ドイツ演劇(読み)どいつえんげき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ演劇」の意味・わかりやすい解説

ドイツ演劇
どいつえんげき

ドイツ語を用いた演劇の総称。ドイツ、オーストリアおよびスイスの一部を含むが、歴史的にはさらに広範なドイツ語圏地域にまで及んでいる。

[岩淵達治]

中世演劇

10世紀ごろ、教会でトロープス(交誦(こうしょう))といわれる形式の音楽が生まれ、それと並行して対話体による典礼が復活祭に行われるようになり、しだいにキリスト復活前後の事件を14の留(りゅう)Stationの場面として描く「復活祭劇」(オスターシュピールOsterspiel)に発展した。この行事はやがて教会を離れて教区の住民の手に移り、使われることばもラテン語から民衆語であるドイツ語にかわり、町の広場に各場面をあらかじめセットした同時並列舞台(ジムルタンビューネSimultanbühne)による野外劇になった。また降誕祭の行事もキリスト生誕前後の事件を扱う「降誕祭劇」(ワイナハツシュピールWeihnachtsspiel)に進展した。これらはやがて町全体の行事となり、キリストの生涯を年代記的に描く大規模な「受難劇」(パッションスシュピールPassionsspiel)を生み出し、14、5世紀を頂点に16世紀にかけて、ヨーロッパ各地で盛んに上演された。このような宗教劇は記録の残っている町の名でよばれるが、ドイツ語圏では、スイスのムリ、オーストリアのエルラウ(現ハンガリーのエゲル)、ドイツのレデンティンの復活祭劇、フランクフルトハイデルベルクドナウエッシンゲンの受難劇などが有名である。このほか、マリア哀歌、聖体拝領劇、聖人伝劇、奇跡劇などの宗教劇、宗教的な内容をもつ世俗説話を劇化した『ユタ夫人の劇』や『テオフィールス』などがある。

[岩淵達治]

15~16世紀

一方、キリスト教伝来以前から存在した春祭が謝肉祭の行事と結び付いて、茶番狂言的な「謝肉祭劇」(ファストナハツシュピールFastnachtsspiel)が生まれた。謝肉祭劇は、15世紀中ごろ、とくに商工業の中心であったニュルンベルクの職人階級のなかで、マイスタージンガーMeistersingerの「工匠歌(こうしょうか)」と並んで形式的に完成された。16世紀にはハンス・ザックスが多くの作品を書き、ルネサンス期のドイツ演劇を代表した。また15世紀には人文主義者たちによってローマ喜劇が紹介され(10世紀の修道尼ロスウィータのテレンティウス翻案劇は例外)、ラテン語劇を書く作家も生まれ、宗教改革以後は多くの論争劇が書かれた。しかし、これらはあまり上演されず、もっぱらラテン語の練習のための「学校劇」(シュールドラマSchuldrama)が16世紀にかけて、浴房舞台(バーデツエレンビューネBadezellenbühne)(テレンティウス舞台)とよばれる簡素な形式の舞台で上演された。反宗教改革側の教団でも布教のために演劇が行われ、とくにイエズス会では16、7世紀に『ツェノドクスス』の作者ビーダーマンを生み、多くの殉教者劇も上演された。来世の幸福を説くこれらの劇には、バロック的な無常感が反映している。

[岩淵達治]

17世紀

17世紀のバロック時代は、一方では感性的な要素に富む演劇を発達させた。文学的には過剰な修辞が好まれ、オペラの導入によって覗(のぞ)き見舞台をもつ遠近法を利用した舞台装置が発達した。この「バロック演劇」の、舞台はいかに狭くとも全世界を表しうるという世界劇場の理念は、大規模な祝祭行列の催しとも関係をもっている。

