翻訳|myth
人間は古来,どの文化においても,太古に起こったとされる一連のできごとに関する物語によって,世界と人間の起源や,それぞれの文化の中で人間が遵守せねばならぬ制度・習俗などの由来に説明を与えてきた。この物語が神話であり,神話にはそれゆえ,それを生み出した文化の世界観が表明されている。
どの文化によって生み出される神話も,神話が本来人間の文化の中でもつ意味を保持し,機能を果たし続けているあいだは,その文化の中で生きる人々によって,世界のあり方と人間の生き方について,議論の余地なく承認され,帰依されねばならぬ,絶対的な真実を啓示する神聖な物語として,伝承され,信奉され,尊ばれる。多くの文化では,神話は,女子や子どもにみだりに知らせてはならぬ〈秘伝〉として取り扱われ,ただ成人の男子にだけ,〈加入儀礼〉の中で〈伝授〉される。神話のもっとも〈奥義〉的な部分は,成人男子の中でも一部の有資格者にしか知らされぬ場合も少なくない。
神話はそれゆえ,どの文化においても,それを信奉して生きる人々の生活を細部にまでわたって律することになる。言い換えれば人間は,古来どの文化においても,特定の神話の体系を生み出しては,それを絶対の神聖な真実として信じ,それに従って生きることを続けてきたので,文化とは,取りも直さず,ある一定の場所と時代に,特定の神話体系を共有し,それを生きる人間の営為の総体にほかならない。つまり人間の文化は,どれもがあらゆる局面でその生み出した神話を反映しており,全体が神話の表現にほかならぬので,その中で行われる,他の文化に属する者の目には大部分が〈異様〉で〈無意味〉に見える制度や習俗が,なぜ〈不可避〉かということも,それに〈必然〉の意味を付与している神話に照らして見て,はじめて理解されるのである。
それぞれの文化が生む神話の体系は,その文化に特有のものであり,世界中の神話の内容はそれゆえ,当然きわめて多種多様である。日本をはじめ,ギリシア,ゲルマン,エジプト,メソポタミア,インドその他,われわれに比較的なじみが深い多くの古代文化では,神話の主人公は言うまでもなく,太古にその活動によって世界と人類を発生させ,人間の生き方と運命を定めたうえで,現在も天上などに住み世界を支配し続けると信じられている,不死の神々である。しかし世界中のすべての神話が,このような天上に住み,不死を特徴とする神々を,主人公に持っているわけではない。無文字民族の文化に,口伝えで伝承されてきた神話の中には,人間の祖先たちや,その仲間で彼らとの区別がしばしばあいまいな,人語を話す動物たちなどを主人公にするものの数も多い。これらの祖先や動物たちも,太古にその活動によって世界の秩序と人間の運命を決定したことが神話の中で物語られているので,その点では明らかに,日本やギリシアなどの神話の神々とも共通するところが認められる。しかし神話の物語る事件が起こったあとには,彼らの大部分は,自分たちが引き起こしたその事件によってはじめて明瞭に定められることになった区別に従って,ただの人間や動物などになり,やがて死なねばならなかったとされている。ドイツの民族学者A.E.イェンゼンは,無文字民族の神話に登場するこのような祖先や動物なども,神話の主人公であるという点から,明らかに神の一種と認めねばならぬと主張した。そしてニューギニアのマリンド・アニム族が,神話の祖先たちを指して用いている呼称をそのまま学術用語にして,彼らを〈デマ神Dema-Gottheit〉と呼び,ギリシア神話などの不死の神々から区別しようと提唱している。デマ神を主人公とする神話は,イェンゼンが指摘したように,熱帯地方でイモとヤシやバナナなどの果樹類を栽培して暮らしている人々の文化に,ことに特徴的な形で共通して見いだされる。イェンゼンは彼らを〈古栽培民Altpflanzer〉と名づけた。この文化の神話に物語られている中心的事件は,デマたちによる仲間のデマの殺害である。殺されたデマの身体は,ばらばらに切り刻まれ,その一つ一つの断片からそれぞれ種類の違うイモや果樹などが発生して,以後人間はそれらを栽培し主食にして生きることになった。他方この殺害によって死が人間の不可避の運命に定まり,それと同時に人間は,男女で生殖行為をして子孫を残すようになり,また他の動植物や精霊などから,はっきり区別されるようになったとされている。
