デジタル大辞泉 「空手」の意味・読み・例文・類語
から‐て【空手/唐手】
2 沖縄に伝来した中国明代の拳法が、沖縄の古武道と合体して発達した武術。徒手空拳で身を守り、相手を制する格闘術で、突き・蹴り・受けを基本とする。空手道。
[補説]2は、2021年開催のオリンピック東京大会から新競技として採用。「
[類語]素手・手ぶら・徒手・空拳
沖縄発祥の武道で、1対1の対戦形式で階級別に争う「組手」と、演武の出来栄えを競う「形」がある。これまでも五輪実施を目指したが、過去3度は落選した。東京五輪では日本武道館での実施を計画し、施設整備費が少ないことや、190の国・地域が世界連盟に加盟している普及度が強み。国内では多くの流派に分かれ、団体も乱立している。
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出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
琉球(りゅうきゅう)国・沖縄県に発祥、伝承された武術。国内に普及する過程において日本武道の精神を継承し、「唐手」「空手」「空手道」のように表記も変化し、体系化されていった。身体のあらゆる部位を有効に用いる武術・武道であることから、競技(スポーツ)、生涯武道(護身法・健康法)、学校武道(教育)など、身体文化として普及している。
第二次世界大戦終了後は世界の各地に「KARATE」として広まり、2020年のオリンピック・東京大会では正式種目として採用される。発祥地の沖縄県では10月25日を「空手の日」としている。
[小山正辰 2019年12月13日]
琉球・沖縄の時代区分は、日本の時代区分と異なり、古琉球、近世琉球、近代沖縄、戦後沖縄、に分けられている。古琉球の時代は、14世紀から17世紀初頭(おおよそ日本の室町~江戸時代)にあたり、唐手の起源をそれ以前に求めるのは無理がある。中国拳法が源流となるのでは、といわれるのは、明(みん)国(中国)との冊封(さくほう)関係により中国の文物が入琉し始めた時代に、「三十六姓帰化人(中国人の帰化集団)による伝播(でんぱ)」「武官の交流による伝播」などにより、中国武術が文化の一つとして伝わったのでは、という説による。
また、尚真(しょうしん)王時代(1477~1526)および近世琉球時代(1609~1879)の薩摩(さつま)藩による二度の「禁武政策」(武器禁止令)によって唐手の発達が促されたという説が、船越義珍(ふなこしぎちん)(1868―1957)の初期の著作などを通じて広まり、いまも支持する人が多い。
伝承の主体である「型の名称」から、源流としての中国拳法に着眼する必要はあるが、琉球人がどのように中国拳法を琉球化したか、確かな文献がないため定説はない。禁武政策についても、第二次世界大戦後の研究では、首里(しゅり)城には常備軍が駐屯し、つねに臨戦態勢が敷かれていたという記述や、これまで根拠とされていた「百浦添欄干之銘(ももうらそえらんかんのめい)」(首里城正殿前の橋の欄干の碑文)の読み下し方が改められたことで禁武政策の裏づけがなくなり、これを唐手発達の契機とすることにも見直しの必要が唱えられている。唐手の「伝承の秘密性」についても、遅くとも1700年代には薩摩や肥後(ひご)の藩士にその存在は知られており、伝承についてもこれまでの説をさらに検証し、手(ティー)や唐手(トウディ)の「発祥」「発達」についての論議が進むことが期待されている。
近世琉球後半期になると、18世紀土佐藩の『大島筆記』という史料に、「公相君(こうしゃんくん)」という人物の「組合術(くみあいじゅつ)披露」が語られている。この文書が「唐手伝播の貴重な史料」であることは間違いないが、解釈を含めて今後も検討が必要である。19世紀の奄美(あまみ)大島について記録された民俗誌『南島雑話』では、巻藁(まきわら)のような鍛錬具で拳(こぶし)を鍛える若者や、固形物に拳を当てようとする壮年の姿が絵図で示されている。壮年の絵図には「拳法術(ツク子ス)」「トツクロウ」という添え書きが付されていることから、「唐手」につながる素手の武術の存在が想起される。
琉球国においては、「サムレー」という武士階級が、武術(護身)、教養(たしなみ)、芸能(国事)それぞれの場面で唐手に携わり武技を継承してきた。このころの武人として、唐手佐久川(とうでさくがわ)(生没年不詳。本名は佐久川寛賀(かんが))および、その弟子とも伝わる松村宗棍(まつむらそうこん)(1809―1899。「宗昆」と記す書もある)の名が伝わっている。首里や久米(くめ)の武士階級に加え、那覇(なは)や泊(とまり)の人々にも唐手は広まっていた。
近世琉球の間、琉球国は中国の支配下にありながら、薩摩藩の支配も受け、日中両属という体制を長年続けた。明治維新を経た日本によって琉球国は国のありようを根本から揺さぶられることになる。それが、1872年(明治5)「琉球藩設置」であり、1879年「琉球処分(沖縄県設置)」となる。琉球藩内は中国派(頑固党)と日本派(開化党)に分かれる激動の時代となり、日清戦争の日本の勝利まで、唐手も存続が危ぶまれる状況であった。琉球士族の教養のための武技、海を渡る男たちの護身武技として継承されてきた唐手は、沖縄県となって大きく変貌(へんぼう)を遂げる。
[小山正辰 2019年12月13日]
日清・日露戦争での勝利によって武術教育の価値が見直され、また遅れて徴兵制の始まった沖縄県において、唐手は俄然(がぜん)注目される武術となる。鍛え上げられた体格が唐手によるものと伝わり、徴兵制以前から志願兵として活躍した屋部憲通(やぶけんつう)(1866―1937)などが一躍有名となる。屋部らの師であった糸洲安恒(いとすあんこう)(1831―1915)などの尽力で明治30年代後半、唐手は沖縄県の学校教育に導入された。日本内地で柔術・剣術が導入されたのは明治40年代であり、沖縄県の唐手は日本の学校武道の先駆けとなったのである。
