ヒトでは大便と呼ばれる。動物の消化管の末端から排出される不用物で,主として食物中の不消化部分からなるが,ほかに腸内細菌,消化管の粘膜や消化腺からの分泌物,例えば胆汁色素なども含まれる。消化管の末端が肛門として独立せず,尿管および生殖輸管と合流して体外に開口する総排出腔となっている動物では糞と尿の区別は明確でない。なおウサギ類には硬軟2種の糞があり,軟らかい糞は肛門から再度摂食されて,盲腸内で寄生細菌によってセルロース消化を受けてのち,固い糞として最終的に排出される。
糞には多量の有機物が含まれており,双翅(そうし)目や鞘翅(しようし)目の昆虫,糞生菌類など糞を栄養源として生きる生物も多い。これら糞食性生物coprophagesは,動植物の遺体や分解物を食べる生物と合わせて腐食生物saprophagesと呼ばれ,生態系の物質循環にとって重要な役割を果たしている。またミミズは枯葉や有機物の残骸とともに土を飲みこみ,小さな糞塊として排出するが,これによって土は中性化され,通気性・通水性もよくなるので,ミミズの糞土は耕地の改良に効果がある。
一方,糞は足跡や食痕とならんで動物の生活の跡を追う際の有力な手がかりとして利用されてきた。単に当該の動物の有無だけでなく,その食性,活動範囲,健康状態まで判断することができる。さらに近年では,糞の数から個体数を調査するという試みがニホンカモシカなどで実際に行われている。
なお,先史時代の遺跡などから,糞石(コプロライトcoprolite)と呼ばれる人や動物の糞の化石が出土することがある。糞石の分析によって,当時の食生活や動植物の分布の復元が試みられている。
執筆者:森 三男
文化史
古くから糞は肥料として世界各地で利用されていた。ナイル川のはんらんと灌漑によって肥沃な土地を得ていたエジプト人は,糞尿が肥料になることを知っていたし,インド,ギリシア,ローマの人々も人糞や家畜の屎尿(しによう)を肥料として用いていた。中国では長江(揚子江)以南の人家に厠(かわや)があるのは糞尿を農夫の作物と交換するためであり,長江以北では人糞を乾燥させてから土と混ぜて田にかけ,北京では溝の中に蓄えて春になるとこれをひなたにさらすので,〈其穢気不可近〉と《五雑俎》にあるように,やはり糞を肥料としていた。ヨーロッパでも12,13世紀から19世紀にかけて主として行われた三圃(さんぽ)制の農法は,三つに分けた広い耕地のどれか一つがつねに休耕地で,ここに家畜を放牧し,土地を休ませることと家畜の糞による施肥により再び土壌を肥えさせることをねらったものである。ペルシア人もまた,パンの小麦を得るのに糞便を肥料としていた。ヘロドトスの《歴史》(巻三)に,エチオピア王がペルシア王カンビュセスからの使者に向かって,ペルシア人は糞便を常食とするから寿命が短いはずなのに,最高80年も生きられるのは酒で元気をつけるからだ,といった話があるが,これはエチオピア人が農耕を知らず,下肥を誤解したためである。
糞はまた,古代中国では豚など家畜の飼料としても利用された。柵をめぐらせて豚を飼い人糞で育て,後にはここに厠を設けたので,便所を意味する〈圂(こん)〉や〈溷(こん)〉の字がある。人糞に残った栄養物をなお消化しうるから豚が食べるわけで,落ちてくる糞を豚が待つ厠は,かつて大陸から琉球,台湾,さらにフィリピンにまで伝えられた。漢の高祖の死後,呂后(りよこう)が高祖の愛妾(あいしよう)戚(せき)夫人の手足を切り,目をえぐって耳を焼き,厠に入れて人彘(じんてい)(彘は〈豚〉の意)とあざけったのも圂の習俗による。日本には《倭玉篇(わごくへん)》などに〈溷〉は〈カワヤ〉であると記されているが,豚をたくさん飼うことはなく,実体としての溷はなかった。なお,混濁,渾濁(こんだく)と同義にも用いられる溷濁は,元来は糞尿のような汚濁をいう。