〈古栽培民〉の文化に特徴的なこの型の神話を,イェンゼンは,モルッカ諸島のセラム島に住むウェマーレ族の神話に登場する女性主人公の名を取って〈ハイヌウェレ型神話〉と名づけた。殺されたハイヌウェレの身体にほかならぬ作物を食べて生きることが,人間の運命となったと物語ることによって,この神話は,人間が人間であり続けるために殺害と食人が不可避であるという世界観を表明し,それによって,これも〈古栽培民〉に特徴的な習俗である首狩りや食人の儀礼の由来にも説明を与えている。
このハイヌウェレ型神話の類型に明らかに当てはまる話は,日本神話の中にも見いだされる。《古事記》によれば,素戔嗚(すさのお)尊によって殺害された大気津比売(おおげつひめ)神の身体の頭からは蚕が,両目からは稲が,両耳からはアワが,鼻からは小豆が,陰部からは麦が,尻からは大豆が発生し,神産巣日御祖(かみむすひのみおや)命がそれらを天上に取り寄せて,高天原で農業と養蚕を創始した。《日本書紀》では,これとまったく同類の話が,月読(つくよみ)尊に殺された保食(うけもち)神の身体のいろいろな場所から発生した五穀や蚕などが天上に運ばれ,天照(あまてらす)大神がそれによって農業と養蚕を創始したという形で物語られている。
この例からも知られるように,世界中の神話は,内容が前述したとおりきわめて多様であるのに,その反面,遠く離れた地域の神話のあいだにも非常にしばしば驚くほどの類似や一致が見いだされる。それには大きく言って二つの理由が考えられる。
まず,それぞれの文化が生み出す神話の体系は,前述したようにその文化に固有のものだが,だからと言って,まったくの無から新しく創出されるわけではない。どの文化の神話の内容にも必ず,接触した他の文化の神話から取り入れられた話や話素が含まれている。つまり人類の歴史を通じて,神話はいつの時代どの場所でも,つねに相互に影響を与え合ってきたので,この神話の相互的影響の過程を旧石器時代までさかのぼらせて考えてみれば,世界中の神話はどの二つを取り上げても,たがいにまったく無関係なものはないと極論することもできるわけである。
事実たとえば,日本神話の中のとくに特異で印象的な挿話の一つに,スサノオの〈泣きいさち〉の話がある。黄泉の国から帰った伊弉諾(いざなき)尊が,死者の国で身に受けた汚れを洗い清めようとしてみそぎをしたおりに,その鼻から出生したスサノオは,生まれるとすぐに父の神から〈汝が命は海原を知らせ〉と命令され,海の支配者に任命された。ところがスサノオはこの命令に従わずに,死んで黄泉の国にいる母の伊弉冉(いざなみ)尊を慕って,長いひげが胸元にのびるまで,猛烈な勢いで泣きわめき続けた。そして青山を泣き枯らして枯山にし,川や海の水もすっかり泣き干してしまった。怒ったイザナキによって地上から追放されると,彼は高天原に昇って行って,そこでさんざん乱暴を働き,しまいに太陽女神のアマテラスが岩屋に隠れてしまう〈天の岩屋戸〉の事件を引き起こして,世界中を真暗やみに陥れたと言われている。
フランスの人類学者で,現代における神話研究の最高権威者の一人であるレビ・ストロースは,このスサノオの話とうり二つと言ってよいほどそっくりな話が,南アメリカのアマゾン地方の原住民たちのあいだに見いだされることに注目した。レビ・ストロースがあげている話の一つでは,主人公はスサノオと同様に母の死後に水の中に出生し,水から引き上げられても,父を憎悪して〈まるでいま生まれたばかりの赤子のように〉いつまでも激しく泣き叫び続けた末に,天に昇って行き,アマゾン地方では人間の病気の原因と信じられているにじになったとされている。別の話では,主人公はいつまでも泣きやまず,泣き声によって人間の暮らしを不可能にしたうえに,最後には川の水をすっかり干上がらせ,それから天に昇ったと言われている。レビ・ストロースは,南アメリカの神話と日本神話のあいだにこのような不思議な類似が見られるのは,旧石器時代にアジア大陸からもたらされた話素が,両方の地域の神話の共通の基層となっているためではないかと推定している。