琉球時代に継承されてきた「手(ティー)」の伝承方法は大きく変化した。一子相伝、あるいは師から弟子へ伝えられてきた武術が学校教育に供されるようになり、糸洲は古伝の型を学校体育に対応できるよう「平安(ピンアン)」の型を創案した。「平安」は左右均等に身体を使用する体育的運動であり、糸洲は「唐手十ヶ条」で唐手の由来、練習の心構え、型の意義、教育的な価値について記し、沖縄県に提出した。学校武道への唐手導入が以後の唐手に多大な影響を与えることとなる。学校関係者に指導する過程で安里安恒(あさとあんこう)(1828―1914。生没年は諸説あり)、東恩納寛量(ひがおんなかんりょう)(1853―1915)など首里や那覇を代表する唐手人も糸洲に協力し、沖縄社会の文化価値として認められる礎(いしずえ)を築いた。
後に沖縄社会を牽引(けんいん)する中学生や師範学校生が学んだ沖縄唐手術は糸洲や東恩納を継承する人材として富名腰(ふなこし)義珍(前述の「船越義珍」と同一人物。「富名腰」は改名前の表記)や宮城長順(みやぎちょうじゅん)(1888―1953)が台頭し、首里や那覇で真摯(しんし)な研究会や普及活動が行われた。文化としての唐手の台頭は沖縄人の自信を深め、後進の育成、体系化を協議した大正期が、唐手飛躍の胎動期となった。
1922年(大正11)の富名腰による本土への唐手移植は、運動体育展覧会(当時の文部省主催)開催時の「沖縄文化としての唐手紹介」であった。沖縄県の地方新聞『琉球新報』等に唐手の先人(糸洲、安里ら)の事績や歴史に関して執筆していた富名腰は、沖縄県の学務課の依頼により沖縄唐手の紹介文をまとめた紙幅を持って上京。演武公開のために東京商科大学(現、一橋大学)の学生である儀間真謹(ぎましんきん)(1896―1989)を招き、富名腰が「クウシャンクウ」、儀間が「ナイハンチ」という型を演武した。しかしこのときは大きな話題にならず、沖縄県の関係者は柔道創始者の嘉納治五郎(かのうじごろう)に協力を依頼し、柔道の総本山である講道館で再演の機会を得た。講道館には数百人が詰めかけただけでなく、嘉納の熱心な質問や、集まった新聞社等メディアによる紹介も得たことで、富名腰は東都に唐手を広めるきっかけをつかんだ。
富名腰の唐手にほれ込んだ初期の入門者のなかから、粕谷真洋(かすやまひろ)(1887―1969)が慶応(けいおう)義塾大学に同好会を結成(1924)。またこのころ、本部朝基(もとぶちょうき)(1870―1944)が京都で外国人ボクサーと対戦、唐手技でKO(ノックアウトknock out)したことにより雑誌『キング』が「肉弾相打つ 唐手拳闘大試合」とのタイトルで唐手を取り上げた(1925)こともあって、「沖縄伝来神秘の唐手術」は耳目を集めた。慶応義塾大学、東京帝国大学(現、東京大学)、拓殖大学、早稲田(わせだ)大学は富名腰、東洋大学は本部を師範に迎えるなど、関東の大学に唐手同好会設立が相次いだ。
1927年(昭和2)、嘉納は唐手発祥の地である沖縄で「沖縄唐手倶楽部(くらぶ)」の面々と出会う。富名腰の唐手だけでなく多様な沖縄の唐手に出会い、その指導者にも本土での普及を勧める。那覇手(なはて)の東恩納の系譜をひく宮城と、糸洲・東恩納2人に学んだ摩文仁賢和(まぶにけんわ)(1889―1952。糸東流(しとうりゅう)創始者)である。
1928年宮城は、京都帝国大学(現、京都大学)を会場とした講習会を開催、同時に京都の武徳殿(ぶとくでん)での演武を行う。摩文仁は1929年大阪に居を移し、本格的な本土普及を図ることになる。宮城は京都の立命館(りつめいかん)大学、同志社(どうししゃ)大学、摩文仁は関西大学など大阪の大学を中心に指導を重ねていく。
昭和初期、富名腰と慶応義塾大学が「唐」の字を「空」に改め、本土で「空手」への流れが生じた。1936年に沖縄県で行われた「空手大家の座談会」でも「空」論議があり、「空」の字は定着していく。富名腰は自らの姓の字を「船越」と改め、片仮名表記であった型の名も漢字で改称するなどして唐手の日本化を進めた。1939年には松濤館(しょうとうかん)の道場を開いた。
なお、船越が唐手の本土移植を進めていたころの入門者から、のちの和道流(わどうりゅう)の開祖・大塚博紀(おおつかひろのり)(1892―1982)、神道自然流(しんどうじねんりゅう)を起こす小西康裕(こにしやすひろ)(1893―1983)が頭角を現す。大塚は、組手研究に重きを置く東京大学の師範となり、船越とは別の新たな流れをつくる。小西は、剣道、柔術などの経験から、京都に本拠をもつ大日本武徳会で唐手の地位を築き高めていく。
大日本武徳会は、剣術・柔術・弓術という名称を1919年に剣道、柔道、弓道と改めた戦前武道界の総本山であり、沖縄唐手術が日本武道へと変化を遂げる場となった。大日本武徳会の剣術・柔術の歴史が沖縄唐手術の「流派」発生の流れをつくる。
宮城の弟子・新里仁安(しんざとじんあん)(1901―1945)が1930年「明治神宮奉納演武大会」で流派名を問われたのをきっかけに、宮城は「拳法八句」の一節から流名を選択、日本空手界初の流派「剛柔流(ごうじゅうりゅう)」を名のることとなった。
小西、宮城、上島三之助(うえしまさんのすけ)(1893―1987)は大日本武徳会主催の武徳祭等での演武を重ね、1933年に空手が大日本武徳会の種目となったのち、1937年に空手界初の「教士号」を得る。宮城の剛柔流命名以後、沖縄、本土それぞれに流派が発生。1941年の武徳祭では7流派が登場し、演武した記録が残っている。
大日本武徳会における流派登録は、流派の伝承、段位・称号の授与にかかわって「体系」を要求する。立ち上がった諸流派は他流派と異なる体系で「差別化」を図るなど、昭和期前半の唐手界は、沖縄、本土ともに新たな「空手」を創生しようと努めた。しかし立ち上げたばかりの諸流は、戦時色に染まっていく日本社会のなかで十分な体系化には至らず、組織化は戦後を待つことになる。
[小山正辰 2019年12月13日]
