マン(読み)まん(英語表記)Thomas Mann

デジタル大辞泉 「マン」の意味・読み・例文・類語

マン(Mann)

(Heinrich ~)[1871~1950]ドイツの小説家・批評家。の兄。ナチス時代、フランス・米国亡命、反ファシズム闘争を展開した。作「ウンラート教授」「アンリ四世」など。
(Thomas ~)[1875~1955]ドイツの小説家。の弟。ナチス政権成立後、米国に亡命、ヒューマニズムの立場からナチズム批判を続けた。生と精神との対立・調和の問題を追求し、1929年ノーベル文学賞受賞。作「ブッデンブローク家の人々」「トニオ=クレーゲル」「ベニスに死す」「魔の山」「ファウスト博士」など。トマス=マン。

マン(man)

人。男性。「マンウオッチング」「マンツーマン
名詞の下に付いて複合語をつくり、それを職業にしている人、それに関係している人、の意を表す。「ガードマン」「銀行マン

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精選版 日本国語大辞典 「マン」の意味・読み・例文・類語

マン

  1. [ 一 ] ( Thomas Mun トマス━ ) イギリスの経済学者。東インド会社理事。重商主義の「外国貿易によるイギリスの財宝」を著わし、全般的な貿易のバランスを重視する貿易差額説を主張した。(一五七一‐一六四一
  2. [ 二 ] ( Thomas Mann トマス━ ) ドイツの小説家。ハインリヒ=マンの弟。最初の長編「ブッデンブローク家の人々」(一九〇一)以後、人間の運命と愛について、人間心理の深層をえぐる壮大なスケールの小説を発表し、一九二九年ノーベル賞を受賞。代表作は「ベニスに死す」「魔の山」「ファウスト博士」など。(一八七五‐一九五五
  3. [ 三 ] ( Heinrich Mann ハインリヒ━ ) ドイツの小説家、評論家。トマス=マンの兄。政治、社会に対し文明批評的な鋭い批判を加えた。代表作「ウンラート教授」など。(一八七一‐一九五〇

マン

  1. 〘 名詞 〙 ( [オランダ語・英語] man ) 人。男。多く、「銀行マン」「鉄道マン」「宣伝マン」など、他の語につけてその方面の仕事をする人の意で用いられる。〔舶来語便覧(1912)〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マン」の意味・わかりやすい解説

マン(Thomas Mann、小説家)
まん
Thomas Mann
(1875―1955)

ドイツの小説家。ハインリヒ・マンの弟、クラウス・マンの父。6月6日、北ドイツの旧ハンザ同盟都市リューベックで数代にわたって穀物商会を営んできた豪商の家に生まれる。市参事会員の父親の死後、遺言により商会は清算された。1894年実科高等学校を修了すると、母や弟妹を追って南ドイツのミュンヘンに移った。19歳であったが、それまでのリューベック時代、由緒ある古都の市民的職業倫理の精神は、マンの「精神的生活形式」の支柱としてその創作態度に大きな影響を与え、ブルジョア的な生活環境は、後年社会主義への共感を示すマンの生活感情に基礎を与えるに至っている。

 ミュンヘンに移り住んで火災保険会社の無給見習社員として勤務のかたわら書き上げた短編小説『転落』が、詩人デーメルに認められ、これがきっかけとなって作家生活に踏み出す。これから1898年までに前後2回、あわせて2年近くイタリアに滞在するが、この間、短編小説『小男フリーデマン氏』をフィッシャー書店の文芸誌『ドイツ展望』の編集部に送ったことが機縁となって、同書店との半世紀以上に及ぶ関係が生じた。まず最初の短編集『小男フリーデマン氏』が98年に刊行され、書店主ザームエル・フィッシャーから「少し長い小説」を書くよう促されて『ブデンブローク家の人々』が誕生することになった。約30年後に授与されたノーベル文学賞の授賞対象はこの長編処女作である。この時期の作品にみられる心理主義はややもすれば唯美主義への傾斜を示すが、第二の短編集『トリスタン』(1903)に収められた『トニオ・クレーガー』は、作品を自己の「生そのものの表現形式」とみる倫理性の表現で、以後この立場は一貫して変わるところがない。