 16世紀末から17世紀にかけての変わり目の時代には、イギリス俳優団が渡来してエリザベス朝劇を紹介し、ドイツに職業俳優を生む契機をつくった。またイタリアのコメディア・デラルテの一座が入ってきて、ハンスウルストやハレルキンHarlekinなどドイツ固有の道化も生まれ、道化を中心とする低俗な巡回劇団が成立した。しかし、17世紀前半は三十年戦争の戦場となったため全体に振るわず、比較的戦禍を免れたシュレージエンでオーピッツの文学理論やグリューフィウスの戯曲を生んだにすぎず、古典主義演劇の確立したフランスに比べて、演劇の後進国の運命を甘受することになった。

[岩淵達治]

18世紀

18世紀の啓蒙(けいもう)時代に入ると、学者ゴットシェットが高尚な演劇の確立を目ざし、ノイバー夫人の劇団と提携してライプツィヒで文学的な戯曲の上演を試み、フランスの古典劇理論を紹介した。しかし、彼の試みは模倣にすぎず、真に啓蒙精神を体現したのはレッシングであった。レッシングは新しく台頭した市民劇の立場から古典劇理論を批判し、同時代の市民を主人公とする「市民悲劇」Bürgerliches Trauerspielを擁護して、『ミス・サラ・サンプソン』や『エーミリア・ガロッティ』などの傑作を書いた。当時ドイツの知識人の間には国民劇場実現の声が高まり、またフェルテン以後アッカーマンやエクホーフなどの識見ある俳優も生まれて、ハンブルクでは1767年に市民有志によって初めて国民劇場が開場し、レッシングもこれに参加した。『ハンブルク演劇論』はこのときの実践を踏まえた理論的著作である。この試みは2年足らずで挫折(ざせつ)したが、運動としての意義は大きく、1770年代に入りブルク劇場をはじめ、多くの宮廷劇場が開設された。

 1770年代には、若い世代の間からシュトゥルム・ウント・ドラングSturm und Drang(疾風怒濤(どとう))の運動がおこった。この運動は、啓蒙時代の理性中心主義に反発して感情の優位を説き、合理的な制度化に自然な人間感情を対置し、天才シェークスピアを賞賛して規則ずくめのフランス古典劇を攻撃した。ゲーテの『鉄手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』、レンツの『軍人たち』『家庭教師』、クリンガーの『疾風怒濤』などの戯曲が生まれ、シラーの『群盗』がその掉尾(とうび)を飾った。しかし、啓蒙家レッシングが寛容の劇『賢者ナータン』を発表した1781年ころにはこの運動も退潮していた。ゲーテはワイマールの宮廷に迎えられてから古典的な立場をとるようになり、1790年代からはシラーと協力してドイツ演劇に古典的な様式を確立しようと努めた。シラー晩年の古典悲劇『マリア・ストゥアルト』『ワレンシュタイン』、ゲーテの『イフィゲーニエ』『タッソー』などはすべてワイマールの宮廷劇場で上演されたが、ワイマールの様式的演技は当時流行した感傷的な市民劇の写実的演技と対立するものであった。

[岩淵達治]

19世紀

19世紀初頭には、シュレーゲル兄弟を中心に理性と非合理を統合しようとする「ロマン主義」運動がおこった。しかし、演劇の分野ではシェークスピア劇上演や運命悲劇のジャンルで成功したにすぎず、ロマン的皮肉(イロニー)や幻想(イリュージョン)破壊を駆使したティークの先駆的作品も文学の範囲内にとどまった。むしろ傍流ともいえるクライストの作品に、近代的な個の不可知性の深淵(しんえん)がのぞいている。

 オーストリアのウィーンでは、バロック時代から、道化の登場する歴史劇のパロディー「ハウプト・ウント・シュターツアクチオーネン」Haupt-und Staatsaktionenという独自の民衆劇が発達したが、18世紀には下町を中心にジングシュピールSingspiel(歌入り芝居)や魔法劇(妖精(ようせい)劇)が生まれ、19世紀前半にはライムント、ネストロイなどの民衆劇作家を生み出した。これらとは別に、グリルパルツァーが文学的な劇作品を残した。

