ドイツの思想家。ザクセン州リュッツェン近郊のレッケンで,プロテスタントの牧師の家に長男として生まれた。父母ともに代々牧師の家庭である。こうした伝統のもついわゆるドイツ的内面性,内面性に必ずつきまとうある種のラディカリズム,さらに小市民性,そして小市民性に必ずつきまとうこの小市民性自身への批判は,ニーチェの思想的体質とでもいうものの重要な要素である。早く父を失ったが奨学金を得て名門ギムナジウムのシュールプフォルタ(プフォルタ学院)に入る。クロプシュトックやフィヒテも学んだこの寄宿制のギムナジウムは,ドイツ人文主義の精神に依拠してギリシア語,ラテン語の厳しい教育を行っていた。ここでの古代との出会いは彼の生涯を決定するものとなる。
こうした古典古代を範としたゲーテ時代以来の新人文主義,しだいに危機に瀕しつつあるプロテスタント神学,そしておりから個別科学のうちにまで台頭しつつあった19世紀の代表的思想傾向としての歴史主義--これがニーチェの出発点となった時代の知的状況である。その背景には,ヘーゲルに代表される壮大な政治・社会思想としてのドイツ観念論の体系が,台頭しつつある新しい産業社会を前にして崩壊し,さらには1848年の革命に挫折し啓蒙の思想を実現しえなかった市民層が,新たな世界観的拠りどころを求めていたという事態がある。政治的幻滅の中で,政治的にはきわめて保守的なショーペンハウアーのペシミズムが流行のきざしを見せ,やはり革命失敗の苦い経験から政治と芸術の架橋を放棄し,〈総合芸術〉に19世紀の克服を求めたR.W.ワーグナーが知識人層および支配層の注目を引きはじめていたころである。ニーチェの思想形成は,こうした19世紀ドイツ市民社会の知的状況に深く根ざしている。
1864年ニーチェはボン大学に入り当初は母の希望もあって神学を学ぶが,すぐに古典文献学専攻に変わり,やがて師のリッチュルFriedrich Ritschl(1806-76)の転任にともないライプチヒ大学に移る。ライプチヒで彼はショーペンハウアーの哲学を知り,ワーグナーの謦咳(けいがい)に接する。ショーペンハウアーの《意志と表象としての世界》をニーチェは偶然に古本屋で見かけ,表題への直感的な関心から購入し,魅入られるように一晩で読んだという。彼をひきつけたのは,われわれの生が〈生きんとする意志〉のエゴイズムであるというペシミスティックな世界観と,救済としての芸術というショーペンハウアーの思想である。またあるサロンでたまたまライプチヒ訪問中のワーグナーと知り合い,同じくショーペンハウアーに共鳴する彼の芸術思想やバイロイト祝祭劇場の計画に心酔する。こうしてショーペンハウアーのペシミズム,ワーグナーの音楽,そしてしだいに形成されつつある非人文主義的な独自のギリシア観,この3者の統合が若きニーチェの目ざすところとなる。
69年ニーチェはその俊秀ぶりを認められて,学位取得以前であるにもかかわらずスイスのバーゼル大学の古典文献学教授に招聘される。弱冠24歳,異例の抜擢(ばつてき)である。バーゼルでは,ルネサンスを描いて有名な,またギリシア文化に単なる理性の明るさではなく,情念の深淵を見る老碩学ブルクハルトと知り合う。ブルクハルトに対する畏敬の念は波乱含みの彼の人間関係にあって最後まで変わらなかった。70年普仏戦争が勃発するとニーチェも志願して看護兵として従軍するが病を得て除隊する。
