フォッサマグナを境とする日本列島の東半部と西半部とは,植生などの自然条件に大きな差異があり,旧石器時代からすでに文化の違いがみられた。縄文時代,それはさらに鮮明になり,狩猟,漁労,採集の条件に恵まれた東日本には成熟した採集・漁労民の社会が形成されるが,西日本には朝鮮半島南東部ともかかわりをもつ漁労民の文化など,人口は東日本に及ばないながら独自な文化を保持したといわれる。そして縄文晩期,西北九州に稲作の技術が伝播したのを契機に始まる弥生文化が西日本に急速に広がったのに対し,東日本がしばらく縄文文化にとどまったことは,この差異をさらに著しいものにした。
西日本には水田を基礎とする国家が東日本に先んじて形成され,やがて畿内を基盤とする政権が日本列島の主要部に影響を拡大し,東北北部を除く東日本もその影響下に入るが,この政権を構成する人々は,東日本を〈あづま〉〈東国〉といっており,それはまず関東・東北地方を意味していた。しかし〈東歌(あずまうた)〉のとられた範囲,防人(さきもり)の動員された地域からみると東国はさらに広く,縄文・弥生時代の東日本とほぼ一致する越後・信濃・三河以東の地域を指すことが多く,事実この地域は言語,民俗においても西日本と異質なものをもっていた。それゆえ,畿内の政権は東国を,新たに征服したみずからと異質な地域とみなしていたのである。645年(大化1)蘇我氏を滅ぼした新政府が直ちに〈東国等国司〉をこの地域(北陸を含むか否かをはじめとし諸説あるが,おそらく三河・信濃以東の東海・東山道を中心とする地域)に派遣したのも,東国の支配の成否が政府の存立にかかわる問題だったからである。672年(天武1)の壬申の乱においても,東国の向背は乱を決する意味をもち,大海人皇子(おおあまのおうじ)(のち天武天皇)は美濃に入り,東国の軍勢を動員しえたことによって勝利することができた。東国が畿内を中心とする国家の支配下に名実ともに組織されたのは,逆にこれ以後ということもできるのである。
東国にも東北北半を除いて国郡制が一応貫徹し,天武朝以後,伊賀以東の東海道,あるいは美濃以東の東山道を〈東国〉とする呼称が新たに用いられるようになり,三関以東は〈関東〉,関東・東北地方は〈坂東〉〈山東〉と呼ばれた。しかしすでに古墳時代,毛野(けぬ)氏などの自立的な勢力を生み出した東日本の社会は,律令国家の支配下にそのままとどまってはいなかった。9世紀後半以降,東国には〈僦馬(しゆうば)の党〉をはじめ大規模な〈群盗〉の蜂起が起こり,10世紀前半の承平・天慶の乱を通じて,平将門(たいらのまさかど)は京都の〈本天皇〉に対抗してみずから〈新皇〉と称し,坂東8ヵ国を基盤とする自立した国家を樹立したのである。この国家がごく短期間で崩壊したのち,武将たちは王朝国家の下にあって,東国土着の勢力との結びつきを強めつつその実力を蓄え,11世紀に入ると,東北にも独自な政権ないし小国家の生まれる兆しが現れてくる。
こうした情勢を背景に,12世紀末の動乱の中で鎌倉幕府が樹立される。その評価については大きく2説に分かれ,王朝国家の軍事・警察の機能を請け負う権門とする説と,将門の伝統を負う自立した東国国家あるいは東国政権とみる説とが対立している。幕府自体,この二つの方向の間で動揺したことは事実であり,その基盤となった東国の範囲も,鎌倉時代を通じて変動している。1183年(寿永2)10月の宣旨で,源頼朝の実力支配が及んだ国々と王朝が認めた東国の範囲は東海道,東山道を指していたが,85年(文治1)には尾張以東,翌年には三河・信濃・越後以東の東日本が東国とされた。しかし承久の乱(1221)の勃発当時には,遠江・信濃以東の国々が〈関東分〉といわれており,かなり縮小しているが,乱後設置された六波羅探題の管轄範囲は尾張・飛驒・加賀以西であり,1186年当時と比べると,北陸について能登,越中が東国に入ったと推定され,この範囲は長く動かなかった。ただ1319年(元応1)三河,尾張,伊勢,志摩,美濃,加賀が幕府の管轄下に入ったことがあるが,翌年,三河を除き旧に復している。このように東国の範囲は,幕府と朝廷,鎌倉と京都との間の力関係に応じて多少の変動はあったが,おおよそ三河・信濃・越後以東については東国とする意識が強かったとみられる。