 19世紀は、ゲーテ、シラーの後を受けた擬古典的な亜流作家の時代であり、劇場の隆盛と反比例して戯曲にはみるべきものがない。ヘッベルはヘーゲル的な史観を導入して悲劇の理念を組み替えようと試みたが、概して教養的な宮廷劇場ではシラーを模倣した韻文の歴史劇が歓迎され、一方、19世紀なかばから盛んになった娯楽的な商業劇場では、ウェルメイドプレイの量産が求められた。フライタークの『戯曲の技巧』(1863)は、この時代の典型的な劇作の指南書である。グラッベやビュヒナーの戯曲が優れて現代的でありながら19世紀末まで無視され続けたのは、彼らがはるかに時代を先取りしていたためであった。

[岩淵達治]

19世紀末から20世紀へ

1876年ワーグナーがバイロイトで開始した祝祭劇は、楽劇という総合芸術論の実現であり、大きな意義をもった。またマイニンゲン公(ゲオルク2世)一座の歴史的演出は、ヨーロッパ巡演(1874~1890)によって広く知られ、新しい演劇誕生の刺激となった。

 1880年代になると、北欧のイプセンの社会劇が出現し、演劇は社会批判という新しい機能を与えられた。いわゆる近代劇運動は文学史上の自然主義と結び付き、自然科学的な観察や分析の手法を用いて真実に迫る技法がドラマにおいても試みられた。フランスに始まる自由劇場運動はドイツにも及び、ブラームは1889年ベルリンに会員組織制の「自由舞台」(フライエビューネFreie Bühne)を発足させ、社会劇『日の出前』でハウプトマンを世に送り、イプセン、ホルツ、シュラーフなどの作品を上演した。ハウプトマンの『織工(おりこ)』は、群集劇、環境劇の典型的作品である。やがて自然主義劇は現実描写にこだわるあまり些末(さまつ)主義に陥り、また演技から芝居らしさを遠ざけすぎた結果、舞台は平板なものになっていった。これに対して、世紀末には新ロマン主義、印象主義、象徴主義などの新しい傾向が生まれ、とくにウィーンではシュニッツラーホフマンスタールが独自の劇世界を展開した。演出の面でこの傾向を実現したのは、「劇場の魔術師」とよばれたラインハルトである。彼は新しい演劇空間の開拓者であり、小劇場からサーカス小屋まで劇空間を拡大し、マイム劇や音楽劇、祝祭劇まで試みたが、表現主義全盛期にはかえってことばの演劇に回帰した。

 1910年前後から美術に現れた「表現主義」(エクスプレショニスムスExpressionismus)は、自然主義の表面描写を退けて魂の内奥からの表現を求めたが、演劇においてはイリュージョンの破壊、単純な言語への還元、抽象化、普遍化の傾向となって現れた。喜劇作家シュテルンハイム、思考の遊戯者といわれたG・カイザー、グロテスクな誇張によって性の解放を訴えたウェーデキントなどは表現主義演劇の先駆者である。ついでR・ゾルゲ、R・ゲーリング、ハーゼンクレーファー、ウンルーなどの若い世代が絶叫劇、私戯曲、電報体などとよばれる諸特徴を示す典型的な表現主義劇を書き始め、第一次世界大戦後には演出家イェスナーの階段舞台や、マルチン演出によるトラーの革命劇『変転』などの表現主義舞台が全ドイツを席巻(せっけん)した。またピスカートルはアジプロ劇や政治演劇の先駆者として、舞台を左翼的な政治教育に用いた。

 しかし、1920年代後半には熱狂的な表現主義の嵐(あらし)は去り、かわって今日的事実に依拠した「新即物主義」(ノイエ・ザハリヒカイトNeue Sachlichkeit)が台頭して、F・ブルックナー、ツックマイヤーなどの新しいリアリズム劇が生まれた。一方、ブレヒトは独自の「叙事演劇」(エーピッシェステアーターEpisches Theater)を模索していったが、異化効果Ⅴ‐Effektの手法を完成したのは亡命以後である。ナチス時代の直前に大衆を批判する新しい民衆劇で登場したE・v・ホルバートやフライサーは、真価を認められぬままで終わった。

