この語は実定法との対比で〈超実定法〉といった意味でいわれることもあるが,これではあまりに漠然としており,しかも法律学の分野でまれに使われる非本来的な用法である。自然法はもともと,哲学や倫理学の用語である。その固有の意味では自然法は,人間の本性natura humanaにかかわるもので,人間の〈本性の法則lex naturalis,jus naturale〉である。ただしこの〈本性〉ということが,プラトン哲学やアリストテレス哲学においてもった意味と,デカルト以後の近代的思考(観念論や唯物論)の中でもった意味とで大いに異なるので,自然法の意義にも重大な差異があることに注目しなければならない。
伝統的な存在論哲学では自然法は,人間の〈存在〉充足に関連していて,それは人間存在充足の形而上学的条件である。つまり人間をもしそれが何であるか,と問う観点からみれば人間の〈本質essentia〉が問われ,同じ人間をそれは存在するかどうかを問う観点では人間の〈実存existentia〉が尋ねられているのであるが,個々の具体的な人間は,この本質と実存との不可分的合体である。そしてプラトンはこの本質をイデアと呼び,アリストテレスやトマス・アクイナスはこれを形相(エイドス)と呼んだ。この形相が人間を人間として規定して,犬や樹木や石から人間を異ならしめる。しかもこの形相の含む〈規定性〉に対応した人間固有の働きが,〈本性の傾きinclinatio naturae〉つまり本性の法則,〈自然法〉である。そして自然法に従って行為してのみ人はその実存の充足度を増し,〈存在〉を獲得し,より人間らしくなる。反対の場合にはみずからの存在を失い自己疎外におちいる。したがって自然法は伝統的存在論では,つねに自己の存在の獲得を目ざして歴史的・具体的な状況のなかで生きる個々人に内在した非抽象的な,歴史的な法則である。またそれは,人間の自由意志にかかわらぬ物理的・生物的自然法則とも区別された倫理法則である。自然法が非歴史的で抽象的で観念的な法則となったり,〈自然法則〉に近いものになったりするのは,後述の近世啓蒙期自然法論以降のことである。
また伝統的存在論は,自然法の認識論を伴ってきた。プラトン,アリストテレス以来の伝統では,同じ理性認識にも二つの様態が区別される。一つは意識化し概念化しての認識(事物をその根拠から説明する学知的認識(エピステーメーepistēmē)や,その説明がつたなく漠たるものである臆見(ドクサdoxa))であり,他は意識化・概念化以前に事物の本質的核心を洞見している本性適合的なconnatural認識(ヌースnousの洞見)である。自然法についても,その自然法〈論〉的・概念化的認識と,あらゆる人間が自己の存在のうちで本性の法則そのものに支えられて主体的に理屈抜きに洞察している自然法の諸基本原則への本性適合的認識とが区別される。後者の自然法認識は,洋の東西,民族の区別なく全人類的な普遍性をもち,その認識内容の中核は共通的・万民一致的であり,人間が人間であるかぎり恒常・不変である。これに反し,前者の概念化的自然法認識は,ヨーロッパ,インド,中国,日本(例えば,中江藤樹)など各地で多様な展開をみせ,時代とともに推移する相対的なものである。
そこで東洋の自然法論はさておいて,西洋の自然法論の系譜をたどってみよう。伝統的自然法論の先駆的なものは,すでにギリシアのヘラクレイトスや悲劇作家ソフォクレス(《アンティゴネ》参照)にみられ,人為の所産として生み出された実定法ではなく,むしろその批判基準となる,事物の本質にかかわる不文の所与的・実在的な法が意識された。ソフィストたちは臆見的な概念化的認識に基づいて自然法を相対化し,ある者は強者の,他の者は弱者の法(=権利)を自然法的なものとした。こうした混乱の反作用として,ソクラテス,プラトン,アリストテレスの存在論哲学とその自然法論が生じたのであった。
ところでプラトンにおいてすでに人間本性の法則が,他の宇宙論的法のうちに位置づけられていたが,ストア哲学の中で,全宇宙を支配する神的摂理の法すなわち〈永久法〉と,人間存在に固有の〈自然法〉,それに各国家ごとの〈国法〉が区別され,さらに各民族ごとに多少とも異なって自覚されながら共通に自然法のなごりをとどめる〈万民法〉(私有財産制,一夫一婦制,外交使節の尊重など)が加えられる。この分類はウルピアヌスなどローマの法律家たちに影響した。
