江戸時代美術(読み)えどじだいびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「江戸時代美術」の意味・わかりやすい解説

江戸時代美術 (えどじだいびじゅつ)

美術史における江戸時代は,ふつう豊臣氏滅亡の1615年から1867年の大政奉還までの間を扱う。2世紀半にわたる徳川幕府の文治政策は,美術の各分野に多彩な展開と繁栄をもたらした。江戸時代美術の展開は,桃山時代においてはっきりと方向づけられており,桃山美術の現実的,世俗的性格が,より民衆的な次元で強められてゆく過程としてとらえることができる。これまで,美術生産の主体としての役割を果たしてきた公家や武家ら支配階層に代わって,被支配階層である都市の町人が,彼らの日常生活の場で創造性を発揮し,美術の民衆化をなしとげた点に,江戸時代美術の最大の特色があろう。幕府のきびしい鎖国統制下にありながら,長崎を通じてもたらされた中国の明清美術とヨーロッパの美術とが,各分野に与えた影響も想像以上に大きい。以下,江戸時代美術の展開を,享保年間(1716-36)を区分の目安に,前期と後期に分けて述べる。
安土桃山時代美術

前期の初頭にあたる元和・寛永年間(1615-44)のころは,建築を主導として展開した桃山美術のいわば総決算期であり,同時に桃山美術から江戸時代美術への橋渡しもつとめた実り多い時期である。

確立したばかりの徳川幕藩体制は,その豊かな財力にものをいわせ,権威の荘厳のため,これまでに増して大規模な城郭や霊廟を営んだ。二条城二の丸御殿(1624-26)はその代表的な遺構の一つであり,内部を彩る狩野探幽一門の障壁画の巨大な松の枝ぶりが長押(なげし)の上にまで延びて金地に映える壮観は,安土城以来の武将の理想の実現といってよい。だが,そうした障壁画や欄間の透し彫には,桃山美術の持つ潑剌とした感覚が薄れ,代わって格式張った荘重な雰囲気が強調されている。同様な性格は,日光東照宮の過剰なまでの彩色や装飾彫刻についても指摘できよう。これらに桃山美術の発展の最後の段階が見られる。狩野探幽は,二条城での制作のあと,大坂城,名古屋城上洛殿,大徳寺,京都御所など幕府の用命に従って,上方,江戸の殿舎,寺院の障壁画制作に活躍するが,その過程で彼は,狩野永徳風の誇張された巨樹表現を改め,名古屋城上洛殿襖絵に見るような,余白を生かした淡泊瀟洒(しようしや)な画風へと移っていった。それは,ある意味では室町水墨画の世界への回帰といってよいものである。高台寺蒔絵の制作にかかわった幸阿弥家が,尾張徳川家のためにつくった《初音蒔絵三棚》(1637)は,室町時代の高蒔絵の手法に戻った細緻で技巧的なものであり,その手法,題材は狩野山雪の《雪汀水禽図屛風》に共通する。いわゆる慶長小袖と呼ばれる染織の意匠は,桃山期小袖に続いて江戸初期にあらわれるもので,桃山小袖とは違った複雑な文様の構成と黒を生かした色調に内面的な感情がこめられている。

 以上のような傾向は,幕藩体制の整備が,武士階級の美意識に敏感に反映したものと解釈できるのだが,桃山人の自由な創造の気風は,在野的な美術家の間になお健在であった。幕府の文化政策に対抗するかたちで宮廷を中心に一種の古典復興の気運がおこり,上層町衆の一部もそれに歩調を合わせた。本阿弥光悦の書と,彼の意匠による蒔絵や茶陶,俵屋宗達のやまと絵などは,その環境の中から生まれたもので,そこには王朝のみやびと桃山の闊達な遊戯精神との見事な結合が見られる。すぐれた日本的意匠の創造という点で,日本美術史上の一つの頂点をここに認めることができる。装飾屛風への需要は,この時期に飛躍的に増し,それに応じて民間画工が狩野派土佐派に代わり活躍した。風俗画は彼らの最も多く手がけた画題であり,そこには時代の現世享楽の気風を反映して遊里や芝居小屋の情景が好んで描かれた。それは,のちに発展する浮世絵の母型ともいうべきものであるが,なかに《彦根屛風》のように正系画師のひそかな仕事も混じっている。これら寛永期(1624-44)風俗画に見られる生命力と退廃との入りまじった独特の雰囲気もまた,武功による昇進の望みを失ったこの時期の武士階級の生活感情とつながるものだろう。