[岩淵達治]

第二次世界大戦後

第二次世界大戦後は、『戸口の外で』のボルヒェルト以外はしばらく新人が登場せず、亡命地から帰国したブレヒトとツックマイヤーが注目されたが、新人の空位はスイスのM・フリッシュとデュレンマットによって埋められた。1949年の東西ドイツ分裂以後、東ドイツでは社会主義リアリズム路線のもとでF・ボルフらが活躍し、一方では劇団「ベルリーナー・アンサンブル」Berliner Ensembleで活動を開始したブレヒトの仕事が全世界の注目を集めた。さらにハックスやハイナー・ミュラー、ブラウン、ハインらがブレヒトの弁証法的な演劇を発展させた。

 旧西ドイツでは1960年代前後から政治参加の姿勢を示す劇作家が活躍するようになり、ワイス、ホーホフート、キップハルトらによる「記録演劇」Dokumentarisches Theaterというジャンルが国際的な評価を得た。一方、ヒルデスハイマーのような不条理演劇の立場をとる作家も登場した。1968年の学生革命の前後からは1940年代生まれの若い作家が登場したが、「純粋言語劇」(シュプレヒシュトュックSprechstück)の実験を行ったハントケはむしろ政治参加に否定的であった。ホルバートの民衆劇の再発見の線からはシュペル、R・W・ファスビンダー、クレッツらが活動を始めた。しかし、1970年代以後は政治的な挫折感と内向化が進み、その喪失感をよくとらえているボート・シュトラウス、破滅の世界を形象化するベルンハルトの作品がよく上演された。ベルンハルトは、死の直前には戦争責任追及のテーマに積極的になった。しかしシュトラウスは1968年世代的な出発をしながら、西ドイツの内向化傾向が始まると現代生活の空洞を探るような作品を書いていたが、1990年代には左翼偏向姿勢を非難し、秩序を再建するような保守傾向とともに古典的な劇を書くようになった。演出面では、集団創作から出発した劇団「シャウビューネ」SchaubühneのP・シュタインやグリューバー、また、パイマンやユダヤ系非ドイツ人タボリの活動も注目されるが、後者の仕事は感性の復権という方向でとらえられる。この傾向はピナ・バウシュPina Bausch(1940―2009)が「舞踏演劇」(タンツテアーターTanztheater)というジャンルを創始したことからもわかるように、演劇を身体言語のパフォーマンスととらえる考え方の一般化を示している。

 1980年代にはドイツ演劇にもポストモダンの演劇現象が顕著になり、感性的な舞台形象化やドラマの解体や破壊現象がひとつの流れを形成する。H・ミュラーの『ハムレットマシーン』(1977)は戯曲の解体の先駆現象で、劇作家としてもR・ゲッツのような後継者を生んでいるが、演出家としても、シュレーフ、カストルフなどはドラマを破壊するような演出で注目を集めた。女性の劇作家や演出家の活動も1980年代からの注目すべき現象である。とくにオーストリア出身のイエリネック、シュトレールービッツの作り出す劇世界は強烈であり、シャウビューネの監督になったA・ブレート、女優出身のタールバッハなど女性演出家の活躍が目だつ。

 東ドイツの崩壊とドイツ統一は演劇界にさまざまな結果をもたらした。旧東ドイツへの再建財政援助の負担が、演劇助成の減額、劇場の統廃合などというマイナス効果を生み出し、また東欧型社会主義の破産がブレヒトのような政治的な劇作品(広い意味で啓蒙的な演劇)の魅力を失わせることになったが、ブレヒトと決別して別の道を歩き始めたH・ミュラーに寄せられた期待はまさに統一後の劇界を象徴する現象であり、彼の死(1994)の後の喪失感も異常であった。ブレヒト生誕100年(1998)を契機に、どの部分が継承発展されるのかという解答も徐々に示されていくだろう。

