マグリブ(英語表記)Maghrib

改訂新版 世界大百科事典 「マグリブ」の意味・わかりやすい解説

マグリブ
Maghrib

マグリブとは,アラビア語で〈日が没する地〉あるいは〈西方〉を意味し,今日では,東方のアラブ諸国,つまりマシュリクに対して西方のアラブ諸国の呼び名である。マグレブとも呼ばれる。狭義には,かつてフランス領北アフリカとも呼ばれたチュニジアアルジェリア,モロッコを含む北西アフリカを指すが,広義には,これにリビアを含める。場合によっては,さらに西アフリカのモーリタニアと旧スペイン領サハラ(西サハラ)まで含めることもあるが,それは,この地域の住民の多くが,アラブ系のイスラム教徒で,歴史的にも狭義のマグリブと共有する部分が少なくないからである。また,かつて用いられたバルバリア(バーバリーBarbary)という呼称は,古代のギリシア人やローマ人が,その先住民をギリシア語やラテン語を話さないという意味で非文明的な異邦人を意味するバルバロス(複数形はバルバロイ),バルバルスと呼んだことに由来するが,これは広義のマグリブにほぼ一致する。

 7世紀中ごろから,北西アフリカの征服を開始したアラブは,エジプトより西方,つまりリビア以西の地をマグリブと呼んだ。そのうちのリビア東部キレナイカ地方は,エジプトの支配下に入ると,しだいにマグリブの範囲外になった。同じくアラブは,ラテン語のアフリカに由来するイフリーキーヤの語も用いたが,それは,9世紀にアグラブ朝がチュニジアに建国されて以降,しだいにリビア西部からアルジェリア東部までの地域内,つまりマグリブ東部を指すようになった。また,リビア西部のトリポリタニア地方は,ムワッヒド朝やハフス朝の支配下に入った時期もあったが,その統治は不安定であり,常に半独立的状態にあったといってよい。したがって,広義のマグリブが本来の〈西方〉という意味に近い範囲を示すのに対し,狭義のそれは歴史的過程を経て形成された概念となっている。チュニジア,アルジェリア,モロッコの3国によるマグリブ連邦構想(1958年のタンジール会議が起源)も,後者の次元での歴史的・文化的共有意識に基づいている。一般には,この狭い意味でのマグリブが用いられることが多いので,ここでもそれを中心に述べるが,必要に応じてリビアや西アフリカにも言及することにする。

マグリブの自然を特徴づけるものは,地中海,大西洋,アトラス山脈サハラ砂漠の四つである。マグリブの北と西を囲む地中海と大西洋とからは,雨と温暖な空気がもたらされ,南部の広大なサハラ砂漠からは,乾燥した熱風が吹き込んでくる。両者の中間に位置し,西サハラの北部からチュニジアまで延びているアトラス山脈は,古い褶曲山脈で,そこに降る雨や雪は何本もの川となって貴重な水を供給している。この山脈は,モロッコでは,北から中部アトラス,オート・アトラス(マグリブの最高峰トゥブカルTubkal山4165mを含む),アンティ・アトラスの三つに枝分れするが,いずれも最高峰が3000mを超える高峻な山脈である。そして,西から東にしだいに標高を低くしつつ,アルジェリアでは,テル・アトラスとサハラ・アトラスの二つになり,チュニジアでは,一つに合して低い丘陵となって消える。リビアは,国土の大半が砂漠であるが,地中海岸の西方トリポリタニア地方に,ジャバル・ナフサJabal Nafusa,東方のキレナイカ地方に,ジャバル・アルアフダルJabal al-Akhdarという二つの低い丘陵があり,それらが砂漠の熱風を防ぎ,狭小ではあるが,耕地と都市をつくり出している。このほかに,モロッコ北部には,2000mを超えるリーフ山脈が,アルジェリア南部のサハラ砂漠には,最高峰3005mのタハト山を頂くアハガル(ホッガール)山地がそびえ立つ。

