妙覚寺(読み)ミョウカクジ

デジタル大辞泉 「妙覚寺」の意味・読み・例文・類語

みょうかく‐じ〔メウカク‐〕【妙覚寺】

京都市上京区にある日蓮宗の寺。山号は、具足山。開創は天授4=永和4年(1378)。開山は日実。開基は小野妙覚。四条大宮の妙覚の邸宅を寺としたのが始まりで、天正11年(1583)現在地に移転。近世初頭には不受不施派の拠点となった。
岡山市御津金川みつかながわにある日蓮宗不受不施派の本山。山号は、竜華山。幕末以来、不受不施派の再興運動を続けてきた日正が、明治9年(1876)日像を開山として建立したもの。

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精選版 日本国語大辞典 「妙覚寺」の意味・読み・例文・類語

みょうかく‐じ メウカク‥【妙覚寺】

[一] 千葉県勝浦市興津にある日蓮宗の寺。同宗由緒寺院(本山)。山号は広栄山。文永元年(一二六四)領主佐久間重貞が創建。開山は日蓮。二世開山は重貞の子日保(にほ)
[二] 京都市上京区下清蔵口町にある日蓮宗の寺。山号は北龍華具足山。永和四年(一三七八)日実が小野妙覚の外護(げご)で開創。洛内法華宗十六本山の一つ。二世日成以降、不受不施を主張して身延山と対立、幕府の弾圧をうけた。寛永七年(一六三〇)まで不受不施派の拠点であったが、日奥没後、身延の日乾が入山して受施派に転じた。
[三] 岡山県岡山市御津金川にある日蓮宗不受不施派の本山。山号は龍華山。江戸時代布教を禁止され、拠点の京都妙覚寺を追われた不受不施派が明治九年(一八七六)再興を許されたのを機に日像を開山、日奥を中興の祖として釈日正が建立。はじめ龍華教院と称し、同一五年現山寺号になる。

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日本歴史地名大系 「妙覚寺」の解説

妙覚寺
みようかくじ

[現在地名]御津町金川

臥龍がりゆう山の南麓にあり、竜華山と号し、日蓮宗不受不施派の祖山、本尊は日奥親写の十界勧請日蓮の曼荼羅。明治一五年(一八八二)に寺号が公許された。寺号は寛永七年(一六三〇)京都妙覚寺(現上京区)が受不施派の身延派の手に渡る時、妙覚寺僧侶であった日船らが出寺に際し、同寺衆徒と不受不施同心の連署をし、時至らば妙覚寺を再興する誓書をしたことに由来するといわれる。

不受不施とは、日蓮宗の僧侶は信者以外からの布施を受けず、信者もまた他宗の僧侶へ布施をしないという日蓮宗の古来からの宗規である。文禄四年(一五九五)豊臣秀吉は京都方広ほうこう(現東山区)で千僧供養を催し、各宗一〇〇人宛の僧侶の出仕を命じた(「言経卿記」など)。日蓮宗寺院にも出仕の要請があり、そのことをめぐって宗内は大きく二つに分裂した。教団維持のため秀吉の要求を受入れて出仕すべきであると主張する受不施派(本満寺日重・日乾ら身延派)と、政治権力の圧力に屈せずあくまでも宗規である不受不施義を守り通そうとした不受不施派に分れ対立した(「奥難記」妙覚寺文書など)。不受不施派を率いたのが、京都妙覚寺住職であった仏性院日奥である。日奥は千僧供養の直後、不出仕の日奥の存在が寺の存亡にかかわるとして、妙覚寺寺衆によって寺を追われ、丹波に隠棲した(同書)。その後、慶長四年(一五九九)大坂城に召出され、徳川家康の面前で受・不受の論争が行われた。これを大坂城の対論という。その結果、日奥は対馬に流罪となる(「鹿苑日録」「奥難記」など)。「王法為本」の色彩をしだいに濃くしていく受不施派と違って、「仏法為本」を貫く日奥の不受不施思想は幕藩支配者にとって受入れられるものではなく、早晩禁止される運命にあったが、慶長一七年日奥は流罪を解かれ京都に帰った(「奥師行業記写」妙覚寺文書など)