 ドイツ演劇の特質をひとことで総括するならば、伝統を破壊する革新の姿勢のなかに伝統があるという逆説で表現できるかもしれない。

[岩淵達治]

『永野藤夫著『宗教改革時代のドイツ演劇――その史的発展の考察』(1962・創文社)』『岩淵達治著『反現実の演劇の論理』(1972・河出書房新社)』『宮下啓三著『近代ドイツ演劇』(1973・慶応通信)』『永野藤夫著『バロック時代のドイツ演劇』(1974・東洋出版)』『永野藤夫著『啓蒙時代のドイツ演劇――レッシングとその時代』(1978・東洋出版)』『中村元保他著『ドイツ市民劇研究』(1986・三修社)』『ミヒァエル、ダイバー共著、吉安光徳訳『ドイツ演劇史』(1993・白水社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ドイツ演劇」の意味・わかりやすい解説

ドイツ演劇 (ドイツえんげき)

歴史上および現在のドイツ語を用いる地域で行われる演劇,つまりオーストリア,スイスなども含めたいわゆるドイツ語圏の演劇をふつうさす。

他の西欧諸国と同様に,今日につながるドイツ演劇の起源は中世の宗教劇までさかのぼることができる。宗教劇は教会の典礼から発したといわれているが,教会音楽の発祥地とされるザンクト・ガレン修道院は宗教劇の発展にも大きな役割を演じた。10世紀の中ごろにすでに行われていた交誦歌,続唱は,劇的な対話に発展する基礎となり,復活祭の祭儀から,キリストの受難と復活前後の事件を扱う復活祭劇が,また降誕祭の儀式から降誕祭劇が発達した。初めはラテン語で語られていたが,上演の主体が教会の手を離れて民衆のものとなり俗化すると,ドイツ語が用いられるようになり,教区の市民の催しとして上演のためのギルドさえできた。娯楽的な要素も増え,町の広場にセットを飾った野外劇の形をとるようになった。受難劇とよばれるさまざまな宗教劇の集大成ともいえる大規模なものは,上演が数日におよぶこともあった。14,15世紀に各地で上演された台本や資料が残っている。受難劇のほかに,儀式的な聖体拝領劇,キリスト以外の人物を扱った聖者劇,伝説劇なども行われた。《ユタ夫人》《テオフィルス》などはその例である。また《エブリマン》劇の系列に入る比喩的な道徳劇(教訓劇)も行われた。

ルネサンス期に入ると,はじめてギリシア・ローマの古典劇が再発見され,ラテン語の学習を目的にした学校劇の枠内でのローマ喜劇や,ドイツ人によるラテン語劇が上演された。この運動の担い手は人文主義者たちであった。庶民のレベルでは,中世末期よりとくにニュルンベルクなどの職人階級を中心にして狂言風の謝肉祭劇が生まれたが,その源はキリスト教とは本来無縁のゲルマン土着の異教的な春祭の風習である。この民衆的・祝祭的な演劇は,ハンス・ザックスのころには台本の形式も上演形態も完備し,いわゆる工匠歌人(マイスタージンガー)舞台が盛んになった。宗教改革以後には,学者の間でラテン語の論争劇も書かれた。

 17世紀はバロック演劇(バロック劇)の時代であるが,16世紀末からイギリス俳優団が渡来して,ドイツに職業俳優による巡回劇団の生まれる機運を作った。南から入ってきたイタリアのコメディア・デラルテの影響もあり,ハンスブルストやハレキンなどの民衆に親しまれる道化も生まれた。また16世紀半ばから17世紀半ばまでは,宗教改革に反撃するカトリック教団内での演劇も行われたが,とくにイエズス会で,布教の目的で行われた演劇が,ビーダーマンJacob Bidermann(1578-1639)の《ツェノドクスス》(1602初演)のような,バロックの世界観に裏付けられた水準の高い劇を生み出している。皇帝の即位などの機会に行われた大祝祭行列も,劇場を世界とみるバロック劇の理念を体現しているといえよう。また,17世紀に導入されたオペラは,額縁舞台と,遠近法を利用した舞台装置を発達させた。