 1905年、マンの唯一のドラマ『フィオレンツァ』が完成、フィレンツェの実質上の支配者ロレンツォ・デ・メディチとドミニコ会修道士サボナローラとの対決を描いて、生と精神の問題を『トニオ・クレーガー』に引き続いて追究した作品である。この年マンはカトヤ・プリングスハイムと結婚、まもなく長編小説『大公殿下』が構想される。ドイツのある小国の若い君主が国家財政の危機を、アメリカの富豪の娘との結婚によって救うというメルヘン的な筋立てのなかで、王侯的存在の生活形式が吟味される(1909)。続いて詐欺師マノレスクの回想に想を得た『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』の執筆が始まるが、「非現実的幻想的存在形式の心理学」としてのこの小説は1913年に中断する。12年の「頽廃(たいはい)の悲劇」『ベニスに死す』に対応する「風刺劇」として『魔の山』が計画される。

 1914年第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)にあたって国民的感動にとらえられたマンは、エッセイ『フリードリヒと大同盟』(1915)などの論文によって、西欧デモクラシーに対する帝政ドイツの戦いを支持、兄のハインリヒをはじめとする反帝政平和主義者たちの反発を招いた。これを契機に自身のドイツ性の徹底的検討を試み、大戦のほとんど全期間をこの作業に費やした。その成果が論集『非政治的人間の考察』(1918)である。これによってマンは、いわば保守層の指導的イデオローグと目されることになったが、ワイマール共和国成立後、共和制を敵視する保守勢力が先鋭な非人間的傾向を示し出すのにつれて、マンはこれにしだいに反発を強め、22年『ドイツ共和国について』と題する講演でデモクラシー擁護の立場を宣言した。マルクスとヘルダーリンの「出会い」のなかにドイツの未来の可能性をみ、「その出会いはいままさに行われようとしている」としたのはこのころのことである(『ゲーテとトルストイ』)。24年に刊行された『魔の山』は、第一次世界大戦勃発に至る「7年間」が時間的枠組みになっているが、基礎になるのはマンの大戦後の思想的、政治的立場である。『旧約聖書』「創世記」のヨゼフ挿話を扱った『ヨゼフとその兄弟』四部作(『ヤコブ物語』『若いヨゼフ』『エジプトのヨゼフ』『養う人ヨゼフ』)は、1920年代の非合理主義嗜好(しこう)に対する批判的立場からの、心理学による神話の人間化の試みであり、古代世界を舞台に人類の和解の歌をうたい上げたものである。しかし26年からこれが完成するまでの16年間に世界は大きく変動し、マン自身も33年国外旅行に出たまま帰国を断念、フランス、スイスを経て、38年アメリカに移り住み、44年にはアメリカの市民権を得る。

 これより先1929年、ドイツ人としては第一次世界大戦後最初のノーベル文学賞受賞者となった。同じ年マン自身が「ファシズムの心理学」とよんだ短編小説『マーリオと魔術師』を執筆、その後も『理性に訴える』(1930)などの講演やエッセイを通じてファシズムに対する警告を続けた。33年ヒトラーの政権掌握後まもなくドイツを離れたが、ドイツとの精神的かかわりを維持する方法を模索して、36年、ようやくヒトラー・ドイツとの絶縁を表明した。この年に計画した、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』の女主人公のモデルのワイマール訪問とゲーテとの再会を描く長編小説『ワイマールのロッテ』は、アメリカ移住の翌年39年に完成、またインド伝説による短編小説『すげかえられた首』(1940)に続いて、「ヨゼフ」小説の第四部『養う人ヨゼフ』の執筆が開始され、43年の初頭に「悠々と流れゆく7万行」の「人類の歌」全巻が完結する。同じく『旧約聖書』に題材を求めた、モーセを主人公とする短編小説『掟(おきて)』は、『ヨゼフ』完成後まもなく2か月足らずで書き上げられた。

