徳川家康によって築かれた城で、明治以降は離宮、昭和一四年(一九三九)京都市に移管。史跡元離宮二条城。
「義演准后日記」慶長六年(一六〇一)五月九日条に「伝聞、京都ニ内府屋形立云々、町屋四五千間モノクト云々」とあり、徳川家康は京都屋敷(二条城)新造に際し、敷地予定地内の町屋を立退きさせた。この前年関ヶ原合戦に勝利した家康は、大坂城から伏見城に移り、慶長六年一二月には畿内の大名に二条城の造営費を課し(徳川実紀付録)、同七年五月一日に着工した(慶長見聞書・平安通志)とみられる。平安京の禁苑神泉苑の地を削り、池泉を堀に転用した。総指揮者は板倉勝重で(山城志)、作事内容の一部は大工頭の文書(中井家文書)によって詳しく知られる。同八年二月一二日に征夷大将軍に任ぜられた家康は、拝賀の礼を挙行するために三月二一日、竣工なった二条城に入城した(平安通志)。四月一六日には伏見城に帰り、一〇月には江戸へ赴いた。当時の二条城の主な役割は、公武合体の儀礼の場であった。その後、家康は慶長一六年、後陽成帝から後水尾帝への皇位継承に際して入城している。この時、豊臣秀頼を迎えて会見し威を示すところがあり(野志)、以後二条城は政治的性格を強めていく。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
江戸期の城。京都市中京(なかぎょう)区二条通堀川(ほりかわ)西入ルにある。戦国期にも二条城があり、江戸期の二条城とは位置が異なっている。戦国期の二条城は、1569年(永禄12)織田信長が将軍足利義昭(あしかがよしあき)のために築いたもので、場所は現在の京都御所の西隣、勘解由小路室町(かげゆこうじむろまち)で、北は出水(いずみ)通り(近衛(このえ)大路)、南は椹木(さわらぎ)町通り(中御門(なかみかど)大路)の線、東は烏丸(からすま)通り、西は新町通りの線に囲まれる範囲であったと推定される。義昭は1573年(天正1)追放され、城は信長によって焼き払われた。信長は1576年から新しい築城工事を始め、1579年ごろに完成し、誠仁(さねひと)親王に与えられ、二条御所の名でよばれていた。1582年の本能寺の変のとき、妙覚寺にいた信忠(のぶただ)(信長の長男)が入って防戦したのはこの二条御所のほうであった。場所は押小路室町(おしのこうじむろまち)で、妙覚寺の東隣である。
江戸期の二条城は、初め徳川家康によって築かれた。名目は上洛(じょうらく)の際の宿所であったが、洛中に築城した信長(二条城・二条御所)、秀吉(聚楽第(じゅらくだい))の先例に倣ったものとみられるし、また将軍になることを予想し、将軍宣下(せんげ)を受ける場所を築いたものということができる。1601年(慶長6)築城の命令が出され、翌年にはほとんどできあがっている。場所は現在の二条城の二の丸部分で、5層の天守閣も築かれていた。ついで1624年(寛永1)3代将軍家光によって拡張工事が始められた。1626年にかけて現在の二条城の二の丸西側、本丸部分が拡張され、現在みられる規模になったのである。このあと、後水尾(ごみずのお)天皇の行幸が行われている。1750年(寛延3)に天守閣が落雷により焼失、1788年(天明8)には本丸御殿も焼失してしまった。現在本丸にある本丸御殿は1896年(明治29)桂宮(かつらのみや)殿舎を移したものである。二の丸御殿は、遠侍(とおざむらい)、車寄(くるまよせ)、式台、大広間、蘇鉄之間(そてつのま)、黒書院(くろしょいん)(小広間)、白書院(御座の間)(以上国宝)、台所、唐門などからなる完全な城郭御殿の遺構であり、そのほかに、東大手門、西大手門、北大手門、隅櫓(すみやぐら)(東南隅櫓、西南隅櫓)などの遺構がある。家光が1634年(寛永11)に上洛してからのちは、14代将軍家茂(いえもち)が上洛するまで歴代の将軍は上洛せず、城代(じょうだい)が置かれていた。1867年(慶応3)この城で15代将軍慶喜(よしのぶ)が大政奉還の上表を行っている。1884年(明治17)二条離宮となり、1939年(昭和14)京都市に下賜され一般に公開されることになった。城は本丸とそれを取り巻く二の丸だけの単純な縄張りで、居館風城郭の形状を示している。
二の丸御殿は聚楽第の遺構を移したものとの伝承があったが、修理調査の結果、1624~44年(寛永1~正保1)の大改築の際に築かれたものであることが明らかになった。しかし、唐門、遠侍、式台、大広間、蘇鉄之間、黒書院、白書院の諸建物が連なる形式は、大規模な桃山時代書院造の形態を伝えている。建物の内部には障壁画が多数描かれており、白書院は狩野興以(かのうこうい)、黒書院は狩野尚信(なおのぶ)と、探幽(たんゆう)を含む狩野派の画家によるものである。庭園は特別名勝に指定されており、慶長(けいちょう)の創建時の作庭とみられ、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作ともいわれている。遠州作との確証はないが、江戸時代を通して手が加えられてはいるものの、江戸初期の代表的な庭園であることは間違いない。二条城は1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。
