デジタル大辞泉
「長勝寺」の意味・読み・例文・類語
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ちょうしょう‐じチャウショウ‥【長勝寺】
- 青森県弘前市西茂森町にある曹洞宗の寺。山号は大平山。享祿元年(一五二八)津軽盛信が創建。開山は梵寿菊仙和尚。津軽氏の菩提寺。
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長勝寺
ちようしようじ
[現在地名]弘前市西茂森一丁目
西茂森町の西端にあり、茂森町から東西に延びる禅林街と称される町並の突当りに位置する。寺の後方は台地のはずれの崖になり、崖下には津軽平野が北方に広がる。太平山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼仏。
延宝八年(一六八〇)の長勝寺並寺院開山世代調(長勝寺蔵)によれば、津軽地方における通幻派の本寺で、享禄元年(一五二八)大浦盛信が亡父光信の菩提を弔うため種里村(現西津軽郡鰺ヶ沢町)に建立したとあり、開山は菊仙、開基は光信。光信の戒名功樹院殿長勝寺隆栄大居士が寺号になったという。津軽為信の代に至って、種里から賀田村(現中津軽郡岩木町)へ移転し、寺領一〇〇石を給され「御先祖之御位牌不残御立置、永代御菩提所兼而御当地曹洞宗一宗之僧録被仰付候」と、津軽家の菩提所および領内曹洞宗の僧録所となることが定められた(長勝寺並寺院開山世代調)。
長勝寺
ちようしようじ
[現在地名]鎌倉市材木座二丁目
安国論寺の南西、来迎寺の東にある。日蓮宗、石井山と号する。開山・本尊ともに日蓮。かつては妙法寺とも称したといい、京都本圀寺の旧跡と伝える。安永九年(一七八〇)の相州鎌倉石井山長勝寺旧起などによると、日蓮が鎌倉で初めて営んだ松葉ヶ谷小庵は現在の寺地にあり、文応元年(一二六〇)の焼打ち後も再興されて維持されたが、足利尊氏の叔父という日静は貞和元年(一三四五)当庵を京都に移して本圀寺とした。この旧跡を日叡が継いだが、のち廃絶したため、石井長勝(日隆)が復興して長勝寺を建立したという。しかし長勝寺過去帳では長勝の没年を正安元年(一二九九)と伝え、本圀寺の京都移転前に他界している。
長勝寺
ちようしようじ
[現在地名]大野市錦町
近世の大野城下寺町の北部にある。北袋山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。開基は西順とされる。文明年中(一四六九―八七)本願寺蓮如に帰依して大野郡野津俣(現福井県勝山市)に一寺を建立、蓮如から寺号を下付されたのに始まるという。永正三年(一五〇六)一向一揆が蜂起した際、朝倉氏によって越前を追われ加賀に逃れたが、のちに野津俣に帰住した。天正二年(一五七四)一向一揆が平泉寺(現勝山市)を焼亡させたさい、一時平泉寺の地へ寺基を移した。永正三年―享禄年間(一五〇六―三二)と天正一九年の超勝寺末寺帳(本願寺文書)にともに「ノツマタノ長勝寺」が記され、中世後期、藤島超勝寺(現福井市)の末寺としてその下で活躍したらしい。
長勝寺
ちようしようじ
[現在地名]潮来町潮来
潮来の西北部、稲荷山麓にある。臨済宗妙心寺派、海雲山と号し、本尊は阿弥陀如来。文治元年(一一八五)源頼朝が武運長久を祈願して創建し、寺号を与えたといわれ、開基帳(彰考館蔵)に「鎌倉時代ニハ寺領百余貫並警固之武士三騎、本尊弥陀之後見壱人、鎌倉より参候(中略)併鎌倉御代之後廃壊仕候而無住同前ニ独坊主ナト居申ニ付古録物紛失仕候」とあるように、鎌倉時代には隆盛を極めた。その後しだいに衰微し荒廃したが、江戸時代に水戸藩主徳川光圀が、京都の妙心寺の大嶽祖清を招いて再興に当たらせた。寺伝では元禄七年(一六九四)に諸堂の修復が完成、同一〇年春に光圀が当寺を訪れ、同一五年に藩より除地の山畑を寄進されたという。
長勝寺
ちようしようじ
[現在地名]長野市信更町三水
三水村の上三水の現県道篠ノ井―新町線の北側にある。南は山林であるが西と北は遠く眺望できる。本尊薬師如来。真言宗豊山派、赤田村専照寺末、秀秘山蓮台院長勝寺と称す。境内は一千一七六坪である。
寺伝によると、弘法大師が信州遊行の際、草庵を創設。
長勝寺
ちようしようじ
[現在地名]牛津町大字上砥川字空山
標高一〇〇メートルの空山にある。巨福山と号し、臨済宗南禅寺派。本尊は観世音菩薩。
弘安年間(一二七八―八八)に蘭渓道隆が錫を止めた所と伝えられる。多久の納所集落一帯には、往昔この寺に付属していたという一二寺の跡がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
長勝寺
ちょうしょうじ
青森県弘前(ひろさき)市西茂森(にししげもり)にある曹洞(そうとう)宗の寺。太平山と号する。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。1528年(享禄1)津軽の大浦盛信が亡父光信の菩提(ぼだい)を弔うため梵寿菊仙(ぼんじゅきくせん)を開山として鰺ヶ沢(あじがさわ)町に開創、寺号は光信の戒名によった。1611年(慶長16)2代弘前藩主津軽信枚(のぶひら)の弘前城築城に伴い慶長(けいちょう)年中(1596~1615)に現在地に移転したとき当寺を頂点として領内33か寺の曹洞宗寺院を楼門から三門へ至る道の両側に集めて寺町とし、周囲を二重の堀と塀で囲った(長勝寺構え)。その後、鉄牛蔵印(てつぎゅうぞういん)を中興開山とし、津軽家の菩提所、藩内曹洞宗33か寺の中心として栄えた。金剛力士像、五百羅漢像を安置する1629年(寛永6)建立の三門と、嘉元(かげん)4年(1306)銘の銅鐘(俗に嘉元鐘という)、御影堂(ごえいどう)、境内にある津軽氏代々の霊廟(れいびょう)は国の重要文化財。
[菅沼 晃]
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長勝寺【ちょうしょうじ】
青森県弘前(ひろさき)市にある曹洞宗の寺。本尊釈迦牟尼仏。1528年大浦(津軽(つがる)氏)盛信(もりのぶ)が亡父光信の菩提を弔うために建立,津軽家の菩提所及び領内曹洞宗の僧禄所(そうろくしょ)となる。1610年弘前城築城にともない現在地に移転。嘉元(かげん)4年(1306年)製の銅鐘・三門は重要文化財。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報
世界大百科事典(旧版)内の長勝寺の言及
【安寿・厨子王】より
…現在も京都府丹後由良や直江津には安寿と厨子王の伝説と遺跡を数多く残しており,津軽には岩木山の神体を安寿姫とする《お岩木様一代記》という語り物があって盲目のイタコが語っていた。弘前の津軽藩の菩提寺長勝寺には境内の一隅に蒼竜寺という座禅堂があり,その中に花御堂という厨子堂(桃山時代作)があって岩木山三所権現の本地仏(阿弥陀,薬師,観音)をまつるが,その左右に安寿と厨子王の古像が美しく彩色されて安置されている。津軽と安寿・厨子王伝説との深いつながりをしのばせるものがある。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」