この時期に書かれたのが処女作《悲劇の誕生》(1872)である。有名な〈アポロン的〉と〈ディオニュソス的〉の二つの概念を軸にして古代ギリシアにおける悲劇の成立,隆盛,そして没落が描かれている。アポロンは夢の神であると同時に,夢で見る光り輝く形象の神であり,その形象の規矩正しさという点で知性の鋭敏さに通じる神である。それに対してディオニュソスは,別名バッコスが示すように,陶酔と狂宴の神,生の底知れぬ情念とわき上がる歓喜の神である。また生存の苦悩がそのまま歓喜へと昇華する美の象徴ともなる。ニーチェはギリシア悲劇におけるコロスがディオニュソスの陶酔の歌であるとし,歴史的にもそこに悲劇の起源を見る。それに対して舞台上の俳優の所作はそのディオニュソスが見る美しい仮象としての夢の形象であるとされる。ディオニュソスはともすると単なる獣性に陥りやすく,アポロンはひからびた知性の不毛に退化しやすいが,その両者のせめぎ合いからアッティカ悲劇におけるたぐいまれな調和が達成され,ギリシア人の本来的ペシミズムが美によって救済されたとニーチェは論じる。そしてその世界を極端なアポロン性としてのソクラテスが不毛な知性主義によって解体したのだとされる。それ以後は現在に至るまでヨーロッパでは,アレクサンドリア的科学主義による人間の卑小化が続いているというのである。
したがって《悲劇の誕生》は普通に言われているようにアポロンとディオニュソスの対立を描いたものではなく,両者のあるべき関係とあるべきでない関係との対立を描いたものである。本書の最後でニーチェは,ソクラテスによって崩壊せしめられたギリシア悲劇の世界がワーグナーの楽劇において再来することを願っている。過去の再解釈によって現代文化の創造を目ざしたきわめて実践的な書物であるといえる。だがこのようなもくろみは当然のことながら既成の学界の厳しい反発を招き,ニーチェは事実上アカデミズムから追放されてしまった。
この世間の無理解という経験を受けて,ニーチェは1873年から76年にかけて四つの《反時代的考察》と題した論文を出版する。第1論文《ダーフィト・シュトラウス,告白者にして著述家》(1873)では,普仏戦争の勝利がそのままドイツ文化の勝利であると思い込んだ市民層の代弁者D.シュトラウスのうちに〈教養俗物〉の典型を見た鋭い批判がなされており,《生に対する歴史の利害》と題した第2論文(1874)では,事実を詮索するだけで思想を欠いた歴史主義が病気として診断されている。第3論文《教育者としてのショーペンハウアー》(1874)および第4論文《バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー》(1876)では師と仰ぐショーペンハウアーとワーグナーがこうした時代においてもつ意義が説かれている。当時ワーグナーはスイスの〈四つの州の湖〉のほとりに家族と居を構え,《ニーベルングの指環》の完成に没頭しており,足繁く来訪するニーチェとのいわゆる〈星の友情〉が深まっていった。
76年ついにバイロイトの祝祭劇場が完成し,そのこけら落しとして《ニーベルングの指環》の上演が皇帝の臨席のもとに行われた。ニーチェも当然招待されたが,そこで彼が見たのは,〈文化国民〉と称する思い上がりにとっぷり浸った醜悪なドイツ市民層と仲直りし,さらには彼らに追従するワーグナーの姿であり,ニーチェの嫌うキリスト教的中世的なものをドイツ的とみなし,それに帰ろうとする--やがてそれは《パルジファル》となって結実するが--ワーグナーの姿であった。ニーチェはいたたまれなくなり,田舎の保養地に逃げ出してしまう。ワーグナーとの友情の決裂であり,ここまでが通常ニーチェの思想的発展の初期とされている。
この1876年の冬ニーチェは病気のゆえに大学を休み,友人や,以前から知り合いの女性解放論者マイゼンブークとともにイタリアに行き,後に彼の思索に重要な役を占める地中海世界とラテン的な文化風土を知る。やがて彼の哲学のスタイルとなるアフォリズム(断想)を書きため出したのもこのころである。このアフォリズムをまとめて《人間的な,あまりに人間的な》(1878-80)と題して世に出したが,これによっていわゆる中期の批判的思想が始まる。そこでは今まで偉大とされていた芸術家や宗教家の人間的な側面を剔抉(てつけつ)して,既成の偶像の暴露心理学的解体が試みられている。こうしたアフォリズムはドイツ語としても“からし”のきいたすぐれた文章で書かれており,後に彼がルター以来のドイツ語の最大の書き手と自慢するのも無理からぬほどのものである。