日本神話はまた,これも日本から遠く隔たった地域であるギリシアの神話とも,いろいろな点で,偶然の所為とは思えぬほどよく似ている。イザナキの〈黄泉国(よみのくに)訪問〉の話は,死んだ妻を地上に連れ戻そうとして,地下の死者の国まではるばる旅をして行った夫が,冥府で課された妻を見てはならぬという禁止に背いたために失敗し,一人で地上に帰らねばならなかったという筋が,ギリシア神話のオルフェウスとエウリュディケの話にまったく一致している。そのうえ日本神話では,イザナキが冥府に着いたとき,イザナミは,自分がすでに黄泉の国の食物を食べてしまったために,せっかく迎えに来てくれても,すぐには夫といっしょに地上に戻ることができないと言って嘆いたと言われている。これはペルセフォネが,冥府でザクロの実を食べてしまったために上界に復帰できず,死者の国の女王にならねばならなかったという,ギリシア神話の話とそっくりである。ギリシア神話にはさらに,大地と農業の女神デメテルが馬に変身した弟のポセイドンに暴行され,憤慨して岩屋に隠れて世界中を飢饉に陥れ,神々を困惑させたという話があるが,これも日本の〈天の岩屋戸〉の話と驚くほどよく似ている。日本神話でもアマテラスは,弟のスサノオから受けた乱暴に怒って岩屋に隠れている。スサノオはアマテラスがいた機織の御殿に,屋根から皮をはいだ馬を投げこんだ。すると《古事記》によれば,機織をしていた天の服織女(はたおりめ)が,それを見て驚愕のあまり,手に持っていた梭(ひ)(横糸を通す用具)で自分の女性器を突き刺し,死んでしまった。《日本書紀》には,突然投げこまれた馬を見てびっくりし,梭で自分の身体を傷つけたのはアマテラス自身だったと記されている。このスサノオの乱暴は,馬が使われ,女神の女性器が刺し貫かれているという点で,前述したギリシア神話でポセイドンがデメテルに対して加えたとされている暴行を,まさに彷彿させる。
バウボという名の女性が,デメテルの怒りを解くために自分の恥部を露出して見せて笑わせたというギリシア神話の話は,天鈿女(あめのうずめ)命が,岩屋に隠れたアマテラスの怒りを解くために踊りながら乳房と陰部を露出して見せ,神々を哄笑させたという話と,これもきわめてよく似ている。大国主(おおくにぬし)神とアドニスの神話にも,どちらも絶世の美男子で,地上でも地下でも女神をひと目で恋に陥らせ,狩りに出てイノシシを捕らえようとして殺され,木の幹の中から取り出されているなど,いろいろな点で著しい類似が見られる。
ギリシア神話と日本神話とのこれらの類似は,ただの偶然の結果とはとうてい考えられない。日本神話が,《古事記》と《日本書紀》に見られるような皇室の王権神話の体系に形成されつつあった時期に,日本がもっとも密接な交渉を持った地域は朝鮮半島だった。当時の朝鮮半島では,イラン系の遊牧民スキタイ人のあいだで発生してユーラシアのステップ地帯の全域に広まったいわゆる〈騎馬民族〉の文化が受容され,とくに支配層に強い影響を及ぼしていた。そのスキタイ人は,彼らの居住地だった黒海の沿岸に建設された多くのギリシアの植民市を介して,ギリシア人と盛んに交易し,ギリシア文化の影響を受けていたことが知られている。ギリシア神話からの影響はそれゆえ,スキタイ人に受容されたものが,朝鮮半島を経由して伝わるという経路で,〈古墳時代〉の日本にもたらされたと考えられるわけである。
しかしこのように人類の歴史を通し世界大の規模で行われてきた,ある地域から別の地域への神話の伝播によっても,世界中の神話のあいだに見いだされる類似のすべてを説明することは不可能と思われる。なぜなら世界の神話に共通する内容のある部分は,そういう神話をまったく知らぬ人が見る夢の中にもしばしばよく似た形で現れることが,深層心理学者たちによって注意されている。この事実に注目した,スイスの心理学者C.G.ユングは,人類に共通する〈普遍的無意識〉collective unconsciousの存在を想定した。そして夢や神話やさらにおとぎ話などにも共通して見いだされる表象や筋は,彼が,〈元型archetype〉と呼び,〈ペルソナpersona〉〈影shadow〉〈アニマanima〉〈アニムスanimus〉〈自己self〉〈太母Great Mother〉など,いくつかの類型に分類を試みている,この〈普遍的無意識〉の働きによって,生み出されると考えた。
