点では,彼を最初の人として考えてよい。亀田窮楽,彭城百川(さかきひやくせん),伊藤若冲,曾我蕭白,池大雅といった京洛の文人雅客や木村蒹葭堂(けんかどう)など大坂の文人などが,売茶翁の煎茶に関心を寄せ愛好するにいたり,京都を中心に煎茶道,煎茶趣味の流行は,いっそう確かなものとなっていった。
江戸中期,大坂出身で,一時京都の鳴滝,泉谷に隠棲した大枝流芳(生没年未詳)は,風流風雅に生きた人物で,香道や花道にもくわしく〈風流の好事家〉とさえ評されたが,彼は日本最初のまとまった煎茶書ともいうべき《青湾茶話(せいわんさわ)》(1756刊,のち《煎茶仕用集》と改名)を残している。中国の茶書を渉猟しての,文人趣味的な内容のものであるが,売茶翁の風流を継ぐものとされ,このころから茶の湯の世界を意識し,煎茶の独自性,存在を主張する行動が目だちはじめている。
そうした傾向をいっそう推し進めたのが江戸後期の国学者・歌人・小説家の上田秋成である。秋成は,医業を都賀庭鐘について学んでいるが,煎茶の技も同時に習ったものと思われる。木村蒹葭堂とも親しく,間接的に売茶翁の煎茶に触れる機会も多かった。秋成が煎茶への傾斜をさらに深めたのは,京都移住後で,1794年(寛政6)に有名な煎茶書《清風瑣言》を刊行している。秋成が住んだ知恩院前袋町の家の向いには,詩文や書画にも巧みであった儒者の村瀬栲亭(むらせこうてい)がいた。四条派の祖となった画家・俳人として知られる松村月渓(呉春),歌人の小沢蘆庵,さらに風雅のパトロン的立場にあった京都の豪商で画,連歌をよくした世継寂窓(よつぎじやくそう)などが秋成とともに煎茶を楽しんでいたのである。岡崎に居然亭と呼ばれる広大な別荘を持っていた世継寂窓は,また相国寺の大典禅師(1719-1801)の寿像を描いたことでも知られているが,大典禅師は売茶翁高遊外とも交遊があり,《売茶翁伝》は翁を知る人の書いた伝記として貴重なものである。はじめ売茶翁が意図した〈詩賦若(も)しくは譜を造りて,茶を賞する〉という文雅な煎茶は,こうしてまずその根を秋成らを中心とする京洛の文人たちの地に伸ばしていった。なかでも秋成の煎茶は〈文雅養成の技事〉といった側面を強めていった。彼の国学的教養と,公卿文人サロンへの出入りなどによって影響された王朝趣味的な色彩と美意識が加わることによって,売茶翁の煎茶に見られた禅的な雰囲気とは異なった,文人的色彩の濃厚なものへとなっていった。煎茶がさらに茶の湯批判,抹茶攻撃の姿勢を強く打ち出すようになるのもこのころからである。
これ以後幕末・明治へと煎茶はいっそう流行の波を高めることになるが,それを助けたものに当時同じく流行した文房清玩趣味があげられる。硯,墨,筆,紙などの文房具や奇石,盆栽,花,銅器などの鑑賞を楽しむもので,花を挿し,煎茶を喫し,文房の名品を鑑賞するといった,超俗的な生活スタイルが,とりわけ文人たちの間で愛好されるにいたった。後世の煎茶席の飾りに文房具が主要な役割を果たすにいたる起因はここにある。
文化・文政期(1804-30)から幕末にかけて,煎茶の世界はきらびやかな人材に彩られる。田能村竹田,頼山陽,青木木米,小石玄瑞,中津正行寺の僧雲華,岡田半江などなど枚挙にいとまがないほどで,逆にいえば,当時の文人墨客で煎茶趣味をもたなかった者はほとんどいないといってもよいほどであった。その地域もほぼ全国に広がったが,なかでも長崎,熊本,福岡などの九州を起点として,瀬戸内航路の沿岸諸地域に広く流行した。長崎では木下逸雲や釧雲泉(くしろうんせん)らの画家が煎茶愛好家としてよく知られているが,とくに雲泉は煎茶具を担っての漂泊の旅にその生涯を終えた。江戸の文人たちに煎茶の楽しさを教えた最初の人物とも考えられる。大窪詩仏,亀田鵬斎,柏木如亭らが,雲泉の煎茶交遊の仲間であった。さらに各地に売茶翁の2世,3世を自称する者も多く現れ,なかでも有名なのが〈八橋売茶〉の名で知られる笠原方巌(1760-1828)である。在原業平の故地三河国八橋の無量寿寺を再興,その住職となって終えるが,その間煎茶の普及につとめた。
