一般に無実の罪をいうが、法律用語ではなく、法制度上その意義が確定されているわけではない。冤罪によって起訴された事件が、裁判で無罪判決により救済されるとは限らず、その件数を統計的に確認することは不可能だが、誤った有罪判決の存在を否定することはできない。そのような誤判事件の救済は困難を極め、社会的関心の高揚によって初めて救済への道が開かれることも少なくない。
[大出良知]
たとえば、歴史上著名な事件として、1761年にフランスで発生したジャン・カラス事件がある。宗教上の理由から長男を殺害したとされたジャンは、潔白を主張し続けたが死刑に処せられた。のちになって哲学者ボルテールが冤罪をそそぐため精力的に活動することとなり、処刑後3年を経てではあったが、再審で無罪判決が言い渡されることになった。同じフランスで、1894年に参謀本部の機密を漏洩(ろうえい)したとして軍法会議で終身流刑に処せられたアルフレッド・ドレフュス大尉の事件(ドレフュス事件)では、文学者エミール・ゾラの救援活動があまりにも有名である。ドレフュスは1906年になって二度目の再審でようやく無罪となった。
また、アメリカで1920年に発生した強盗事件で、2人の無政府主義者サッコとバンゼッティが犯人とされ、死刑判決が確定した。死刑確定まで、国内に設立された救援委員会はもちろん、フランスの文学者アナトール・フランスの支援など全世界的な抗議運動が展開されたが、1927年死刑が執行された。しかし、50年後の1977年になって、死刑を執行したマサチューセッツ州の州知事はサッコ‐バンゼッティ事件の裁判が不公正であったことと、2人の名誉回復とを宣言することとなった。
日本でも、明治時代の幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らの大逆事件はじめ多くの事件が冤罪事件として関心を集めてきたが、第二次世界大戦前には、有罪判決確定前はともかく、ひとたび有罪判決が確定すると、真犯人が現れるといったことがない限り、冤罪であることを訴えるのも容易でなかった。現に大逆事件の再審請求が戦後の1961年(昭和36)になって初めて行われたり、いずれも大正初期に殺人事件で無期懲役の判決が確定し服役した吉田石松(吉田石松老事件=吉田岩窟王事件)と加藤新一(加藤老事件)の2人が、戦後になってからようやく再審で無罪判決を獲得(吉田は1963年、加藤は1977年)したりしている。とはいえ、戦後の冤罪事件への関心の高まりと救済の進展も、一朝一夕に実現したものではなかった。その背景には、1949年に発生した松川(まつかわ)事件の裁判について、ドレフュス事件のゾラにもなぞらえられる文学者広津和郎(ひろつかずお)の批判的文筆活動や、1951年に発生した八海(やかい)事件での弁護人正木(まさき)ひろしの批判活動を機に、1950年代なかばになって展開されることになった国民的な裁判批判の運動があった。そのなかで最高裁判所は、二俣(ふたまた)、花巻(はなまき)、幸浦(さちうら)、八丈島、八海、小島(おじま)、松川といった事件の一、二審の有罪判決を相次いで破棄することになった。再審請求も活発化し、大逆事件だけでなく、徳島ラジオ商殺し事件(1953年徳島市で起きた殺人事件、懲役13年の判決が出たが、1985年初の死後再審で無罪)や免田(めんだ)事件(1948年熊本県人吉(ひとよし)市で起きた強盗殺人事件、死刑判決が出たが、1983年無罪)など昭和20年代に発生し、すでに確定した事件の再審請求も行われたが、この段階で重大事件について再審が開始されたのは吉田石松に対してだけであった。昭和20年代に発生した事件の再審による救済は昭和50年代まで待たねばならなかった。
[大出良知]
1960年代に入って、一方で八海や青梅(おうめ)、辰野(たつの)といった1950年代に発生し、冤罪であると主張されていた事件の無罪判決が確定することになり、仁保(にほ)事件の救援運動が多くの法学研究者の参加も得て大きく発展することになった。しかし他方で、1960年代には、かつて再審が請求されていたか、現在も再審が請求されている名張(なばり)毒ぶどう酒事件(1961年三重県名張市で起きた殺人事件、死刑)、江津(ごうつ)事件(1962年島根県江津市で起きた殺人事件、無期懲役)、狭山(さやま)事件(1963年埼玉県狭山市で起きた強盗強姦(ごうかん)殺人事件、無期懲役)、波崎(はさき)事件(1963年茨城県波崎町、現在の神栖(かみす)市で起きた殺人事件、死刑)、袴田(はかまだ)事件(1966年静岡県清水市(現静岡市)で起きた強盗殺人、放火事件、死刑)、日産サニー宿直員殺し事件(1967年福島県いわき市で起きた強盗殺人事件、無期懲役)といった事件が発生している。