 これらの自然条件は,植生や生態にさまざまな点で影響を与えている。すなわち,地中海岸に沿った平地は,夏は乾燥・高温,冬は比較的多雨の地中海式気候区に属しているので,果樹や穀物栽培に適している。ここは,古くはローマ帝国時代から小麦を中心とする穀倉地帯であったし,チュニジア東部海岸,ハマメトからスファックスのいわゆるサヘル地帯は,今日に至るまでオリーブの産地として有名である。また,かつてのローマやフェニキアが建設した都市,例えばアルジェリアのシャルシャル(シェルシェル),チュニジアのウティカやカルタゴなどと同様に,カサブランカ,アルジェ,チュニスなど現在の主要都市も,多くがこの気候区に位置している。アトラス山脈の北側は,雨量も多く,高原状の土地でのオリーブ,イチジクの栽培が盛んであるが,その南側からサハラ砂漠にかけては半乾燥の高原やステップ地帯を形成する。後者の農耕条件は悪いが,灌漑を用いることによって,チュニジアやアルジェリアでは高級紙の原料で重要な輸出品でもあるエスパルトを産出する。また,塩湖の点在もこの地帯の自然景観上の特徴である。サハラ砂漠では,アルジェリアのガルダイアGhardaiaやモロッコのターフィーラールトTāfīlāltなどのオアシス周辺での,ナツメヤシを中心とする定着農業とトゥアレグ族のように水と牧草を求めての遊牧生活が営まれている。

マグリブには,大きく分けて三つの系統に属する人々が住んでいる。先住民であるベルベル系,7世紀以後に移住してきたアラブ系,サハラ南部地方に多い黒人系の三つである。ベルベルとは,上述のバルバリアという地名と同様,古代ギリシア人やローマ人による〈バルバロス(バルバロイ)〉の呼称に由来する。彼らは,今日に至るまでに多くの民族と混血したため,同じベルベル系といっても相違が著しい。紅毛碧眼で白人のようにみえる者から,皮膚が黒く,髪のちぢれた黒人系に似た者,目が鋭くアラブと区別できぬ者まで多様であり,外見上の区別は難しい。14世紀チュニス出身の学者イブン・ハルドゥーンの《イバルの書》によれば,ベルベルは,ザナータZanāta系,サンハージャṢanhāja系,マスムーダMaṣmūda系に大別される。ザナータ系はもともとはトリポリタニア地方やチュニジアの遊牧民で,アラブの侵入に対しては比較的協力的であったが,アラブ遊牧民ヒラールHilāl族とスライムSulaym族の侵入によって西方へ追いやられ,アルジェリア西部からモロッコ(リーフ山地など)にまで住みつくようになった。サンハージャ族も広く分布するが,カビール地方の定着農耕民とサハラ西部の遊牧民の二つの主要グループに分けられる。マスムーダ系は,モロッコのアトラス山中に住む定着農耕民である。このように,今日のベルベルの主要な居住地が山岳地や砂漠にあるのは,アラブの進出とアラブ化の結果である。また,彼らは,ティフナグTifnagh(ティフナルTifnar)と呼ばれるアルファベットをもっていた(現在でもトゥアレグ族が使用)が,それは文字文化の発展のためには非実用的であったので,アラビア語とその文字を急速に受容していったのである。アラブとベルベルの混血が進み,アラビア語が普及するにつれて,ベルベル語人口は減少し,現在モロッコでは30%,アルジェリアでは18%,チュニジアでは1%程度といわれている。しかも,そのうちの多くの者が,アラビア語も話すバイリンガル生活者である。

 アラブ系住民が,マグリブで優勢になるまでには,いくつかの段階と過程があった。7世紀中ごろから8世紀末までの征服活動に従ったアラブは,マルセW.Marçaisによれば,兵のみで15万人を数えたといわれるが,これはかなり誇張された史料に基づくものであり,またそのままマグリブにとどまった者の多くは,カイラワーンやマフディーヤなどチュニジアの諸都市に住んだ。9世紀にアンダルスとカイラワーンから相当数のアラブがフェスに移住したが,これも都市内に限定されていた。しかし11世紀中ごろのヒラール族スライム族の侵入は,都市だけでなく,農村,山岳,砂漠地帯にまで及び,およそ5万人の兵を数えたといわれ,これに女,子どもが加わっていたはずなので,かなりの規模であった。この事件は,ベルベル族の西方移動の原因にもなったので,リビア西部からアルジェリア東部のアラブ化を急速に進めた。モロッコのアラブ化は12世紀以後,南北両方向から進められた。すなわち当時の歴史家バイザクal-Baydhaqによれば,ムワッヒド朝のカリフ,アブド・アルムーミンは,12世紀中ごろにイベリア半島遠征のため,イフリーキーヤから1万4000人のアラブをモロッコ北部に来住させたという。これを端緒に,次のマリーン朝,ワッタース朝でもアラブ人傭兵は増加していった。同じころ,アラブのマーキルMa`qil族はサハラの北縁に沿って移動,モロッコ南部一帯(シジルマーサからスース,ドゥルア地方)に広く住みついた。そのうちの一部は,さらに北上し,モロッコとアルジェリア国境沿いの地を占め,また一部はドゥルア地方から南下し旧スペイン領サハラからモーリタニアにかけての地に移住した。後者はマーキル族の一派でハッサーン族と呼ばれ,15世紀にモーリタニアに進出してベルベル族を支配したといわれる。マグリブのアラブ化のもう一つの外的要因は,13世紀以降強まるスペインのレコンキスタ(国土回復戦争)によるアンダルスからのアラブ系ムスリムの流入である。これらの外的要因と並行して地域社会の内部では,混血が進みアラビア語が普及していった。それと同時に,14世紀末から活発化するポルトガルやスペインの侵攻および内政の混乱に直面すると,各地にシャリーフムハンマドの子孫)を名のる指導者が出現し,アラブ血統意識を高揚させた。この血統意識は実際の血筋がどうであれ,アラブと自覚する者を増加させた。このような,外的・内的諸要因によって,おそらく17世紀ころまでには,少なくとも都市とその周辺の平野部では,アラブと,自らをアラブと意識するアラブ系ベルベルとが支配的になったと考えられる。黒人の数はモーリタニア(約40%)や西サハラを別とすれば,ごく少数である。今日,アルジェリアやチュニジアで,トルコ系を名のる者に出会うことがあるが,これは長いオスマン・トルコ支配のなごりであろう。モロッコの海岸諸都市にスペイン系の住民が多いことも,歴史的産物である。これらよりも19世紀以後のフランス支配の影響は強く,都市の建物,衣服,言語,文化などにフランス的要素が色濃い。しかし,いなかに行けば,この様相は一変するし,また都市でも伝統的なジュッラーバJullāba(長衣)をまとい,フェス帽をかぶる男たちや,色とりどりのベールに身を包む女性の姿も少なくない。