こうした煎茶隆盛を背景に現れたのが,独立した煎茶家,いわゆる煎茶道家元の誕生である。大坂で醸造業を営み,のち売茶翁の風雅にあこがれ,煎茶家として独立したのが田中鶴翁(1782-1848。花月菴鶴翁と号した)である。青年のころから煎茶をたしなみ,1818-29年黄檗僧聞中に師事して禅学と茶道を修めた。家に売茶翁の像を安置し,〈売茶忌〉(毎月16日)を営み,また3月6日には〈陸羽忌〉を設け,手製の新茶を供して,煎茶の二祖に感謝した。32年には,茶具を携えて江戸へ行き,綾瀬川で舟上の煎茶会を催したが,この席には平田篤胤や谷文晁ら江戸の文人墨客が多数集まった。中国西湖の水を取り寄せ,淀川に流して茶を煮たというエピソードもある。38年一条忠香の召を受け,その庭前で煎茶を献じ,のち〈煎茶家元〉の染筆を下賜された。
これとほぼ同じころ,京都の御典医小川可進(1786-1855)も,煎茶家として独立し活躍した。名は弘宜。後楽とも号した。可進が煎茶界に画期をもたらしたのは,医家としての科学的・合理的な眼で,茶そのものをもう一度見直し,茶に即した煎法と手前を新しく創案し,造意(このみ)の茶具を定めたことにある。彼は晩年《喫茶弁》の書を成したが,その冒頭には〈我が煎茶は,陰陽昇降火水風の理を原(もと)として,烹(に)るに法あり,式なし。其の式,其の法中にあり。所謂,物有れば則(のり)ありと。法は則なり,則は是れ式なり〉と書かれており,彼の煎茶の哲理が述べられている。気候・気象条件の変化と茶味のかかわり方,地下の水勢と茶味の関係などに注意深い観察を行うなど,近世後期に台頭した合理思想に即し,最上の茶味を得るための工夫をし,〈煎茶の法有る,実に翁を以て嚆矢(こうし)と為す〉と評された。
煎茶が,中国的な文人趣味の一方で,王朝的な風雅の世界にも,強い関心を示していたことは先に述べたとおりだが,可進の御典医であったという立場は,その傾向をいっそう強める結果になった。幕末の政争激しい時代,その渦中にあった鷹司政通(1789-1868),近衛忠凞や先の一条忠香らはともに知られた煎茶愛好の公卿文人たちであった。〈技絶妙〉と評された可進の煎茶の支援者でもあった。江戸の幕藩体制と茶の湯との癒着が長かっただけに,明治維新の大変革によって社会体制が一転するや,茶の湯と煎茶もその居所を変え,茶といえば煎茶を指すほどの大流行となった。
長く煎茶は文人の余技として楽しまれていたため,流派が意識され,またそれが形成されるにいたったのは江戸時代も後期の,田中鶴翁,小川可進以後のことである。売茶翁は,晩年多年愛用の煎茶器を,ことごとく火中に投じ〈仙窠焼却の語〉を残したが,それは流派や道統の形成を拒否したものと受け取られている。日本の煎茶界の始祖的立場の売茶翁のこうした姿勢は,また茶の湯と等しい家元,流派の誕生をさまたげた。もっとも笠原方巌や梅樹軒売茶東牛のように売茶翁の2代目,3代目を自称するものもいた。売茶翁と親しかった大典禅師を2世,その煎茶仲間の聞中禅師を3世とし,みずからを高遊外翁3世の伝統を継ぐとしたのが田中鶴翁であり,初めて家元を称し花月菴流を開き今日5代目に至っている。小川可進は,初めとくに流派を名乗ることはなかったが,その独自な煎茶技法が評判を得,洛中に可進流の名で知られるにいたった。小川流として家元の体制ができたのは2代其楽翁の代からで,今日6代目に至っている。近代以前に成立した煎茶の家元は,花月菴流,小川流の2流で,のち八橋売茶の流れをくむ売茶流が誕生した。花月菴流,売茶流から現代に至るまで多数の分派が誕生,今日家元の数はおもなもので30流近くに及んでいる。