だがワーグナーとの決裂の痛手もあって,年来の偏頭痛その他の病気はしだいに悪化し,79年には大学の職を辞し,その後の10年間は夏は主としてアルプスのエンガディーン地方,冬は地中海のほとりの保養地というように一所不住の漂泊の哲学者の生活を送りながら,哲学的散文を書き続ける。81年には《曙光》,82年には《華やぐ知慧》が次々と出る。いずれもアフォリズム集である。《曙光》では特に権力感情の分析が展開され,ヨーロッパ的価値観の底に潜むニヒリズムと〈力への意志〉という後期の問題関連の萌芽が認められる。《華やぐ知慧》には批判的解体に伴うペシミズムから新たな晴朗さへの回復がはっきりと認められる。この時期の81年,ニーチェはスイス・アルプスのシルバプラナ湖畔で永劫回帰の覚知に達し,いっさいが〈力への意志〉である以上,宇宙と歴史の変動は永遠に自己回帰を続ける瞬間からなっているとの思想を得ている。
翌1882年にはザロメとの不幸な恋愛があったが,翌年初頭,ジェノバ郊外のポルトフィノで《ツァラトゥストラ》の着想を抱き,彼の言によれば,“嵐のような”筆の運びでまたたくまに第1部が完成した。この作品は第4部(1885)まで書かれるが,第4部になると出版者がつかず私家版で出さざるをえないほどに世間からは無視されていた。古代ペルシアのゾロアスター教の創始者ゾロアスター(ドイツ語でツァラトゥストラ)を主人公にしたこの哲学的物語は,山を出た主人公がさまざまな経験をしながら,永劫回帰の思想に到達し,その恐ろしさに耐えつつもこの思想を告知できるようになる〈大いなる正午〉が到来するまでの過程を描いたものである。ニーチェの書いたものの中で必ずしも最重要とは言えないが,その詩的表現,豊かな比喩のゆえに,《悲劇の誕生》と並んで最も有名になった作品である。そしてこの《ツァラトゥストラ》で後期の思想が始まったと普通に言われている。
後期には〈力への意志〉,ニヒリズム,超人,永劫回帰,〈価値の転換〉といった中心的思想の多少なりとも連関した叙述をめざして,さまざまな変奏を加えたアフォリズムが書きつがれていく。《善悪の彼岸》(1886),《道徳の系譜学》(1887),《偶像の黄昏》(1889),《ニーチェ対ワーグナー》(1888脱稿),《ワーグナーの場合》(1888),《アンチキリスト》(1888脱稿),そして自伝的著作《この人を見よ》(1888脱稿)などがそうした作品群である。それらの中でニーチェはヨーロッパの形而上学,つまりキリスト教的プラトン的理念と価値観を,無の上に立てられた楼閣であり,基本的にはニヒリズムの現れであると論破し,このような旧来の価値の転換を〈力への意志〉と永劫回帰によって果たそうと試みている。《悲劇の誕生》の形姿で言えば,ソクラテスに代わるディオニュソスの美と力を価値の源泉にしようとする試みである。
だがこうした哲学的な面と並んでニーチェのアフォリズムの中には,ドイツ文化についての深い洞察,モンテーニュ,モーツァルト,ハイネなど,敬愛してやまなかった人々への美しいオマージュがあることも忘れてはならない。さらに彼がワーグナーの対極に位置する南国的音楽として愛したビゼー,鋭い臭覚で見いだしたモーパッサン,バルザックなどフランスの作家たち,そして最晩年に強く関心を抱いたドストエフスキー,キルケゴールについてのアフォリズムや書簡を見ると,ニーチェがまさに19世紀の思想的危機を全身で生きていたことがわかる。
