日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ演劇」の意味・わかりやすい解説
ドイツ演劇
どいつえんげき
ドイツ語を用いた演劇の総称。ドイツ、オーストリアおよびスイスの一部を含むが、歴史的にはさらに広範なドイツ語圏地域にまで及んでいる。
[岩淵達治]
中世演劇
10世紀ごろ、教会でトロープス(交誦(こうしょう))といわれる形式の音楽が生まれ、それと並行して対話体による典礼が復活祭に行われるようになり、しだいにキリスト復活前後の事件を14の留(りゅう)Stationの場面として描く「復活祭劇」(オスターシュピールOsterspiel)に発展した。この行事はやがて教会を離れて教区の住民の手に移り、使われることばもラテン語から民衆語であるドイツ語にかわり、町の広場に各場面をあらかじめセットした同時並列舞台(ジムルタンビューネSimultanbühne)による野外劇になった。また降誕祭の行事もキリスト生誕前後の事件を扱う「降誕祭劇」(ワイナハツシュピールWeihnachtsspiel)に進展した。これらはやがて町全体の行事となり、キリストの生涯を年代記的に描く大規模な「受難劇」(パッションスシュピールPassionsspiel)を生み出し、14、5世紀を頂点に16世紀にかけて、ヨーロッパ各地で盛んに上演された。このような宗教劇は記録の残っている町の名でよばれるが、ドイツ語圏では、スイスのムリ、オーストリアのエルラウ(現ハンガリーのエゲル)、ドイツのレデンティンの復活祭劇、フランクフルト、ハイデルベルク、ドナウエッシンゲンの受難劇などが有名である。このほか、マリア哀歌、聖体拝領劇、聖人伝劇、奇跡劇などの宗教劇、宗教的な内容をもつ世俗説話を劇化した『ユタ夫人の劇』や『テオフィールス』などがある。
[岩淵達治]
15~16世紀
一方、キリスト教伝来以前から存在した春祭が謝肉祭の行事と結び付いて、茶番狂言的な「謝肉祭劇」(ファストナハツシュピールFastnachtsspiel)が生まれた。謝肉祭劇は、15世紀中ごろ、とくに商工業の中心であったニュルンベルクの職人階級のなかで、マイスタージンガーMeistersingerの「工匠歌(こうしょうか)」と並んで形式的に完成された。16世紀にはハンス・ザックスが多くの作品を書き、ルネサンス期のドイツ演劇を代表した。また15世紀には人文主義者たちによってローマ喜劇が紹介され(10世紀の修道尼ロスウィータのテレンティウス翻案劇は例外)、ラテン語劇を書く作家も生まれ、宗教改革以後は多くの論争劇が書かれた。しかし、これらはあまり上演されず、もっぱらラテン語の練習のための「学校劇」(シュールドラマSchuldrama)が16世紀にかけて、浴房舞台(バーデツエレンビューネBadezellenbühne)(テレンティウス舞台)とよばれる簡素な形式の舞台で上演された。反宗教改革側の教団でも布教のために演劇が行われ、とくにイエズス会では16、7世紀に『ツェノドクスス』の作者ビーダーマンを生み、多くの殉教者劇も上演された。来世の幸福を説くこれらの劇には、バロック的な無常感が反映している。
[岩淵達治]
17世紀
17世紀のバロック時代は、一方では感性的な要素に富む演劇を発達させた。文学的には過剰な修辞が好まれ、オペラの導入によって覗(のぞ)き見舞台をもつ遠近法を利用した舞台装置が発達した。この「バロック演劇」の、舞台はいかに狭くとも全世界を表しうるという世界劇場の理念は、大規模な祝祭行列の催しとも関係をもっている。
16世紀末から17世紀にかけての変わり目の時代には、イギリス俳優団が渡来してエリザベス朝劇を紹介し、ドイツに職業俳優を生む契機をつくった。またイタリアのコメディア・デラルテの一座が入ってきて、ハンスウルストやハレルキンHarlekinなどドイツ固有の道化も生まれ、道化を中心とする低俗な巡回劇団が成立した。しかし、17世紀前半は三十年戦争の戦場となったため全体に振るわず、比較的戦禍を免れたシュレージエンでオーピッツの文学理論やグリューフィウスの戯曲を生んだにすぎず、古典主義演劇の確立したフランスに比べて、演劇の後進国の運命を甘受することになった。