煎茶,玉露,番茶,香煎などを,客前で手際よく,見た目に楽しくいれ,しかも最上の味覚を得るように配慮された手順のことで,手前のための手前にならないことが強調されている。茶味を重視する立場から,その日常生活への応用面には高いものがある。沸騰した湯に茶葉を投じる方法を煎茶法,また茶葉に湯を投じる方法を淹茶(えんちや)法と区別することがある。一般の煎茶,番茶は煎茶法で,また上級煎茶や玉露茶は淹茶法でいれるのが一般である。真夏には冷淹手前,真冬にはほうじ番茶手前と,季節に即した茶の楽しみ方の変化も,煎茶手前独自のものである。
随所で茶を煎(に)る自在の茶が煎茶の本領というわけで,一般に煎茶器は持ち運びに便利な小型のものが多い。上級煎茶や玉露は,ごく少量の茶汁を喫するもので,茶器もそれにふさわしい小さなものを用いる。以下主要なものを列挙する。(1)涼炉 煎茶の道具の中でも最も個性的な形態のもので活火を得るために用いる。白泥,朱泥の円筒形が多く前面に風門がある。炉頭部の形によって一文字炉,三峰炉などと呼び分けられる。(2)湯瓶 ボーフラとも呼ばれ,涼炉の上に掛け,熟湯を得る。白泥の素焼のものを最上とする。(3)茶瓶 茶器の中で最も重要視されており,古来もっとも珍重されているのは中国宜興窯の朱泥・紫泥製のものである。急須,茶銚とも呼ばれる。(4)茶碗 猪口のように小型のものを用いる。口縁の反り返った端反(はたぞり),反り返りのない盌の2型に大別され,古染付を最上とし,白磁,赤絵,金襴手,黄釉などが好まれている。(5)茶托 茶碗を載せる台。古スズのものを最上とする。形は円式が一般だが,他に木瓜式,一葉式等造形の変化は多い。(6)茶壺,茶則 数回分の茶葉を納め,小出しに使用する。茶壺から茶葉を量り,茶瓶に入れる場合は茶則を用いる。茶壺にはスズ製,陶磁器製,木・竹製などがあり,形は壺式が普通だが,四角,六角,輪花,木瓜,楕円などもある。茶則は竹製が多く,他に木製,象牙製,金属製などがある。(7)水注,水指 茶器の洗浄や補給用の水を入れておく。水注には宝珠形,仙盞瓶形や提梁式のものなどがあり,材質も陶磁器,スズ,黄銅製などとさまざまである。このほかに茶盆,茶具敷,蓋置,炉屛,棚をはじめ道具の持ち運びに使用し,かつ手前座でも用いる器局や提籃など大小さまざまな煎茶具がある。流儀によって用いる茶器や名称も異なる。
執筆者:小川 後楽
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
喫茶法の一つ。中国明(みん)代の文人趣味に始まり、江戸初期に日本に伝えられて、文人墨客の間に広まり、売茶翁(ばいさおう)(1675―1763)の出現によって一つの方向を示され、いわゆる煎茶文化を形成し、しだいに一般にも広まり、茶の湯とともに茶道文化として現代まで受け継がれてきたものである。
[森本信光]