日中戦争に続く太平洋戦争末期、唐手(空手)発祥の地沖縄は焦土となり、敗戦の結果米軍政下に入った。日本本土との行き来にはパスポートが必要となり、1972年(昭和47)の本土復帰まで続く。この間に宮城は沖縄で、船越、摩文仁は本土で帰らぬ人となる。空手を牽引した大学空手道部員も戦地へ赴き、若い命を散らした者も多くあった。武道は「日本軍国主義の元凶」とみなされ、大日本武徳会は解散、剣道・柔道については武道という名称も禁止され、指導内容の変更も迫られた。空手は、早稲田大学総長・大浜信泉(おおはまのぶもと)(1891―1976)が沖縄の出身であることもあって斯道(しどう)への理解が深く、GHQ(連合国最高司令部)との交渉も「空手道はGentleman Sportsである」との名言でいち早く部活動再開がもたらされた。1948年の学制改革以降、空手道部が全国の大学に創設され大学空手界の組織化がいっそう促進された。
第二次世界大戦前、「自由組手」という練習方法を採用しつつあった大学生、およびOBは大学間の親善交流にも型だけでなく「自由組手形式」を採用した。対抗戦での「競争意識」は戦争体験のあるOBや学生の指導で殴り合いの危険な様相をみせ、殺伐としたものになる傾向があった。
大学空手道部の民主化を図り、組織体として目標を定めるため、「空手の試合制度」への模索が昭和20年代後半から進んだ。関東、関西の大学間で合同の演武会の開催、組手競技ルールのくふう・創案に至り、1957年全日本学生空手道連盟(全学空連もしくは学連)の創設、そして第1回全日本大学空手道選手権(会場は両国の国際スタジアム。旧、国技館)が29校の参加のもとで行われた。岩井達(いわいすすむ)(1934―2017)を中心とした明治大学が第1回の優勝を果たし、翌1958年に行われた第1回の同個人戦では立命館大学の三本同(みもとひとし)(1935―2018)が優勝を果たした。
第二次世界大戦前より研究を進めていた防具付き組手は防具の安全性・経済性の問題もあって浸透せず、やがて「学連方式」が日本の主流となった。流派や組織のリーダーとなった学連OBが推進役となって全日本空手道連盟Japan Karatedo Federation(JKF)が1964年に結成される。その後連盟は、財団法人化(1969)、日本体育協会(現、日本スポーツ協会)への加盟(1972)、47都道府県に連盟を組織するなどに努め、国民体育大会(国体)への道を切り開く。
国体参加に向けてJKFは、構成する四大流派(剛柔流、松濤館流、糸東流、和道流)を協力団体とし、大山倍達(おおやまますたつ)(1923―1994)が独自の道を歩んだ「極真会館(きょくしんかいかん)」などとも協議を重ねるということもあった。滋賀国体(1978)から始まった国体への道は全国の都道府県連盟の努力もあって、競技力の全国平準化をもたらし、空手道競技全体のレベルアップが図られることになった。また、全国高等学校総合体育大会(インターハイ)の正式種目(1988)になることで空手道が公的な部活動、スポーツ種目として認知されていくこととなる。
世界に目を転じると、JKF創設の時期と相前後してヨーロッパ空手連盟European Karate Federation(EKF)が発足(1963)。JKF(当時はJKFの前身であるThe Federation of All Japan Karatedo Organization:FAJKO)と図って、1970年に世界空手道連合World Union of Karatedo Organizations(WUKO(ウーコ))を発足させ、第1回の世界選手権大会を東京で開催した。個人は和田光二(わだこうじ)、団体は日本が制したが、その後ヨーロッパ勢の台頭、世界的な浸透により各国の競技力はレベルアップし、日本がメダルを独占するという状況はみられなくなった。
競技種目も、第1回大会では男子の団体組手、個人組手(無差別)であったが、その後個人形(かた)種目、女子種目(形、組手)、団体形の創設、および形分解の導入など、多種目化が進んだ(「競技の種目とルール」の章参照)。
[小山正辰 2019年12月13日]
技法の変遷について次の3期に分けて記す。
[小山正辰 2019年12月13日]
琉球・沖縄では、長く型の伝承が技術継承の中心であった。「拳」を鍛えるのが唐手の特徴で、「巻藁」という鍛錬具で拳頭などを鍛えて一撃で板を割り瓦(かわら)を砕く技量を磨いた。明治期後半、沖縄の中学生が嘉納治五郎を驚かせたのも巻藁の修練によるものである。松村宗棍の系譜をひく首里手系は「ナイハンチ」、東恩納寛量を中興の祖とする那覇手系は「サンチン」という「基本型」を継承の柱とし、基本型で武術の基礎を練り、各種の型で攻防の技を学ぶという方法をとっていた。「沖縄伝統空手」はいまもこの考え方を伝承の中核としている。琉球・沖縄時代、血気盛んな若者は、「かけ試し」という野外対戦で武を磨く方法もとっていた。本部朝基がこのかけ試しで腕を磨いたという伝承もある。なお現在沖縄県で「沖縄空手」と呼称するとき、琉球古武道(「サイ」「トイファー」等を用いる武技)を含める名称となっている。
[小山正辰 2019年12月13日]
船越義珍による東都移植後、大学生の間で「形稽古(かたげいこ)(型稽古)」に飽き足らず「組手稽古」の開発が行われた。一本組手は船越らも行っていたが、三本、五本、自由一本と、学生たちは組手稽古と基礎鍛錬を重視する稽古法をとった。若い大学生の間で、そのなかから「自由組手」という沖縄では行われることのなかった練習法が盛んになり、最初は大学の上級生と下級生の間、やがて大学間の対抗戦で採用されることが増えた。自由組手という形式が流布したため、基本、型、組手という3分野が技術を構成しているととらえられている。昇段審査会などでは段・級に応じてそれぞれの課題が与えられるという形式も、流派が起こり体系化がなされるなかで定着してきた。
[小山正辰 2019年12月13日]
競技の組手の登場によって「ルールのもとの組手技」が登場する。1957年の全日本大学選手権から1970年代後半まで「一本勝負」の時代が長く続いた。その後「三本勝負」「6ポイント勝負」「8ポイント勝負」と変化していく。一本勝負は「技あり」が2本で「一本」となるが、「技あり」をとると俄然有利となるため、慎重な試合運び、正拳(直(ちょく))突きと中段前蹴(げ)りによる攻防がほとんどで競技としてのおもしろみには欠けた。ヨーロッパにEKFが誕生し、上段蹴りなど技の多彩化と競技としてのありようについてくふう研究が進む。上段蹴りに、6ポイント勝負では2ポイント、8ポイント勝負では3ポイントが与えられるようになると、上段蹴りが使えないと試合運びが有利にならないとみなされるようになった。