[小和田哲男]
関ヶ原の戦後,徳川家康がそれまでの聚楽屋敷(聚楽第の東にあった)に代わる京都の宿館として築いた城。京都市中京区にある。1601年(慶長6)に敷地を定めて町屋を移転させ,畿内の大名に造営費を課し,翌年に普請を行った。敷地は上京と下京の中間に位置し,方4町の広さをもった。堀川通りに面して東大手門を,北と西にも門を開いた。四周は水堀と石垣で囲い,その中に聚楽屋敷の建物を移築して,五重の天守をあげた。03年2月将軍宣下をうけた家康は,3月21日に入城。以後家康の宿館として11年3月には豊臣秀頼との会見もここで行われ,14,15年の大坂冬の陣・夏の陣の際も,家康はここから(将軍秀忠は伏見城から)出陣した。19年(元和5)娘和子の入内にあたって秀忠は,御殿の北側に女御御殿を造らせた。豊臣氏聚楽第への行幸にならい,二条行幸を仰ぐ準備として,24年(寛永1)から諸大名に課して普請が行われ,西方に敷地が拡張された。その中に水堀で囲われた本丸が造られた。本丸南西隅にできた天守台には,伏見城天守(関ヶ原の戦後,家康が再建)が移された。また新たに二の丸になった旧城部分の御殿も建て替えられ,その池庭の南には行幸御殿が新築された。この際の作事奉行には小堀遠州が任ぜられている。26年9月6日後水尾天皇一行の行幸があり,将軍家光の宿館となった二の丸御殿にもわたって能を見物,大御所秀忠の宿館本丸御殿では天守から京の町を見物した。この盛儀の後,行幸御殿,そして二の丸御殿の大広間,遠侍などの主建物を除いた建物群は解体され,仙洞御所,南禅寺,知恩院などへ移築された。本丸の建物はそのままで,34年家光上洛にあたって数寄屋が造られたりしたが,その後将軍の上洛はなく,1750年(寛延3)落雷によって天守を焼失,88年(天明8)京都大火で本丸建物のほとんどすべてを焼失した。
幕末に至り1866年(慶応2)将軍家茂が上洛して入城,つづいて慶喜も当城で将軍を拝命したが翌年にはここで大政奉還の上表を奉った。明治政府になって太政官代,府庁,ついで二条離宮と変わり,1939年京都市に下賜された。現在本丸には離宮時代の1893年に移築された旧桂宮邸の御殿(幕末の建築)があり,二の丸には寛永行幸当時の大広間,白書院,黒書院,遠侍,式台,台所がのこる。それらは城郭内御殿のほとんど唯一の遺構として重要。ほかにも東大手門,北大手門,東南隅櫓,西南隅櫓,米蔵など23棟がのこり国宝・重要文化財に,二の丸庭園は史跡に指定されている。
執筆者:宮上 茂隆
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京都市にある近世の平城。織田信長が現在の上京区に築いた城と,徳川家康が現在の中京区に築いた城とある。信長の二条城は1569年(永禄12)足利義昭の居館として築城。73年(天正元)の室町幕府滅亡とともに廃城。家康の二条城は1601年(慶長6)畿内の大名に命じて築城された。このときの規模は現在の東半部。11年にはここで家康と豊臣秀頼の会見が行われた。24年(寛永元)徳川家光により天下普請で拡張され,現在の規模となる。26年後水尾(ごみずのお)天皇の行幸があった。1867年(慶応3)徳川慶喜による大政奉還の舞台となる。寛永以降の城は,本丸・二の丸からなる輪郭式の縄張である。天守は5層の独立式だが,本丸全体が巨大化した連立式とも評価できる。1750年(寛延3)落雷により天守を焼失。現在,二の丸御殿が残り,国宝。全域が国史跡。
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[桃山様式の終結と転換]
確立したばかりの徳川幕藩体制は,その豊かな財力にものをいわせ,権威の荘厳のため,これまでに増して大規模な城郭や霊廟を営んだ。二条城二の丸御殿(1624‐26)はその代表的な遺構の一つであり,内部を彩る狩野探幽一門の障壁画の巨大な松の枝ぶりが長押(なげし)の上にまで延びて金地に映える壮観は,安土城以来の武将の理想の実現といってよい。だが,そうした障壁画や欄間の透し彫には,桃山美術の持つ潑剌とした感覚が薄れ,代わって格式張った荘重な雰囲気が強調されている。…
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