他方,キリスト教においても,パウロによりすでに異教徒にとっての自然的な〈心の則(のり)〉としての自然法がいわれており,それはアウグスティヌスによって詳論されるが,彼は上記の4種の法に,超自然的啓示の法としての〈神法〉(モーセの十誡や教会法)を加える。このアウグスティヌスにあっては,いまだ自然と超自然との区別の哲学的原理が不明確であったが,13世紀のトマス・アクイナスは,自然的理性の〈光〉(明証性)と超自然的理性の〈光〉との区別を明確にすることによって,自然の世俗的世界と超自然の啓示の世界,自然と恩寵,哲学(および自然神学)と啓示神学,国家と教会,政治と宗教の差異を明らかにした。人間の本性,その法則としての自然法は,人間の国家的本性に基づく国家やその法(人定法)と同じく,本来的に自然的理性の共通の広場で(信徒であろうとなかろうと)万人により認識されているもの,これに対し神法は恩寵の超自然的光に接したキリスト教信徒にのみ妥当するものとされた。しかしトマス・アクイナス以後,ドゥンス・スコトゥスやオッカムの後期スコラ学の唯名論的・主意主義的哲学が17世紀にかけて盛行して,自然法の実在性や法規範の(理性のみが認識しうる)一般性,ルール性が閑却される。またこれが法を主権者の恣意的意思の所産とみる近・現代の主意主義的法観,ひいては国家法のみを法とする法実証主義の誕生を促した。
それにしても16世紀スペインのスコラ学派(ビトリア,モリナ,スアレス等)においても,グロティウスにおいてすらも,トマス・アクイナスの伝統は保持されていた。グロティウスの有名な言葉〈もし神が存在しないとしても,自然法はある〉は,自然法の自然理性による認識を強調するトマス・アクイナス説の継承である。またこのスコラ学派は,トマス・アクイナスの自然法論に詳細な注解を加える一方,当時のスペインの海上帝国的発展の現状に適合した自然法の応用理論を展開し(例えば,ビトリアの《インディオと戦争権》(1557)),その間に近代的な〈国際法〉的原則の数々を生み出した。今日においても,新トミズムの自然法論として復活している自然法論は,自然法の歴史性を強調し,現代の状況への詳細な応用自然法を語っている(例えばJ.メスナーの《自然法》(第6版,1965))。
以上のような伝統的な自然法論と近世の啓蒙期自然法論とを判然と区別しなければならない。デカルトの霊魂・肉体を二つの異なった実体とする二元論は,近代特有の唯物論と観念論との思想的系譜を生ぜしめた。近世啓蒙期自然法論の真の創始者は,ホッブズである。彼はその全体としての唯物論哲学に矛盾して,デカルトの観念論的側面,つまり超肉体的な人間離れした天使的知性を,その自然法論に持ち込む。そこでは万人対万人の自然状態を克服するための〈理性の戒律〉(自然法)が,〈平和を維持せよ〉という第一原理から必然的な演繹的推論をもってひき出された20ばかりの掟として語られる。信約covenantを結んで国家状態にはいれ,主権者の無制約的立法意思の所産たる国法に服せよ,などはその主要なものである。
自然法をこのような推論的知性の帰結だとする観念論的思考が,スピノザ,ライプニッツを介して,プーフェンドルフ,トマジウス,C.ウォルフなどの壮大な自然法体系となった。そこでは経験的事実を超えて〈理性〉が第一原理から繰り出す,日常生活のこまごまとした規定に至るまでの〈自然の法典〉が,永久・不変の法規範と宣せられる。フランス革命を経てナポレオン民法典にも,その起草者ポルタリスを媒介してこうした自然法論が影響を与え,近時に至るまで〈自然法〉といえば,この種の自然法を考えるのが通例であった。また近世啓蒙期の自然法論の要目は,ロック,ルソー,モンテスキュー,カントにおいてもそれぞれのしかたで変型されながらも,近代の自由主義・個人主義政治思想とその政治的実践に作用し,イギリスの名誉革命,アメリカの独立革命,フランス革命に大きな影響を与えた。
しかしこうした近世啓蒙期自然法論は,19世紀の初め,サビニーをはじめとする〈歴史法学〉派によってその非歴史性が批判された。第一原理からの必然的演繹の永久的帰結とされるものの中に,実際には当時の法曹界で意識されていたそのころの慣行や通俗的臆見が多分に盛り込まれていて,永久・不変のものでないことがあらわにされた。
19世紀にあっては,こうした自然法論に代わって国家法のみを法とする法実証主義(ナポレオン法典を金科玉条とするフランス注釈学派,実定法規の概念構成に没頭するドイツの一般法学派)が盛行し,自然法論は衰退する。