 1900年代の初めから腹案として温められていた「ファウスト」小説が同じ1943年に取り上げられる。第二次世界大戦後の47年に完成したこの『ファウストゥス博士』は、講演『ドイツとドイツ人』や『われわれの経験からみたニーチェの哲学』が示すように、ドイツ精神の自己批判の性格を色濃く帯びている。この作品の厳しいドイツ批判、さらにはドイツ再建の精神的支柱として帰国を要請する各方面からの声を退けたことは、反感と敵意を招いた。

 1949年ゲーテ生誕200年記念にあたり、ドイツ統一の願いを込めて旧西ドイツのフランクフルトとソビエト地区ワイマールで同じ記念講演を行ったが、このことは「ヨーロッパの良心」の行動として共感をよんだ反面では、旧西ドイツの反共的気分ばかりでなく、アメリカの反共的風土をも刺激することになり、それが、52年アメリカに決別してスイスのチューリヒ近郊に移る原因の一つになった。

 この間、グレゴリウス伝説による「恐ろしいほどに不倫な罪人が神によってローマ教皇にさえ選ばれる」限りない恩寵(おんちょう)の物語『選ばれし人』が1948年から3年余を経て51年に完成、さらに40年にわたる中断ののち54年完成した『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』第一部はマンの最後の小説作品となった。55年ふたたび東西ドイツで「シラー」講演を行ったが、その後6月末オランダ旅行に出て病を得、7月下旬血栓(けっせん)症によりチューリヒ州立病院に入院、20日後の8月12日、死去した。遺体はヨーロッパ帰還以来の住居のあるチューリヒ湖の湖畔キルヒベルクの教会墓地に埋葬された。

[森川俊夫]

トーマス・マンの短編

トーマス・マンは60年余りの創作生活のなかで、『トニオ・クレーガー』(1903)のようなかなり長いものを含めて、約30の短編を書いているが、大半は18歳から30歳代なかばまでの比較的若いころの作品である。それらのうち、長編小説『ブデンブローク家の人々』(1901、マン26歳)以前に発表されたものが12編、それ以後のものが『ベニスに死す』(1912)までで13編ある。

 かりに前者をA群、後者をB群とよぶことにすると、A群でマンが語り続けたのは、世紀末の「デカダンス」、あるいは「生からの疎外」というテーマであり、登場人物はほとんどみな心身ともに病み、疲れている。彼らを苦しめる不治の病(『幸福への意志』)、身体障害(『小男フリーデマン氏』)、病的肥満(『ルイースヒェン』)、アルコール中毒(『墓地への道』)などは、すべて「生からの疎外」の原因であり、またその象徴である。にもかかわらず登場人物の多くは生への強い意志ないし執着をもっていて、彼らなりの行動をするのであるが、結局はことごとく挫折(ざせつ)する。『ブデンブローク家の人々』の成功によって作家としての自覚が固まったのち、マンの最大の関心は、アウトサイダーとしての芸術家(または知的人間)のあり方とその救済という問題に移る。そのもっとも美しい結実は『トニオ・クレーガー』であるが、『トリスタン』(1903)、『神童』(1903)、『予言者の家にて』(1904)、シラーをモデルにした『生みの悩み』(1905)など、B群の短編の多くは同じ問題意識を背景にしたものである。

 後期の短編になると、作者の視点は大きく広がる。『無秩序と幼い悩み』(1925)はドイツのインフレーション時代の混乱を、『マーリオと魔術師』(1930)は台頭しつつあるファシズムの恐怖を描き、また『すげかえられた首』(1940)と『掟(おきて)』(1943)は神話的題材を通して、いずれも読者に現代に生きることの意味を問いかけている。

 短編作家としてのマンの筆はきわめて精緻(せいち)で、行動の奥にある人間の心理を鋭くえぐり、的確に描き出す。しかもそれらの作品には、つねに一定の距離を置いて対象をみるところから生ずる独特のユーモアがある。