マグリブ史の展開とその社会形成にとって[自然]の項で述べた地中海とサハラ砂漠が大きな意味をもっている。すなわち,フェニキア人によるカルタゴ帝国の建設,ギリシア,ローマ,バンダル王国などの支配は,いずれも地中海の海上交易権とかかわっていたのである。また,イスラム時代に入っても,地中海はアンダルス~マグリブ~マシュリク間の巡礼と交易を媒介とした人,物,文化の交流に重要な役割を果たした。さらに,スペインの進出やオスマン・トルコの支配もこの地中海が舞台であったことはいうまでもない。地中海とブラック・アフリカ世界との間には,サハラを縦断する何本かのオアシス・ルートが走っていた。トレムセンやフェス,マラケシュなどからシジルマーサSijilmāsaを経て南下するもの,ビジャヤやチュニスからガルダイアおよびアイン・サラーフ`Ayn Ṣalāḥを経て南下するもの,ガベスやトリポリからガダメス(グダーミスGhudāmis)やワルグラ(ワールカラーンWārqalān)を経て南下するものなどの商業路を通じ,サハラ以南の地からは,金,奴隷,象牙,麝香(じやこう)などの香料類などが運ばれ,北方からは,塩,毛織物,紙,書物,武器,馬などが運ばれた。このサハラ交易は,ラクダによるキャラバン隊によって行われたが,サハラ遊牧民の中には,その運搬や護衛の任にあたったり,それを略奪の対象としたり,あるいは自らキャラバン隊を編成したりして,莫大な利益をあげるものがいた。11世紀のサハラ西部のサンハージャ系遊牧民によるムラービト朝(1056-1147)の建国,12世紀以後のトレムセンの発展,古くは8世紀のルスタム朝の都ターハルトの繁栄などは,このサハラ交易と密接にかかわっている。また,交易に伴った商人や学者たちがサハラ以南の地にイスラムを浸透させたことも,サハラ砂漠を抱えたマグリブの歴史的役割の一つであった。このようなことからタンジャ(タンジール),セウタ,オラン,アルジェ,ビジャヤ,チュニス,トリポリなどの海岸諸都市やマラケシュ,フェス,トレムセン,カイラワーンなどの内陸諸都市の繁栄は,地中海を媒介とした,いわば東西のルートと,サハラ越え交易の出入口としての南北のルートとの接点の機能によることが明らかであろう。