糞便およびそのイメージを愛好したり,はなはだしきは好んで食べる人(これを食糞coprophagiaという)がおり,スカトロジー(糞便学)や精神医学の対象となる。アフリカのバクツ族のように,女性が家畜の糞や粘土を油で練って全身に塗り,臭気ただよう陰部を男性に見せて求愛し,男がこれに性欲をそそられるというのは性風俗の際だった違いと映るが,もともと哺乳動物の性器は肛門の近くにあって,性器のにおいと糞便のにおいは混じり合うから,人間の糞便愛好もあながち異常と断じきれない。
性的な意味でなくその不浄を忌んで食べることを避ける例には,ニュージーランドの原住民が糞とハエ(蠅)を常食とする者はその魂が死後楽土にいけぬと信じた話や,仏教には厠溷中鬼(しこんちゆうき)や噉人屎尿鬼(たんじんしにようき)のような悪鬼,餓鬼の話がある(《大灌頂神呪経》)。《酉陽雑俎(ゆうようざつそ)》によれば,糞を食べる厠鬼(しき)の名は頊天竺(きよくてんじく)(または笙(しよう))という。
インドの《マヌ法典》には飲酒の罰に牛の乳や糞尿を混合したものを飲ますとある。牛は聖獣であるゆえ,その糞も人を浄化すると考えたからだが,実際は催吐効果に着目したものだろう。中国にも腹痛を訴える夫に糞汁を催吐剤として飲ませた話がある(《三国志》)。17世紀のヨーロッパでもフランス王ルイ13世の宰相リシュリューが臨終のときに馬糞を混ぜた白ワインを飲まされているように,人間やいろいろな動物の糞は薬用にも使われている。また,孔子が糞の混じった土でつくる牆(しよう)ははげ落ちるから上塗りしてもむだだといい(《論語》),《五雑俎》も長江以北では糞土で瓦をつくるから,屋根を伝わる雨水は不潔で使えないというように,糞はいたるところで土と混ぜ合わされ,瓦や塀に使われた。インドでは牛糞で屋内を固めればダニやナンキンムシが出ないと信じられ,今も台所などの塗布料として用いられている。また羊糞や牛糞を燃料としたのはモンゴル人などの遊牧民だけではなく,インドでは今も牛糞がたいせつな燃料源である。
このように多用されていても,糞は不浄で不潔だとする考えも古くからあった。上述の食不浄悪鬼や糞土の瓦や塀の話がすでにそうである。道はどこにあるかという東郭子の問いに,荘子は螻蟻(けらむし)の中,稊稗(いぬびえ)の中,瓦甓(かわら)の中にあると答えたあげく,〈在屎溺〉(〈糞や尿の中にある〉の意)といって東郭子を黙らせてしまう(《荘子》知北遊篇)。牛糞を意に介さないインド人も,《マヌ法典》が糞尿は住居より遠ざけよと説くのに従って,今も戸外で排便する風習を農村に残している。インド人ばかりでなく,イスラム教徒も左手は排便する手として食事用の右手と峻別する。
アリストファネスの《蛙(かえる)》その他のギリシア喜劇に排泄に関する弄言(ろうげん)が多いのは,この不浄観を利用して笑いを誘う意図からであるが,とくに《平和》(前421上演)ではくそ食い黄金虫にくそだんごを与えて巨大にしたトリュガイオスが,神馬ペガソスを操るベロレフォンよろしくこれに乗って,天上にあるゼウスの館(やかた)にたどり着くという筋書が,性の話題とないまぜになっている。なお,くそ食い黄金虫,すなわちスカラベはフンコロガシ,タマオシコガネとも称される甲虫の1種で,ファーブルの《昆虫記》での記述,また古代エジプトでは聖なる虫として崇拝されたことで有名である。糞や排便行為を笑いに盛りこんだのはほかにも少なくなく,中世ドイツ民話ティル・オイレンシュピーゲルにも散見され,ラブレーの《ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語》の《第一之書ガルガンチュア》第13章は排便後のしりを何で拭くかの長々しい話で埋まっている。近くはスキャンダルを巻き起こしたジャリの《ユビュ王》(1896上演)があり,〈くそったれ!〉で始まって造語を縦横に駆使しながら,性と排泄に絡む人間共通の自然を笑いの中に提示した。続編《丘の上のユビュ》では〈くそ〉の大合唱が入る猥雑(わいざつ)さである。