だがそういうニーチェも特に《ツァラトゥストラ》以後は思想界から完全に忘れられた存在であった。たまに訪れる人があっても,結果として孤独感を深めることの方が多かった。ところが87-88年ころになるとフランスのテーヌが好意的な評価を示し,デンマークのG.M.ブランデスが講義に取り上げ,再び顧みられる兆候が現れはじめた。しかしその直後89年1月ニーチェはトリノの街頭で発狂する。発狂後は妹と母親に引き取られ,影のような生活を送ったのち,1900年ワイマールで死去した。
1892-93年ころからニーチェの名はしだいに広まり,90年代の終りには,ブランデスやザロメの評伝も手伝ってヨーロッパ中にニーチェ・ブームともいえるほどの熱狂が生じはじめた。ジッド(特に《地の糧》)やG.B.ショー(特に《人と超人》)の仕事にもニーチェの著作は大きな影響を与えたし,またドイツでもホフマンスタール,ムージル,T.マン,そして表現主義を含むモデルネの文学に深く多層的な影響を与えている。哲学的に本当にニーチェが消化されはじめたのは,第1次世界大戦によってニーチェの予言したヨーロッパのニヒリズムが顕在化した1920年代以降といえるが,やがてハイデッガー,ヤスパース,レーウィットなどのすぐれた解釈が陸続と現れはじめる。ナチスがニーチェを政治的に悪用したこともあって,第2次大戦後は一時期タブー視されていたが,ようやくフランスでのニーチェ受容をきっかけにして,今日ポスト構造主義的な読まれ方がドイツでも行われはじめている。
日本ではすでに1901年に高山樗牛が,《太陽》掲載論文《美的生活を論ず》の中でニーチェを持ち上げて以来,特に《ツァラトゥストラ》が,やがては《人間的な,あまりに人間的な》などのアフォリズム群が広く読まれはじめた。13年に出た和辻哲郎の《ニイチェ研究》は当時としては世界的に見てもきわめてすぐれた解釈である。しかし全体的には大正教養主義以降の知識人たちの中では,ニーチェはヨーロッパの思想史的コンテクストを離れて人生論的に語られることが多く,ようやく第2次大戦後になって氷上英広や,ハイデッガーを介した渡辺二郎らによって本格的研究が進み,ヨーロッパ思想の枠組みに置き入れ直されたニーチェとの思想的対決が行われはじめたといえる。
→ニヒリズム
執筆者:三島 憲一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツの詩人、哲学者。ショーペンハウアーの意志哲学を継承する「生の哲学」の旗手であると同時に、キルケゴールと並んで実存哲学の先駆者ともされる。現代の精神状況に関する鋭い分析、徹底した文明批判、つまり「ニヒリズム」の摘発によって、狭義の哲学のみならず、文学を含む現代思想全般に多大な影響を与えた。しかし冷静にみれば、ニーチェの本領は単なる文明批評にではなくて、人間の究極のよりどころ、人間が人間であることに意味をあらしめている超越論的なものを、冥界(めいかい)や死のイメージ、いわゆる「背後世界」的な比喩(ひゆ)にとらわれることなく、根源の生=ディオニソス的なものとして提示した点に求められる。
[山崎庸佑 2015年3月19日]
10月15日、プロイセンのザクセン州のレッケンに、ルター派の牧師の長男として生まれた。14歳のとき、ナウムブルク近郊の名門、プフォルタ学院に転校し、古典文献学の基礎的素養を修得する。1864年、同学院を卒業し、ボン大学に入学するが、1年後ライプツィヒ大学に移り、「文献学研究会」というサークルをつくる。そのころショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』(1819)を読み感激する。1868年(24歳)尊敬する音楽家ワーグナーに会う。翌1869年4月、スイスのバーゼル大学の員外教授に招聘(しょうへい)され、のちに文化史家のブルクハルトと交わる。1872年(27歳)『悲劇の誕生』を出版。1878年ワーグナーと絶交、以後その音楽を激しく非難する。この年の冬(34歳)病状悪化し、翌1879年バーゼル大学を辞職し、生涯、病苦と闘いながら、乏しい恩給を頼りに、スイスやイタリアを転々としつつ著作活動を続けることになる。1883~1885年、主著『ツァラトゥストラはこう語った』を書き上げる。1889年1月3日(44歳)イタリアはトリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒(こんとう)し、精神錯乱のまま1900年8月25日ワイマールに没す。