また、学連ルールを「寸止(すんど)め空手」(相手の身体に触れる寸前で攻撃を止め、深いダメージを与えずに行う空手)とし、「直接打撃制(フルコンタクト制)の競技ルール」を標榜(ひょうぼう)する極真会館が独自の大会を開催し人気を集めることもあった。このルールでも上段(顔面)への手技による直接打撃は禁じられており、大山倍達の死後、さまざまな団体、ルールが生起した。2020年のオリンピック・東京大会の種目に「学連ルールをルーツとするWKFルール」(WKF:世界空手連盟World Karate Federation。1992年にWUKOから改称)が採用されたことにより、極真系をルーツとする会派にも変化がおこっている。
形(型)競技が本格的になるのは国体正式種目が内定して以降である。本土四大流派から二つずつ選定された「指定形」を予選に演じなければならないとなって「指定形以外の形」の認知度、練習頻度が激減した。競技で採用する技法名と、世界大会等で演武が認められている形の名称は、流派がもつ体系とかならずしも一致はしないが「競技社会に必須(ひっす)のルール統一」が、多様な空手道流派に種々影響を与えているのは事実である(「競技の種目とルール」の章参照)。
[小山正辰 2019年12月13日]
競技の種目数は拡大し、ルールはWUKO(1992年よりWKF)設立後もさまざまにくふうされ変化してきた。ここでは、2020年のオリンピック・東京大会で採用されるWKFルールを記しておく。
[小山正辰 2019年12月13日]
男女別で、個人戦は体重による階級別(オリンピックでは3階級、世界選手権大会は5階級)、団体戦はオリンピックでは行われないが世界選手権大会で国別対抗戦として行われている。コートは12メートル(競技場は8メートル)四方、時間は3分、判定には「一本(得点は3ポイント)」「技あり(同2ポイント)」「有効(同1ポイント)」があり、8ポイント差がつくと勝負は決着する。同点の場合「先取(ポイント)」をあげた選手の勝ちとなる。反則には罰則(ペナルティ)が付される。たとえば接触技や危険な行為はカテゴリー1(C1)、場外などはカテゴリー2(C2)に分類され、C1、C2それぞれが4回繰り返されると「反則負け」となる。判定は、主審1人、副審4人で行う。
[小山正辰 2019年12月13日]
〔1〕時間 競技時間は階級別となっている。(1)成人男子:3分、(2)女子:3分、(3)ジュニア(18~20歳):2分、(4)カデット(16~17歳):2分。
〔2〕得点 各判定の得点の呼称と、その適応範囲は以下のようになっている。
(1)一本:3ポイント。適応される範囲は上段蹴り、マットへの投げ、または足払いで倒した後の有効技。
(2)技あり:2ポイント。適応される範囲は中段蹴り。
(3)有効:1ポイント。適応される範囲は中段突き、上段突き、打ち。
なお、攻撃が適応される範囲の「上段」は頭部、顔面、頸部(けいぶ)、「中段」は腹部、胸部、背部、脇腹となっている。
また、よい姿勢、スポーツマンらしい態度、気力、残心(技の後も油断なく相手の反撃に心を配ること)、適切なタイミング、正確な距離による攻防が、組手競技の得点を判断するポイントになる。
〔3〕投げ技 認められる投げ技は、相手をつかまないで行う「足払い」と、相手を片手でつかんで(あるいは支えて)行う「投げ技」である。たとえば、出足払いと小内刈(こうちが)りは使用してよいが片手で瞬時に行う必要がある。またつかんで投げる場合には、安全に着地できるように、投げる間は相手を支えていなければならない。相手を離してしまう投げ、危険な投げ、旋回軸が腰よりも上の投げなどの投げ技は禁止されている。
[小山正辰 2019年12月13日]
組手競技の勝敗判定は、以下のような基準による。
(1)8ポイント差が生じた場合、得点の多い競技者。団体戦の場合は10ポイント差になる場合もある。
(2)時間終了の際に得点の多い競技者。
(3)同点の場合「先取(ポイント)」をあげた競技者。
(4)相手が失格した場合(主審は副審を集合させ、協議のうえ失格を宣言する)。
(5)相手が棄権した場合。
[小山正辰 2019年12月13日]
以下の場合は、棄権となる。
(1)競技者が競技場で名前を呼び出された際にその場にいることができず競技継続を放棄した場合。
(2)主審の命令により競技から退場した場合(負傷した場合も含む)。
(3)10秒以内に立ち上がれなかった選手が無防備であった場合には、当該選手は棄権と判断される。
なお「無防備」状態とは、残心なく、相手から目を離す、相手を見ずに突っ込む、反撃を防御できないような攻撃をする、有効な攻撃の後、すぐに顔を背け下を向く等のことをいう。
[小山正辰 2019年12月13日]
禁止行為は二つに分類され、カテゴリー1とカテゴリー2と称される。
〔1〕カテゴリー1 (1)一般的に負傷につながる行為、(2)攻撃部位への過度の接触技、(3)のどへの接触技、(4)腕への攻撃、(5)脚部への攻撃、(6)股間(こかん)部への攻撃、(7)関節への攻撃、(8)足の甲への攻撃、(9)貫手(ぬきて)(そろえて伸ばした手指の先で相手を突く技)による顔面攻撃、(10)開手(かいしゅ)による顔面攻撃、(11)負傷の原因となる危険な、または禁止されている投げ技。
〔2〕カテゴリー2 (1)負傷を装ったり誇張したりすること、(2)場外へ出る行為(競技者の足または体の一部が競技場外に触れた場合をいう。競技者が相手に押されたり、投げられたりした場合は除く)、(3)自ら負傷を受けやすいような行動をとること、(4)自己防衛ができなかった場合(無防備)、(5)逃げること(相手に得点を取られないよう攻撃をしない場合)、(6)相手に攻撃をしかけることなく、相手をつかみ投げようとすること、または倒そうとすること、(7)つかんだまま何度も不十分な攻撃を繰り返すこと、(8)攻撃技をしかけることなく、単なる不必要な組み合い、レスリング、押し合い、つかみあいをすること(たとえば、相手の攻撃を妨げるクリンチは罰則の対象となる)、(9)相手の安全を損なう技、(10)危険でコントロールされていない攻撃、(11)頭部、肘(ひじ)、膝(ひざ)での攻撃、(12)主審の命令に従わないこと、(13)相手選手に話しかけること、(14)相手選手を刺激するような言動・態度をすること、(15)一定の時間お互いに攻撃をしないで見合っているような場合(不活動)。