[岩淵達治]
18世紀
18世紀の啓蒙(けいもう)時代に入ると、学者ゴットシェットが高尚な演劇の確立を目ざし、ノイバー夫人の劇団と提携してライプツィヒで文学的な戯曲の上演を試み、フランスの古典劇理論を紹介した。しかし、彼の試みは模倣にすぎず、真に啓蒙精神を体現したのはレッシングであった。レッシングは新しく台頭した市民劇の立場から古典劇理論を批判し、同時代の市民を主人公とする「市民悲劇」Bürgerliches Trauerspielを擁護して、『ミス・サラ・サンプソン』や『エーミリア・ガロッティ』などの傑作を書いた。当時ドイツの知識人の間には国民劇場実現の声が高まり、またフェルテン以後アッカーマンやエクホーフなどの識見ある俳優も生まれて、ハンブルクでは1767年に市民有志によって初めて国民劇場が開場し、レッシングもこれに参加した。『ハンブルク演劇論』はこのときの実践を踏まえた理論的著作である。この試みは2年足らずで挫折(ざせつ)したが、運動としての意義は大きく、1770年代に入りブルク劇場をはじめ、多くの宮廷劇場が開設された。
1770年代には、若い世代の間からシュトゥルム・ウント・ドラングSturm und Drang(疾風怒濤(どとう))の運動がおこった。この運動は、啓蒙時代の理性中心主義に反発して感情の優位を説き、合理的な制度化に自然な人間感情を対置し、天才シェークスピアを賞賛して規則ずくめのフランス古典劇を攻撃した。ゲーテの『鉄手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』、レンツの『軍人たち』『家庭教師』、クリンガーの『疾風怒濤』などの戯曲が生まれ、シラーの『群盗』がその掉尾(とうび)を飾った。しかし、啓蒙家レッシングが寛容の劇『賢者ナータン』を発表した1781年ころにはこの運動も退潮していた。ゲーテはワイマールの宮廷に迎えられてから古典的な立場をとるようになり、1790年代からはシラーと協力してドイツ演劇に古典的な様式を確立しようと努めた。シラー晩年の古典悲劇『マリア・ストゥアルト』『ワレンシュタイン』、ゲーテの『イフィゲーニエ』『タッソー』などはすべてワイマールの宮廷劇場で上演されたが、ワイマールの様式的演技は当時流行した感傷的な市民劇の写実的演技と対立するものであった。
[岩淵達治]
19世紀
19世紀初頭には、シュレーゲル兄弟を中心に理性と非合理を統合しようとする「ロマン主義」運動がおこった。しかし、演劇の分野ではシェークスピア劇上演や運命悲劇のジャンルで成功したにすぎず、ロマン的皮肉(イロニー)や幻想(イリュージョン)破壊を駆使したティークの先駆的作品も文学の範囲内にとどまった。むしろ傍流ともいえるクライストの作品に、近代的な個の不可知性の深淵(しんえん)がのぞいている。
オーストリアのウィーンでは、バロック時代から、道化の登場する歴史劇のパロディー「ハウプト・ウント・シュターツアクチオーネン」Haupt-und Staatsaktionenという独自の民衆劇が発達したが、18世紀には下町を中心にジングシュピールSingspiel(歌入り芝居)や魔法劇(妖精(ようせい)劇)が生まれ、19世紀前半にはライムント、ネストロイなどの民衆劇作家を生み出した。これらとは別に、グリルパルツァーが文学的な劇作品を残した。
19世紀は、ゲーテ、シラーの後を受けた擬古典的な亜流作家の時代であり、劇場の隆盛と反比例して戯曲にはみるべきものがない。ヘッベルはヘーゲル的な史観を導入して悲劇の理念を組み替えようと試みたが、概して教養的な宮廷劇場ではシラーを模倣した韻文の歴史劇が歓迎され、一方、19世紀なかばから盛んになった娯楽的な商業劇場では、ウェルメイドプレイの量産が求められた。フライタークの『戯曲の技巧』(1863)は、この時代の典型的な劇作の指南書である。グラッベやビュヒナーの戯曲が優れて現代的でありながら19世紀末まで無視され続けたのは、彼らがはるかに時代を先取りしていたためであった。