その後も両派の対立は続き、寛永七年江戸城で再度、受不施派(身延久遠寺側)と不受不施派(池上本門寺側)との対論が行われた。

妙覚寺
みようかくじ

[現在地名]上京区下清蔵口町

下清蔵口しもせいぞうぐち町のほぼ全域を占め、北に妙顕みようけん寺がある。通称北竜華きたりゆうげ、山号は具足山、日蓮宗の大本山。名刹三具足山(妙顕寺・妙覚寺・立本寺)の一つ。本尊十界大曼荼羅。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔創建〕

日像の法孫、竜華院日実が創立。日実は妙顕寺大覚の弟子で同寺に住していたが、永和四年(一三七八)一月一八日、弟日成とともに同寺を出、同年四条大宮おおみやに当寺を開いた。外護者は日像・日実に帰依していた小野妙覚。日実は妙顕寺在住時に備前・備中への布教活動を行い信者を得ていたが、創建にあたり備前・備中の妙顕寺末寺の多くは当寺へ移ったという(日像門家分散由来記)

〔不受不施〕

日実の後を継いだ日成は、不受不施制誡をすすめ、応永二〇年(一四一三)六月、同寺門流法式「法華宗異体同心法度」を定めている(万代亀鏡録)。この法度は九ヵ条からなり、不受不施制誡を確立しようとしたもので、とくに謗法ほうぼう社参寺詣の禁止、謗法供養の制禁を説いたものであった。

妙覚寺
みようかくじ

[現在地名]多久市南多久町下多久 桐野

桐野山と号し、天台宗。開基は行基。桐野きりのの集落から仁王門をくぐって石段を登れば鬱蒼とした杉の木立があり、登りつめた所に観音堂がある。

この寺は肥前の延暦寺ともいわれる天台宗の古寺で、度々の火災で修築された観音堂・本堂・庫裏がある。眼下に多久市一円が望まれ、多くの文人が訪れている。「肥前古跡縁起」に、「桐野山妙覚寺は聖武天皇の勅願行基菩薩の開基、本尊は大悲観世音菩薩即ち行基の御作也、又護摩堂の本尊は太聖不動明王聖徳太子の御作也、弘法大師帰朝の時此霊場へ参詣坐し御作にて四天王の像を作り安置し給ふ、又金剛界胎蔵界両部の曼荼羅を自書し給ひぬ、今御宝物には拝み給ひける」とある。

妙覚寺
みようかくじ

[現在地名]沼津市下河原町

沼津市街の南部、狩野かの川河口付近の右岸に位置する。満松山と号し、日蓮宗。本尊は十界大曼荼羅。北方に近接して同じ日蓮宗の妙海みようかい寺がある。「駿河志料」によれば、平維盛の子六代(妙覚禅師)鎌倉幕府に斬首された際、六代家臣の斎藤六範房はその首級を千本松原せんぼんまつばらに埋葬、六代の菩提を弔うために小庵を結び(如来堂、のちの八日堂。千本松原に堂跡があるという)、のち六範房の孫斎藤利安(日安)が日蓮宗に帰依、当寺開基になったという。なお「平家物語」では六代は駿河国住人岡部泰綱によって「田越河」で斬られたとあるが、長門本や延慶本では斬首の地を千本松原としている。

妙覚寺
みようかくじ

[現在地名]勝浦市興津

興津おきつ浦の中央山際にある日蓮宗寺院。広栄山と号し、本尊は大曼陀羅。文応元年(一二六〇)または文永元年(一二六四)に興津城主佐久間重貞が檀越となり、日蓮を開山として創立したという。重貞の子二人は日蓮の門弟となり、日保・日家と称して当寺の住職を勤めるとともに、日家が小湊誕生こみなとたんじよう(現天津小湊町)を開いたことから、妙覚寺と誕生寺は両寺一根と称されたという。日保は暦応三年(一三四〇)に没している(本化別当仏祖統紀)。文明一九年(一四八七)銘の木造日蓮坐像がある。寛永一〇年(一六三三)の久遠寺法花宗諸寺目録に興津妙覚寺とみえる。