[山崎庸佑 2015年3月19日]
ニーチェの思想は、一般に、(1)根源の一者との一体化、始原のザイン(存在)への躍入として示される「ディオニソス的智慧(ちえ)」への信頼、(2)あらゆる理想への信頼と愛着を断ち切り、徹底した懐疑と冷厳な認識の自由に生きる「自由な精神」、最後に、(3)「永劫(えいごう)回帰」の境涯におけるいっさい肯定を説くツァラトゥストラ、以上三つのものによって象徴される三つの時期に区分される。最初の著作『悲劇の誕生』は、もちろん、前述の第一期を代表するものであると同時に、『ツァラトゥストラはこう語った』と並ぶニーチェ生涯の代表作でもある。『悲劇の誕生』が打ち出した決定的な新機軸は「ディオニソス的」なものにあるが、ニーチェによれば、ギリシア悲劇の根底にある芸術衝動には、過剰、陶酔、激情に向かうものと、秩序、明晰(めいせき)、静観、夢想の方向に進むものとの2種類があり、前者は酒神ディオニソスにちなんで「ディオニソス的」と称され、後者は太陽神アポロンにちなんで「アポロン的」とよばれる。音楽や舞踊はディオニソス的であり、造形芸術や叙事詩はアポロン的であるが、これら二つの衝動はギリシア悲劇においてはみごとに結合している。しかし『悲劇の誕生』は、ディオニソス的とアポロン的という2概念を駆使したギリシア悲劇成立に関する文献学上の学術論文であるという以上に、ニーチェ自身の芸術論的な形而上(けいじじょう)学、存在論の表明でもあった。本書の根本意図は、「叙情詩人の“自己”はザイン(存在)の深淵(しんえん)から響いてくるのだ。近代の美学者がいう意味でのその“主観性”は思いこみである」といわれているように、芸術の根源を主観に置く人間中心主義に逆らい、「ディオニソス的」と尊称される始原の一者、根源のザインに求めるところにある。「始原の一者」「根源の存在」「世界の心臓」は時間空間および因果のうちにある経験的事実ではないから、当然それは「現象の機関およびシンボルとしての言語」によって語るべきものではなく、本来はむしろ沈黙すべきもの、あるいは一転して「歌う」べきものである。経験的事実=現象の形式である個体化の原理(時間空間および因果)が越えられるとき、人間の内奥より、また世界そのものの内奥より湧(わ)き出てくる喜悦と恍惚(こうこつ)という性格が「ディオニソス的」なものには付きまとっていたが、過剰ゆえの苦痛であると同時に、「現象のあらゆる転変にもかかわらず不壊なる力をもち、愉悦に満ちたもの」、あらゆる文明の背後にあって不滅なるものという性格を「歌い」上げた根源の生への賛歌が後年の代表作『ツァラトゥストラはこう語った』である。
なお、第二期の懐疑と認識と、第三期の生の再肯定をつなぐ著作として、『悦(よろこ)ばしい知識』(1882)はとくに重要である。1882年から1888年にかけて書きためられた遺稿は、一部『力への意志』に収録されている。
ニーチェは、明治期の日本思想界に多大の影響を与えたが、ハイデッガーが大きく取り上げたことによって、再度日本の哲学者に作用を及ぼしている。
[山崎庸佑 2015年3月19日]