佐藤進一が第2次大戦前すでに〈東国行政権〉と規定した,鎌倉幕府のこの地域に対する権限は,国衙に対する支配権,国の境あるいは2本所間の境相論(さかいそうろん)の裁判権,棟別銭(むなべちせん)賦課を含む交通路支配権などの統治権的,地域的な支配権であり,元号の制定,官位の叙任権は王朝の手に掌握されていたとはいえ,これを東国国家と規定することは十分に根拠があるといってよい。事実,元号については,頼朝のときの治承5,6,7年,幕府最末期の元徳3,4年など王朝の元号と異なる元号(異年号)が使用され,官位についても,幕府は御家人たちに強い規制を加えていたのである。また幕府がみずからを〈関東〉といい,王朝の用語では九州を指す西国(さいごく)の語を,畿内近国・九州全体を含む地域(鎮西探題成立前の六波羅探題管轄地域)を示す語として早くから用いたことは,この地域をみずからの基盤である東国と異質な地域とみなす意識が,幕府自体にはっきりと存在したことを物語っている。
実際,中世においても東国と西国の社会には明瞭な差異が認められる。東国も西国と同じ土地制度,荘園公領制の上に立ってはいるが,その単位は郡を基本とし,《和名類聚抄》に載る古代の郷が消滅したあとに成立した新たな郷がその下部単位をなし,名(みよう)は著しく未発達で,在家(ざいけ)が田畠とともに収取単位となっている。おのずと郡そのものが荘園になる場合が多く,荘の規模はきわめて大きい。九州南部などはこれに類似しているが,西国の場合,全体として《和名抄》の郷が維持され,保,名などの小さな単位が多数郷から分出し,荘園の規模も東国に比べれば小さい。また収取単位としての名の発達が著しく,荘園・公領内部にも百姓名が成立している。さらに東国の荘園・公領は下司(げし)・郡司の下に郷があるという単純な構成であるのに対し,西国では領家職(りようけしき)・預所職(あずかりどころしき),下司職,公文職(くもんしき)などが重層する,いわゆる〈職(しき)の体系〉を顕著に発達させているのである。
これは直接的には,それぞれの単位を請け負い,管理している郡司,郷司,名主(みようしゆ)などの領主のあり方の差異の現れとみることができるが,より根底的にはそれを支える社会の構造の違いがこの差異を生み出したものと思われる。東国においては郡司の地位を世襲する豪族的な大領主が,惣領制的な一族関係,主従関係を支えとしつつ,郡内の諸郷を一族・家臣に分与し,惣領を中心とする大武士団が広くみられる。これに対し,西国では郷司,下司,公文,名主などの中小規模の領主たちが,国人(こくじん)として傍輩(ほうばい)の関係を結び,横に連帯した結合をする傾向が強い。鎌倉時代の領主たちの中では,全体として女性に大きな権利が認められ,姻戚が重んぜられるが,東国では家長,惣領が大きな力をもつのに対し,西国のほうが女系,姻戚を重視する傾向が強く,西国に広くみられる一時的訪婚(婿入婚)に対し,東国では早くから嫁入婚であったという説も提出されている。村落についても,西国においては百姓名の名主になるような本百姓,老(おとな)を中心に座的な構造をもち,宮座が広く見いだされるが,東国には宮座は未発達で,大きな中心的なイエに小さなイエが結びついた同族的な村落が多いといわれているのである。さらに,西国では職能が世襲される傾向が東国に比べると強く,それが〈職の体系〉を支えたとも考えられる。
生産基盤においても,水田優位の西国に対して東国は畠作を発展させており,荘園の年貢も東国は圧倒的に絹,糸,綿,布などの繊維製品であった。そしてしばしば西船東馬といわれるように,交通手段,軍事力の性質も西国と東国では異なる特徴をもっていたのである。東国国家あるいは東国政権をたえず生み出しつづけてやまなかったのは,こうした西国と異質な東国の社会,生活そのものであった。
鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の建武政府は〈天下一同〉の支配を目ざしたが,1334年(建武1)早くも成良親王を奉じた足利直義(ただよし)を鎌倉に遣わし,関東8ヵ国に伊豆,甲斐を加えた10ヵ国を統轄する鎌倉将軍府を認めた。これは事実上,東国政権としての鎌倉幕府を継承する機関であったが,これよりさき,後醍醐は義良親王を奉ずる北畠親房・顕家を陸奥に派遣,陸奥将軍府を設けて鎌倉を牽制させている。11世紀以来,安倍氏,清原氏,奥州藤原氏による小国家ともみられる自立した勢力を生み出した東北は,頼朝によって征服されたのちも東国の中で独自な立場を保っていた。後醍醐はそれを利用して関東に対抗させようとしたのであるが,足利尊氏も九州に対する軍事指揮権を後醍醐に認めさせ,これに拮抗しようとしている。九州もきわめて古くから西国の中で畿内に対して独自な立場を保つ地域で,鎌倉幕府も東国につぐ強力な支配権をここに行使しており,鎮西探題設置後その自立性はいっそう明らかになっていた。このように東北と畿内の結びつきに,関東と九州の結合が対抗する政治的図式は,すでに後白河・奥州藤原氏に対する頼朝・九州という形で現れており,後年の室町公方(くぼう)・篠川(ささがわ)公方に対抗する鎌倉公方・大内氏の場合も,この図式によって理解することができる。この現象は東国の中の東北,西国の中の九州が,それぞれ独自な歴史と特徴をもち,自立した政治勢力を生み出しうるだけの地域であったことを前提にしなくては理解し難い。