桃山美術の急速な終結,転換が元和・寛永期にみられるとすれば,それに続く慶安・寛文から元禄・享保にかけての時期(17世紀後半~18世紀初め)は,工芸の分野になお桃山風の余韻を残しながらも,江戸時代美術の性格がしだいに定着してゆく時期といえる。美術をつくり出す主体が,支配階層から町人の側へ移るのもこの時期である。絵画の分野では,狩野派の障壁画制作にはもはや創意が見られず,探幽の晩年に完成された軽みと洒脱味のある画風が,幕府の御用絵師として代々身分を保障されるという特権を得た狩野派の奥絵師,表絵師,その門人たちの規範となり,彼らを通じ一般にも普及して,以後幕末にいたる間の画法の指針となった。このことは,狩野派の画風自体の形式化と生命の枯渇と表裏をなしている。一方やまと絵の伝統を受け継ぐ土佐派は,1654年(承応3)光起が宮廷絵所預職への復帰を許され,またその分家である住吉家が幕府の御用絵師となったが,彼らも狩野派同様,伝統の保守に終始した。これに対し,創造の意欲を示したのは民間の側である。

 上方で流行した風俗画は,寛文(1661-73)のころになると,新興町人の都市である江戸にその場所を移して,より量産に適した版画に新しい展開の道を見いだすようになり,菱川師宣による浮世絵が出現した。呉服商雁金屋出身の尾形光琳は,上方の上層町衆の芸術的伝統を継いで,宗達の装飾画風をより知的に洗練させた。光琳はまた光悦の例にならって工芸の意匠にもすぐれた才能を発揮している。染織では寛文小袖(寛文模様)といわれる小袖の流行があげられる。これは正保~延宝(1644-81)ころに見られるもので,肩から背にかけて大柄な文様が小袖全体を一つの画面に見立てるように大きな曲線を作って流れるものであり,初期に流行した桃山風装飾屛風の図様が,染織の世界に移されたことを意味する。文様のモティーフに将棋の駒などこれまでにない卑近なものがとりあげられている点に寛文小袖の民間的性格がうかがえる。続く天和年間(1681-84)の奢侈(しやし)禁止令を契機として,それまでの繡(ぬい)と絞(しぼり)による染織技法に代わり,模様染が普及しはじめた。

 また,陶磁器では,江戸初期に大量に輸入された中国陶磁の刺激による色絵磁器の技法の開発が特記される。1640年代になって酒井田柿右衛門が赤絵磁器の技法を工夫し,これを契機に有田(伊万里),古九谷,鍋島などすぐれた色絵・染付磁器が各地で焼かれ,野々村仁清による色絵陶器と相まって日本陶磁史上の一つの頂点を形成した。これらの磁器は,当時南蛮焼と呼ばれていたように,中国磁器の様式に強く影響されたものであり,中国的な意匠による有田(伊万里)焼は,清代の磁器に代わってヨーロッパに大量に輸出された。その中で鍋島焼は,鍋島藩のいわば〈官窯〉として,和様の意匠に孤高の美をつくり出している。また仁清の色絵茶陶は寛文小袖と同じく初期の装飾屛風の意匠を時代の〈きれいさび〉の趣向に合わせて,茶陶の絵付に移したものであり,中国趣味を脱した純日本的色絵の創案がそこに見られる。仁清の色絵は尾形乾山によって瀟洒の度を加えて継承されている。