『吉沢伝三郎編『ニーチェ全集』全19冊(ちくま学芸文庫)』▽『氷上英広編『ニーチェ研究』(1952・社会思想研究会出版部)』▽『カルル・レーヴィット著、柴田治三郎訳『ニーチェの哲学』(1960・岩波書店)』▽『山崎庸佑著『人類の知的遺産54 ニーチェ』(1978・講談社)』▽『大石紀一郎・大貫敦子・木前利秋・高橋順一・三島憲一編『ニーチェ事典』(1995/縮刷版・2014・弘文堂)』▽『ホルガー・シュミット著、竹田純郎・鈴木琢真訳『ニーチェ――悲劇的認識の思想』(1996・国文社)』▽『薗田宗人著『ニーチェと言語――詩と思索のあいだ』(1997・創文社)』▽『清水真木著『岐路に立つニーチェ――二つのペシミズムの間で』(1999・法政大学出版局)』▽『内藤可夫著『ニーチェ思想の根柢』(1999・晃洋書房)』▽『マンフレート・リーデル著、恒吉良隆・米澤充・杉谷恭一訳『ニーチェ思想の歪曲――受容をめぐる100年のドラマ』(2000・白水社)』▽『舟越清著『ニーチェの芸術観』(2000・近代文芸社)』▽『リュディガー・ザフランスキー著、山本尤訳『ニーチェ――その思考の伝記』(2001・法政大学出版局)』▽『清水真木著『知の教科書 ニーチェ』(2003・講談社)』▽『山崎庸佑著『生きる根拠の哲学――ニーチェの場合』(第三文明社・レグルス文庫)』
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1844~1900
ドイツの哲学者。生の哲学といわれる。ヨーロッパ文化の退廃はキリスト教の支配によるとし,新しい価値の樹立を主張。そのため,「神は死んだ」と叫び,力への意志,永劫(えいごう)回帰,超人などの思想を説く。主著『ツァラトゥストラはかく語った』など。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
…厳密な学問的対象把握と詩的想像力の両翼に支えられた彼の方法は,とくに《ホメロス研究》(1884),前古典期抒情詩人の諸研究,エウリピデス《ヘラクレス》注釈(1887),そして《アイスキュロス悲劇作品》校訂(1914)などの,驚嘆すべき実りを結んだ。1870年代,ニーチェの《悲劇の誕生》に対する彼の破壊的な批判攻撃は大スキャンダルを招いたが,彼の学問的展望をいささかも曇らせることはなかった。【久保 正彰】。…
…ニーチェ最晩年の思想を表すものとして有名な用語。〈永遠回帰〉とも言う。…
…ディオゲネス・ラエルティオスの記載した彼の伝記は華やかであり,死者をよみがえらせたとか,神としてあがめられるため火山エトナの火口に身を投げて死んだとかいう話までが伝えられている。ニーチェはこの伝記をもとにしてエンペドクレスを〈医師と魔術師,詩人と雄弁家,神と人,学者と芸術家,政治家と僧侶〉のいずれともきめかねる中間的,活動的人間としている。彼には二つの著作《自然について》と《浄め》があった。…
…ニーチェの用語。〈神は死んだ〉と説いたニーチェにとって,神の死とは単にキリスト教の超克ではなく,ニヒリズムの宣言でもあった。…
… このような近代の身体観に対して,現代では,しだいに反省が起こってきている。ニーチェは近代合理主義の人間観を批判し,〈近代人は身体の重要性を忘れている〉と主張した。彼の考え方は,S.フロイトの深層心理学の先駆である。…
…1880年チューリヒで神学,哲学等の勉強を始めるが,胸を病み,青鞜運動の重要な存在であったマイゼンブーク女史を頼ってローマに移る。女史はワーグナーやニーチェの友人であり,ザロメは彼女を通じて82年ニーチェおよびその友人P.レーとも知り合う。三人には奇妙な三角関係が生じるが,レーと暮らし始めた彼女はニーチェの求愛を退ける。…
…彼はとくに《哲学的断片への後書》(1846)において,客観的真理が人間を生かすのではなく〈主体性内面性が真理である〉と語り,単独者として神の前で主体的に生きる人間を宗教的〈実存〉と呼んだ。ニーチェもまた不断に脱自的であらざるをえない人間を〈力への意志〉に基づく〈超人〉と名づけ,無意味な自己超克を繰り返しているかに思われる運命を肯定することに意味を発見した。〈実存哲学〉の語が定着するのは,第1次大戦後の動向のうちとくに《存在と時間》(1927)に表明されたハイデッガーの哲学を念頭に置いて,これを〈人間疎外の克服を目指す実存哲学〉と呼んだF.ハイネマンの著《哲学の新しい道》(1929)以降であり,ヤスパースがこれを受けて一時期みずから〈実存哲学〉を名のった。…