これらに対する懲罰は、以下のように忠告、警告、反則注意、反則、失格の5段階に分かれる。一度の判断において、カテゴリー1とカテゴリー2に対する懲罰が同時に与えられることはない。
〔1〕忠告 初めの軽微な違反に与えられる。
〔2〕警告 その競技の間にすでに忠告が与えられている状況での軽微な違反あるいは、反則注意には値しない違反に対して与えられる(カテゴリー1は審判団の判断により一発「警告」もある)。
〔3〕反則注意 その競技の間にすでに警告が与えられている状態後の違反に対して与えられる。反則には値しない違反に対して、直接反則注意が与えられることもある(カテゴリー1は審判団の判断により一発「反則注意」もある)。
〔4〕反則 その競技の間にすでに反則注意が与えられている状態後の違反に対して与えられる。選手がもはや続行が不可能な状態の場合、審判団の意見で直接科すこともできる。相手の反則により2回勝者となった競技者は、大会ドクターの許可がない限り競技は続行できない。反則を与えられた競技者はただちに反則負けとなる(カテゴリー1は審判団の判断により一発「反則負け」もある)。
〔5〕失格 審判団への不作法な態度・道徳に反する行為など、空手道の威信および名誉を傷つける行為や競技規則に反する行為に対して、主審が副審を集合させ協議のうえ決定される。失格の場合、次の試合を含むすべての競技への出場資格を失う。
このほか棄権や反則とみなされるルールには、以下のようなものがある。
(1)10セカンドルール 組手選手がノックダウンあるいは投げられ、または自ら倒れて10秒の間に立ち上がれなかった場合は、競技続行が不可能とみなされ、自動的に当該大会期間中、すべての組手競技への出場が不可能となる。ただし、反則行為がなかった(と審判が判断している)のに、倒れて10秒以内に立ち上がれなかった場合は演技とみなされ、失格になる。また10秒以内に立ち上がれなかった選手が無防備であった場合には、当該選手は棄権と判断される。
(2)ラスト15セカンドルール 「先取」を獲得した競技者が、残り時間15秒未満に、反撃せずに絶えず後退したり、相手をつかむなど相手との戦いを避ける行為があった場合、また「場外」と審判がみなした場合、「反則注意」が与えられ、競技者は「先取」の利点を失う。
[小山正辰 2019年12月13日]
コーチは、副審が得点表示をしなかった技に対してビデオレビューを求める権利をもつ。コート主任が指名したビデオレビュー担当審判2人の同意があれば、要求された技を得点とすることができる。レビューの結果、コーチの訴えが認められれば得点が与えられ、認められなければそれ以降、ビデオレビューを求める権利を失う。判定についてはだれも審判員に異議申立てをすることはできない(ただし、予選で権利を失っても、メダルにかかわる競技では、再度権利を与えられる)。
[小山正辰 2019年12月13日]
組手競技で使用する用具やその注意点は、以下のとおりである。
(1)WKFの大会では赤・青の拳サポーターを使用する。
(2)マウスピース、セーフティーカップを使用しなければならない。
(3)すね、足の甲への堅いプロテクターは禁止。
(4)眼鏡の使用は禁止。
(5)ソフトコンタクトレンズは競技者自身の責任において使用可。
(6)負傷による包帯、バンディング、またはサポーターの使用は大会指名医師の許可が必要。
(7)負傷に関する責任は、すべて競技者が負う。
[小山正辰 2019年12月13日]
男女別で、個人と団体の2種目がある。技の正確さ、力強さやスピード、バランスなどを競い、技術点を70%、競技点を30%の割合とし、10点満点で評価する。審判員(7人もしくは5人)の最高点と最低点を除いた点を合計し、これが選手の点になる。団体は3人1組で協調性や武道性(動きの意味を組手の形にして3人で演じる分解組手が入る)を得点で判定する(団体戦は2020年のオリンピック・東京大会では実施されない)。コートは組手競技と同じ12メートル(競技場は8メートル)四方。
JKFでは、指定形(第一、第二)と得意形があり、四大流派それぞれに形が指定されている。試合は、第一指定形、第二指定形、得意形の順に選択した形で演技するが、各回戦ごとに異なる形を演じなければならない。
[小山正辰 2019年12月13日]
〔1〕第一指定形(WKF指定形でもある)
(1)剛柔流 セーパイ、サイファ
(2)松濤館流 ジオン、カンクウダイ
(3)糸東流 バッサイダイ、セイエンチン
(4)和道流 セイシャン、チントウ
〔2〕第二指定形
(1)剛柔流 セーサン(十三手)、クルルンファ(久留頓破)
(2)松濤館流 エンピ(燕飛)、カンクウショウ(観空小)
(3)糸東流 マツムラローハイ(松村ローハイ)、ニーパイポ(二十八歩)
(4)和道流 クーシャンクー、ニーセーシー。
[小山正辰 2019年12月13日]
〔1〕剛柔流形 サンチン、サイファなど10種類
〔2〕松濤館流形 抜塞大(バッサイダイ)、抜塞小(バッサイショウ)など21種類
〔3〕糸東流形 ジッテ、ジオンなど44種類
〔4〕和道流形 クーシャンクー、ナイハンチなど10種類。
[小山正辰 2019年12月13日]
WKFではいったん形リストを廃止したが、形は文化であり、継承されるべきであると考え、再度リストをつくり、現在はこれを基準としている。前記JKFの形は2013年(平成25)改訂時のものであるが、WKFリストには、これに加えて沖縄上地(うえち)流、劉衛(りゅうえい)流、鶴法(かくほう)の形なども入っている。2018年には玄制流の三才(サンサイ)など6種の形も認定形リストに加えられた。このように、WKFの認定形にはJKF得意形のリストに入っていない形も加えられており、WKFでは1回戦からどの形を選定し演武してもよいとされている。多くの形がリストアップはされているが、競技に使われる形は限定的であり、高得点が見込まれる形に集中する傾向にある。
