百科事典マイペディア 「出石藩」の意味・わかりやすい解説
出石藩【いずしはん】
→関連項目出石[町]
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但馬(たじま)国出石郡出石(兵庫県豊岡市)を本拠とする藩。1595年(文禄4)播磨(はりま)国(兵庫県)龍野(たつの)より小出吉政(こいでよしまさ)が6万石余で入部、1604年(慶長9)嫡子吉英(よしひさ)が継ぎ、所領のうち1万石余を叔父三尹(みつまさ)に分封し5万石を領有。1613年吉英の弟、吉親(よしちか)が継いだが、19年(元和5)ふたたび吉英が岸和田(きしわだ)から戻り、吉重、英安(ふさやす)、英益(ふさえき)、英長(ふさなが)、英及(ふさつぐ)と続いたが、1696年(元禄9)英及が夭折(ようせつ)したので断絶した。翌年、松平(藤井)忠周(ただちか)が武蔵(むさし)国(埼玉県)岩槻(いわつき)から4万8000石余で入部、1706年(宝永3)仙石政明(せんごくまさあきら)が信濃(しなの)国(長野県)上田から5万8000石余で入部、所領は但馬の出石、養父(やぶ)、気多(けた)、美含(みくみ)の4郡、播磨の加東(かとう)、加西(かさい)の2郡に及んだ。政房、政辰(まさとき)、久行、久道、政美、久利(3万石に減封)、政固と継いで廃藩置県(1871)に及んだ。小出氏はもと豊臣(とよとみ)秀吉に仕え、吉政は関ヶ原の戦いに徳川方に属して本領安堵(あんど)された家筋、仙石氏も秀吉に仕え、のち徳川家康に帰属した外様(とざま)大名筋であった。仙石政辰は藩政45年間、文教の普及に努め、養蚕業、絹織物業を盛んにし、ことに陶磁器の製造を奨励するなど治績をあげた反面、出石町の大火や水害を被り、治安は動揺した。政美の没後の天保(てんぽう)年間(1830~44)に、その後継をめぐって仙石騒動という御家騒動が起こった。幕府は理非をただして、主家を奪おうとした家老上席仙石左京らを罰するとともに、出石藩の石高を3万石余に半減し、明治初年に至った。
[小林 茂]
但馬国(兵庫県)出石郡出石を城地とする外様中小藩。1595年(文禄4)豊臣秀吉から6万石をあてがわれた小出吉政は,関ヶ原の戦に西軍に属したが,父秀政の功に免じて取りつぶしを免れた。1604年(慶長9)2代吉英(よしひさ)の代,有子山麓に城と城下町が建設された。4代吉英(再入封)の後は短期間に代を重ね,96年(元禄9)ついに嗣なくして断絶した。そのあと松井忠周を経て,1706年(宝永3)仙石氏が5万8000石で入封定着した。18世紀後期,養蚕,絹織物,陶磁器(出石焼)などの国産振興をはかったが,文政期(1818-30)城下の大火と相次ぐ天災で,藩財政は極度に窮乏した。その打開をめぐる対立の果てに,いわゆる仙石騒動が起きる。この騒動は大老上席仙石左京の主家乗っ取りの陰謀事件として芝居・講談などに物語化され上演されてきたが,実は財政再建をめぐる改革派と守旧派の対立抗争であった。この騒動で1835年(天保6)仙石氏は3万石に減知され,廃藩置県に至った。
執筆者:八木 哲浩
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…但馬国(兵庫県)出石(いずし)藩仙石氏の御家騒動。仙石氏の財政窮乏は19世紀に入って深刻化し,その立直しをめぐり大老(家老)の家筋である仙石式部家と主計(かずえ)家の対立が生じた。…
…こうして所領配置は定着期に入り,豊岡藩は杉原氏が絶家したため68年入封した京極氏で定着した。また96年(元禄9)にいたって出石藩小出が断絶したため,97年松平忠周が出石に入封している。1706年(宝永3)松平は信州上田の仙石政明と交代し,ここに出石藩は仙石氏が入封して定着した。…
※「出石藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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