20世紀初頭からの自然法論の復活は,ドイツのR.シュタムラーに始まる。彼は法認識の形相と質料とを分かち,万人に妥当する正義の認識範疇的原理は不変であっても,その質料(経済的などの社会的現実)の可変性のゆえに内容の可変的となる自然法をいう。しかし彼の新カント学派的形式主義では,結局,内容空虚な自然法しか述べえなかった。同じころフランスでは,シャルモンJoseph Charmont(1859-1922)の《自然法の再生》(1910)が反響を呼び,他方民法学者F.ジェニーはトマス・アクイナスの自然法論をみごとに復活して現代における法律家のトミストの祖となった。それがベルギーのJ.ダバンに受け継がれる。またM.オーリウやその徒ルナールGeorge Renard(1847-1930)の〈制度理論〉もトマス・アクイナスからインスピレーションを受けている。今日ではパリ大学の法律家たち,ビレーMichel Villey(1914-88),プレローMarcel Prélot(1898-1973),ビュルドーGeorge Burdeau(1905- )などが,新トミズムのフランスでのおもな担い手である。
ドイツではことに第2次大戦後,ナチスによる実定法悪用の事態が,自然法復興の機縁となった。新カント学派のG.ラートブルフが戦後はじめて明白に自然法の客観的存在を承認する立場へと転向した。今日トミストの自然法論者としては,カウフマンArthur Kaufmann(1923- )が代表的である。実存主義哲学は人間の実存の側面を強調するが,その本質の側面を否定しないかぎりで自然法を語る余地があり,この法の法学者フェヒナーErich Fechner(1903- ),ウォルフErik Wolf(1902- ),マイホファーWerner Maihofer(1918- )は自然法論者である。またアリストテレス復興を志向するハルトマン=シェーラーの新形而上学に立脚して自然法内容をいっそう積極的にいう者に,H.コーイング,H.ウェルツェルなどがいる。オーストリアでは,新カント派のケルゼン主義から転じたトミストのA.フェアドロス,トマス・アクイナスとハイデッガーを接合するマルチッチRené Marcic(1919- )が自然法論を説く。アメリカではハーバード大学のL.フラーが一種の自然法を語る。
プロテスタント神学では,原罪による〈人間本性の破壊〉をいうルター,カルバン以来自然法をとりたてていう余地はなかった。しかし近年フランスのエリュールJacques Ellul(1912-94),スイスのE.ブルンナー,アメリカのR.ニーバーなどはある程度自然法を強調する。プロテスタントのうちでも人間本性の破壊をいうことの少ないアングリカン・チャーチの伝統のもとでは,P.ラムゼーその他,自然法を認める者が多い。
→法実証主義
執筆者:水波 朗
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特定の法社会において人為的に形成される実定法に対し、人為に関係なく自然的に存在し妥当すると想定される法をさす。実定法が法社会により内容を異にするのに対し、「自然」に基礎を置く自然法は不変的かつ普遍的に効力を有する法として説かれる。これに対して、実定法以外に法規範を認めない法実証主義は、このような自然法の存在を否定する。自然法思想は古代より現代に至るまでさまざまな形で存在しているが、「自然」観念の相違に応じてその形態も多種多様である。
[小林 公]
古代ギリシアでは、ノモスたる実定法に対し、フィシスに基礎を置く自然法が対置されたが、これは神話的世界像においてはテシスやディケーといった神的形象により擬人化された宇宙的秩序を意味した。さらにその後、プラトンにおいてはイデア的秩序、アリストテレスにおいては存在者の形相に基礎を置く目的論的秩序を意味した。世界を貫く自然的秩序の思想は、ローマ法の万民法ius gentiumの観念にも影響を与え、さらにスコラ哲学によるアリストテレスの目的論的自然学の受容、およびアウグスティヌスを通じてのプラトン主義受容を通して西欧中世へと受け継がれていく。中世においては、ギリシア的自然秩序は神の理性に内在する永久法と考えられ、存在者はおのおのの仕方で永久法を実現すべきとされる。また自然法は、理性的存在者たる人間に対して妥当する永久法であり、人間精神に内在化された永久法であると説かれた。トマス・アクィナスにより代表されるこのような自然法論は、いわゆる実念論的形而上(けいじじょう)学に基礎を置いている。実念論においては、個物には個有の本質が内在し、この本質は同時に個物が実現すべき目的とされ、このようにして存在の秩序と規範の秩序は連続的にとらえられている。その後この実念論は、中世末期の唯名論哲学によって否定され、これに伴いトマス的自然法論も影響力を失っていく。唯名論は個物に内在する本質の客観的実在を否定し個物のみを実在者と考えることにより、個物を貫く自然秩序たる自然法を否定するが、同時に、人間は自然秩序から解放され、自ら規範を創造する存在と考えられることになる。