喫茶法はその製法とともに、長い歴史の間に変化している。中国の宋(そう)代には、茶の葉を粉にして湯に溶いて飲む抹茶法が中心であり、明代には、茶葉を煎じて汁だけを飲む煎茶法が中心となっていた。栄西(えいさい)が伝えたのは宋代の抹茶法で、のちに茶の湯を生み、茶道文化を形成した。明代の文人たちは、香り高い煎茶を味わいつつ詩文を語り、学問を語り、文房具などの美術工芸品を賞し、ときには絵筆を持つという風雅の世界を形成していた。これを文人趣味、煎茶趣味とよぶ。この趣味が、新しい喫茶法である煎茶法とともに日本に伝えられ、文人たちの間に流行したのであるが、単なる新しい喫茶法というだけでなく、中国の文人たちの愛した趣味の世界として、新しい文化として受け入れたのである。また、文人たちは、当時の教養として茶の湯を学び修得していたと思われるが、その形式至上に偏りがちな世界に比べ、比較的自由な世界である煎茶趣味に興味を移したようでもある。
[森本信光]
この煎茶趣味の伝来について、いつ、だれがという明確なことはわからないが、江戸初期に伝えられたことは間違いないと思われる。江戸初期、中国文化の移入に大きな影響を及ぼしたのは、黄檗(おうばく)僧の渡来であり、煎茶趣味の伝来とも浅からぬ関係にあると思われる。明末の高僧隠元(いんげん)が、日本からの招きに応じて1654年(承応3)来朝し、朝廷、幕府の尊信を受け、京都宇治に黄檗山万福寺(まんぷくじ)を建立して禅の高揚に尽くした。隠元は多くの門人、文化人を伴っての来朝であり、その後も中国との往来が許されていたことから、文化の移入にも大きな役割を果たし、その文化は黄檗文化として江戸文化に大きく影響した。黄檗文化と煎茶趣味は中国的趣味のうえからも深い関係にあり、現在に至っても黄檗山と煎茶は密接な関係にある。
[森本信光]
煎茶の世界に一つの方向づけをした売茶翁は、黄檗宗の僧で、僧名を月海元昭(げんしょう)という。九州佐賀の人で、晩年京都に出て売茶を業とし、高遊外と称して茶三昧(ざんまい)の世界に入った。その豊かな教養と人格は世の文人墨客たちの慕うところとなり、のちに煎茶道の成立をみたとき、その精神的中心として崇(あが)められるようになった。売茶翁の出現によって一つの方向を示された煎茶の世界は、文人たちを中心に発展し、江戸末期から明治にかけては茶道文化の中心となり、美術工芸の世界にも大きな影響を及ぼし、明治から大正、昭和とやや衰微したものの着実に受け継がれた。昭和初期の復興の動きは第二次世界大戦で中断されたが、戦後は煎茶道として着実な発展を続けている。
[森本信光]
煎茶の歴史のなかで、茶そのものが変化していることを知らねばならない。伝来当初の茶の品質はあまり高いものとはいえないものであったが、宇治田原の永谷宗円(ながたにそうえん)(1681―1778)が、茶の葉を蒸して揉捻(じゅうねん)しつつ乾燥する煎茶を発明したことから、茶そのものが大きく変わり、煎茶趣味の普及とともに、日本人の喫茶の風習の普及にも大きな影響を及ぼしたのである。江戸時代末期に玉露が生まれると、その味と香りは高く評価され、煎茶の世界の中心となり、喫茶の手法にも大きな変化がみられる。高温の湯を用いる煎茶に対して、低温の湯を用いる玉露の手法が生まれたのである。今日、煎茶道といわれるが、そこで用いられるのは、煎茶よりも玉露が中心となっている。
[森本信光]
煎茶の歴史に登場する人物としては、売茶翁の時代以後の文人たちということになる。売茶翁とも親交のあった人としては、『茶経詳説(ちゃきょうしょうせつ)』の著者で相国寺の大典(だいてん)、黄檗僧聞中(もんちゅう)、南画家池大雅(いけのたいが)がいる。初の煎茶書というべき『青湾茶話(せいわんさわ)』(後の煎茶仕用集)を著した大枝流芳(おおえだりゅうほう)もいる。その後、『雨月物語』で知られる上田秋成(あきなり)、村瀬栲亭(こうてい)、木村蒹葭堂(けんかどう)などが知られる。秋成は『清風瑣言(せいふうさげん)』を世に出し、煎茶の流行に多大の影響を及ぼしている。田能村竹田(たのむらちくでん)、頼山陽(らいさんよう)、青木木米(もくべい)、八橋(やつはし)売茶翁、東牛(とうぎゅう)売茶、深田百信(ひゃくしん)、山本竹雲(ちくうん)、田能村直入(ちょくにゅう)、富岡鉄斎など煎茶人として知られる人は多く、江戸中期以後の文人たちのほとんどが煎茶の世界の人といってもよい。