たとえば,ユング派の心理学者たちによれば,心理的成長の過程で人間は,それまで無意識にいわば埋没したような状態にあった意識を自立させて,他と明確に区別される〈自我ego〉として確立させる必要がある。その場合に,幼児期にはもっぱら生み養い育てる〈善い母Good Mother〉として作用していた〈太母元型〉の働きが,一転して自我の無意識からの自立を妨げようとする恐ろしい怪物のような〈呑みこむ太母Devouring Great Mother〉として体験される。つまりおとなへの成長を遂げるためには,人間はだれも,自我を呑みこんで離すまいとするこの〈呑みこむ太母〉の猛烈な威力と対決し,それを克服せねばならぬので,世界中の神話やおとぎ話などにも,夢にも,よく似た形で共通して出てくる怪物を退治して美女や宝物などを獲得する英雄の話は,ユング派の心理学者たちによれば,この困難と必要とを表現したものにほかならない。
全人類に普遍的な〈元型〉は,ユングによれば言うまでもなく,一見すると神話を持たず,それとまったく無関係に生きているように見える合理主義者的な現代人の心理の深層でも,働きを続けている。つまり,太古に起こった事件を物語る話の体系としての神話を信じ,それに従って生きることをもはやしていない現代人も,実は心理的自立を遂げるためには,一人一人が,神話の物語るスサノオの大蛇退治などとまさに相当する難事である〈呑みこむ太母の殺害〉を果たさねばならぬわけである。それができぬ場合には,その人は無意識の中で働く母の像から乳離れができぬまま,ユングの言う〈永遠の少年puer aeternus〉の状態にいつまでもとどまり,地に足の着いたおとなの生き方がけっしてできぬことになる。
古来,人間の文化と不可分であり続けてきた神話は,ユングによればこのように,一見すると神話をまったく喪失したように見える現代の文化においても,人間の生の根本にかかわる重大な意味をもち,働きを続けている。つまり人間には,神話に従って生きる以外の生き方はけっしてできぬので,現代の文化の中でもわれわれは,それと意識せずに神話を創出しながら,その神話を生きることを続けているわけである。
→ギリシア神話 →神話学 →日本神話
執筆者:吉田 敦彦
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神話を明確に定義づけることはむずかしい。というのは、この語は説話や伝説、あるいは現実には起こりそうにもない話など、あまりに多様な用いられ方をするだけでなく、神話の研究者の間でも用法が一定していないからである。イギリスの古典学者カークG. S. Kirk(1921―2003)のような大家すら、厳密な定義をすること自体が不可能であり、また無理に定義づけをするとかえって神話を理解しにくくする、と明言している。しかし神話と総称されるものが、多少あいまいではあっても、人間の文化のなかで重要な意味をもち、またその役割を果たしてきたことには疑問の余地がない。神話に学問的定義を与えるのが困難になった最大の理由は、それぞれの文化によってこの事象に微妙な違いがあることが認識された結果にほかならない。
人間は、太古に生まれた物語を、神聖な説話として伝承してきたが、その内容は一見するといずれも荒唐無稽(こうとうむけい)で、現実には起こりえないような不思議や珍事、近親相姦(そうかん)などの不倫が続発する。しかしこれは合理的な思考ができなかったからでも、道徳を知らなかったからでもない。ただ、現在の世界の秩序や人間の生き方のルールが生まれる以前の、混沌(こんとん)とした世界で生まれたからにすぎない。人間と動物の区別もしばしば無視され、動物がまるで人間のようにふるまったり、動物とも人間ともつかない祖先たちが主人公の役を演じたりするが、これも同じ理由による。神話の物語る事件が起こった太古には、人間と動物、そして精霊などの区別がまだなかったか、あってもあいまいだったのである。