建武の内乱のさい,足利直義は成良を京に送還したのちも三河にとどまり,東国自立の方向を目ざしたとみられており,室町幕府成立当初《建武式目》制定のさいも,幕府を鎌倉に置くか京都とするかをめぐって対立があったと推定されている。この対立は観応の擾乱(かんのうのじようらん)のさいの直義派と高師直(こうのもろなお)派との対立として表面化し,幕府が安定したのちも鎌倉公方(鎌倉府)と室町公方(室町幕府)との対立として長くあとをひいた。こうした東西の対立の中で,〈関東分国〉といわれた鎌倉府の管轄地域も変動があって,観応の擾乱前後,駿河や信濃が関東10ヵ国に加えられたこともあり,逆に武蔵を闕(か)いたこともあった。しかし1392年(元中9・明徳3)陸奥,出羽が加わり,永享の乱(1438)による鎌倉府崩壊まで,関東10ヵ国にこの2国を加えた12ヵ国が,鎌倉府によって統轄されたのである。
鎌倉府の権限は当初,室町幕府の地域機関として軍事的指揮権にとどまっていたが,しだいに裁判権などの統治権を委譲されて自立性を強めて室町幕府と対立し,応永の乱(1399)はその中で起こった。とくに足利持氏が永享改元を無視して正長2,3,4年の異年号を用い,京都の側でも駿河,信濃を〈国境〉の国と呼んだように(《満済准后日記》永享6年10月29日条など),双方とも東国と西国を意識したきびしい対立が現れ,ついに永享の乱が爆発,鎌倉府はいったん崩壊する。
乱後,1448年(文安5)鎌倉公方となったとみられる成氏はみずから徳政を行い,《鎌倉年中行事》を編んでいるが,昔日の権限を失っていた。しかし54年(享徳3)の関東の動乱後,東国は全体として室町幕府の支配から離れた独自な歩みを進め,成氏も京都の改元を用いず,享徳の元号を使用しつづけるなど,これ以後,異年号はしきりに関東に出現する。
日光山は東国の聖地として,古くから東国の政治勢力と密接な関係を保ち,鎌倉公方と深いつながりをもっていたが,成氏の用いた延徳,福徳などの異年号も,日光と関連があるとする説も提起されている。戦国の動乱の中で関東南部の支配者になった後北条氏も,東国国家の伝統をうけつぐ意識をもち,〈関八州国家〉を目ざしたといわれており,日光も最後までこれに荷担しつづけた。この時期も東国には,印判状の使用,書状の独自な様式(竪切紙,追而書(おつてがき)の位置,横ノ内折式),6町1里とする里制などの地域的特質を保持しており,江戸に幕府を樹立した徳川家康がみずからを日光にまつらせたのも,やはり東国国家を意識したものといえよう。その意味で,関ヶ原の戦における東軍の勝利は,東国国家による全国的支配をはじめて実現したともいえるのである。
江戸時代の東国についても,検地に後北条氏の伝統が残り,大坂の銀遣いに対する金遣いの経済など,地域的な特色がみられ,それは現在の民俗にまで,色濃くそのあとをとどめている。
→西国
執筆者:網野 善彦
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「あずまのくに」ともいう。古代以来、広義、狭義があり、(1)畿内(きない)の東の東山道(とうさんどう)・東海道(とうかいどう)諸国をすべてさす、(2)東海道の相模国足柄山坂(さがみあしがらやまさか)以東(坂東(ばんどう))および、東山道の上野(こうずけ)国碓氷(うすい)峠以東(山東(さんとう))をさす。(3)、(2)から陸奥(むつ)、出羽(でわ)二国を除き、甲斐(かい)、相模、伊豆(いず)、武蔵(むさし)、下総(しもうさ)、上総(かずさ)、安房(あわ)、常陸(ひたち)、上野、下野(しもつけ)10か国、(4)、(3)から甲斐、伊豆を除いた八か国、などさまざまな用いられ方がある。また坂東、関東などの表現もある。『万葉集』の東歌(あずまうた)の収載範囲は、遠江(とおとうみ)、信濃(しなの)以東で、この地域は越後(えちご)を含めて東国方言の使用される地域である。