[岩淵達治]
19世紀末から20世紀へ
1876年ワーグナーがバイロイトで開始した祝祭劇は、楽劇という総合芸術論の実現であり、大きな意義をもった。またマイニンゲン公(ゲオルク2世)一座の歴史的演出は、ヨーロッパ巡演(1874~1890)によって広く知られ、新しい演劇誕生の刺激となった。
1880年代になると、北欧のイプセンの社会劇が出現し、演劇は社会批判という新しい機能を与えられた。いわゆる近代劇運動は文学史上の自然主義と結び付き、自然科学的な観察や分析の手法を用いて真実に迫る技法がドラマにおいても試みられた。フランスに始まる自由劇場運動はドイツにも及び、ブラームは1889年ベルリンに会員組織制の「自由舞台」(フライエビューネFreie Bühne)を発足させ、社会劇『日の出前』でハウプトマンを世に送り、イプセン、ホルツ、シュラーフなどの作品を上演した。ハウプトマンの『織工(おりこ)』は、群集劇、環境劇の典型的作品である。やがて自然主義劇は現実描写にこだわるあまり些末(さまつ)主義に陥り、また演技から芝居らしさを遠ざけすぎた結果、舞台は平板なものになっていった。これに対して、世紀末には新ロマン主義、印象主義、象徴主義などの新しい傾向が生まれ、とくにウィーンではシュニッツラー、ホフマンスタールが独自の劇世界を展開した。演出の面でこの傾向を実現したのは、「劇場の魔術師」とよばれたラインハルトである。彼は新しい演劇空間の開拓者であり、小劇場からサーカス小屋まで劇空間を拡大し、マイム劇や音楽劇、祝祭劇まで試みたが、表現主義全盛期にはかえってことばの演劇に回帰した。
1910年前後から美術に現れた「表現主義」(エクスプレショニスムスExpressionismus)は、自然主義の表面描写を退けて魂の内奥からの表現を求めたが、演劇においてはイリュージョンの破壊、単純な言語への還元、抽象化、普遍化の傾向となって現れた。喜劇作家シュテルンハイム、思考の遊戯者といわれたG・カイザー、グロテスクな誇張によって性の解放を訴えたウェーデキントなどは表現主義演劇の先駆者である。ついでR・ゾルゲ、R・ゲーリング、ハーゼンクレーファー、ウンルーなどの若い世代が絶叫劇、私戯曲、電報体などとよばれる諸特徴を示す典型的な表現主義劇を書き始め、第一次世界大戦後には演出家イェスナーの階段舞台や、マルチン演出によるトラーの革命劇『変転』などの表現主義舞台が全ドイツを席巻(せっけん)した。またピスカートルはアジプロ劇や政治演劇の先駆者として、舞台を左翼的な政治教育に用いた。
しかし、1920年代後半には熱狂的な表現主義の嵐(あらし)は去り、かわって今日的事実に依拠した「新即物主義」(ノイエ・ザハリヒカイトNeue Sachlichkeit)が台頭して、F・ブルックナー、ツックマイヤーなどの新しいリアリズム劇が生まれた。一方、ブレヒトは独自の「叙事演劇」(エーピッシェステアーターEpisches Theater)を模索していったが、異化効果Ⅴ‐Effektの手法を完成したのは亡命以後である。ナチス時代の直前に大衆を批判する新しい民衆劇で登場したE・v・ホルバートやフライサーは、真価を認められぬままで終わった。
[岩淵達治]
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後は、『戸口の外で』のボルヒェルト以外はしばらく新人が登場せず、亡命地から帰国したブレヒトとツックマイヤーが注目されたが、新人の空位はスイスのM・フリッシュとデュレンマットによって埋められた。1949年の東西ドイツ分裂以後、東ドイツでは社会主義リアリズム路線のもとでF・ボルフらが活躍し、一方では劇団「ベルリーナー・アンサンブル」Berliner Ensembleで活動を開始したブレヒトの仕事が全世界の注目を集めた。さらにハックスやハイナー・ミュラー、ブラウン、ハインらがブレヒトの弁証法的な演劇を発展させた。