これらの説話を神聖視して伝承する文化をもつ人々にとっては、神話は人間の運命や秩序について自ら納得する真実の話として信じられ、規範として生活の細部にまで浸透していた。いいかえれば、人間はそれぞれの文化のなかで固有の神聖な説話を生み出し、かつ伝承しながらそれに則して生活を営んできたわけで、そこにはつねに神話が反映されていたといってよい。しかし、人間の営為と神話とのこのような不可分的関係は、すべての人々に同程度に意識されていたわけではない。普通、神話は女性や子どもたちには秘密にされ、成人の男性だけに、みだりに口外してはならない秘伝として教えられる。しかも多くの場合、秘伝の教授には段階が設けられているので、すべてを通過して奥義にまで通暁する者の数は限られる。つまり大多数の人々は、単に習慣としてふるまうことで、無意識のうちに神話を生き、倫理や秩序を反映させながら生活しているのである。
[吉田敦彦]
それぞれの文化は固有の神話を生み出し、伝承するが、その説話や話素、話形などはほかの文化へ容易に伝わり、別の体系の素材として取り入れられることが多い。また民族の移動や文化の伝播(でんぱ)に伴って、神話そのものが別の地域に持ち込まれることもしばしばある。その場合、持ち込まれた神話は以前からそこにあった神話と混じり合い、あるいは随所にその内容を取り入れるなどして変貌(へんぼう)し、新しい神話として再生される。このような神話の伝播は、新旧両大陸がまだ地続きであった1万年以上前の、後期旧石器時代にすでに始まっていたに違いない。したがって、神話の伝播の跡をどこまでもたどっていけば、世界中の神話は互いに遠い親戚(しんせき)関係にあると極言することもできよう。事実、どれほど遠く隔たった地域の神話でも、比較すると、かならずかなりの類似点がみつかる。たとえば、フランスの人類学者レビ・ストロースは、日本の神話と南北両アメリカ大陸の原住民の神話の間に特異な類似点がいくつかみいだされるのは、両地域が旧石器時代にアジア大陸から共通の神話の基本を受け入れたためであろうと推定している。
神話が類似するもう一つの根本的原因は、神話を発生させる人間の精神の機構に、全人類共通の同一性があることであろう。これは、神話の内容がしばしば、その神話をまったく知らない人がみる夢のなかに現れるイメージやできごとと、驚くほどよく一致するという事実からも確かめることができる。このことをスイスの深層心理学者ユングは、フロイトの無意識の理論を継承しながら説明しようとした。ユングによれば、普遍的無意識は先天的な人間の心の基層であり、ユングが原型とよぶいくつかの一定の型に従った働きによって、さまざまなイメージを心のうちに発生させる。これらのイメージは、個人の経験や環境、属する文化の違いなどを反映して多種多様であるが、それでも同じ原型によって生み出されるものにはその多様性を超えた共通性があるとする。このユングの理論によれば、神話は夢と同じように、人間の心のとらえがたい最基層部の構造とその働きを知るのに貴重な手掛りとなるので、ユング派の心理学者たちはこの立場から神話を研究し、その成果を心理療法にも役だてようとしている。
[吉田敦彦]
与えられた自然環境にそのまま適応せず、環境を自己に適応させようとする人間は、環境と自己に対する関係に体系的説明を与え、それに照らして自分の行為を意味づけずには生きていくことができない。人間には因果律をとらえて合理的思考をする能力があり、それによって道具や技術、科学などが発達した。しかし、合理的にはけっして説明のつかない世界や人間の生死の意味などには、神話によって体系的な説明を与え、それに則して文化を構築してきた。