1180年(治承4)源頼朝(よりとも)は伊豆に挙兵し、挙兵後3年にして、伊勢(いせ)~常陸の東海道14か国、美濃(みの)より下野に至る東山道五か国計19か国を実力で支配下に収め(のちに陸奥、出羽も含める)、1183年(寿永2)の宣旨(せんじ)によってこの地域の国衙在庁(こくがざいちょう)指揮権を掌握して、鎌倉の政権を成立させた。室町幕府のもとでは、関東10か国および陸奥・出羽には鎌倉府(関東府)が置かれ、将軍の一族が鎌倉(関東)公方(くぼう)として支配する地域となった。この地域の大半は、戦国大名小田原北条氏の領国となり、北条氏の滅亡後、徳川家康がここに移封され、江戸幕府成立の基盤とした。
[峰岸純夫]
『尾崎喜左雄著『東国の国造』(『続日本古代史論集 上』所収・1972・吉川弘文館)』
都(みやこ)(京都)の東の方角にある諸国の総称で東国(とうごく)とも単に東(あずま)ともいう。文化、言語的に、都を中心とする西部日本との隔たりが大きく、未開、後進の地域とみられがちであった。その範囲は時代や文献で異なり、古代では、関東・東北地方、信濃(しなの)(長野県)・遠江(とおとうみ)(静岡県)より東、近江(おうみ)(滋賀県)の逢坂(おうさか)山より東をさす場合があり、中世・近世にはとくに京都からみて鎌倉、江戸をさすこともある。また、へんぴな片田舎(いなか)の意でも用いられた。
[藁科勝之]
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(1)奈良時代には,①鈴鹿・不破・愛発(あらち)の三関(さんげん)より東の地域をさす場合,②足柄・碓氷(うすい)の二関より東の地域をさす場合,③あるいはその中間の遠江・信濃両国より東の諸国をさす場合などがあった。(2)鎌倉時代には幕府の直轄支配地域であった遠江・信濃・越後より東の諸国を東国とよぶ場合が多かった。(3)室町時代には鎌倉府(関東府)の管轄地域である「関東」10カ国(現在の関東地方8カ国に甲斐・伊豆両国を加えたもの)と同義で使用される例が多くなり,「東国」の用例は少なくなった。
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…日本においても,騎馬をどれだけ保有するかは重要な関心の的であった。東国武士団が鎌倉時代以後,畿内先進地域に対して,武力的に優位を得ていく過程を考えるとき,馬産に適した東国の立地を無視することはできない。まさによき馬とよき騎士を多くもつことは,覇権を握ることを意味した。…
…そのさい妃は〈さねさし相模(さがむ)の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも〉との歌を残し,7日後に妃の櫛が海辺に流れついたという。のち東国を平定したヤマトタケルが足柄峠を越えた時,〈あづまはや〉(わが妻よああ)と三たび嘆いたが,爾来,東国(足柄以東)を〈あづ(ず)ま〉と呼ぶに至った,とも語っている。《日本書紀》は穂積氏忍山宿禰(おしやまのすくね)の女とするが,実在の人物とはみなしがたく,むしろ東国における早くからの宮廷直轄領(屯倉(みやけ))が武蔵国橘樹(たちばな)郡にあったことにちなむ物語上の命名であろう。…
…鎌倉幕府の将軍の支配していた知行国。当時の史料上では,幕府が直接の基盤として特に強力な支配権を有していた東国の意味に用いられている場合がむしろ多いが,現在の学界では将軍家の知行国の意味に用いるのが普通であり,以下もその立場から述べる。将軍家知行国とは,将軍が朝廷から与えられた国のことで,将軍は知行国主として御家人を国司に推薦し,国衙(こくが)を支配して国衙領からの収入を取得した。…
…石井進はこれを領主制説に対する反領主制説としているが,この2潮流は相互に交錯しつつも,二つの中世社会論として現在にいたっている。 このうち領主制説が東国の実態に比重をおき,武家政権中心にその説をたて,分権的・多元的にこの社会をとらえるのに対し,反領主制説は西国(さいごく)の状況に立脚して朝廷,大寺社に焦点を合わせ,この社会の集権的・集中的な側面に注目する。前者の立場からは東国国家,東国政権の存在を主張し,鎌倉幕府,江戸幕府の成立にそれぞれ中世,近世の起点を求める見方がでてくるが,南北朝の動乱の社会的・政治的意義を重視し,室町幕府の確立に封建国家成立の重要な画期を見いだす見解は,どちらかといえば後者の説に親近性をもつといえよう。…
※「東国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
個々の企業が新事業を始める場合に、なんらかの規制に該当するかどうかを事前に確認できる制度。2014年(平成26)施行の産業競争力強化法に基づき導入された。企業ごとに事業所管省庁へ申請し、関係省庁と調整...
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