 考古学上の発掘では,50万年以前にもさかのぼるといわれる旧石器時代のテルフィヌTerfine遺跡や,中石器から新石器時代にかけてのカプサ文化遺跡(エル・マクタなど)が知られる。後者は,サハラ砂漠のタッシリ・ナジェールなどと同系統と考えられ,その担い手は,小アジアから移住してきた一派である。前9世紀末に東地中海岸のフェニキア人の都市テュロスの人々が,西地中海に進出して築いた植民都市がカルタゴである。カルタゴは,海上交易によって栄えたが,ギリシアやローマとは地中海の覇権をめぐって熾烈な戦いを強いられた。そして,前264-前146年の3回にわたるローマとの戦い(ポエニ戦争)に敗れた後,ローマ領に編入された。その後,5世紀の前半ガイセリック王に率いられたバンダル族が侵入し,マグリブを征服,支配,バンダル王国を建設したが,彼らもまた,ローマ帝国の復興を目ざすビザンティン帝国の将軍ベリサリオスによって533年に滅ぼされた。この間にベルベルも自立し,前3世紀にチュニジアの西に建国されたヌミディア王国では,マシニッサ王やその後裔ユグルタ王のもとで勢力を誇った。また,同じころアルジェリアからモロッコにかけてマウレタニア王国も築かれた。文化的には,フェニキア人によって伝えられたブドウ,オリーブ,イチジクなどの果樹栽培,アルジェリアのジャミーラ遺跡やチュニジアのエル・ジェムの円形劇場などのローマ文化遺跡,カルタゴの教会での活発な神学研究・論争,ドナトゥス派の発展とそれを克服しカトリックの教義確立に貢献したアウグスティヌス(ベルベル)の偉業などが注目されよう。以上のカルタゴからビザンティン帝国までの支配,征服は,いずれも都市や海岸部に限られており,文化(言語,文字)や宗教(キリスト教)の面においても,マグリブ社会に対して深い影響を残すことはなかった。

 これに対して,7世紀中ごろ,イスラムとアラビア語を携えて侵入してきたアラブは,ベルベルの改宗,混血を進めることによって彼らを徐々に同化させていったが,その過程は困難を極めた。670年,ウクバ・ブン・ナーフィーの率いるアラブはマグリブに進軍し,軍営都市カイラワーンを建設したが,ベルベルの指導者クサイラやカーヒナによる激しい抵抗に遭った。それらの抵抗が鎮圧された後も,ベルベルはウマイヤ朝,アッバース朝,アグラブ朝(800-909。首都カイラワーン)によるカイラワーンを拠点とした〈スンナ派のアラブ支配〉にさまざまな形で抵抗した。すなわち,トリポリ地方の遊牧民でザナータ系のハッワーラHawwāra族は,ハワーリジュ派(イバード派)のルスタム朝(777-909。首都ターハルト)を支持し,シジルマーサには,ベルベルによってハワーリジュ派(スフリ派)政権,ミドラールMidrār朝(806・807-976・977)が建国され,アウラバAwraba族は,アッバース朝に反乱を企て失敗したハサン家のイドリースのイドリース朝(789-926。首都フェス)建設を助け,クターマKutāma族は,過激シーア派のイスマーイール派を支持してファーティマ朝(909-1171。首都カイラワーン,のちマフディーヤ,カイロへ遷都)建国に重要な役割を果たし,さらにバラグワータBaraghwāṭa族やグマーラGhumāra族はイスラムと土俗的信仰とを混交させて新宗教を創始したのである。

 11世紀中ごろは,マグリブ史の一つの転換点といってよい。その第1の理由は,エジプトに移ったファーティマ朝が送り込んだアラブ遊牧民(ヒラール族とスライム族)のため,カイラワーンをはじめとするチュニジア地方の諸都市の破壊,ベルベルの西方移動,マグリブ東部のアラブ化などが進展したことである。第2は,内陸部のベルベルが,自らの意志でイスラムに対して覚醒し始め,しかも東方のアッバース朝の宗主権を認めスンナ派を信奉したことである。すなわち,サハラ西部の遊牧民サンハージャ族が熱狂的宗教運動を土台にしてムラービト朝を建国し,アルジェリア以西とスペインを征服,スンナ派イスラムを広めた。続いて興ったムワッヒド朝(1130-1269)はアトラス山中の定着民マスムーダ族の建国によるが,これも宗教運動を土台とし,マグリブ全体を統一してスペインを支配した。この王朝下ではモロッコのアラブ化と内陸部や山岳地域のイスラム化が進んだ。13~16世紀までマリーン朝(1196-1465),ザイヤーンZayyān朝(アブド・アルワード朝。1236-1550),ハフス朝(1228-1574)のいずれもベルベル系の3王朝が鼎立し,内乱,抗争を繰り返したが,マグリブ史で最も偉大な旅行家と学者,すなわちイブン・バットゥータイブン・ハルドゥーンを生んだのもこの時代である。この間の聖者崇拝とスーフィー教団の発展は目ざましく,農村部深くまでイスラムが浸透した。16世紀にはアルジェリア,チュニジア,リビアがオスマン帝国に征服されたが,17世紀には土着化したトルコ系軍人のもとにオスマン帝国から自立し始めた。すなわち,アルジェリアは1671年からデイと呼ばれる軍人の太守が統治,チュニジアは,ムラード朝(1613-1705)とフサイン朝(1705-1958)の成立,リビアは,トルコ系軍人と現地人との間の子を意味するクルグリKulghli人によるカラマンリーQaramanlī朝(1711-1835)の成立を見た。一方,モロッコはシャリーフによるサードSa`d朝(1549-1659),アラウィー朝(フィラール朝。1631-)の建国によってスペインやポルトガルの侵攻を撃退して独立を保った。オスマン帝国が支配した時期(16~19世紀)に現在のマグリブ諸国の領土の原形ができ上がった。