神話のなかでは日食や月食のおこる理由とか、日暮れに西の果てに没した太陽が、なぜ翌朝にはまた東の果てから昇ってくるのかとか、あるいは太陽と月は、なぜいつも昼と夜の空に別れて現れるのかなどといったような、現代では科学的に説明できるようなことにも、非合理的な説明が与えられている。だがこういった科学的な説明が可能な事柄は、神話の取り扱う問題の核心ではなく、枝葉末節にすぎない。神話の核心は、人間の存在のまさに根本にかかわるので、それに説明を与えることは永遠に合理的思考とその産物である科学の埒外(らちがい)にある。そのうえ、神話はどれも多義的である。たとえば、日暮れに西に沈んだ太陽が翌朝東から昇る理由は、古代エジプトの神話では、夜の間太陽が地下界を通り抜けながら死者の国を照らすためと説明されている。この神話は、日没と日の出の現象と同時に宇宙の構造にも説明を与え、生が持続するためには死が不可避である現実をも教えている。さらにユング派の心理学者たちは、太陽が夜の間に黄金の杯に乗って西の果てから東の果てまで航海するというギリシア神話などに、ユングが「夜の海の航海」とよんだ、人格形成のために必要な「懊悩(おうのう)」が典型的に表現されているとしている。
一方、太陽と月が昼夜別々に出る理由を、日本の神話では、あるとき食物の神が、地上で口からさまざまな御馳走(ごちそう)を吐き出して月神に食べさせようとしたのを、月神が怒ってこの神を殺してしまい、姉の太陽女神天照大神(あまてらすおおみかみ)を激怒させたためと物語られている。この神話は同時に殺された食物神の死体から五穀と蚕の繭(まゆ)、それに牛馬が発生し、それを天照大神が高天原(たかまがはら)で田畑をつくらせて養蚕を始めたと物語ることにより、農業と文化の起源をも説明している。月神の乱暴に対する天照大神の怒りは、秩序の必要を説くと同時に、純潔の処女であり母でもある女神の、流血は嫌悪するべきであるとの主張、さらに喜んで人間のために農耕を始めたという限りない人類への慈しみを表している。そして同時に昼と生の裏腹をなす夜と死が、女神の忌避にもかかわらず、世界と人類にどうしても必要であり、不可避であるわけも説明している。
人間の文化にとって神話と合理的思考とは、後者の発達によって前者が不要になるのではなく、互いに補完的な関係にある。この関係は、合理的思考の産物である科学と技術が極度に発達し、伝統的説話の形での神話が生命を失ってしまったようにみえる現代の文化においても、根本的にはなんら変わってはいない。
[吉田敦彦]
日食や月食、日没や日の出などの科学的説明には、まったく疑問の余地はない。しかし、これらの事象の合理的説明を超えた神秘的意味まで説明し尽くすことは、科学にはけっしてできない。これは、死について科学的説明をしても、感情的には悲しみを和らげるために、ほとんどなんの役にもたたないのと同様である。つまり科学による説明が可能なのは、ただその事物の合理的に処理できる一面だけにすぎない。科学は、たとえどのように発達しても、人間の文化のなかで神話が果たし続けてきた機能を無用にしたり、それにとってかわることは、けっしてできないのである。したがって、意識的には神話を信じていないつもりの現代人も、現実には神話を必要としており、神話の機能を果たすものを欠いては生きていくことができない。この必要にこたえて、現代の文化も絶えずさまざまな神話や擬似物を生み出している。科学を絶対視しているつもりの人々も、現実にはやはり自己の文化が生み出す神話、あるいは擬似神話を信じることにより、日々の行動の細部まで律せられて生きているのである。
現代文化から生まれるこれらの神話、あるいは擬似神話は、太古に起こったできごとに関する物語の形をとってはいない。そのため、これらを神話の範疇(はんちゅう)に含めることには問題があるが、それでも人間と文化にとってもつ意味とその果たす機能という点では、明らかに神話といってよい。それを信じ、それに従って生きている人々の大部分がそのことをはっきりとは意識していないという点でも、太古の神話のありようと共通性がみられる。しかも、ユングが普遍的無意識論で説明しようとした、世界中の神話に共通するイメージと発想は、これら現代の神話にもはっきりとわかる形でみいだすことができる。この点からも、やはりこれらを神話の一種と認めて、ほかの神話と比較してみることがたいせつであろう。