 この間,1654年(承応3),僧隠元が弟子とともに来日し,幕府の庇護を得て61年(寛文1)宇治に万福寺を建立,黄檗(おうばく)宗の拠点としたことは,明代末期の仏教美術を日本に伝える上での契機となった(黄檗美術)。万福寺では渡来仏師范道生により新奇な仏像が制作され,日本の仏師らにも影響を与えた。江戸の松雲元慶による五百羅漢寺のための造像(1695ころ)には,この新様式と伝統様式とのすぐれた融合が見られる。美濃の遊行僧円空が,地方民衆の素朴な信仰に支えられて各地に残したおびただしい木彫像は,古代以来の鉈(なた)彫りの伝統を蘇生させたものであるが,ここにも黄檗彫刻の影響が認められる。また寛文から元禄ころ(1661-1704)にかけて,黄檗宗の高僧の頂相(ちんそう)絵画がさかんにつくられた。これは,西洋の写実手法の影響を強く受けた明末・清初の肖像画法によるもので,江戸時代洋風画史の第1段階としても注目される。同じころ明末・清初の花鳥画の手法も河村若芝,渡辺秀石ら長崎の画人により模倣されている(長崎派)。来日した黄檗僧や知識人の書に学んで〈唐様〉と呼ばれる新しい書風が北島雪山らにより興されたのも前期の終りころである。

前期の美術の展開が,桃山的なものから江戸的なものへの移行の過程としてとらえられるのに対し,後期の美術は,より民衆的なレベルでのそれの再編,成熟の時期といえる。美術の大衆化は加速度的に進み,その中心は伝統ある上方を離れて江戸に移り,さらに全国的な普及を見るようになる。

この時期の美術の再編の大きな要因となったものは外来美術の影響である。前期においてまだ受動的な模倣の域にとどまっていた明・清の新しい美術の様式は,この時期になると,より主体的,本格的に学びとられるようになる。それは特に絵画の分野に見られるもので,《芥子園画伝》のような輸入画法書,逸然,大鵬ら帰化黄檗僧の余技,沈銓(しんせん)(沈南蘋),伊孚九ら来日清人画家からの学習などを通じて,明清画の諸様式が吸収され,新しい創造のための契機として役立てられた。一方,中国を媒介として,あるいは1720年(享保5)の洋書解禁を契機として紹介されたヨーロッパ絵画の手法も,画壇の各流派にさまざまなかたちで影響を与え,その新しい展開の支えとなった。後期の美術を主導した民間の絵画の分野では,前述の外来絵画の刺激のもと,宝暦~天明(1751-89)のころ京都画壇において従来の面目を一新するような新しい動きがあらわれる。池大雅,与謝蕪村らによる南画(文人画),円山応挙による写生画,伊藤若冲,曾我蕭白らによる奇想画がそれである。南画は,中国の文人画の脱俗の理念や南宗画の山水画法とをよりどころにした中国趣味の強い主観主義的画風であり,写生画は,中国,ヨーロッパの写実手法と日本の伝統的な装飾画法の折衷による客観主義的描写であり,奇想画は新奇な個性的表現をねらうなど,それぞれ傾向,主張を異にしながらも経験主義,自我意識の目ざめといった時代の思想傾向を共通の背景としている。それは,伝統ある上方美術の最後の興隆でもあった。

同じころ江戸では,師宣にはじまる浮世絵が,墨摺りの手法を《芥子園画伝》の挿図に見るような中国の色刷り手法をヒントに彩色版画の方向へと発展させる。それは手彩色による丹絵(たんえ)から漆絵を経て紅摺(べにずり)絵へと進み,明和年間(1764-72)鈴木春信によって錦絵が考案された。優美な王朝やまと絵の世界を江戸市民の日常生活の中に見立てた春信の錦絵によって浮世絵版画の芸術性は高まり,江戸浮世絵界は天明から寛政(1781-1801)にかけて,鳥居清長,喜多川歌麿,東洲斎写楽らを輩出して黄金時代を迎えた。

