能の分類名。〈現在能〉と対立して能を二大別する。能を代表する形式で,初番目物の大半,二番目物のほとんどすべて,三番目物の多く,四番目物・五番目物の一部が夢幻能形式をとる。典型的夢幻能とは次のようなものである。(1)超現実的存在の主人公(シテ。神,男女の霊,鬼畜の霊,物の精など)が,名所を訪れた旅人(ワキ。僧侶や勅使など)に,その地にまつわる物語や身の上を語るという筋立てをもつ。(2)前後二場に分かれ,同一人物が前場(まえば)は現実の人間の姿(化身)で,後場(のちば)はありし日の姿や霊の姿(本体)で登場する。ただし,《清経》《経正》《西行桜》のような,本体のみ登場する一場物の夢幻能も若干ある。(3)脚本は,ワキ登場--シテ登場--ワキ・シテ応対--シテの物語--シテの中入(なかいり)の五段構成を前場にとり,後場もこれに準じる。構成の頂点は,前場のシテの物語と後場のシテの仕事(過去の仕方話的再現や舞事(まいごと))である。(4)シテの演技が中心になるように作られている(主役独演主義,シテ中心主義と称する)。つまり,ワキはシテの対立者ではなく,シテの演技を引き出すのがおもな役割である。〈夢幻能〉の名称は,全体がワキの見た夢や幻想だと考えられる(曲中に夢であると明示する場合も少なくない)ことから付けられた。なお,夢幻能と現在能の中間的性格をもつ作品もある。そのうち,ほぼ夢幻能に準じる《葵上(あおいのうえ)》《昭君(しようくん)》《道成寺》等を準夢幻能,《恋重荷(こいのおもに)》《砧(きぬた)》《舟弁慶》のように前半が現在能的で後半が夢幻能的な作品を現在=夢幻能と称することもあるが,作品によって性格が一様でないため,分類は困難である。また,鬼退治の能や霊験能は,超現実的存在がシテではあるが,全体の筋立てからみて現在能に分類するのが通例である。
観阿弥(1333-84)時代にはまだ夢幻能は成立していなかったらしいが,現実の場に神や鬼や霊の本体が出現する作はあり,そうした形態から夢幻能が形成されたと推定されている。夢幻能の成立事情に関しては,さまざまな角度からの考察がある。たとえば,憑物(つきもの)の形で過去の人物を描く形態が先行し,やがて過去の人物そのものを登場させるようになったとの説(前場の化身と後場の本体は,憑かれる者と憑く者を分離させたところに生じたとの見解もある),罪障懺悔(ざいしようさんげ)のために過去を語り演じるような形態が徐々に宗教色を薄めて,夢幻能の特徴である過去再現の構想が完成したとする説などである。また,延年小風流(えんねんしようふりゆう)の神霊影向(ようごう)形式や,現世で合戦に従った者の亡霊が死後の苦しみを訴える説話類が,それぞれ脇能と修羅能(修羅物)の成立に影響を与えたともいわれる。
作劇法の面から見た場合,歌舞的統一体として能を完成させるために考案されたのが夢幻能形式だったと考えられる。その考案者は明確でないが,多くの優れた夢幻能を制作して様式を完成させたのは世阿弥である。世阿弥は,夢幻能の作劇法を理論化した著書《三道(さんどう)》(1423)で,能の構成を序一段・破三段・急一段の序破急五段としたうえで,各段の演技内容や音曲の基準を示し,さらに一曲の本説(ほんぜつ)(中心的典拠。一曲の物語的内容でもある)を音楽的にも面白く表現する聞かせどころ(開聞(かいもん))を破の部分に,シテの舞や働(はたらき)による見せどころ(開眼(かいげん))を急の部分に配置せよと述べている。ここから,舞歌を中心とした一定の音楽的様式の中に物語的内容を盛り込もうとする意図が読み取れる。舞歌に縁ある人物を主人公にせよと同書で力説するのも,その人物の物語が必然的に舞歌と結びつくからにほかならない。結局,夢幻能は音楽的・舞踊的であると同時に,物語的・劇的であることを追求した結果生み出された能独特の劇形態であったといえよう。なお,世阿弥の代表的夢幻能には次のような諸曲がある(改作も含む)。初番目物《高砂》《弓八幡(ゆみやわた)》《老松(おいまつ)》《箱崎》《鵜羽(うのは)》(末2曲の女体神能は廃曲),二番目物《実盛》《忠度》《頼政》《敦盛》,三番目物《井筒》《檜垣(ひがき)》《江口》《松風》,四番目物《通小町(かよいこまち)》《舟橋》,五番目物《鵺(ぬえ)》《野守(のもり)》《山姥(やまんば)》《融(とおる)》。
いずれも定型的脚本様式を踏まえながら,素材や主題に応じた変化がみられ,主題,文辞ともに完成度の高い傑作ぞろいである。