1970年代になってからは豊橋一家3人殺し事件(豊橋冤罪事件)、大森勧銀事件、都立富士高校放火事件、土田邸・日石(にっせき)・ピース缶爆弾事件、それに総監公舎爆破事件など多くの冤罪事件が発生したが、最終的にいずれも無罪が確定した。また、白鳥事件(しらとりじけん)の再審請求を求める運動が全国的に展開されるなか、1975年(昭和50)には最高裁判所が、「再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りる」(昭和50年5月20日最高裁判所第一小法廷決定)とする白鳥決定を下した。この決定を機に再審の門戸は広がり、前記加藤老事件や第二次世界大戦後1950年代なかばまでに発生した弘前(ひろさき)大学教授夫人殺害事件(1949年青森県弘前市で起きた殺人事件、懲役15年、1977年無罪)、米谷(よねや)事件(1952年青森県高田村小館(こだて)=現青森市で起きた強姦致死事件、懲役10年、1978年無罪)、徳島ラジオ商殺し事件、梅田事件(1950年北海道北見市で起きた強盗殺人事件、無期懲役、1986年無罪)、布川(ふかわ)事件(1967年茨城県利根町布川で起きた強盗殺人事件、無期懲役、2011年無罪)等々が再審で無罪となった。そこには、死刑がすでに確定していた免田事件、財田川(さいたがわ)事件(1950年香川県財田町、現在の高松市で起きた強盗殺人事件、死刑、1984年無罪)、松山事件(1955年宮城県松山町、現在の大崎(おおさき)市で起きた強盗殺人・放火事件、死刑、1984年無罪)、島田事件(1954年静岡県島田市で起きた強姦殺人事件、死刑、1989年無罪)の4事件も含まれていた。
1970年代後半から1980年代を通しての再審による救済の進展のなかで、通常手続で無罪になるケースも多くみられることになった。それは、1989年に最高裁判所が、山中事件(死刑)、新潟ひき逃げ事件、板橋強制わいせつ事件の有罪判決を相次いで破棄したことに象徴されていた。
[大出良知]
そのようななかで、冤罪を生み出す原因の究明も進められ、主たる原因として指摘されてきたのは、捜査機関による予断・偏見に基づく被疑者の特定、代用監獄を利用した密室状態のなかでの自白の強要、自白の過信などであった。そのため、自白偏重の刑事手続を改めることが緊急の課題とされ、自白を証拠として使えるかどうか(証拠能力)のチェック方法や自白が信用できるかどうか(証明力)のチェック方法についての議論も進展した。
しかし、冤罪を主張して再審を請求している名張、狭山、袴田などの事件の再審は認められず、一度再審開始決定の出た日産サニー事件の開始決定は取り消された。監獄法は2007年(平成19)に廃止されたが、代用監獄制度は代用刑事施設制度として存続し、身体拘束可能時間は短縮されず、密室での長時間にわたる取調べもなくなっていない。まだまだ冤罪がなくなるという状況ではない。
[大出良知]
『『法学セミナー増刊 日本の冤罪』(1983・日本評論社)』▽『ボルテール著、中川信訳『カラス事件』(冨山房百科文庫)』▽『ピエール・ミケル著、渡辺一民訳『ドレーフュス事件』(白水社・文庫クセジュ)』▽『小此木真三郎著『フレームアップ』(岩波新書)』▽『正木ひろし著『八海事件』(中公新書)』▽『松本清張『日本の黒い霧』』▽『開高健著『片隅の迷路』(1983・毎日新聞社)』▽『竹沢哲夫・山田善二郎編著『現代 再審・えん罪小史』(1993・イクォリティ)』▽『日本弁護士連合会編『続・再審』(1986・日本評論社)』▽『日本弁護士連合会編『日本の人権21世紀への課題――1998国際人権(自由権)規約第4回日本』(1999・現代人文社)』
無実の罪のこと。日常用語として,ぬれぎぬと同じ意味で軽く使われる場合もあるが,実際上問題なのは,罪を犯していない者が国家機関による刑事手続において,真実に反して罪人とされる場合である。刑事手続は,捜査→起訴→(有罪の)裁判→その確定と進むが,手続の進行につれて,冤罪の問題は深刻になる。とくに,有罪判決が確定し,刑の執行等が開始されたときは,その悲劇性は最高度に達し,冤の音と字義とが怨に通ずることが実感される。古く中国では,冤囚,冤苦,冤酷,冤憤などの語も使われた。近代の刑事訴訟法は,冤罪の防止に力を注ぎ,〈疑わしきは被告人の利益に従う〉という法原則,上訴制度,再審制度などを定めている。日本でも,むろんこれに従っているが,近年,死刑確定囚の事件を含むいくつかの重大事件で再審による無罪判決が出たため,冤罪の問題があらためて関心を集めた。冤罪により未決拘禁,懲役・禁錮の執行などの苦痛を受けた者に対しては,刑事補償の制度があり,また国家賠償法による救済が得られる場合もある。
→誤判 →無罪の推定
執筆者:松尾 浩也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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