 寛政から文化・文政のころ(18世紀末~19世紀初め)になると,南画は各地に伝播して,上方を中心とする西日本では浦上玉堂,田能村竹田,岡田米山人らが活躍した。関東でも谷文晁や,その教えをうけた渡辺崋山らによって明清画風が試みられ,関東南画の成立をみた。また蘭学の流行に呼応して西洋の透視画法や陰影法あるいは銅版画,油絵に対する研究熱が高まり,司馬江漢のような本格的洋風画家が江戸を中心にあらわれる。関東南画はこの洋風画法も学んでいる。江戸は上方にかわる絵画の中心としての地位を固めてゆき,宗達,光琳による上方琳派の伝統も酒井抱一によって江戸に移植された。浮世絵は文化・文政(1804-30)以後,より広汎な庶民層の需要に応えて卑俗化し,幕末に近づくと退廃の世相を反映してグロテスクな表現をも生むが,その中にあって葛飾北斎,歌川広重らの仕事は芸術性と大衆性との矛盾を克服し,絵画を真に民衆のものとする上で貢献したといえる。

 絵画にくらべ後期の工芸は,技巧主義への傾倒と大衆化に伴う質の低下とが相なかばして芸術的創造の面で見るべきものをさほど持たない。陶磁器では上方における文人趣味,煎茶趣味の普及を背景に奥田穎川(えいせん),青木木米が中国風の色絵磁器を試み,京焼の伝統に新風をもたらした。染織では,染の技術の進歩に支えられて,多色の染模様による絵画的な意匠が流行した。友禅染がそれを代表する。また型染の技術による小紋,中形(ちゆうがた)の意匠が発達した。小紋,中形は染の量産化の情況に即したものだが,型紙を何十枚も使って,見えないぜいたくをこらしたものもなかにはある。都市の武士や町人が趣向を競った刀のつばや根付,印籠は泰平の世相がもたらした〈いき〉の美意識の反映であり,そこには金工,木竹牙角工,漆工,陶磁の各分野にわたる驚くべき細緻な技巧が見られる。それは,同時代の清の工芸の瑣末な技巧主義に影響されたものだが,そこに和漢のモティーフ,意匠が自在に組み合わされ,軽妙な機智とユーモアがこめられていることを日本的特性として評価すべきであろう。京の友禅が加賀に伝わって加賀友禅となったように,江戸後期において工芸は各藩の殖産興業の政策と結びついて,全国各地に伝播し,それぞれの風土の中で地方色豊かな特産品として育成された。それは工芸が,広く国民の生活に密着したことを意味するものであり,江戸後期の工芸の意義は何よりもこの点にあるのかもしれない。

 仏教美術の分野では専門仏師による作品が画一化されていったのに対し,円空の鉈彫りの衣鉢をついだ木喰五行明満の木彫に宗教的情熱に支えられたすぐれた表現が見られる。白隠,仙厓が大衆教化のために描いた禅画の独自なスタイルは,近年高く評価されている。白隠,慈雲,良寛らの書は,その脱俗の風格において,貫名海屋,市河米庵ら儒者系書家の唐様より高く評価されている。また池大雅の書も唐様を超えたものとして評価を受けるべきであろう。世俗化への傾斜を続けた江戸時代美術のなかで,これらの存在を無視できない。

 以上のべたように,江戸時代美術の展開はきわめて多彩な様相を呈している。閉ざされた時代の極東の一小国の民衆が主体となって生み出したものとしては,異例の豊富さといえるかもしれない。それは,古代以来の日本美術の伝統の民衆による収穫の時期であり,近代の美術の出発点もまたここに求められる。
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江戸時代の建築は,初期には東照宮など,武家に関係の深い建築や,伝統的な社寺建築が中心になり,中期から末期にかけては,民家や劇場など,庶民に関係が深い建築が主要なテーマになる。安土桃山時代に中心的な位置を占めた城郭は,徳川幕府の一国一城令(1615)によって,旧態を維持するだけという状況になる。1626年に大改修を受けた二条城二の丸御殿大広間などは,桃山時代の豪華絢爛とした室内構成を伝承しているが,江戸の大名屋敷では1657年ころから,対面の場は床・棚・書院のみを備えた主室に,2~3の次の間が続く簡素な形式に変化した。茶室も,現存するものは江戸時代に建てられたものが多いが,前代の形式を踏襲したといわれるものが少なくない。