旧西ドイツでは1960年代前後から政治参加の姿勢を示す劇作家が活躍するようになり、ワイス、ホーホフート、キップハルトらによる「記録演劇」Dokumentarisches Theaterというジャンルが国際的な評価を得た。一方、ヒルデスハイマーのような不条理演劇の立場をとる作家も登場した。1968年の学生革命の前後からは1940年代生まれの若い作家が登場したが、「純粋言語劇」(シュプレヒシュトュックSprechstück)の実験を行ったハントケはむしろ政治参加に否定的であった。ホルバートの民衆劇の再発見の線からはシュペル、R・W・ファスビンダー、クレッツらが活動を始めた。しかし、1970年代以後は政治的な挫折感と内向化が進み、その喪失感をよくとらえているボート・シュトラウス、破滅の世界を形象化するベルンハルトの作品がよく上演された。ベルンハルトは、死の直前には戦争責任追及のテーマに積極的になった。しかしシュトラウスは1968年世代的な出発をしながら、西ドイツの内向化傾向が始まると現代生活の空洞を探るような作品を書いていたが、1990年代には左翼偏向姿勢を非難し、秩序を再建するような保守傾向とともに古典的な劇を書くようになった。演出面では、集団創作から出発した劇団「シャウビューネ」SchaubühneのP・シュタインやグリューバー、また、パイマンやユダヤ系非ドイツ人タボリの活動も注目されるが、後者の仕事は感性の復権という方向でとらえられる。この傾向はピナ・バウシュPina Bausch(1940―2009)が「舞踏演劇」(タンツテアーターTanztheater)というジャンルを創始したことからもわかるように、演劇を身体言語のパフォーマンスととらえる考え方の一般化を示している。
1980年代にはドイツ演劇にもポストモダンの演劇現象が顕著になり、感性的な舞台形象化やドラマの解体や破壊現象がひとつの流れを形成する。H・ミュラーの『ハムレットマシーン』(1977)は戯曲の解体の先駆現象で、劇作家としてもR・ゲッツのような後継者を生んでいるが、演出家としても、シュレーフ、カストルフなどはドラマを破壊するような演出で注目を集めた。女性の劇作家や演出家の活動も1980年代からの注目すべき現象である。とくにオーストリア出身のイエリネック、シュトレールービッツの作り出す劇世界は強烈であり、シャウビューネの監督になったA・ブレート、女優出身のタールバッハなど女性演出家の活躍が目だつ。
東ドイツの崩壊とドイツ統一は演劇界にさまざまな結果をもたらした。旧東ドイツへの再建財政援助の負担が、演劇助成の減額、劇場の統廃合などというマイナス効果を生み出し、また東欧型社会主義の破産がブレヒトのような政治的な劇作品(広い意味で啓蒙的な演劇)の魅力を失わせることになったが、ブレヒトと決別して別の道を歩き始めたH・ミュラーに寄せられた期待はまさに統一後の劇界を象徴する現象であり、彼の死(1994)の後の喪失感も異常であった。ブレヒト生誕100年(1998)を契機に、どの部分が継承発展されるのかという解答も徐々に示されていくだろう。
ドイツ演劇の特質をひとことで総括するならば、伝統を破壊する革新の姿勢のなかに伝統があるという逆説で表現できるかもしれない。
[岩淵達治]
『永野藤夫著『宗教改革時代のドイツ演劇――その史的発展の考察』(1962・創文社)』▽『岩淵達治著『反現実の演劇の論理』(1972・河出書房新社)』▽『宮下啓三著『近代ドイツ演劇』(1973・慶応通信)』▽『永野藤夫著『バロック時代のドイツ演劇』(1974・東洋出版)』▽『永野藤夫著『啓蒙時代のドイツ演劇――レッシングとその時代』(1978・東洋出版)』▽『中村元保他著『ドイツ市民劇研究』(1986・三修社)』▽『ミヒァエル、ダイバー共著、吉安光徳訳『ドイツ演劇史』(1993・白水社)』