 しかし17世紀を全体としてみれば,三十年戦争の戦場になったことで,ドイツの文化的な発展はひじょうに遅れた。フランスで古典主義演劇の確立されたこの時期に,ドイツでは旅回り劇団が存在するにすぎず,ウィーンではシュトラニツキーを祖とする道化を中心とした民衆劇やハウプト・ウント・シュターツアクツィオーネンHaupt und Staatsaktionen(道化入りの国事劇)が盛んになったが,文学的な価値をもつものとしては,比較的戦乱の災禍をうけなかったシュレジエンの劇作家A.グリューフィウスの作品と,M.オーピッツの詩論が挙げられるにすぎない。

18世紀に入っても,西欧各国のなかでドイツ演劇の後進性は明らかであったが,啓蒙時代の風潮のなかでライプチヒの大学教授J.ゴットシェートが,ノイバー夫人一座の協力で,演劇改良運動にのりだした。《批判的詩学の書》は,フランス古典主義演劇の理念を啓蒙的に紹介し,推賞したものである。また知識人の間には常設の劇場の設置を望む声があがった。1767年のハンブルク国民劇場の開場は,市民側からの試みであるが,70年代になって,ウィーンのブルク劇場はじめ,いくつかの宮廷劇場が設けられることとなった。G.E.レッシングは,18世紀に生まれた市民劇の立場に立って,古典悲劇に批判を加え,はじめて国際的な評価を受けるような劇作を残した。《ハンブルク演劇論》は,劇評という枠を越えた実践的な理論的著作である。彼が晩年の傑作《賢者ナータン》を発表するころ,ゲーテ,レンツ,クリンガーなどの若い世代が,理性より感情の優位を主張する疾風怒濤(しつぷうどとう)(シュトゥルム・ウント・ドラング)の文学運動を開始した。劇作では,フランス古典主義演劇の形式を退けて,シェークスピアに範をとる多場面構成で,強烈な個性をもつ人物をもつ戯曲が求められた。ゲーテは史劇《ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン》(1773)によってその要望を満たし,70年代中葉にはほかにも注目すべき劇作が発表されたが,J.C.F.シラーの《群盗》あたりからこの運動は退潮した。ゲーテはワイマールに移ってから,しだいに古典主義的な立場をとり,ワイマール宮廷劇場の監督として様式の確立に腐心するようになった。シラーと深い親交を結んだ94年以後は,シラーの完成期の劇作や自作を中心にドイツの演劇における古典主義を確立したが,当時流行していた感傷的な市民劇やA.vonコツェブーの喜劇なども演目に入れていた。同じころシュレーゲル兄弟(兄=アウグスト,弟=フリードリヒ)を中心とするロマン派は,感情と理性を作家の個性によって統合しようとしたが,演劇においてはシェークスピアなどの正確な紹介や運命悲劇というジャンルで成功を収めたにすぎず,演劇イリュージョンを破壊するL.ティークの劇の試みなどが,台本として考えられるようになったのはずっと後のことである。また,ロマン派の傍流であるH.vonクライストの個の深淵にふみこんだ戯曲の方が,むしろしだいに演じられるようになっていった。

ウィーンでは,民衆演劇が魔法妖精劇という独特なジャンルを生み出し,19世紀前半にはF.ライムントやJ.ネストロイが下町の劇場で活躍し民衆に親しまれた。教養的,文学的なドラマはF.グリルパルツァーによって代表されるが,これらのドラマも,ビーダーマイヤー的な世界観において民衆劇と通底するところがある。反動的なこの時代において,1830年ごろから三月革命までの時期には,政治的な傾向文学が生まれるが,その主唱者K.グツコーやH.ラウベの戯曲よりも,夭折したG.ビュヒナーやC.D.グラッベの作品に,現代劇を先取りする新しさが認められる。