 江戸時代前期の建築は桃山時代の形式を伝承する一方で,和様・禅宗様などの建築様式を適当に組み合わせて,新しい建築効果をあげている。1634年に改築された日光東照宮は,幕府権力の象徴として総力をあげて取り組んだ建築であるだけに,豪華さにおいて桃山建築の影響を色濃く残しているが,同時に随所に江戸時代建築の特質がみられる。拝殿,石間(いしのま),本殿を連続させた複合社殿の内外を漆極彩色,黄金色金物で飾る表現は,豊臣秀吉をまつった豊国廟の系譜を引き,それを凌駕しようとするものである。しかし,他方で,社殿の軸組は禅宗様を使いながら,長押(なげし)や蔀戸(しとみど),格天井(ごうてんじよう)など和様の要素を巧みに組み入れた構成や,入口まわりの何の変哲もない校倉(あぜくら)の神庫や厩(うまや)に軒下や欄間に施した装飾により統一感を与えるという手法,表門からの導入路を2度折りまげ陽明門から唐門,拝殿へと順に敷地を高くし荘厳さを加味させる構成法などは,江戸時代らしい特徴といえる。ここに,自然条件を冷静に分析し,人工の建築物を付加することによって最大の効果をねらうという江戸時代の空間構成の基本を看取できる。

 住宅建築においては,書院造の建築から固苦しさを排除し,柱や長押などに面皮(めんかわ)材を使うなど,茶室的要素を取り入れて素朴な表現を持った数寄屋建築が普及した。桂離宮をはじめ,三渓園臨春閣,曼殊院書院(1656),西本願寺黒書院(1657)など,武家や公家の別荘建築や寺院の書院また吉村家住宅など民家の座敷にも数寄屋造は取り入れられ,現代に至るまで,和風住宅の基本的形式になっている。

 17世紀には伝統的な社寺の復興がさかんに行われたが,それらにみられるものは古典的形式を再現しようとする姿勢である。妙心寺法堂(1657),大徳寺本堂(1666)などの禅宗寺院建築,清水寺本堂(1633),東大寺大仏殿(1709),賀茂別雷神社社殿(1628)などがその代表例である。一方,新興の社寺では,桃山以来の華やかな建築表現を受け継ごうとするものもあった。東本願寺大師堂(1636)など浄土真宗系寺院や,各地に勧請して建てられた東照宮の社殿などがそれであるが,彫刻や彩色装飾は日光東照宮に比べても,かなり控えめになっている。また,1650年ころから,宗門改めなど,幕府の宗教政策の庇護のもとに膨大な数の檀那寺が全国に設けられた。これらの建築は,ぜいたくな造作にならないよう幕府から厳しい規制を受けていたため,向拝や仏壇まわりを飾るほかは質素な作りになっている。

 民家も江戸時代になって大きな発展をとげる。初期の農家は作業用の土間に隣り合って,いろりを切った広い居間があり,寝室は開口部の少ない納戸であったが,中期以後は開口部が増し,室内も明るくなり,床の間のある座敷も設けられるようになった。町家は道に面する表にはね上げ戸や格子を備えた店を設け,通り抜けのできる土間に沿って,部屋が並び,裏庭に面して座敷が設けられた。内部は素木(しらき)仕上げの質素な作りであったが,土間や居間の上には自然の形のまま成形した太いはり組を見せるなど,素朴ななかにも力強い意匠が見られる。また草ぶき屋根も地方の環境の特性によって形や棟飾りに変化を見せる。江戸時代は都市が充実した時代であり,それに伴ってふろ屋,遊郭,劇場などさまざまな都市施設が設けられた。蒸しぶろを備えた湯屋は庶民の娯楽場の一つであったが現存する建物はない。遊郭は京都島原の角屋(すみや)が豪勢な造作を残している。歌舞伎の劇場も18世紀から充実し,舞台から平土間,二階桟敷までを大屋根で覆う大規模なものがつくられた。

 18世紀末ごろから各藩とも,藩校として施設を充実させるようになる。1670年に創立された閑谷(しずたに)学校は岡山藩が設けた郷学校で藩の学校としては古いものである。寺子屋や洋学,医学の塾は普通の住宅で行われることが多く,緒方洪庵の蘭学塾(適塾)も普通の商家を使用したものであった。
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