[小山正辰 2019年12月13日]
国体、オリンピックに向けて空手競技を統括する団体として、国内的にはJKFがある。JKFは、47都道府県連盟と9地区協議会、四つの競技団体、七つの協力団体と一つの友好団体で構成されている。1969年に財団法人化された後、1972年にはアマチュア・スポーツ団体(競技団体)として日本体育協会(現、日本スポーツ協会)に加盟、1969年に流派を超えた第1回全日本空手道選手権大会が開かれ、国体への参加回数を重ねている。
国際的には197の国と地域が加盟(2019)するWKFがある。1970年にWUKOが結成され、1994年、WUKOから改組されたWKFが5大陸の連盟を統括し、2020年のオリンピック・東京大会の正式種目としての道を導いた。2024年のパリ大会での種目には選考されなかったが、WKFはあきらめず運動を継続していくと明言している。
また世界的には、競技のみの空手を求めるのではなく、武術性を有した武道としての空手道を追求していくという愛好者も多い。
[小山正辰 2019年12月13日]
JKFは武道団体として、日本武道協議会の九武道の一団体でもあり「中学校武道必修化」への取り組みも重要な課題となっている。2012年より中学校の体育の授業に「武道」が必修とされ、柔道、剣道、相撲が対象種目となった。2012年の段階で、空手発祥地沖縄においては、80%以上の中学校が空手道を採用した。全国では120校余りの採用にとどまっていたが、その後、採用校は倍増した。2021年度より採用される「新学習指導要領」に九武道が明記されたことから、「設備、用具、服装」の制約がなく「男女」「人数」「場所の広狭」を問わない、「安全面の実績」「集団演武が可能=組体操にかわりうる種目」として空手は注目を浴びている。武道種目の複数化に向かう中学校授業での採用が見込まれている。
[小山正辰 2019年12月13日]
空手道には幅広い年齢の愛好者がいる。日本スポーツ協会が主催し、文部科学省、日本オリンピック委員会(JOC)、NHK、共同通信社などが後援する「日本スポーツマスターズ大会」は、シニア世代を対象とした総合スポーツ大会であり、空手道は2001年第1回大会より参加している。空手道の開催種目と年齢区分は以下のとおりである。
(1)男子組手 1部:40歳~44歳、2部:45歳~49歳、3部:50歳~54歳、4部:55歳~59歳、5部:60歳~64歳、6部:65歳~69歳、7部:70歳以上。
(2)女子組手 1部:35歳~39歳、2部:40歳~44歳、3部:45歳~49歳、4部:50歳~54歳、5部:55歳以上。
(3)男子形 1部:40歳~49歳、2部:50歳~59歳、3部:60歳~69歳、4部:70歳以上。
(4)女子形 1部:35歳~44歳、2部:45歳~54歳、3部:55歳以上。
[小山正辰 2019年12月13日]
空手道は、障害の有無にかかわらず取組み可能な武道である。デフリンピックや世界障がい者空手道選手権大会、全日本障がい者空手道競技大会が開催されるなど、さまざまな広がりをみせている。
[小山正辰 2019年12月13日]
『摩文仁賢和著『護身術空手拳法――攻防自在』(初版・1934・大南洋社/復刻版・2006・榕樹書林)』▽『富名腰義珍著『空手道教範』(初版・1935・大倉廣文堂/復刻版・2012・榕樹書林)』▽『宮城長順著『琉球拳法唐手道沿革概要』(1936・大阪糖業倶楽部)』▽『大塚博紀著『空手道』全2巻(1970、1976・大塚博紀最高師範後援会)』▽『明治大学体育会空手部創立50周年記念編纂委員会編・刊『駿空五十年 明治大学体育会空手部創立50周年記念』(1990)』▽『立命館大学空手道部OB会事務局編・刊『立命館大学空手道部沿革誌』(1998)』▽『慶応義塾体育会空手部編『慶應義塾体育會空手部七十五年史』(1999・三田空手会)』▽『高宮城繁・仲本政博・新里勝彦著『沖縄空手古武道事典』(2008・柏書房)』▽『金城裕著『唐手から空手へ』(2011・日本武道館)』▽『小山正辰・和田光二・嘉手苅徹「空手道―その歴史と技法」(『月刊 武道』2017年4月号~2019年5月号所収・日本武道館)』▽『全日本学生空手道連盟編・刊『60年記念誌 学生空手道の軌跡』(2018)』▽『日本武道学会編・刊『武道学研究』(年3回)』
身に武器を帯びず,徒手空拳,手と足を組織的に鍛練して,あたかも武器のような威力を発揮させ,身を守り敵を倒す沖縄古来の武術。
空手の起源は史的文献に乏しく定説がないが,形の名称に中国名が多いことからみても,中国拳法の影響を受け,沖縄古来の闘技と消化吸収しあって沖縄独自の武術となり,現在に至ったと考えられる。拳法は中国古来の闘技で,古くは春秋時代にさかのぼり,唐代には少林寺その他の寺院の僧兵などを中心に護身術として発達していた。明末の兵法書《武備志》に拳法の説明があり,技術が体系化されていたことがわかる。沖縄が中国と交流を始めたのは,三山(中山,南山,北山)分立の初期で,中山王察度(さつと)(1321-95)が明の太祖に入貢した1372年に始まり,第二尚氏の尚泰(しようたい)(1841-1901)の代まで続いた。この交流により,他の文化の移入と同じく,中国拳法も沖縄に伝えられたと考えられる。拳法の影響を受け沖縄独自の空手が発達したのは,2度にわたる禁武政策によるものとされている。一つは,尚巴志(しようはし)(1372-1439)が三山を統一後,尚真(しようしん)(1465-1526)が地方の按司(あんじ)(土豪)たちの武装を解除して首里に集住させ,武器の携帯を禁じ,中央集権を確立し文治政策を行ったこと,一つは島津藩の侵略(1609)により,武器の携帯,新規の武器輸入を禁じられたことである。この二度にわたる政策により,武器を用いない空手が必然的に発達したものと思われる。