 各地の宮廷劇場では教養的,文学的な戯曲の演目が整備されたが,一方では,古典的な悲劇を成立させていた社会的基盤は失われつつあった。F.ヘッベルは,歴史の理念をとり入れて悲劇を支えようとしたが,O.ルートウィヒとともに詩的写実主義の傾向も示している。G.フライタークの《戯曲の技巧》は,正統的なドラマの構造論だが,市民階級を基盤に繁栄するようになった娯楽的・商業的な演劇に必要なウェルメードプレーにも通ずる部分がある。マイニンゲン公の劇団(マイニンゲン一座)が綿密な歴史的演出で国際的な注目をあび,ワーグナーの楽劇運動が実現したあと,1880年代からノルウェーのH.イプセンの社会劇が問題を提起した。また真実の赤裸々な追求を自然科学的な方法によって求める自然主義の運動が,1889年,O.ブラームの自由舞台(自由劇場)の試みによって始まった。そのなかで登場したG.ハウプトマンは,一方で新ロマン主義的な傾向も示すようになる。ウィーンでは近代劇の運動が,心理的・象徴的・印象主義的な傾向をとり,A.シュニッツラーやH.vonホフマンスタールの劇作を生み出した。

世紀末から顕著になっていた反自然主義的傾向は,劇場の魔術師とよばれた演出家M.ラインハルトによって代表される。1910年前後から生まれた表現主義は,劇場からいっさいの写実をしりぞけ,抽象的な手法で個の内面表白を行った。すでにF.ウェーデキント,C.シュテルンハイム,G.カイザーの作品にもその傾向は先取りされているが,典型的な表現主義世代の作家たちは,従来のドラマの枠を破壊する作品のなかで,世界を更新する新しい人間の誕生を求めた。

 第1次大戦後には,もっと直接的に政治にかかわる演劇やアジプロ演劇が生まれ,演出家E.ピスカートルは最もその傾向を体現している。しかし20年代後半には表現主義は退潮し,新即物主義の時代になると,事実や記録を重視する時事的な演劇が盛んになった。新しいリアリズムの復活の機運を作ったのはC.ツックマイヤー,F.ブルックナー,F.ウォルフなどであるが,B.ブレヒトは叙事演劇という新しい方向を模索した。しかし異化の手法を用いて世界の変革を認識させる新しい彼の演劇体系が完全に発展するのは,亡命以後のことであった。ナチスの登場によって,20年代に準備された新しい演劇の萌芽はすべて摘みとられた。戦後しばらくは,夭折したW.ボルヒェルトの《戸口の外で》(1947)以外には若い世代の登場が見られず,亡命から帰ったツックマイヤーとブレヒトがカムバックし活躍した。ドイツの若い劇作家の不振を埋めるように,スイスのM.フリッシュとF.デュレンマットが時代に対応する新鮮な劇作を世に送った。

 東西ドイツの分裂後の50年代には,東ドイツでは一時,社会主義リアリズムの公式路線が主流になったが,その偏狭さを超えたブレヒトの活動は,P.ハックス,H.ミュラーなどによって継承された。西ドイツでは保守的な50年代には,演出家G.グリュントゲンスなどの様式的な革新が認められたが,60年代になると政治的な主題が劇作でとりあげられ,特にP.ワイスR.ホーホフートの記録演劇が国際的にも注目された。一方,不条理劇も影響の跡を残し,またオーストリアのハントケPeter Handke(1942- )の言語的な実験劇もひとつのエポックを作った。68年の学生革命は,既成演劇の解体や街頭演劇を唱導したが,その挫折後に訪れた内面化の傾向によって70年代の演劇は,状況の再確認という方向を示す。古典劇,近代劇の見直しという演出家の作業が目につく一方で,言語解体の現象を身体言語によって模索する試みも行われた。B.シュトラウスやベルンハルトは喪失の時代の作家であり,また,戦前のホルバートやフライサーの劇の再発見によって生まれた社会批判的な民衆劇の線では,シュペルやクレッツが劇作を続けている。

