トスカナ(英語表記)Toscana

精選版 日本国語大辞典 「トスカナ」の意味・読み・例文・類語

トスカナ

  1. ( Toscana )[ 異表記 ] トスカーナ イタリア半島中部、アペニン山脈西側のリグリア海・チレニア海に面する州。州都はフィレンツェ。古代のエトルリアの大部分を占める地方。一五世紀にメディチ家が支配し、ルネサンス文化の一大中心地となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「トスカナ」の意味・わかりやすい解説

トスカナ[州]
Toscana

中部イタリアの州。イタリア半島の西側に位置し,リグリア海,ティレニア海,アペニノ山脈に囲まれる。面積3万km2,人口360万(2004)。州都はフィレンツェ。北東のアペニノ山脈には標高2000mに達する山があり,全体として西側の海に向かって低くなっていく。アルノ川をはじめいくつかの川の流域と海岸部を除き,山と丘陵におおわれている。また,エルバ島ほかいくつかの島がある。気候は温和で,フィレンツェを例にとれば,月平均気温は1月4.7℃,7月24.6℃,年降水量840mmである。人口は都市において増大し,山間部,丘陵地において急速に減少しつつある。トスカナはイタリア諸州の中でもルネサンス以来の伝統を誇る個性豊かな州として知られている。トスカナ方言トスカナ語)はダンテ以来の文化的背景をもち,現在のイタリア語の基盤となった。トスカナ方言が北西部のカラーラ付近を除き,ほぼ州の範囲全体に普及していることは,トスカナの文化的統一性を物語っている。

産業としては,近年まで農業が中心であった。とくに丘陵地では穀物と果樹の混合耕作が行われ,メッザドリーアmezzadria(折半小作制)が普及していた。地主は多く都市に居住し,小作地の中心にある別荘に季節的に滞在して収穫作業を監督するというのがルネサンス以来の古い伝統であった。このような市民的地主が政治と文化を指導する役割を果たしてきたことに,近代トスカナの特徴が認められる。しかし1950年代,60年代におけるイタリアの経済発展の過程で大きな変化が生じた。農村人口の流出,工業人口の増大が生じ,山間部や丘陵地では多くの耕地が放棄された。カラブリアなどの南イタリア出身の農民がその後を埋めた時期もあったが,結局,大部分の地域においてメッザドリーアは解体した。かつて折半小作農が住んでいた家が廃屋となり,あるいは別荘として売られる例がしばしば見られる。また,かつて耕地であった丘陵地にサルデーニャ出身の牧畜業者が進出し,牧羊を行っている例もある。農業の現状はEC内での競争のために厳しいものがあるが,78年には小麦69万t,ブドウ酒401万を生産した。イタリア20州の中で小麦,ブドウ酒ともに6位を占めている。小麦はほとんどが軟質小麦である。ブドウ酒は,キアンティChianti地方(フィレンツェ~シエナ間の丘陵地)のように産地証明による商標保護の行われている地域を中心に,技術の改良,生産の増大が進んでいる。

 鉱業としてはエルバ島の鉄,モンテ・アミアータの水銀,カラーラ付近の大理石などが主たるものである。工業は全体として中小企業によって担われており,重化学工業の比重は低い。工場はフィレンツェ以西のアルノ川下流域,その北側のピストイア付近に多い。ピオンビノの製鉄,ピストイアの機械,フィレンツェの精密機械や印刷,プラトの毛織物などが主要なものである。トスカナの工業は,ピエモンテロンバルディア,リグリア,エミリア・ロマーニャ,ベネトの北イタリア5州に続く地位をもつと考えられている。

トスカナはかつてTuscia(トゥスキアないしトゥシア)と呼ばれた。古代エトルリア人の居住した地域で,その名称はエトルスキの別名トゥスキTusciに由来する。その範囲は現在のトスカナより広く,ラティウムの北部を含んでいた。前3世紀ころ,ローマに征服されてその行政単位となり,ディオクレティアヌス帝治下(284-305)にはウンブリアとともに一つの単位とされた。西ローマ帝国解体後,トゥスキアはオドアケル,さらに東ゴート,ランゴバルドの支配下に入った。ランゴバルド時代(568-774)にはルッカを主都とする公領となり,ほぼ現在のトスカナに見合う領域をもつようになった。ただし,トスカナという名称自体は12,13世紀に確立したものである。