中世末期の唯名論哲学により自然秩序から解放された人間は、近世哲学においては「自然状態」に置かれた存在者とされ、法秩序は自然状態にある人間の契約により人為的に基礎づけられることになる。したがって、自然法は、近世においては「自然権」の観念によって置き換えられ、この自然権は法を創造する人間の主観的権利とされる。近世自然法論においては、自然状態に置かれた人間に、ある種の社会的傾向性を認め、この傾向性のうえに法秩序を基礎づけるグロティウスのような立場と、自然状態を自己保存の欲求、およびこの欲求の合理的計算に基づく実現を法秩序の基礎とするホッブズ的立場など、さまざまな立場がみられるが、共通して法秩序を人間の主観的な権利から生成するものと考える点に近世自然法論の特徴がみられる。
その後、自然法論は、実証主義的思想の優位、産業社会の発展、価値観の多様化などさまざまな思想的、社会的要因により影響力を失い、現代に至っている。
20世紀中葉、とくにドイツやフランスにおいて自然法論は「事物の本性」論などの形でふたたび理論的に取り上げられたが、自然的に存在し不変的かつ普遍的に妥当する法という意味での自然法を唱える立場は、今日ほとんど存在しないといってよい。
自然法論の理論的問題点は、自然的に妥当する規範が存在するという思想、すなわち人間や社会のある種の本質的構造が同時に規範的意味を有するという思想にあり、論理学的にみれば、事実から規範が導き出されうるとする、事実と価値の一元論にある。このような一元論は、規範命題と事実命題を論理的に架橋不可能な命題とみなす論理学上の通説により否定されており、またこのような論理的な問題以外にも、現代の法文化においては、法は特定の社会目的を実現するための手段として道具主義的にとらえられており、社会システム全体の下部システムとして一定の社会機能をもつ操作的に変更可能な制度として機能的にとらえられている点も、自然法論衰退の要因と考えられる。自然的に存在する法を認めることは、産業社会以前の静態的社会に特徴的な思考様式に属するといえよう。このような状況にあって自然法思考がなお理論的に効力をもちうるとすれば、自然的に存在し妥当する法という意味での自然法は放棄されねばならない。
現在、法のなかに、ある種の不変的要素を認めようとする立場は、法に内在するこのような要素を形式的要素と考える。いわゆる「内容の変化する自然法」という観念は、法の具体的内容が法社会により異なりつつも、特定の社会現象を法的現象として構成するカテゴリーが想定されねばならず、法の内容は可変的でありながらこのカテゴリーはア・プリオリで不変的である、という考え方に由来する。
この種の自然法論には、法のア・プリオリなカテゴリーを認識論的カテゴリーと考える立場以外に、法の普遍的形式を人間の自然的本性に基づく存在論的カテゴリーと考える立場がある。後者の立場は、たとえば言語学のある理論が人間精神に内在する先験的な文法から派生的に具体的言語を説明し、具体的言語の多様性の背後に人間精神に内在する普遍的形式を認めるのと同様に、また文化人類学のある立場が文化の多様性の背後に、人間的自然の共通性に基づく文化の構造的普遍性を認めるように、法文化の比較論を通じて、多様な法文化の背後に普遍的な法形式を認めていこうとする。人間的自然の普遍性という思想、人為的に創造された文化の多様性の根源に普遍的な人間本性を想定する思想は、現代ではとくに生物社会学あるいは人間動物学といわれる理論の中心的テーマであり、文化的要素を払拭(ふっしょく)した生物学的人間を研究対象とするこの理論は、人間の社会的行為を「自然状態」において経験的に考察し、あらゆる社会制度、社会的規範の前提となる自然的な制度や規範を探究する。
さらに現代の自然法思考のもう一つ別の特色は、自然法論を正義論として扱う点にある。従来の存在論的自然法論が実質的内容をもち客観的に妥当する規範を説くのに対し、現代の正義論は実定法の具体的価値ではなく形式的な価値を考察し、特定の法規範が正しい規範といわれるための形式的条件を探究する。このような正義論の中心的テーマは社会構成員の間の財産分配ないし義務負担の妥当な規準であるが、この点をめぐり正義を社会的功利性に還元する功利主義的な立場と、正義を基本的人権や自由といった法価値と同様、功利性には還元しえないものとする直観主義的ないし公正論的立場が対立している。