 19世紀以降,西欧諸国の北アフリカへの侵略,植民地支配が始まり,アルジェリアは1830年,チュニジアは1881年,モロッコは1912年にいずれもフランスの支配下に入り,リビアは1912年にイタリアの植民地となった。植民地支配と解放の歴史については,それぞれの国名の項目を参照されたい。
アルジェリア →チュニジア →西サハラ →モロッコ →リビア
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百科事典マイペディア 「マグリブ」の意味・わかりやすい解説

マグリブ

〈マグレブ〉とも。アラビア語で〈日の没する地〉(西)を意味し,マシュリク(日が昇る地,東アラブ)の対語。チュニジア以西のアルジェリアモロッコにいたる北アフリカ地域・諸国をさす。リビアモーリタニア西サハラを含めることもある。北の地中海,西の大西洋は温暖な気候と雨をもたらし,南のサハラ砂漠は熱風を運ぶ。地中海岸には東西にアトラス山脈が走り,その北側沿岸の平野は夏は高温・乾燥し冬は多雨で,穀物や果樹の栽培に適している。住民は,先住のベルベル系が7世紀以降にイスラム化・アラブ化した者が多い。ベルベル諸語を母語とする人々も居住する。サハラ以南のブラック・アフリカとのキャラバン交易の歴史もあり,南部では黒人系の住民が多い。マグリブは古来,地中海,ヨーロッパ世界とも深い関係をもつ。古代フェニキア,ギリシア,ローマ時代にはマグリブの住民はバルバロイ(野蛮人),この地はバルバリアと呼ばれ,これがベルベルの語源となった。7世紀以降のイスラム諸王朝の時代には,マグリブの王朝が11―13世紀にイベリア半島南部を支配したほか,レコンキスタでは大量のユダヤ教徒がマグリブに移住するなどした。1995年にはバルセロナで〈ヨーロッパ地中海諸国国際会議〉が開催され,2010年を目標にマグリブ地域を含めた自由貿易地域の創設について話し合われた。
→関連項目中東

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マグリブ」の解説

マグリブ
Maghrib

「日の没する土地」すなわち「西」を意味するアラビア語。具体的には今日のチュニジアアルジェリアモロッコの西方アラブ地域をさすが,リビアモーリタニアを含める場合もある。先住民はベルベル人。7世紀半ばアラブが侵入してイスラーム化した。フランスの植民地支配を受けたため,その影響も残している。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マグリブ」の解説

マグリブ
Maghrib

アフリカ北西部のチュニジア・アルジェリア・モロッコ付近の地域
マグリブは「西」を意味するアラビア語。リビア以東とは異なった西アラブ圏を形成し,現在は3国が独立。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マグリブ」の意味・わかりやすい解説

マグリブ

「マグレブ」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内のマグリブの言及

【アラブ音楽】より

…かつてのイスラム帝国の範囲のうち,イランとトルコ,スペインを除き,アラブを主とする地域の音楽。この地域には,マシュリクと呼ばれる地域(おもにイラク,シリア,レバノン,ヨルダン,エジプト)と,マグリブと呼ばれる地域(モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア)の二つの伝統がある。これらの国々には,イラクのクルド族やエジプトのヌビア人のような非アラブの人々,またキリスト教徒やユダヤ教徒などイスラム以外の伝統をもつ少数派の人々も住み,それぞれの民俗文化は多様である。…

【住居】より

…ヨーロッパ風の新市街の発展した今日でも,中庭型住居は中東地域に広く見られる。とくに北アフリカのマグリブ地方では,中庭型住居の密集する旧市街は〈メディナmadīna〉(アラビア語で〈都市〉の意味)と呼ばれ,伝統的な中東の集落形態をよく示している。このほか,乾燥地域を主とする中東においても,山岳地帯や大河の湿地帯といった自然条件の下にある地域があり,そこでも特異な自然条件に対応した居住形態が見られる。…

※「マグリブ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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