 カール大帝によってランゴバルド王国フランク王国に併合されると,トスカナは国境防衛の役割を果たす辺境伯領となった。辺境伯の座所はルッカにあったが,しだいにピサ,シエナ,フィレンツェなどの都市が台頭するようになった。この時代に封建制が拡大したと考えられている。辺境伯の位はいくつかの家に受け継がれながら,〈イタリア王国〉の時代(888-962)においても政治的重要性を維持し,その力はコルシカやサルデーニャにまで及んだ。とくに1000年ころにはトスカナ辺境伯ウーゴUgoは大きな勢力をふるった。11世紀中葉,トスカナは,カノッサを本拠地としモデナ,レッジョ,マントバなどを支配するアットーニAttoni家(カノッサ伯家)の勢力下に入った。アットーニ家叙任権闘争に際して教皇グレゴリウス7世を支援したことで知られている。このころから商業が発展し,都市の勢力が増大した。とくに十字軍によってピサが発展し,地中海貿易の重要な拠点としてジェノバとの間に激しい競争を行うようになっただけでなく,アルノ川流域一帯の内陸部に影響力を及ぼすにいたった。

1115年,女伯カノッサのマティルデMatilde di Canossa(1046-1115)の死去によってトスカナの支配者がいなくなった。この時期に各都市の自立性が一段と強まり,コムーネが形成されるようになった。コムーネの支配権は都市内部に限定されるものではなく,周辺の農村地帯へと拡大していった。アペニノ山脈などの山間部にはなお有力な領主が勢力をふるっていたが,中小の領主層はしだいに都市に移住し,コムーネの活動に参加するようになった。都市の中ではピサ,ルッカ,フィレンツェなどが近隣の都市や領主を征服して支配圏を拡大し,互いに争った。13世紀に入ると,この抗争はゲルフ党とギベリン党の争いという形をとるにいたった。

 1284年のメロリア沖の海戦でピサがジェノバに敗れると,ピサの勢力が衰え,代わってフィレンツェが進出するようになった。14世紀の初頭,ギベリン党の有力者であるウグッチョーネ・デラ・ファッジョーラとカストルッチョ・カストラカーニがフィレンツェ軍を破ったが,その勢力拡大を阻止するにはいたらなかった。フィレンツェは国際的金融業や毛織物工業によって繁栄し,さらにダンテ,ボッカッチョ,ジョットなどの出現によって文化的にも優位に立つようになった。その他の都市が文化的に衰退してしまったわけではなく,ルッカ,ピサ,シエナなどはその後も高い水準の文化的伝統を維持していた。しかし,全体として14世紀中にトスカナにおけるフィレンツェの優位が確立したことは明らかである。1340年代におけるバルディ家ペルッツィ家などの有力な国際的金融業者の破産,48-49年の黒死病(ペスト),78年の〈チョンピの乱〉などによる混乱もフィレンツェの優位をゆるがすことはなかった。北イタリアを統一し,さらに中部イタリアを征服しようとしたミラノ公ジャンガレアッツオ・ビスコンティの野望も,彼の急死によって挫折した(1402)。1406年のピサ併合によりフィレンツェの支配はトスカナのほぼ全域に及び,ルッカとシエナが独立しているだけとなった。これ以降,トスカナの歴史はフィレンツェの歴史と重なり合うことになる。

15世紀はルネサンスの世紀であった。1434年にフィレンツェの事実上の支配者となったメディチ家のもとで,トスカナはルネサンス文化の中心として,イタリアの内外に大きな影響を及ぼした。しかし,トスカナが緊密な政治的統一体を形成していたとはいえない。教皇(とくにアレクサンデル6世)の勢力拡大やフランス王シャルル8世の遠征をきっかけとして,従属都市がフィレンツェに反乱を起こすことがあった。ピサ(1494)やアレッツォ(1502)の反乱がその例である。事実上はメディチ家の支配のもとにあったにせよ,形式的には都市国家であったフィレンツェが,他の都市国家群を支配する形はやはり不安定なものであった。15世紀末にはロレンツォ・デ・メディチの死(1492),メディチ家の追放(1494),サボナローラの台頭と処刑(1498)などの事件が相次いで生じ,トスカナの政治はきわめて混乱した。1530年,フィレンツェは神聖ローマ皇帝カール5世の軍勢によって征服され,共和政(都市国家)の歴史は終わった。