とくに侵略の痛手から立ち直り,政治,経済的にも安定した17~18世紀は沖縄文化の爛熟(らんじゆく)期であり,空手は精神文化が発達しつつあったこの時期を前後して発展したと思われ,史料にも先達者の名や空手に関するものが見られるようになる。しかし,鍛練,伝授法などは武芸のもつ閉鎖的な特性から,あまり公にすることなく秘密裏に行われ,空手の名称も〈手(て)〉〈唐手(とうで)〉〈唐手(からて)〉,地域的には〈首里手(しゆりて)〉〈那覇手(なはて)〉〈泊手(とまりて)〉と呼ばれていた。1922年文部省主催の体育展覧会で,船越義珍(1868-1957。松濤館流始祖)が演武紹介して日本本土に伝え,東京を中心とした各大学に広めた。次いで本部朝基(1870-1942),宮城長順(1888-1953。剛柔流始祖),摩文仁賢和(まぶにけんわ)(1890-1952)が関西を中心として普及発展につとめた。名称も35年船越義珍により,旧来の唐手を空手道と改称,39年には大日本武徳会によって正式に認知されて,日本武道として確立された。戦後は他の武道と同じく競技化への道が研究され,日本空手協会(松濤館流)によって57年に全日本選手権大会が開かれ,次いで学生連盟によって流派を超えた全日本学生選手権大会が公式に行われた。
手と足を組織的に鍛練し,四肢五体を前後,左右,上下均等に動かし,屈伸,跳躍,平衡などのあらゆる動作に習熟し,受け,突き,蹴りの攻防を行う身体運動である。目標とする部位へ,最短時間に最大のスピードで技をかけ,最大限の力を集中爆発させる。これを極(き)めという。極め技は空手には不可欠の要素であり,日ごろの基本技の鍛練が肝要で,身体の各部位をすべて武器化し,意のままに動かせるような自己制御が必要である。技術はもとより精神を練り,勝負だけを究極の目的とするのではなく,人格完成を図る武道である。
基本の技には相手の攻撃から身を防ぐ各種の受け技と攻め技があり,その使用部位,立ち方によりおのおのの名称がある。立ち方には前屈立ち,後屈立ち,騎馬立ち,三戦(さんちん)立ち,四股(しこ)立ち,半月立ち,不動立ち,猫足立ちなどがあり,使用部位のおもなものとして正拳,裏拳,平拳,1本拳,鉄槌(てつつい),手刀,背刀,貫手(ぬきて),底掌,ひじ,上足底,足刀,かかと,背足,つま先,ひざなどがあり,攻防ともに使われる。(1)受け技 相手のあらゆる攻撃に対して,強い受けで攻撃の手足に打撃を与え攻撃意欲を粉砕し,受け,反撃の極め技を同時に行う。または前後左右にさばいて身を置きかえ反撃の機会をうかがう,相手の体勢を崩す,相手の出はなをおさえるなど,自分の体勢間合いにより種々変化する。もっとも基本的な受けとしては,顔面を攻撃してくる突きを手首の部分で下からはね揚げて受ける上段揚受け,中段を攻めてくる突きを横から回して強く,または流して受ける中段腕受け,下腹部を攻めてくる突きや蹴りを上から斜めに打ち下ろして受ける下段払いがある。ほかに手刀受け,背刀受け,背腕受け,手首掛受け,底掌受け,すくい受け,足底回し受け,波返し,両手を使う諸手(もろて)受け,十字受け,搔分(かきわけ)受けがある。(2)突き,打ち 突きとは正拳(握りこぶしの人差指と中指の付け根の部分)を使用する直突きのことで,ひじを伸ばして前腕を内側にねじり込むようにして,こぶしを正面の目標に当てる突きで,追(おい)突きと逆突きがある。ほかに揚げ突き,裏突き,鉤(かぎ)突き,山突き,諸手突き,合せ突き,挟(はさみ)突きがある。打ちとはひじ関節のばねを利用して,横に縦にスナップを効かせて打つ極め技で裏拳打ち,拳槌(けんつい)打ち,手刀打ち,背刀打ち,底掌打ち,猿臂(えんぴ)打ちがある。(3)蹴り ひざ関節のばねを利用して正面の目標を上足底,つま先,背足,かかとで蹴る前蹴りと蹴込み。正面向きのままで側面を蹴る横蹴りの蹴上げ,蹴込み。正面または斜め前の目標を蹴る回し蹴り。後方を蹴る後蹴り,高く跳躍しての飛蹴り,飛横蹴りがある。
組手は実際に相手と組んで,互いに攻防技術を体得する練習方法で,5本組手,1本組手,自由1本組手,自由組手がある。自由組手以外は互いに攻撃部位,回数を定めて攻防を行う約束組手である。5本組手は一定の間合いを取り,定められた部位を5回前進して攻撃,防ぐほうは後退して受け,最後の5本目に反撃し極めを入れる。連続して行うので,手,足,腰,足さばきの鍛練をかね,基礎的な技の正確さを習熟する組手である。1本組手は1回だけの攻防で,熟達するに従い正確さ,強さ,鋭さが要求され,とくに受けよりの反撃をすばやく,一呼吸のうちに行わなければならない。自由1本組手は,互いに自由に構え,任意の間合いを取り,攻防ともに与えられたチャンスはただ1回の気持で行い,間合い,気当り,体さばき,残心などを会得する組手である。自由組手はなんらの約束申合せをしないで,精神的,肉体的な対敵動作を最高度に発揮させる組手で,攻防に使う技は,よくコントロールされて相手の急所寸前を目標として極め,当てることは禁止している。
基本技を合理的に組織構成したもので,四方八方に敵を仮想し,定められた演武線を進退転身して行い,その攻防の技を一連の連続動作として作られていて,攻防のあらゆる要素を含んでいる。形の種類は50あまりあり2種に大別できる。一つは俊敏で飛燕(ひえん)のような感じのするもので,軽捷(けいしよう)機敏の早業を習得するのに適し,一つは素朴な中に重厚で雄大な感じのするもので,体力を練り筋骨を鍛えるのに適する。前者は松濤館流,糸東流,和道流(首里手系)に属し,後者は剛柔流(那覇手系)に多く見られる。おもな形として,首里手系には,平安(ピンアン),内畔戦(ナイハンチン),鉄騎(てつき),公相君(クーシヤンク),観空(かんくう),王輯(ワンシユウ),燕飛(えんぴ),陳闘(チントウ),岩鶴(がんかく),鷺牌(ローハイ),明鏡(めいきよう),抜塞(パツサイ),半月(セーシヤン),十手(ジツテ),慈恩(ジオン),壮鎮(ソウチン),雲手(ウンシユ),珍手(チンテ),二十四歩(ニーセーシー),五十四歩(ウーセーシー),白虎(パイクウ),黒虎(ヘイクウ),二十八歩(ニーパイポ),阿南(アーナン)。那覇手系には,三戦(サンチン),転掌(テンシヨウ),最破(サイハ),撃砕(ゲキサイ),征遠鎮(セイエンチン),来留破(クルルンフワ),十八歩(セーパイ),百零八(スーパーリンパン),三十六歩(サンセール)などがある。名称は音読みを和字化したものと,日本的名称にかえられたものがある。