このように人間はつねに合理的に物事を考え行動する一方、合理的に理解することができないものの処理は必然的に神話に頼り生きてきた。人間の文化はそれぞれ固有の神話を生み出し、またそれを生活のなかに生かしてきたので、どんな文化でもその根拠となっている神話に照らさずには理解することはできない。逆に神話に照らしてみることによって、たとえば首狩りや食人のような、われわれにはまったく蛮行としかみえぬ行為にも、それを習俗とする文化のなかでは、やはり文化的行為としての意味と価値があったことが知られる。
もともと合理的説明が不可能な世界と人間の実存の意味に神話が与えてきた説明は、やはり不合理ではある。しかし、同時にほかと比較して優劣を論じることも無意味で、それぞれが固有の絶対的価値をもつ。そしてその絶対的価値はその神話そのものを生み出し、また生きた文化の価値でもあるので、人間が古来営んできたさまざまな文化の間に価値の優劣はなく、すべてが非合理で野蛮であると同時に固有の「絶対的価値」をもつことを思い知らされるのである。
[吉田敦彦]
『大林太良著『神話と神話学』(1975・大和書房)』▽『G・S・カーク著、内堀基光訳『神話――その意味と機能』(1976・社会思想社)』▽『吉田敦彦著『神話の構造』(1978・朝日出版社)』▽『アレグザンダー・エリオット他著、大林太良訳『神話――人類の夢と真実』(1981・講談社)』
近年の政治研究においては、集団、制度、運動、過程といった政治の客観的現実と並んで、政治の主観的側面、つまり政治意識や政治文化の研究が盛んに行われている。そうした研究のなかで、「政治的神話」という概念やテーマが取り上げられ、関心をひくようになった。
政治的神話とよばれるものは、政治に関するイデオロギーや信念体系、虚偽意識や偏見・固定観念など、政治意識の基底をなす政治的価値観・世界観、あるいは根本的なものの考え方を、全体として構造的に把握するために用いられる概念であり、政治意識の合理的部分よりも、非合理的・超合理的部分をさすことが多い。
政治意識や信念が政治的神話として論ぜられることの利点は、従来の宗教学、文化人類学、民俗学、言語学、社会心理学などにおける神話研究の豊富な成果を援用して、政治における意識、信念、イデオロギーなどの解明に光を投げることができるという点にある。
その際とくに問題となるのは、合理的思考と非合理的思考の関係、信念と行動の関係などであり、また個人や集団や事件・できごとなどが神聖視され神話化されて政治的意識の根底となる過程、つまり「神話作り」mythopoeiaの過程である。こうしてひとたび神話ができあがると、それは儀式、宣伝、教育などを通して伝播(でんぱ)され、権力の維持、強化、変更などに影響を及ぼす。政治の世界では、人間がたやすくカリスマ化、神格化され、また国家や権力に後光を与える守護神がつくりあげられる。政治の世界では絶えず新たな神や英雄の神話作りが行われるとともに、現存の体制、制度、法律、権利などが既存の神話によって神聖化、絶対化され、その権威づけや正当化が行われる。こうした神話による権威づけのために用いられる手段が、政治的儀式である。宗教もまた多分に神話的側面をもつから、宗教的儀式=祭り事と政治的支配=政(まつりごと)とは不可分のものとされる。近年における神話と儀式との関係に関する研究が、政治的儀式の意義と機能の解明に大いに役だっている。儀式によって神話は現実化され、確認され、活性化する。逆に神話は儀式を意味づけ、神聖化する。近代的合理主義が政治を制度の効率や技術的合理性の観点からのみ考えようとするのに対する反動として、人々は、政治において神話と儀式を求め、政治を合理的判断の問題とするよりも、むしろ政治に情熱とロマンと決断を求め、新たな帰依(きえ)の対象を欲する。現代の政治はこの意味でまさに神話と技術、合理と非合理の複合体であり、制度と儀式の体系であるといえよう。神話と儀式は、政治的実践への原動力を創出するが、神話がとくにその機能を発揮するのは、社会が危機的状況にあり、現実があいまい、多義的で、明確な認識がなしえないような場合である。危機は決断と行動を求め、混沌(こんとん)たる現実は方向づけを必要とする。そうした要求に神話はこたえ、行動への原動力と方向づけを提供する。