以上のように、自然法は現代においては実定法を形式的に規定するものと考えられているが、この種の自然法論に対しても法実証主義からの批判があり、自然法論にはなお考察すべき多くの問題点がある。
[小林 公]
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ヨーロッパ政治思想史,法思想史のなかで重要な機能を果たしてきた,超越的で永久不変な法規範の観念。その萌芽は古代ギリシアの自然哲学より現れるロゴス思想にみられるが,ヘレニズム時代のストア学派において特に明確な形をとり,キリスト教的社会観の一要因として中世のスコラ哲学に受け継がれた。その際自然法は,現存の社会秩序を道徳的に基礎づけるとともに,他方ではゲルマン的な権利意識との結合において恣意的な権力行使や実定法への批判の武器ともなりえた。この2側面は「世俗化」による質的変化をこうむりつつ近世の合理主義に担われ,等しく国家契約説を前提としながらも,ロックらの革命的「自然権」思想と,啓蒙専制主義にきわまる警察国家のイデオロギーの両面に表現された。
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…価値哲学【見田 宗介】
【経済的価値】
経済学の歴史において〈価値〉の概念はきわめて重要な意味を担ってきた。そうなった理由のうちで最も大きなものは,経済学が自然法という規範的思考とふかくかかわっていたという点にある。価値とは“あるべきought to be”状態を示すための一つの指標なのである。…
…44年大使解任,翌年スウェーデンにいったん帰国したが,その年の8月,リューベックに向かって旅立ち,途中暴風のため遭難,かろうじてダンチヒ付近に避難上陸し,馬車でリューベックに向かう途中,ロストクにおいて8月28日夜半(正確には29日早朝)疲労のために死亡した。 彼の研究は法律,政治,宗教,歴史,文学,自然科学の多方面にわたるが,その中で後世に大きな影響を残したのは法学の分野においてであり,しばしば〈近代自然法学の父〉〈国際法の祖〉とうたわれている。もっとも,個々の論点については,彼の主張の多くは先人のそれの継承であり,彼の非独創性を指摘する人も少なくない。…
…とはいえ,啓蒙の認識論の総じて近世科学のパラダイムをかなり強引に絶対化し,すべての対象領域におしひろげすぎている側面が,のちに,ロマン派の非合理的直観の重視や,弁証法をはじめより動的なパラダイムの模索をよびおこしたことも,また了解しうるところであろう。
[社会・国家・法]
この領域においては,宗教的超理性的権威にたよらずに人間社会のあるべき姿を基礎づける必要からして,当然,〈自然権〉〈自然法〉の考えが啓蒙思想の全般において強く表面に出てくる。自己および隣人の生命を保存すべきこと,また他人の生命,健康,自由,財産を侵害してはならないことを,理性の法としての自然法の基本的内容にほかならぬものとし,所有権をはじめとする自然権を擁護するかぎりにおいて社会契約による各人の権力の譲渡の上に成立する国家の権力の発動をみとめるという,近代民主主義社会の基本原理をうち立てたロックの考えは,この領域でも,啓蒙時代全般を通じる一つのスタンダードを定めることになった。…
…法思想的側面の中心眼目は,イデオロギー批判にある。その俎上にあがったのは,とくに自然法論とマルクス主義であった。ケルゼンによれば,自然法論もマルクス主義法理論もともに価値絶対主義に基づくものであり,その限りで独裁制に走りやすい。…
…しかし,その内容は問題とされる場面によって異なり,論者によってこの概念のとらえ方はさまざまである。それゆえ〈法実証主義〉は一義的表現ではなくむしろ自然法思想に対抗する法理論がもつエートス,すなわち実定法を超える高次の法を認めず,人為の力に信をおくエートスをさす語,あるいは種々の問題場面における多様な反自然法思想の総称とみるべきであろう。 この種の法思考はすでに古代ギリシアに見いだされるが,それが法理論として支配的地位を確立したのは19世紀ヨーロッパにおいてであった。…
※「自然法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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