世阿弥以降も夢幻能は能作の中心,または基本であった。世阿弥の子息観世元雅(もとまさ)作の夢幻能は,彼が早世したこともあって《吉野琴》(廃曲)1曲しか確認できないが,女婿にあたる金春(こんぱる)禅竹には《定家(ていか)》《芭蕉》《玉葛》などがあり,花やかさを押さえた寂寥(せきりよう)感の漂う作風を特色とする。作者不明の《野宮(ののみや)》《東北(とうぼく)》《三輪》など,今日上演頻度の高い女能も世阿弥以後の作のようである。初番目物では,観世信光作《九世戸(くせのと)》や金春禅鳳(ぜんぽう)作《嵐山(あらしやま)》,観世長俊(ながとし)作《江野島》といった,世阿弥作とは異なる風流性の強い能が室町後期を中心に作られた。また,夢幻能の作劇法は現在能にも応用された。世阿弥が完成した物狂能は歌舞能という点で夢幻能と共通するが,世阿弥以後になると,物狂能以外にも舞歌を基本とする現在能(《熊野(ゆや)》《楊貴妃》等)が制作されたことが指摘されている。ところで,夢幻能は様式的完成度が高かっただけに固定化しやすく,形式のみ踏まえた安易な作を生む危険性や,自由な構成や構想を生み出しにくい面があった。能作の真の発展が室町後期以後ほぼ止まった原因の一端はここにあろう。
対立する人物の葛藤(かつとう)を軸として展開する劇(現在能は多少なりともこうした手法をとる)に対して,夢幻能は舞台上に対立者のいないシテ1人の劇であり,祝言を目的とした初番目物を除くほとんどが,回想的語りを通じて描かれる内面劇である。すなわち,過去の出来事を回想することによって主人公の内面が動かされ,その思いがさらに過去を呼び起こすというように,過去と現在が自由に交錯しつつ,そこに生起する心の動きそのものが劇となっているのである。近年,劇としての能を見直す動きが高まり,能の作劇法と演技はヨーロッパや日本の現代演劇に多くの刺激や影響を与えてきた。その中心となったのが夢幻能であり,とりわけ,〈意識の流れ〉を顕在化する手法は,内外で高い評価を受けている。
→現在能 →能
執筆者:小田 幸子
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…仮面が人間を使うのではなく,人間が意識的に仮面を使うのだ。その意味で,世阿弥が完成したいわゆる複式夢幻能は,仮面による憑依・変身の手続きと成果を,劇作術の仕組みそのものに置きかえたものだともいえる。 ともあれ,ルネサンス以降の西洋世界では,仮面(マスク)はいかがわしい虚偽の外見であり,真実はその下に隠されているという思想が定着していたから,逆に外に現れたものは徹底的に真実に似ていなければならなかった。…
…本格的な鬘物の作品として,《井筒》《野宮(ののみや)》《半蔀(はじとみ)》《夕顔》《松風》《江口》などがあげられる。これらの作品には戯曲的な筋らしい筋はないが,昔の姿で旅人(ワキ)の前に現れた美女の霊が生前のことを語り,往時をしのんで舞を舞うという形をとり,〈夢幻能〉の典型でもある。女姿の草木の精などが主人公となる夢幻能には《杜若(かきつばた)》《芭蕉》《藤》《胡蝶》などがある。…
…舞台的面白さに主眼を置く風流能に対し,人間の心理・葛藤・対立を中心に描いた能を指す。〈夢幻能〉に対する〈現在能〉を〈劇能〉と称したこともあったが,夢幻能=非劇,現在能=劇という図式が成り立つわけではない。複数の人間が対立しつつ展開する一般的な劇の概念からは外れるものの,ある人物の内面をその人自身が語るという意味で,夢幻能も〈劇〉に含むことができる。…
…能の分類名。〈夢幻能〉と対立して能を二大別する。夢幻能の典型が霊的存在(男女の霊,草木の精など)を主人公として過去を回想する形をとるのに対し,〈現在能〉は現実世界のできごとを描く。…
…《高砂》《弓八幡》《老松》《養老》《忠度》《敦盛》《頼政》《実盛》《清経》《井筒》《江口》《檜垣》《西行桜》《班女》《桜川》《花筐(はながたみ)》《蘆刈》《春栄(しゆんねい)》《錦木》《砧(きぬた)》《恋重荷(こいのおもに)》《蟻通(ありどおし)》《融(とおる)》《野守(のもり)》《鵺(ぬえ)》などが代表作で,現在も盛んに演じられている。世阿弥作の能の多くは,《伊勢物語》《平家物語》などから舞歌にふさわしい人体を主役に選び,序破急五段の構成を基本とする夢幻能の形態をとったシテ中心の曲である。古歌や古文を巧みに応用し,和歌的修辞や連歌的展開で彩った流麗な謡曲文は,抒情と叙事の適度の配合やイメージの統一とあいまって,見事な詩劇を創造している。…
…観阿弥は南北朝末に死ぬが,その子である後の世阿弥(ぜあみ)は,父に劣らぬ才能をもち,能をいっそう高度な舞台芸術に育てた。とくに夢幻能という様式を完全な形に練り上げたことと,能の道の理論的裏付けとしての約20種の著述を残したことは不滅の功績である。近江猿楽には犬王(いぬおう)(後の道阿弥)という幽玄風の名手が出たが,後継者に恵まれず,室町中期から急速に衰えた。…
※「夢幻能」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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