…彼らは,存在者がそれにふさわしい経験においてあらわに立ち現れていることを根源的真理と見るのであり,これは原初のalētheia的真理概念の復権と見てよい。なお,ニーチェのように〈真理とは,それなくしては特定の種類の生物(人間)が生きることができないような一種の誤謬である〉といった思いきった真理観を提出した哲学者もいる。【木田 元】
【インド】
インドで真理・真実を表す語はさまざまであるが,その代表はタットバ,サティヤである。…
…まずこれを確かめるために,両者の自然観を見てみよう。 ソクラテス以前,つまりニーチェのいわゆる〈ギリシア悲劇時代〉の思想家のほとんどが《自然(フュシス)について》という同じ表題で本を書いたという伝承があるが,そこからも推測されるように,古い時代のギリシア人にとってもっとも基本的な思索の主題は〈自然(フュシスphysis)〉であった。タレスにはじまりアナクサゴラスやデモクリトスにいたる,主としてイオニア文化圏で活躍した〈ソクラテス以前の思想家たち〉を,アリストテレスが〈フュシオロゴイphysiologoi〉ないし〈フュシコイphysikoi〉,つまり〈フュシスを論ずる人たち〉と呼んだのも,そのゆえである。…
…また今日の新宗教運動の多くが,現在の不幸や病気の原因を先祖の霊の祟りの作用であると説明し,その祟りの消除のため先祖供養を勧めているのも,古くからの祟り信仰に基礎をおいたものということができるであろう。 以上述べてきた祟り現象の諸相は,要するに特定の人間の執念や怨念が凝りかたまって呪詛霊となり,それに感染することによって異常現象が発生するというものであるが,これはある意味でニーチェのいう〈ルサンティマン(怨恨感情)〉の発現と類似している。かつてニーチェは,原始キリスト教の成立とフランス革命の発生の心理的動機を,社会の水平化現象をひきおこすルサンティマンによって説明しようとした。…
…ドイツの哲学者ニーチェの著作《ツァラトゥストラ》(1883‐85)の中で,人間にとっての新たな指針(和辻哲郎の用語では〈方向価値〉)として情熱的に説かれた言葉。その熱っぽさが,19世紀末の微温的市民社会と精神的閉塞状況からの脱出を願う青年知識層に広く迎えられた。…
…ドイツの哲学者ニーチェの主著《ツァラトゥストラはこう言ったAlso sprach Zarathustra》(1883‐85)の略称。全4部から成る。…
…ペラギウスの自力的道徳主義はアウグスティヌスによって退けられたが,教会は正統と異端の争いをかかえ,全体としてみて現世的・道徳主義的な罪の理解にとどまらざるをえなかったといえる。これはニーチェがキリスト教の矮小化とみて批判の俎上(そじよう)にのせたことでもある。ユングは,西洋のキリスト教がプラトンの〈エロス〉と対立するあまり,罪理解も対象的なものに縛られていたと指摘するが,これも象徴化の不十分さを指摘したものと解される。…
…また革命的無政府主義の創始者バクーニンはニヒリストたちの党派と手を握って革命を扇動した。 だが現代思想にとって最も重要なのは,ニヒリズムに関するニーチェの思想である。ロシアのニヒリストたちがアレクサンドル2世を暗殺して処刑された年,すなわち1881年の秋の遺稿で,ニーチェはすでに,おそらく彼らの立場を指してニヒリズムという語を用いている(のちのいわゆる〈能動的ニヒリズム〉)。…
