墳丘の一部に稲荷の小祠をまつることなどを理由として,稲荷山とよんでいる古墳が各地にある。とくに打越(うちこし)(熊本県),鴨(滋賀県),埼玉(さきたま)(埼玉県),白石(しろいし)(群馬県)などの稲荷山古墳は有名である。
熊本市北区打越町にある6世紀後半の装飾古墳。坪井川の谷に臨む京町台地の北東端に位置し,熊本県立清水が丘学園の裏手にある。径約30mの円墳で,南面に開口する横穴式石室をもつ。石室は辺長2.9mの正方形に近い玄室に,長さ2.8m,幅0.8mの細長い羨道を付設した構造をもつ。玄室の奥壁に板状の自然石を組み立てた石屋形(いしやかた)があり,その前方左右に2区の屍床を設けている。1948年の調査により,鏡,玉類,金環,刀,矛,鏃,馬具,須恵器,土師器(はじき)など,多数の副葬品を検出した。石屋形および左右の屍床の石材には,赤・青・白の3色で描いた同心円と連続三角形文の装飾があったが,現在では彩色は鮮明でない。
滋賀県高島市鴨にある6世紀前半の前方後円墳。琵琶湖西岸の沖積平野に位置し,南面する墳丘の全長は約50m,もと周濠をめぐらした跡がある。凝灰岩製の家形石棺を収めた横穴式石室の一部が後円部に残存するが,当初の規模は推定しかねる。1902年に石棺を開いて,棺内から金銅製の冠・履・魚佩,金製耳飾,鏡,玉類,環頭大刀,鹿角装大刀,斧,刀子などをとりだし,棺外から馬具,須恵器などを検出した。
群馬県藤岡市白石にある5世紀前半の前方後円墳。鮎川に面した洪積台地の縁辺に位置し,前方部を南西に向ける。全長140m,後円部径90m,前方部幅62m。葺石(ふきいし)および円筒埴輪列をめぐらし,後円頂部に家形埴輪および短甲形埴輪を据えていた。1933年の調査により,後円部から東西に並ぶ礫床2個を検出した。東棺内には石枕,鏡,玉類などのほか,石製模造品の案・杵・坩・箕・鎌・刀子・剣があり,西棺内には石枕,鏡,玉類,刀,銅製刀子把,櫛などのほか,石製模造品の案・杵・坩・屐(あしだ)・釧(くしろ)・刀子・剣・勾玉があった。両棺とも石製模造品の種類に富み,その量の多いことを特徴とする。
埼玉県行田市埼玉にある埼玉古墳群中の1基で,6世紀前半の前方後円墳である。現状は南面した前方部を失っているが,もと全長120m,後円部径62m,前方部幅74mほどあり,二重の周濠をめぐらしていた。1968年の調査によって,後円部から礫床と粘土床との二つの埋葬施設を検出した。そのうち礫床の副葬品には,有名な辛亥銘を金象嵌した鉄剣のほか,鏡,勾玉,銀環,金銅帯金具,刀剣,矛,鏃,斧,鉇(やりがんな),刀子,鉗(かなはし),挂甲(けいこう),馬具,環鈴,砥石などがあり,すべて国宝の指定を受けている。
執筆者:小林 行雄
河原石を用いた全長5.7m,最大幅1.2mの舟形礫床にあった遺体の左脚外側に置かれていた全長73.5cmの鉄剣の表裏に115文字の金象嵌銘文の刻まれていることが,1978年奈良・元興寺文化財研究所における保存処理作業の過程で,X線透過撮影によって判明した。
前半には上祖オホヒコ(意冨比垝)からこの銘文の主人公であるヲワケ(乎居)に至る8代の系譜が記され,後半には今まで代々〈杖刀人の首〉(親衛隊の長)として仕えてきたが,ワカタケル(加多支鹵)大王の朝廷(寺)がシキ(斯鬼)宮にあるとき,ヲワケがその統治を助けた記念として,この刀を作り来歴を記した旨が刻まれている。ワカタケル大王を大泊瀬幼武天皇(《宋書》倭国伝にみえる倭王武で,雄略天皇),シキ宮を大和の磯城に当て,辛亥年をその治世の471年に比定する説が有力である。またヲワケについては,この礫槨の被葬者をヲワケとし,〈杖刀人の首〉は律令制の兵衛(ひようえ)などに連なるものとみて,ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と,上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣(かしわでのおみ)の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし,あるいは〈杖刀人〉は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ)であるとみて,ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている。古代刀剣銘としては吉祥句を含まず,7世紀の造像記などに類例の多い〈何年何月記〉の書式で始まるのが特徴的であり,さらに文中にヒコ(彦)-スクネ(宿禰)-ワケ(別),あるいは〈臣(おみ)〉を含むなど,江田船山古墳出土の銀象嵌大刀銘とともに,日本で書かれた最古の金石文として,日本古代史の重要史料である。全文の表出作業が行われ,1983年に国宝に指定された。さきたま資料館(現,さきたま史跡の博物館)保管。
執筆者:岸 俊男
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埼玉県行田市埼玉(さきたま)にある埼玉古墳群中最も北に位置する古墳中期の前方後円墳。1937年(昭和12)に前方部が採土工事で破壊されたが,墳長約120mほどとされる。後円部径62m,高さ11.7m。68年「さきたま風土記の丘」整備の一環として発掘され,後円部墳頂で粘土槨と礫槨(れきかく)を発見した。粘土槨は盗掘されてわずかな副葬品があったにすぎないが,礫槨は完全な形で検出され,金錯銘(きんさくめい)鉄剣をはじめ,画文帯神獣鏡・挂甲(けいこう)・直刀・矛・鏃(やじり)・轡(くつわ)・雲珠(うず)・鐙(あぶみ)・杏葉(ぎょうよう)・三環鈴・帯金具・玉類など豊富な副葬品が残されていた。その後の調査で,長方形の周濠を二重にもち,西側中堤には造出しが確認され,形象・人物埴輪が出土した。国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…群の形成は4世紀から6世紀に及ぶ。調査を経た主要古墳として,山頂古墳,竜ヶ岡古墳,稲荷山古墳,宝石山古墳がある。墳形は判明していないが,古墳ごとで埋葬施設の形態が相違する。…
…その時期は,おそらく6世紀に入ってからで,すでにその萌芽は5世紀の後半にみられたであろう。《日本書紀》允恭天皇4年条などにみられる氏姓を定めるための盟神探湯(くかたち)の伝説は,姓の制度の発生の一端を伝える伝説であろうし,また埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘にワカタケル(獲加多支)大王の時代の人として乎獲居(臣)の人名が記され,称号としての獲居(ワケ,別,和気)の下に,姓的な臣の称呼がそえられてあるのは,姓の制度が成立してくる様相を端的に示している。姓の制度は,684年(天武13)に制定された真人(まひと),朝臣(あそん),宿禰(すくね),忌寸(いみき)など八色の姓(やくさのかばね)で一段と整ったものとなり,律令国家において皇親の下に諸貴族,諸氏族を身分的に秩序づける標識とされた。…
…築造者については秩父国造説,武蔵国造説などがあった。1968年に発掘調査された稲荷山古墳の礫槨から出土した鉄剣の剣身表裏に,金象嵌による115文字の銘文が発見されてから,考古学,古代史の分野で,銘文をめぐって各種の論が展開されている。66年から古墳群一帯の整備事業が行われ,さきたま風土記の丘として一般に開放され,資料館も設置されている。…
…これらには漢字の音を借りた用字法が示され,漢字による国語表現の実際が明らかである。最近発見された埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣には,471年または531年と考えられる〈辛亥年七月〉をはじめ115字の金象嵌銘文があり,新資料として高く評価されている。しかし,書としてみるべきものは飛鳥時代以降に現れる。…
※「稲荷山古墳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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