津市(読み)ツシ

デジタル大辞泉 「津市」の意味・読み・例文・類語

つ‐し【津市】

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日本歴史地名大系 「津市」の解説

津市
つし

面積:一〇一・六三平方キロ

三重県のほぼ中央に位置し、東は伊勢湾に臨み、北は安芸あげ河芸かわげ町・鈴鹿市・亀山市、西は安芸郡芸濃げいのう町・安濃あのう町・美里みさと村、南は一志郡香良洲からす町・三雲みくも村、久居ひさい市に接する。海岸線に並行して南北に台地が続き、海岸沿いの低地や志登茂しとも川・安濃川(塔世川)岩田いわた川の沖積低地が平野を形成し、市域西縁には標高三二〇・六メートルの長谷はせ山がそびえる。

「津」の地名は、安濃郡地方の港の意と思われる「安濃津あのつ」に始まる。聖徳太子が都を中心として四方に四天王してんのう寺の建立を企て、当地の四天王寺は東の難波なにわ(現大阪市)のそれに対応するという話は伝説の域を出ないが、当地の古さをうかがわせる。平安時代には「中右記」嘉保三年(一〇九六)一二月九日条に裏書として「後聞、伊勢国安乃津民戸地震之間、為大波浪多以被損云々、凡諸国有如此事、近代以来地震未有如此例也」と安乃津あのつの地震・津波が記される。また「兵範記」(仁安三年)に「安濃津」、「玉葉」(寿永三年)に「阿乃之津」と出るなど、諸書に散見する。すでに鎌倉後期には「津湊」ともよばれ(安東郡専当沙汰文)、大永二年(一五二二)の長野氏目代の文書(「津市史」所収)に「津四郷」、慶長一三年(一六〇八)藤堂高虎の「御免許之条々」(同書)に「津町中」などとあり、安濃津・津は併用されていた。江戸時代は津城下・津町の語がもっぱら用いられ、安濃津の用例は少なくなった。明治四年(一八七一)七月に津藩が津県、同一二月に北伊勢の諸県が合して安濃津県と称し、同二二年の津市誕生には「安濃津市」の案もあった。

〔原始〕

先土器時代の遺跡・遺物は現在まで未確認で、縄文時代も野田のだ半田はんだ地内などから中期・後期の土器片が若干採集され、晩期も納所のうそ遺跡にわずかに土器片が含まれているにすぎない。

弥生時代になると県下最大の納所遺跡をいわば母胎とし、その周辺部へ文化が拡散していった。前期は上村うえむら遺跡や長谷山麓から若干、前期土器がみられるだけであるが、中期・後期には数も増え、亀井かめい・上村・養老ようろう桐山きりやま森山もりやま竹川たけご尺目しやくめ東豊野ひがしとよの遺跡、野田遺跡群があり、標高二〇―三〇メートルの小丘陵地にも小規模な遺跡が多数形成されていったようである。共同体の祭祀に重要な役割をもつ銅鐸も野田や神戸かんべで出土し、共同体を支配した首長層の弥生墳墓も高松たかまつや野田遺跡群のおお遺跡から発見されている。

古墳時代に入るといけたに古墳や鎌切かまきり古墳など大型の前方後円墳も築かれるが、坂本山さかもとやま古墳群など小型の古式群集墳も所在し、共同体の首長権の確立の過程がうかがえる。


津市
ついち

[現在地名]小郡町大字下郷 津市

小郡の中心をなす地で、椹野ふしの川の西岸、山陽道に沿ってできた市。古くは津の市つのいちとよばれた。山口湾(小郡湾)の開作が行われる以前は、海岸部にも近かったと思われ、椹野川の河口、交通の要地に開けた市であった。

文明一二年(一四八〇)大内政弘の招きによって山口に来ていた連歌師宗祇が、筑前に往復したときの紀行「筑紫道記」の往路の記事に「かくて過行程に民屋一むら有、津の市といふ、左に河ながれ、海づらはやゝいりて物さびし」とある。


