グエン朝(読み)グエンチョウ

デジタル大辞泉 「グエン朝」の意味・読み・例文・類語

グエン‐ちょう〔‐テウ〕【グエン朝】

阮朝

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「グエン朝」の意味・わかりやすい解説

グエン朝 (グエンちょう)

1802-1945年,フエに都したベトナム最後の王朝。阮朝とも書く。17世紀以来,ベトナムは中南部のグエン(阮)氏(クアンナム朝)と北部のレ(黎),チン(鄭)氏に分裂していたが,タイソン・グエン(西山阮)氏が興って1777年グエン氏を,86年レ,チン政権を滅ぼして全土を統一した(タイソン党革命)。南部のグエン氏の王族グエン・フック・アイン阮福暎)は,1778年以来シャム,フランスの援助で,タイソン・グエン氏と戦って領土を広げ,1802年ついに北部を占領して全土の再支配に成功した。この年グエン・アイン(院暎)は帝位に昇ってザロン(嘉隆)帝と称し,04年中国の封冊を得て国号をベトナム(越南)とした。これが現在のベトナム社会主義共和国の国号の起りである。ザロン帝はレ(黎)朝諸制度を復興するとともに積極的に中国の諸制度の移入をはかり,08年には各地に文廟(孔子廟)を設け,12年にはほぼ大清律令の模倣である皇越律例をつくった。この中国的専制支配の志向は次代ミンマン(明命)帝(在位1820-41)の時代にさらに推進され,中央官制の模倣はもとより,地方には省,府,県を置き,これまで半独立的であった総鎮制(地方軍管区)を廃止して32省に分け,省中に府県を設け,大省には総督,小省には巡撫,府県には知府,知県を置くなど,地方行政制度の中央集権化を進めた。しかし,これらの政策も,トン(総),サー(社)などの小地域集団内部には至らず,実際の村落行政は在郷官人,村役人層にゆだねられ,かえってこれらの層は国家権力を借りてその村落支配を強化した。

 一方,19世紀前半には北部デルタの可耕地面積はほぼ限界に達し,村落内部からの零細・無産農民層の流出が続き,一部は南部の開拓に,一部は匪賊化して北部の治安を擾乱した。匪賊の反乱は,1826年のナムディン省,33年のニンビン,フンホア各省,同年の山岳部各省でのノン・バン・バン(農文雲)の反乱など数多くあるが,なかでもグエン朝の根幹を揺さぶったのは1850年代に活発化する水匪の反乱である。水匪はトンキン(バクボ)湾北縁の多島海に拠って,ソンコイ川デルタに侵攻し,しばしば府城を陥れ,74年にはデルタ東部ハイズオン省のほとんどの村落が略奪されるという状況を呈した。一方,太平天国期以降,中国人匪賊の大群が南下し,特に1864年以降はハノイ北東方の山地はことごとく占拠され,小独立国が割拠する状況であった。

 グエン朝はその創設期にはベーヌをはじめ,フランス人義勇兵の援軍を得るなど,西欧勢力に開放的であったが,カトリック教徒の増加とともに,ミンマン帝,3代ティエウチ(紹治)帝のころから朝廷の対欧米鎖国政策が顕著になった。しかし宣教師の処刑を含むこの政策はかえってナポレオン3世の対外膨張策を利し,1847年と56年にはトゥーランダナン)がフランス海軍によって破壊され,58年にはフランス・スペイン連合軍がトゥーラン,フエを攻撃し,翌年にはサイゴン一帯が占領された。62年,4代トゥドゥック(嗣徳)帝(在位1847-83)はフランスと第1次サイゴン条約を結んで,南部3省を割譲した。67年にはフランス軍はさらに進んで南部西方3省を武力占拠し,一方的に併合宣言をした。仏領コーチシナの成立である。次いで73年F.ガルニエによるハノイ城占拠を経て,83年リビエール指揮のフランス軍が黒旗軍に敗れたことを理由として,北部に大兵を入れ,84年第2次フエ条約によって,北部の保護領化,中部の保護国,フランス軍の駐留権を認めさせた。この間,トゥドゥック帝の死(1883)後,グエン朝内部では帝位継承をめぐる争いがあい次ぎ,ズクドゥック(育徳)帝(1883),フィエプホア(協和)帝(1883)は廃され,キエンフク(建福)帝(在位1883-84)は毒殺されて,帝権は衰亡しきった。これに反発する官人・村役人層は8代ハムギ(咸宜)帝(在位1884-85)を擁して山地にゲリラ戦を展開した。これをバンタン文紳)起義(1885-88)と呼ぶ。これはグエン朝が政治的意味をもった最後であり,9代ドンカイン(同慶)帝(在位1885-89)の時,フランス領インドシナ連邦が成立し(1887),以後,グエン朝はわずかに中部を保つ,連邦内部の一保護国に転落した。しかも実権は連邦総督の派遣するアンナン理事長官に把握され,10代タインタイ(成泰)帝(在位1889-1907),11代ズイタン(維新)帝(在位1907-16)は,いずれも幼少時に即位して成人に達すると,フランス権力によって廃位された。

 しかし第1次大戦期までグエン朝は依然ベトナム民族主義の象徴であり,ファン・ボイ・チャウはザロン帝直系の畿外侯クオン・デ(彊)を盟主としたし,1916年のフエのベトナム人兵士の反乱はズイタン帝を奉じていた。1930年代以降,インドシナ共産党を主流とする民族運動の中でも,フエ官人層や南部の諸宗教集団は第13代バオダイ(保大)帝を精神的支柱としていた。45年3月9日,駐仏印日本軍がフランス権力を一掃し,バオダイに独立宣言を強要した際,バオダイ政府に結集したのもこの層であった。しかしこのバオダイも,8月25日,ベトミンのフエ蜂起によって,帝位を辞してホー・チ・ミン政府の顧問となり,グエン朝は完全に終息した。

 グエン朝宮廷文化の基本は,中国士大夫文化の積極的移入である。フエでは皇帝をはじめ官僚群はことごとく漢学者であった。その中から《大南一統志》《越史通鑑綱目》をはじめとする優れた地理・歴史書が生まれ,《大南会典事例》《大南寔録(だいなんじつろく)》のような膨大な法令集,史料集が作られた。しかしその一方で,グエン朝はグエン・ズー(阮攸)の《キム・バン・キエウ(金雲翹)》,グエン・ディン・ティエウ(阮廷炤)の《陸雲僊伝》などのチュノム(字喃)国民文学が作られ,ベトナム民衆が自ら独自な文化形成をなしえた時代でもある。
執筆者:


出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「グエン朝」の意味・わかりやすい解説

グエン朝
ぐえんちょう

阮朝

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のグエン朝の言及

【ベトナム】より

… 1771年クイニョンに起こったグエン(阮)3兄弟によるタイソン党革命は,75年クアンナム朝を滅ぼし,次いで86年グエン・バン・フエ(阮文恵)はチン氏を倒し,レ帝を中国に逐い,さらに89年には清の干渉軍をハノイに大破した。タイソン・グエン朝下,ベトナムでは土地改革が行われ,チュノム(字喃)文学が栄えたといわれる。
[統一王朝グエン朝]
 18世紀以降,クアンナム朝のナムティエン(南進)政策によって,ハティエンなどの中国人王国が服属し,メコン・デルタはベトナム領となっていた。…

※「グエン朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android