…彼は各学期の講義でヨーロッパ哲学史の由緒あるテキストの克明な解釈と根源的な批判を通じて,ますます近代哲学の限界を明らかにし,同時に《存在と時間》の本旨を深化して新しい地盤をたしかめることに努めた。その歩みはのちの多くの論著,なかんずく《ニーチェ》(1961)のうちにたどることができる。 33年ハイデッガーは不本意ながらフライブルク大学総長となり,ナチスの大学再編にもそれなりに荷担せざるをえなかった。…
…18世紀初頭にライプニッツが〈単子論〉を説き,すべての単子(モナド)はそれぞれの視点から,それぞれの表象能力に応じて全世界をおのれのうちに映し出すと主張した。1880年代にニーチェが,すべての存在者の根本性格を〈力への意志〉と見るその最後期の思想においてこの考えを受けつぎ,認識とはけっして客観的な真理の把握などではなく,〈力への意志〉を本質として不断に生成しつつある存在者が,その到達した現段階を確保せんがために,それぞれの力の段階に応じて遠近法的に世界を見る見方にすぎないと主張した。この考えは,20世紀スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットにも受けつがれる。…
…森鷗外がこのハルトマンに共感し,昭和初年に厭世自殺をした芥川竜之介が遺書のなかでマインレンダーの名を挙げていることは有名である。ショーペンハウアーの強い影響下にあった初期のニーチェが,それまで〈清朗闊達〉を本質とすると見られていた古代ギリシア文化の根底に,暗いペシミズムがひそんでいることを見ぬき,《悲劇の誕生》(1872)を書いたこともよく知られていよう。オプティミズム【木田 元】。…
…そして,ロシア革命以来,その無神論は社会主義国家のイデオロギーの重要な柱となっている。 ニーチェは唯物論者ではないが,徹底した無神論者である。ニーチェの無神論は〈神は死んだ〉という命題に集約される。…
…圧制的な支配者に対する大衆の行動や思想には,表面上いかに高貴な倫理性が標榜されていようとも,しばしばこの屈折した怨みの激情ないし復讐欲がこめられている。F.W.ニーチェはキリスト教道徳の核たる〈愛〉はユダヤ教に由来する憎悪,復讐の裏返しの精神的態度にすぎないとし,M.シェーラーはプロレタリアートの革命精神をとり上げ,少数支配者に対する羨望(せんぼう)から生じた多数者(大衆)のルサンティマンの発現であるとして,いずれも大衆側ルサンティマンが結晶したものだと主張した。意識下に抑圧されているいわば〈本音〉を暴露していくこのニーチェらの考え方は,その後深層心理学の発展によって,合理化論ないし防衛機制論として体系化されている。…
…だがワイマールの思想についていえば,それは第1次大戦と革命後に突如出現したのでなく,前世紀の1890年代から世紀末にかけての大衆化状況の中で醸成されていたといえるだろう。 文学と芸術における表現主義,ニーチェの〈神の死〉宣告,フロイトの精神分析,ユングの深層心理学,マッハの感覚要素論は,従来の学問観に強い衝動を与えずにはいなかった。実証主義と歴史主義,さらにそれらを母胎にした社会科学はその基底を問責された。…
…70年,前年の長男ジークフリートの誕生を祝って管弦楽のための《ジークフリート牧歌》を作曲,妻コジマの誕生日に贈った。またこのころからワーグナーは哲学者ニーチェと親しくなり,ニーチェはその著作《悲劇の誕生》などにおいて楽匠に対する敬愛の思いを披瀝したが,のち種々の理由からこの二人は反目するようになった。 ワーグナーはかねてから自己の楽劇上演のために劇場を建設することを意図していたが,76年バイエルンの小都バイロイトに劇場が完成し,そのこけら落しには,大規模な楽劇《ニーベルングの指環》全曲(1854‐74)が上演され,全ヨーロッパから名士たちが集まり盛況をきわめた。…
※「ニーチェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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