[片山良展]

『高橋義孝他訳『トーマス・マン全集』12巻・別巻1(1971~72・新潮社)』『前田敬作訳『非政治的人間の考察』上中下(1985・筑摩叢書)』『V・ハンセン、G・ハイネ編、岡元藤則訳『トーマス・マンは語る』(1985・玉川大学出版部)』『望月市恵・小塩節訳『ヨセフとその兄弟』1~3(1985~88・筑摩書房)』『岩田行一・森川俊夫他訳『トーマス・マン日記』(1985~2004・紀伊國屋書店)』『実吉捷郎訳『トオマス・マン短篇集』、『トニオ・クレエゲル』改版(岩波文庫)』『関泰祐・関楠生訳『ファウスト博士』上中下(岩波文庫)』『望月市恵訳『ワイマルのロッテ』上下、『ブッデンブローク家の人びと』上中下(岩波文庫)』『青木順三訳『講演集 ドイツとドイツ人』(岩波文庫)』『佐藤晃一訳『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』(新潮文庫)』『高橋義孝訳『魔の山』上下、『マリオと魔術師』(新潮文庫)』『浅井真男・佐藤晃一訳『ベニスに死す』(角川文庫)』『カーチャ・マン著、山口知三訳『夫トーマス・マンの思い出』(1975・筑摩書房)』『片山良展・義則孝夫編『トーマス・マン文学とパロディー』(『ドイツ文学研究叢書』1976・クヴェレ会)』『辻邦生著『トーマス・マン』(1983・岩波書店)』『マリアンネ・クリュル著、山下公子・三浦国泰訳『トーマス・マンと魔術師たち――マン家のもう一つの物語』(1997・新曜社)』『ウルリヒ・カルトハウス著、大澤隆幸訳『トーマス・マンの文学世界』(1999・リーベル出版)』『友田和秀著『トーマス・マンと一九二〇年代――『魔の山』とその周辺』(2004・人文書院)』『奥田敏広著『トーマス・マンとクラウス・マン――「倒錯」の文学とナチズム』(2006・ナカニシヤ出版)』『小塩節著『トーマス・マンとドイツの時代』(中公新書)』


マン(Heinrich Mann)
まん
Heinrich Mann
(1871―1950)

ドイツの作家。リューベック生まれ。トーマス・マンの兄。ミュンヘンやベルリン大学に学ぶ。初期には新ロマン主義、新保守主義を唱えたが、しだいに社会批判の鋭い小説とデモクラシーを訴える評論で活躍する。『怠け者天国で』(1900)はベルリンの出版界の腐敗をつく小説。1893年以降数年間のイタリア滞在から生まれた作品のうち『女神(めがみ)たち』(1903)は自由・美・愛を非市民的存在形態として賛美し、ニーチェの影響の濃い作品だが、『小都市』(1909)では民衆を初めて描く。ウィルヘルム2世治世下のドイツを扱う作品『ウンラート教授』(1905)および『臣下』(1914)、『貧民』(1917)、『指導者』(1925)の三部作では、権力に弱いドイツ人を戯画化した。第一次世界大戦中には、ドイツの侵略を弁護した弟のトーマスや多くの知識人に対して、『ゾラ論』(1915)によって反論。ワイマール共和国の時期にも、軍国主義の克服、フランスとの協調を訴えた。1933年ナチスに追われてフランスに亡命。フランスで反ファシズム活動の中心的人物となる。同時に『アンリ4世の青春』(1935)、『アンリ4世の完成』(1938)において、民衆を信じ国民の統一に全力を尽くしたこの国王の苦難の生涯を描いて、歴史小説でアクチュアルな課題にこたえた。1940年渡米後は、窮乏生活を強いられたが、そのなかで小説『リディーツェ』(1943)、回想録『一時代の点検』(1945)などを書く。1950年、ドイツ民主共和国(東ドイツ)で創立された芸術アカデミーの会長に選ばれ、ベルリンに帰る準備を整えたが、出発直前、ロサンゼルスの近郊サンタ・モニカで死亡した。