妙覚寺
みようかくじ

[現在地名]三間町迫目

迫目はざめの中央部にあり、宝受山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊薬師如来。

もとは天台宗で一千有余年の古刹と伝えられるが、記録類は亡失して伝わらず、寺記は明らかでない。「吉田古記」には、当寺は現在地より少し上ったいずみもり山麓の「堂のなる」という所にあったと記されており、慶長一七年(一六一二)の仏殿造営の棟札写を載せている。また「爰に一段高き所に一休段とてあり。

妙覚寺
みようかくじ

[現在地名]穴水町鹿波

天皇山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。文政六年(一八二三)頃と推定される妙覚寺由緒書写(寺蔵)によると、天文二一年(一五五二)能登島まがり(現能登島町)より鹿波かなみ村に移住した開基専正の祖先は、朝倉敏景の子孫朝倉景綱入道宗教で、専修念仏行者として出家、蓮悟・蓮如・実如に逢い、名字名号御書などを下賜されたという。

妙覚寺
みようかくじ

[現在地名]鳥栖市轟木町

轟木とどろき川のほとりにある。山号は法性山、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、菅原道真の五子長寿麻呂は子細あって轟木の里にかくまわれて成長し、熊野派山伏となった。父子相伝えて二一代禅心の時、文明二年(一四七〇)真宗に帰依して一宇を創建して妙覚寺と号すという。

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改訂新版 世界大百科事典 「妙覚寺」の意味・わかりやすい解説

妙覚寺 (みょうかくじ)

(1)京都市上京区にある日蓮宗の寺。具足山と号し,京都日蓮宗16本山の一つ。妙顕寺から分かれた日実が,1378年(天授4・永和4)創建。絵師の狩野,彫金の後藤,製陶の楽(らく)など有力町衆信徒を獲得して近世に至った。寺地は洛中を転々としたが,1583年(天正11)豊臣秀吉の洛中整理で現地に移った。寺地の広さは洛中では東寺・相国寺・妙顕寺につぎ,地方末寺も多く,寺勢の強大さが知れる。江戸初期,住持日奥が幕府の弾圧にも屈せず不受不施の宗義を説き,受不施派の身延山と対立,1630年(寛永7)の身池対論(しんちたいろん)まで不受不施派の拠点となった。現存堂宇のほとんどは1788年(天明8)の大火後の再建。日蓮真跡の〈盂蘭盆御書(うらぼんごしよ)〉(重要文化財)を蔵する。

(2)岡山県御津(みつ)郡御津町(現,岡山市)にある日蓮宗不受不施派の総本山。竜華山と号する。京都妙覚寺は1630年の身池対論の結果,幕命により日奥の法敵身延久遠(くおん)寺の支配に属した。日奥の不受不施義を守った僧俗は,幕藩の禁教下,〈かくれ不受不施〉として各地で法灯を維持して明治に至った。当寺は1876年不受不施再興が許されたとき,宣明院日正(1829-1908)がかくれ信徒の大きな地盤だった当地に,日像を開山,日奥を中祖として建立したものである。寺の建物は当地の蘭医難波抱節(なんばほうせつ)の屋敷を改めたもの。長谷川等伯の《花鳥図》屛風(重要文化財)をはじめ,禁教時代の不受不施関係史料が多く伝えられている。
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百科事典マイペディア 「妙覚寺」の意味・わかりやすい解説

妙覚寺【みょうかくじ】

岡山県御津(みつ)町(現・岡山市)にある日蓮宗不受不施(ふじゅふせ)派の祖山。不受不施派は江戸時代幕府から弾圧されたが,岡山藩においても度々弾圧を受けた。しかしその都度粘り強く抵抗し,1882年に悲願の再興の公許を得,もと不受不施派の京都妙覚寺の寺号を継いだ。

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世界大百科事典(旧版)内の妙覚寺の言及

【日奥】より

…京都町衆の子。10歳のとき,京都日蓮宗十六本山の一つ妙覚寺の住持日典のもとに入門。字は教英,はじめ安国房日甄(につせん),のち安国院また仏性院と号し,日奥と改名。…

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