津市
つし

2006年1月1日:津市・久居市と安芸郡河芸町芸濃町・安濃町・美里村、一志郡香良洲町・一志町・白山町・美杉村が合併
【河芸町】三重県:安芸郡
【芸濃町】三重県:安芸郡
【安濃町】三重県:安芸郡
【美里村】三重県:安芸郡
【津市】三重県
【香良洲町】三重県:一志郡
【一志町】三重県:一志郡
【白山町】三重県:一志郡
【美杉村】三重県:一志郡
【久居市】三重県

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「津市」の意味・わかりやすい解説

津〔市〕

三重県中部,伊勢湾に臨む市。東部を伊勢平野,西部を布引山地が占め,雲出川が東流する。県庁所在地。 1889年市制施行,以降近隣の町村を編入,市域を拡大。 1952年雲出村,1954年一身田町,白塚町,栗真村,片田村,1973年豊里村を編入。 2006年久居市,河芸町,芸濃町,美里村,安濃町,香良洲町,一志町,白山町,美杉村の1市6町2村と合体。市名は中世以来の名を継承。中心市街地の津は,かつて安濃津 (あのつ) と呼ばれ,古代から難波津,薩摩大野津とともに日本三津の一つであったと伝えられるが,港は明応地震 (1498) で壊滅した。永禄年間 (1558~70) に細野藤敦が築城,その後城主が次々に代わり,慶長 13 (1608) 年藤堂高虎が移封されてから城の大改修や本格的な城下町づくりが行なわれ,以後,明治維新まで安濃津藩の城下町として栄えた。明治4 (1871) 年安濃津県庁,1873年三重県庁が置かれて県都となった。市街地は岩田川と安濃川との間の三角州に築かれた津城を中心に発達。第2次世界大戦後,背後の丘陵地に住宅を主とする新市街地が形成された。行政・文教都市であるとともに商業も盛んで,各種卸売業が集まる。工業は戦前からの繊維に加え,戦後は電機などの工場も立地。 1967年にはタンカーを建造する造船所も進出。久居は明治中期以降は瓦とタオルの地場産業で知られたが,その後,電機や食品などの工場が進出。芸濃は丘陵性の火山灰土 (黒ボク) 地帯で,かつての桑園は花卉,苗木,茶園に取って代わり,ゴルフ場,工場,住宅団地などが建設された。河芸ではチャ (茶) ,久居,一志,白山では一志米と呼ばれる酒米が生産される。津城跡は公園となっており,本丸跡に藤堂高虎をまつる高山神社がある。中部の青山高原のふもとには榊原温泉がある。典型的な寺内町だった一身田にある専修寺が所蔵する親鸞の書『三帖和讃』と『西方指南抄』は国宝,専修寺御影堂と如来堂,国津神社十三重塔は国の重要文化財。八町には江戸時代の国学者谷川士清の旧宅があり,墓とともに国の史跡。長野氏城跡,明合古墳,霧山城跡も国の史跡。北畠氏館跡庭園は国の名勝・史跡。三多気のサクラは国の名勝で,椋本の大ムクは国の天然記念物。南部は室生赤目青山国定公園赤目一志峡県立自然公園,海岸部は伊勢の海県立自然公園に属する。 JR紀勢本線と名松線,近畿日本鉄道名古屋線,伊勢鉄道,国道 23号線と 163号線,伊勢自動車道が通る。面積 711.19km2。人口 27万4537(2020)。

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世界大百科事典(旧版)内の津市の言及

【小郡[町]】より

…古代~中世は東大寺領椹野荘に属し,早くから開発が進められた。中心の津市(ついち)は山陽道の宿場町で,近世は本陣,天下御物送場番所などが置かれ,小郡宰判の勘場(代官所)もあった。現在も山陽新幹線,山陽本線,山口線,宇部線,国道2号,9号線が通じ,中国自動車道小郡インターチェンジもある交通の要衝で,県都山口への西の玄関になっている。…

※「津市」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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