形や基本動作,基本組手の反復動作により,敏捷性,持久性,器用性,柔軟性が得られる。さらに力石(ちーし),バーベル,鉄下駄などの補助具,または腹筋背筋運動によって身体各部位の強化をはかり,巻きわら,サンドバッグで突き,打ち,蹴りの瞬間的な集中衝撃を体得する。とくに空手独特の武具巻きわらを用いての鍛練は空手修行の生命であり,日常欠かすことはできない。
形試合と組手試合がある。形試合は紅白試合,または採点制で行う。紅白試合は2人の選手が同時に形を演じ,審判(主審1,副審4)により判定される。採点制は主審を含め7人または5人の審判員で行い,1人の選手の評価点(10点法)を同時に掲示する。その点数の最高点と最低点とを除いた合計点が得点となる。攻防の理にかなっているか,威力,気魄(きはく),態度,力の強弱,技の緩急,体の伸縮などが採点の要素となる。演武の継続性を失ったとき,順序をまちがえたり,申告形,または指定形と別種の形を演武したときは失格となる。組手試合は8m四方のコートの中で,2人相対して自由に攻防を行い,的確な突き,打ち,蹴りの極め技を入れることによって勝負を決する。審判団は主審1,副審2,監査1の4名で構成され,試合時間は男子が3分,女子が2分である。勝敗は3本勝負で決まる。競技者が1本を3回か,技ありを6回先取した場合(1本は技あり2回に等しく,技あり2回は1本に等しい),またはこれら二つの組合せで合計3本の得点を挙げることにより勝敗が決する。競技終了時に双方ともに合計3本の得点に達しない場合は,それまで取得している得点の多い方を勝者とする。双方が同点の場合,判定により勝敗を決定する。引分けの場合,延長戦を行う。延長戦では1本または技あり1を先取した方を勝者とする。ここでも勝敗が決まらない場合は再延長とし,再延長戦では審判団は必ず勝者を決定しなければならない。試合においては相手に実際当てることは禁じられており,定められた目標部位(頭部,顔面部,頸部,胸部,腹部,背部,脇腹部)寸前で十分に届く余裕をもって極めなければならない。正しい姿勢,正しい態度,充実した気魄,適切なタイミング,正確な間合いでの威力ある極め技が相手の目標部位寸前で決まった場合1本となる。1本にはならないが1本にほぼ匹敵する技を技ありという。組手競技は安全第一の目的から,突き,蹴りが当たった場合,下記のペナルティが課せられ加算される。忠告(1回目の軽い違反),ペナルティなし。警告(忠告後の軽い違反),相手に技あり1が与えられる。反則注意(警告後の違反),相手に1本が与えられる。反則(相手に相当激しく当たった場合,または再度の反則注意),相手に3本が与えられる。競技規定の重大な違反,または主審の指示に従わない場合は失格となり,相手に3本が与えられる。また,場外(競技者の足,または身体の一部分が競技場の外に出た場合。ただし,相手に押し出された場合は除く)および無防備(一方または双方の競技者が防御体勢を整えない場合)に対しても,その回数に応じて次のペナルティが課せられる。1回目=忠告,2回目=警告(相手に技あり1),3回目=注意(相手に1本),4回目=反則(相手に3本)。ペナルティは,延長戦・再延長戦まで持ち越されて加算される。組手選手には安全具として拳サポーター,マウスピース,セーフティカップの着用が義務づけられている。国内で行われている国民体育大会,全国高等学校体育連盟(高体連)の試合ではメンホー(顔面安全具)を着用している。審判団はかつては主審1,副審4,監査1の6名で構成されていたが,その後ミラー方式(主審1,副審1,監査1)になり,現在は前記のとおりである。
1964年に都道府県連盟,全日本学生連盟,全自衛隊連盟,実業団連盟,日本空手協会(松濤館流),糸東会,和道会,剛柔会,練武会,連合会の団体が,流派を超えて全日本空手道連盟Japan Karate Federation(略称JKF)を結成。70年には世界空手道連盟World Union of Karatedō Organization(略称WUKO)が33ヵ国をもって結成され,国際組織として統一された。世界大会は世界空手道連盟結成後2年に1回開かれ,連盟の加盟国数は現在165ヵ国。92年にWorld Karate Federation(略称WKF)と改称され,99年国際オリンピック委員会(略称IOC)の承認国際競技団体となった。アジア地域では92年,アジア・オリンピック評議会(略称OCA)において第12回アジア競技大会の正式競技に決定。また同時にアジア空手道連盟Asian Karate Federation(略称AKF)がOCAの正式メンバーとなり,94年広島市で開かれたアジア競技大会に正式種目として初参加した。国内では1981年国民体育大会に正式種目として初参加,選手は流派,会派にこだわることなく参加できる。国内外の競技化により,組手試合に体重制が採用され,さらに女子による組手試合も行われている。このように,空手は国際的に普及発展したが,競技が体重別に移行し,技が単純化し,伝統的要素が失われつつある。空手の本質にかえり,組手の基礎である基本技,形の鍛練を無視しての競技は空手の衰弱に連なっていくことを忘れてはならない。
執筆者:津山 克典
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(安藤嘉浩 朝日新聞記者 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
出典 シナジーマーティング(株)日本文化いろは事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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