執筆者:池澤 康郎
糞便の民俗
《古事記》には,伊邪那美(いざなみ)の屎(くそ)から波邇夜須毘古(はにやすひこ)と波邇夜須毘売(はにやすひめ)の神が生まれ,その尿(ゆまり)からは弥都波能売(みづはのめ)の神が生まれたとある。これらの神は,各々埴土(はにつち)の男女神と水の神とされている。また,天岩屋戸神話では,須佐之男命は姉の天照大神が〈大嘗聞しめす殿に屎まり散らし〉たとある。古代において,この汚いものをまき散らして清浄な所を穢す〈糞戸(くそへ)/(くそと)〉は,天つ罪の一つとされた。中世の絵巻物《地獄草紙》《餓鬼草紙》《病草紙》には,食糞餓鬼,糞尿泥地獄のほか,排便する人間の姿が描かれている。またフロイスの《日本覚書》(1585)には,〈われわれは糞尿を運び去る人に金を支払う。日本では,それを買い,その代償に米と金を払う〉とか,〈ヨーロッパでは,馬糞を菜園に,人糞を塵芥(じんかい)捨場に捨てる。日本では馬糞を塵芥捨場に,人糞を菜園に捨てる〉とある。近世の《守貞漫稿》にも,〈江戸は……屎は厠に之を蓄う。屎俗に“こゑ”と云。こやしの略也。屎こゑ代と云屎代は家主の有とし得意の農夫に之を売る〉とある。近世には三都の糞尿を集め近くの農村に運ぶ糞船(くそぶね),肥船(こえぶね)が存在した。江戸では葛西船(かさいぶね)と称する茶船がその代表であった。このように,糞便は古くから農耕用肥料とされてきたが,神聖な神田には下肥を使用せず,また神役も穢れたものとして糞尿に触れるのをさける習慣がある。糞便は穢れたものとされる一方で,農耕を通して強い再生力をもつものとしてたいせつにもされていた。
糞は役にたたぬ価値のないもの,かすや悪臭を放つもの,汚穢(おわい)などの代表とされ,人を卑しめ,ののしったりする際のことばとしても使用されている。しかし,民俗のうえでは,糞便は否定的なものとしてのみは現れず,昔話の中など特定の時空間では黄金に転化することがあったり,〈雪隠(せつちん)参り〉の際に赤ん坊に糞便を食べさせるまねをする所もある。糞便は再生の呪力(じゆりよく)をもったものとして,生児のこの世への社会的誕生を促すとされたのである。また肥だめに落ちた者は,改名をする風習がある所もあった。糞便自体が髪,血や体液などと同様に体外に出されると,自分のものかどうか区別のつきがたいあいまいなものとされ,しばしばタブーの対象となり,境界領域と深いかかわりをもつ呪物としての性格ももっているといえる。誕生儀礼の中では,赤ん坊は出産と排便過程が類似していることもあって,社会的には異界からこの世に排出された象徴的な糞便あるいは塵芥として扱われているようである。糞便はまた悪臭を放つものから,騒音や悪口と象徴的に結びつけられ,〈くそったれ〉〈くそくらえ〉などしばしば,ののしりのことばとされている。くしゃみも〈くそ食(は)め〉という悪霊の侵入を防ぐ呪文に由来するという。このほか,笑い話などにも糞便がよく登場するが,キツネに化かされる話では馬糞がぼた餅に,肥だめがふろにみなされることが多い。
糞便をめぐる俗信もきわめて多い。以下列挙すると,馬糞を踏めば髪や背が伸びる,逆に牛糞へのぼれば背が伸びない,糞尿の夢は吉兆,糞の夢を見ると金もうけする,夜糞の上で火をたくとその人のしりが曲がる,川に小便をして3度唾(つば)を吐かないと性器が曲がる,悪霊やキツネにつかれたときに小便をかけたり飲ませたりすれば正気にかえる,キツネの出たときには小便をしろ,雷鳴の際に小便びしゃくを屋根に投げ上げたり小便おけを庭の真ん中におけば落雷しない,雷火は小便びしゃくで水をかけると消える,火いたずらをすると寝小便をする,大小便をこらえるには大便は大の字,小便は小の字を男は左手,女は右手に記して3度なめるとよいなどという。
→スカトロジー →尿 →便所
執筆者:飯島 吉晴