[長橋芙美子]

『小栗浩訳『歴史と文学』(1971・晶文社)』『片岡啓治訳『息吹き』(1972・恒文社)』『小栗浩訳『アンリ四世の青春』新装版、『アンリ四世の完成』(1989・晶文社)』『三浦淳他訳『ハインリヒ・マン短篇集』1~3巻(1998~2000・松籟社)』『山口裕訳『小さな町』(2001・三修社)』『山口裕著『ハインリヒ・マンの文学』(1993・東洋出版)』


マン(Klaus Mann)
まん
Klaus Mann
(1906―1949)

ドイツの小説家、評論家。トーマス・マンの長男。ペシミスティックな文明批評の立場から小説、評論、自伝を書いた。1933年オランダのアムステルダムに亡命、オルダス・ハクスリー、ハインリヒ・マン、アンドレ・ジッドらと亡命者の機関誌『集合』(1933~35)を編集する。1936年アメリカに帰化し兵役にもついた。第二次世界大戦後ドイツに帰ったが、南フランスのカンヌで自殺する。名優グスタフ・グリュントゲンスをモデルにした小説『メフィスト』(1936)は映画化もされて話題をよんだ。ほかに小説『悲愴(ひそう)交響曲』(1935)、自伝『転回点』(1942)などがある。

[小栗 浩]

『小栗浩・渋谷寿一・青柳謙三訳『マン家の人々』『反抗と亡命』『危機の芸術家たち』(原題『転回点』1970~71・晶文社)』『岩淵達治他訳『メフィスト』(1983・三修社)』『小栗浩訳『転回点――マン家の人々』(1986・晶文社)』『奥田敏広著『トーマス・マンとクラウス・マン――「倒錯」の文学とナチズム』(2006・ナカニシヤ出版)』


マン(Horace Mann)
まん
Horace Mann
(1796―1859)

アメリカの教育家。幼時は貧困のうちに過ごしたが、苦学してブラウン大学を卒業、のち弁護士となる。1827年マサチューセッツ州議会議員となり、1835年から1837年まで州議会上院議長。この間、アメリカ最初の州教育委員会の設置に尽力した。1837年から1848年まで務めた州教育長Secretary在任中は、毎年、教育長年次報告書を作成。この州内の教育事情の調査報告書によって公教育の価値やその諸問題について大衆を広く啓蒙(けいもう)した。また、アメリカにおける最初の師範学校の設立(1839)に尽力したほか、教師の地位・待遇の改善、教育施設の完備、道徳教育や実業教育の振興にも努力した。その後、奴隷制反対のホイッグ党(アメリカ)員として連邦下院および上院議員に選ばれ(1848~1853)、最後にアンティオーク大学初代学長として活躍(1852~1859)。徹底した男女共学、黒人学生入学を断行し、新しい大学経営を行った。

[大江正比古]


マン(Thomas Mun、貿易商人)
まん
Thomas Mun
(1571―1641)

イギリスの貿易商人、重商主義期の理論家。貿易商として活躍し、のち東インド会社の重役となった。1620年に始まる不況期に、貨幣不足の原因として同社の銀輸出が非難の的となった際、『東インド貿易論』A Discourse of Trade, from England unto the East-Indies(1621)を公刊し、一般的貿易差額論の立場から会社を弁護した。のち不況の原因や対策をめぐって一連の経済論争が生じたが、彼は貿易委員会で活躍しつつ、しだいに貿易差額論を整備した。さらにこれを体系化して主著『外国貿易によるイングランドの財宝』England's Treasure by Foreign Trade ……(1664)を著した(執筆はほぼ1626~30年)。これによってマンは、中継貿易のみに基づく単なる貿易差額論ではなく、元本の増大に基礎を置く一般的貿易差額こそ一国の富の基準であるという重商主義の原理を確立した。しかしこの元本論も商業資本の運動からとらえたものであり、生産過程そのものの分析を経たものではなかった。彼の理論は、その後多くの重商主義者の古典とみなされるようになり、重商主義を批判したアダム・スミスによっても、イギリスだけでなく他のすべての商業国の経済政策の基本的信条となったと評価された。