明治以後,日本の新劇に,ドイツ演劇が与えた影響は少なくない。しかし,初期の近代劇の受容においては,論理に根ざしたり事実に即したりするドラマの影響は意外に少なく,概して観念的・象徴的・ロマン的・心理的なものが受けいれられやすい傾向にあった。明治30年代以降盛んに演じられたG.ハウプトマンの作品にしても典型的な自然主義劇より,《沈鐘》のような駄作のメルヘン劇がひどく愛好された。またカイザーなどの表現主義劇が大正末から昭和の初めにかけてひどく流行した(築地小劇場はその紹介に特に熱心であった)のも,論理構造を否定する方向が好まれたからであろう。リアリズムの受容は,昭和の初め以降の久保栄などによる〈反資本主義的リアリズム〉の提唱と運動のなかで,間接に行われたにすぎない。戦後入ってきたB.ブレヒトの演劇は,K.S.スタニスラフスキーの演技論と対立するものとして昭和20年代の終りころから大いに注目され,日本の新劇に大きな影響を与えたが,劇作そのものは感性的に受け入れられる場合が多く,矛盾像としての的確な把握は十分ではなかった。最近では欧米のなかで論理構造をもつ戯曲の解体現象が進行して,現代ドイツ演劇の一定の部分については,かえって身体言語などを通じての相互理解は容易になっているということもできる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドイツ演劇」の意味・わかりやすい解説

ドイツ演劇
ドイツえんげき

10世紀から 15世紀にかけて,司祭を中心に行われた復活祭劇などの宗教劇が盛んであったが,それらが次第に世俗劇へと展開,社会風刺を含んだ謝肉祭劇がギルド職人によって自作自演されるようになり,ドイツ国民演劇への第1歩が踏出された。一方,18世紀の宮廷では,ライプチヒ大学の J.ゴットシェートとその協力者,女優の C.ノイバーらによって,フランス古典劇を模範に即興を廃した荘重な演劇が追究された。しかし市民階級の台頭とともにフランス古典偏重は批判され,G.レッシングはドイツ市民劇樹立を唱道,ドイツ近代化への道を開いた。また 18世紀後期に始ったシュトゥルム・ウント・ドラングの時代には,感情や個性の自由な表現を求める若い劇作家が活躍。ゲーテの『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』やシラーの『群盗』などがその代表作品である。 1791年にゲーテはワイマールの宮廷劇場をまかされ,ここにアンサンブルを重視するワイマール・スタイルが誕生。写実的な F.シュレーダーらの演技によるハンブルク・スタイルとともに後世に多大な影響を与えた。 19世紀前半には,H.クライストと F.グリルパルツァーがいるが,後半は科学の進歩や社会の変貌に伴って,写実主義と自然主義が演劇の主流を占め,G.ハウプトマンが活躍。また演出面では,ゲーテやシュレーダーのスタイルを受継いだ L.ティーク,マイニンゲン劇団をはじめ,ドイツ座フライエ・ビューネの設立がみられた。第1次世界大戦に前後して,写実主義への反動から人間の存在をより内面的にとらえようとする表現主義演劇が生れ,M.ラインハルト,F.ウェデキントや G.カイザーが活躍。 1920年代から第2次世界大戦後にかけては,叙事演劇を唱える B.ブレヒト,C.ツックマイアー,J.ベッヒャーらが,多くのすぐれた作品を発表した。東西分裂後,東ドイツでは H.ミュラー,西ドイツでは P.ワイスらが登場。東西統一後は,国立劇場のあり方などをめぐって混乱がみられる。

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