神話は、これを共有する者の間に一体感を与え、集団的統一と連帯を強化する。こうしたところから、神話には集団的無意識や本源的魂が体現されていると説く者もみられる。あるいはまた神話は、その比喩(ひゆ)力、象徴力、ドラマ化の能力において、科学的思考よりもはるかに自由かつ強力であり、人に訴えるものをもっているから、集団が当面する矛盾や反対を克服する機能を発揮するという指摘がなされる。
ところで、政治における神話の事例としてしばしばあげられるものに、サンジカリストの「ゼネストの神話」(G・ソレル)や、「20世紀の神話」(A・ローゼンベルク)にみられるようなナチスの人種神話や、「プロレタリアートの勝利」や「階級なき社会」(マルクス)などの共産主義神話などがあるが、民主主義の基礎をなす「人民主権」や「人は生まれながらにして自由である」といった人権思想もまた神話に根ざしているといえるであろう。神話は事実または真実に合致するかどうかよりも、それを信ずる者には「真実よりも真」であることに意義がある。
[飯坂良明]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
一般に,神々についての物語。ヨーロッパの神話研究を通じてもたらされた概念で,ふつう伝説・昔話との対比によって把握される。神話(myth)が原古の神聖な真実として社会や事物を基礎づけ説明するものであるのに対し,伝説(legend)はやはり真実と認識されるものであるが,世界が完成した後の歴史的な回想を語る。一方,昔話(tale)はもはや真実とは考えられないものである。昔話は場所・時間・人物を特定しないが,神話・伝説はそれらを特定する。この相違は話に対する信頼性の強弱に由来する。ただ,そうした区別は絶対的なものではなく,神話と伝説とに区別のない民族もあり,同一の話が神話・昔話の間で転用されることもある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…寓意,寓喩,風喩ともいう。
【文学】
アレゴリーの発想ないし方法の起源はきわめて古く,ギリシア・ローマ神話も聖書も,その多くの部分をアレゴリーとして解釈することが可能である。アレゴリーのもっとも単純明快な一例は,イソップの〈寓話〉であろう。…
…同様のことは,色彩や熱‐冷,乾‐湿のシンボリズム,性交や出産などの生理的事象と浄‐不浄,秩序(コスモス)‐混沌(カオス)といった観念との結びつきについても言うことができよう。
[神話と象徴]
イメージを駆使する象徴的思考は説話においても重要な働きをしており,神話はその代表的な例である。アフリカには,次のような天地分離の神話が広く分布している。…
…世界,人類,文化などの起源についての神話をさす。つまり原初において事物が創始され,秩序が設定されたことを語り,むしろ特定の神格の波乱万丈の生涯を語ることに主眼のある〈神々の神話〉ないし英雄神話と対照をなしている。…
…日本民俗学では,口承文芸のうち,一定のストーリーをもつものを語り物,昔話,伝説に大別している。そのなかでも伝説は,ことに神話の属性のうち内容が真実であると信じられている点を受け継いでいると認められる。伝説の同義語には,中国語の〈民間故事〉,英語のlegend,フランス語のlégende,ドイツ語のSageなどがあり,それらと比較,対照されてきたが,それぞれの文化における口承文芸のあり方は必ずしも同一ではないので,これらの言葉の意味や内容も完全に一致するわけではない。…
※「神話」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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