カール5世とメディチ家出身の教皇クレメンス7世の協定によって,メディチ家が復帰し,1532年にフィレンツェ公,69年にトスカナ大公の位を得た。大公コジモ1世はそれに先立ってシエナと戦い,これを征服した(1557)。こうして,マッサ,カラーラ,ルッカ,ピオンビノなどを除く全トスカナがメディチ家のもとに統一されることになった。コジモ1世(在位1537-74)とその子フェルディナンド1世(在位1587-1609)はトスカナを領邦国家にまとめることに努力し,農業や商業の振興を行った。リボルノ港が整備され,17,18世紀には西地中海の重要な港の一つになるにいたった。歴代の大公はトスカナの学問的中心としてピサ大学を保護した。1610年にガリレオが招かれたのもその一例である。このような努力にもかかわらず,トスカナの経済と社会は全体として停滞した。フィレンツェの貴族層はもっぱら土地に投資した。メッザドリーアが農村を支配し,小作農は債務によって土地に縛りつけられるようになった。メディチ家の家運もしだいに衰え,ジャンガストーネの死(1737)によって断絶してしまった。
トスカナ大公国

トスカナ大公位はオーストリア皇女マリア・テレジアの夫ロートリンゲン(ロレーヌ)公フランツ・シュテファンフランツ2世)のものとなった。ポーランド継承戦争の結果ポーランド王位を追われたスタニスワフ・レシチニスキーにロートリンゲンが与えられることになり,その代償にトスカナを得たわけである。彼は1745年に皇帝に即位したため,トスカナは事実上オーストリアに併合された。その子ペーター・レオポルト(ピエトロ・レオポルド)が大公になると(1765-90),トスカナは再び独立の公国となった。彼は農業の振興を企て,開墾を奨励して自作農の増大をはかり,行政機構の整備,封建的特権の制限,異端審問や死刑制度の廃止など,一連の啓蒙的政策を行った。この時代のトスカナはロンバルディアとともにイタリアにおける啓蒙的改革の中心であり,メディチ家支配時代の停滞を脱する兆しを見せた。ナポレオンの征服の後トスカナはエトルリア王国となり(1801),さらにフランスに併合された(1808-09)。ナポレオン法典の制定,教会財産の売却などの革命の成果がトスカナに導入された。

 ナポレオン没落後,1814年フェルディナンド3世が大公に復帰したが,革命の成果が無に帰したわけではなく,多くの部分が維持された。ナポレオン法典は廃止されたが,開明的なレオポルド法典が制定された。また,ピオンビノ,ルッカ,エルバ島が併合され,領土が拡大した。やがてフィレンツェは自由主義的改革派の拠点となった。ビュスーG.Vieusseuxが1821年に創刊した雑誌《アントロジーアAntologia》には,G.カッポーニ,C.リドルフィ,B.リカーソリなどが集まり,トスカナの文化的・政治的革新を主張した。また1751年に創立され,重農主義的政策を主張してきた〈ジェオルゴフィリ(農業愛好家)・アカデミーAccademia dei Georgofili〉の活動も活発であった。1848年,全イタリアに憲法要求の運動が拡大したとき,レオポルド2世は出版の自由を認め,憲法を発布した。オーストリアからの第1次解放戦争(1848-49)の末期には,リボルノを中心に急進的自由主義者の反乱があり,さらに〈イタリア統合立憲議会〉への参加を要求されたレオポルドは一時ガエタに亡命し,トスカナに共和国が成立した。この共和国は短命に終わり,大公はフィレンツェに復帰したが,政治を主導してきた穏和派自由主義者たちはサボイア王家に期待するようになり,大公は孤立した。第2次解放戦争(1859)の後,レオポルドは再度亡命し,国民投票の結果,60年3月15日トスカナはサルデーニャ王国に併合された。

イタリア統一が達成されると,フィレンツェは1865-71年の6年間王国の首都となった。トスカナの穏和派自由主義者たちは積極的に国政に参加し,〈右派〉政権の重要な支柱となった。産業面では依然としてメッザドリーアによる農業に立脚していたが,しだいにリボルノの造船業,プラトの毛織物業,エルバ島の鉱業などが発展し,社会主義的労働運動も生まれた。大公国時代の末期において活発であった文化活動は,有力な新聞をもつローマ,ミラノ,ナポリにおくれをとることになったが,20世紀初頭には再び活気を取り戻し,プレッツォリーニの《ラ・ボーチェ》,コラディーニの《イル・レーニョ》,サルベーミニの《ルニタ》などの雑誌によって文学的・政治的言論活動が活発に行われた。第1次大戦に際しては参戦派と中立派の激しい対立があり,戦後には労働運動,農民運動が活発化し,不況の進行とともに激しい社会的対立を生み出した。これがファシズムに帰結した。基本的に農業地域であるトスカナにおいては,エミリア同様〈農村ファシズム〉が主流を占め,〈襲撃隊〉が社会主義的組織や人民党系組織に攻撃を加えた。第2次大戦中はトスカナの主要都市はほとんど砲撃や爆撃を受けたが,とくにリボルノ,ピサの被害が大きかった。また1944年から45年にかけて,都市,農村を問わずレジスタンス運動が活発に行われた。現在のトスカナはエミリア・ロマーニャとともに共産党の地盤として知られており,共産党は50%に近い得票数を確保している。
執筆者:

イタリア文学のなかにトスカナが占める位置を知るには,まずダンテ,ペトラルカ,ボッカッチョの名を想起する必要がある。《神曲》《カンツォニエーレ》《デカメロン》,この三つの傑作は,イタリア文学にとってまごうかたなき古典であり,叙事詩,抒情詩,散文物語の各分野で確固たる伝統を築き上げた。ただし,《神曲》の筆が執られたのはフィレンツェ追放後であり,ペトラルカにいたっては幼くしてすでにトスカナの地を去っている。つまり,トスカナの名のもとに三大文人を包括させうるものは,地域の共通性ではなくて,実は,文学の最大要件の一つである言語の共通性なのである。ラテン語がいまだ君臨していた時代に,俗語の一つであるトスカナの言葉で,三大古典は書かれた。その結果,イタリアの統一問題と並行してうむことなく論議された言語統一の問題は,16世紀前半にベンボの貢献でひとまず決着した。すなわちダンテが完成し,ペトラルカとボッカッチョがそれぞれ詩と散文で洗練させたトスカナ語は,ラテン語に代わって文学語の地位を獲得し,念願の国家統一達成のころには,イタリア近代小説の祖マンゾーニがフィレンツェの口語を手本とした。イタリア文学の伝統が生まれ育ったトスカナは,いわば絶えず立ち帰るべき偉大な故郷であった。

 事実,イタリア文学史の叙述は,シチリア派を巻頭に置くものの,その後しばらくの間,すなわちトスカナが優位を誇った13~15世紀において,さながらトスカナ文学史の観を呈する。シチリアの宮廷で先駆的に試みられたプロバンス風の俗語恋愛詩は,いわゆるトスカナ派の手によってコムーネの風土に移し替えられ,つづく清新体派の前衛詩人たちの努力により,その愛の主題を大きく変貌させ,同時にトスカナの俗語をみごとに成熟させた。そして《神曲》にその完成を見たとき,すでに中世は終りを告げようとしていた。それをいち早く直観し,表現したのがペトラルカとボッカッチョの2人であり,ここにイタリア文学の新たな方向は定まったのである。なお,コムーネ社会に限定されたいわば郷土文学に,年代記や,《デカメロン》を範とした散文物語がある。

 つづくルネサンスの時代,フィレンツェは人文主義の中心地として新しい文化をつねに牽引し,メディチ家の宮廷では学芸の花が咲き誇ったが,16世紀を迎えてトスカナの威勢も衰え,マキアベリを最後に文学史の表舞台からその名は消える。しかし,すでに文学語として不動の地位にあったその言語は,以後もイタリアの文学伝統を陰で支えつづけた。20世紀に入り,再び時代の脚光を浴びたとき,フィレンツェは新しい文学運動の一大中心地となっていた。両大戦間では,反ファシズムの文学者を多数結集させた《ソラーリアSolaria》誌(1926-36)の活動が特筆される。そして戦後のネオレアリズモ文学には,代表作家の一人プラトリーニが,フィレンツェに現れた。
執筆者:

13世紀初頭よりほぼ1世紀にわたって,トスカナで活動した画家たちの流派をトスカナ派Scuola Toscanaという。いずれの画家たちもビザンティン様式を基盤としているが,ピサ,ルッカ,アレッツォ,フィレンツェなど,商業活動による経済的興隆を背景に,フランチェスコの教えに鼓吹された人間的な宗教感情や新鮮な自然観に呼応した絵画を創出した。アッシジでも活躍したピサのジュンタGiunta Pisano(1229-54活動),ルッカのベルリンギエリ家(ベルリンギエリ)や,シエナのグイードGuido da Siena(生没年不詳)は,劇的で荘厳な表現に,親近感のある細部描写を交えたキリスト磔刑図や聖人伝の板絵を,またアレッツォのマルガリトーネMargaritone d'Arezzo(生没年不詳)は洗練された優雅な聖母子像を描いた。やや遅れてフィレンツェでは洗礼堂大天井のモザイクがフィレンツェ絵画の誕生をもたらす契機となり,13世紀末にチマブエが現れ,造形的人間像を現出させ,シエナのドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャは絵画的美を追求して,それぞれフィレンツェ派とシエナ派の礎を築いた。14世紀には,トスカナ派はこの両派に分離統合され,15世紀ルネサンス絵画への道を開く。
シエナ派 →フィレンツェ派
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