[森本信光]
文人たちの育てた煎茶の世界では、一定の形式礼法にとらわれることはなかったが、一般への普及に伴い、自然発生的に形式礼法も生まれ、一方では宗匠派とよばれる煎茶家によって、茶の湯の影響を受けつつ形式礼法が生み出されるようになった。しかし、文人たちの世界であり、形式至上の世界でなく、あくまでも自由な表現が許される世界ではあった。形式的には茶の湯の影響を受けたために、現在、外見的には類似の部分も少なくはないが、茶道文化としての中心は売茶翁の精神的世界であり、文人たちの残した風雅の世界であって、おのずから異質のものといえる。
[森本信光]
形式の生まれたことから、流儀が生まれることとなる。江戸末期には宗匠派とよばれる煎茶家によって流儀が生まれるが、煎茶の世界は文人を中心とした世界であった。明治に入っても文人中心であったが、やがて文人たちの間にもグループが生まれ、流儀を生み出すことになる。流儀としての活動は、大正、昭和に入って盛んになったようである。現在多数の流派が活動しているが、1956年(昭和31)に全国の有力流派が参加して全日本煎茶道連盟が結成され、66年に社団法人となり、唯一の全国組織として活動しており、現在38流が加盟、京都宇治の黄檗山万福寺に本部がある。
[森本信光]
煎茶道では、一定の茶室という形式はなく、室内、屋外に自由に席が開かれる。茶会の規模にもよるが、茶席以外に展観席などが設けられることがあり、書画、文房具、茶具などの展観が行われることもある。茶席の床を飾るのは、明清(みんしん)の書画、日本の文人の書画、黄檗の書画などが中心となる。席飾りとして、器物、果物などを一定の雅題にあわせて組み合わせる盛物(もりもの)飾りも行われる。大茶会などは別として、普通には5人の客とし、5人分が出されることになる。2回または3回供されるのが普通である。主人と客の作法については、形式的な部分は少ない。
[森本信光]
煎茶の道具は、伝来当初は中国からの輸入品によったが、しだいに国内でもつくられるようになり、用いられる茶葉の変化によっても茶具の変化がみられる。中国趣味でもある煎茶の世界で、いわゆる唐物(からもの)が珍重されるが、朱泥の茶銚(ちゃちょう)、茶心壺(ちゃしんこ)、古染付(こそめつけ)の茶碗(ちゃわん)など多くの名品が残されている。国内のものでも、木米(もくべい)、道八(どうはち)など多くの作家によって名品が残されている。煎茶具は、品質が優れているだけでなく、清潔で機能的に優れていることが必要である。
煎茶道では、玉露、煎茶、番茶などが用いられ、おのおのに適した扱いを修得し、主客ともに楽しむものである。日本の日常の喫茶にも大きな影響を及ぼし、日常でも大いに応用されるべきものである。
[森本信光]
『講談社編・刊『図説 煎茶』Ⅲ(1982)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…近年知られるようになった深蒸し茶の場合は,一般の煎茶よりも長く蒸してあるため,熱い湯でもおいしく飲むことができる。なお,茶道の流派の中には,抹茶ではなく煎茶を用いるものがあり,それらは煎茶または煎茶道と呼ばれている。緑茶【松下 智】。…
※「煎茶道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加