[田中敏弘]

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改訂新版 世界大百科事典 「マン」の意味・わかりやすい解説

マン
Thomas Mann
生没年:1875-1955

ドイツの作家。北ドイツの商都リューベックの穀物商会を営む豪商の家に生まれた。作家のハインリヒ・マンは兄で,父の死後,家族とミュンヘンに移り住んだ。19歳の頃から創作にふけり,1898年短編集《小男フリーデマン氏》を刊行,次いで1901年に発表した長編《ブデンブローク家の人びと》によって作家としての地歩を確実なものにした。03年には《トニオ・クレーガー》を含む短編集《トリスタン》,05年には唯一の戯曲《フィオレンツァ》を発表するが,重厚な文体の作品にはショーペンハウアー,ワーグナー,ニーチェの影響がうかがわれる。とくにこの三者に共通する心理主義的傾向には,マンの作家的資質に通じるものがあり,後年フロイトに共感を寄せたのも同じ理由からである。自己自身の芸術性をも対象化して知的,倫理的に吟味しようとする生得のモラリズムも,マンの大きな特徴である。

 14年第1次大戦が勃発するとマンはドイツ的,国民的立場から帝政ドイツを擁護して,知識人にみられた反帝政的平和主義の傾向に批判的な立場をとった。そのため,ヨーロッパ的,普遍的立場に立つ兄ハインリヒとのあいだに疎隔対立が生じたが,これを契機に書かれたのが論集《非政治的人間の考察》(1918)である。反帝政派知識人の支持する民主主義体制をドイツに導入することはドイツ文化の浅薄化を招くと判断したトーマスであったが,戦後の混乱のなかでドイツ文化とその基底にある人間愛の精神に危険をもたらすのが,実はワイマール共和国の民主主義体制を敵視する反動的保守層であると洞察したマンは,22年頃から明確に民主主義擁護の立場をとるに至った。《魔の山Der Zauberberg》(1924)や《創世記》に題材を求めて1927年から書き始められた四部作《ヨゼフとその兄弟たち》(1943完成)は,マンのこの政治姿勢を反映したものである。前者は,スイスの国際サナトリウムを舞台に,〈平凡な〉青年ハンス・カストルプの前に展開される第1次大戦前のヨーロッパの精神状況を描いたもので,華麗な思想の万華鏡のなかで,人間存在のあり方が追求されている。29年ノーベル文学賞を受けたが,33年ヒトラーの政権掌握後マンは国外講演旅行に出たまま帰国を断念,52年ヨーロッパに戻るまで主としてアメリカで亡命生活を送った。その間第2次大戦たけなわの頃書き始めた《ファウスト博士》(1947)は,ファウスト的・ニーチェ的主人公に托してドイツの運命を描いた作品で,ドイツの〈自己批判の書〉と評価されている。第2次大戦後,ドイツの東西分割に表現される東西対峙のなかで,この状況に批判的なマンの政治姿勢は世界的に高く評価されていた。

 作品には上に触れたもののほか《ベニスに死す》(1912),《すげかえられた首》(1940),《掟》(1943)などの短編,《大公殿下》(1909),《ワイマールのロッテ》(1939),《選ばれし人》(1949),《詐欺師フェーリクス・クルルの告白》(1954)などの長編がある。小説家クラウス・マン,歴史家ゴーロ・マンは彼の息子である。
執筆者:


マン
Heinrich Mann
生没年:1871-1950

ドイツの作家。トーマス・マンの兄。北ドイツの商都リューベックの豪商の家に長男として生まれたが,作家生活の初めから社会主義的傾向を示し,いわゆる〈ウィルヘルム期〉の権威主義的,俗物主義的な諸現象に対する痛烈な批判者であった。第1次大戦の勃発にさいしてにわかにドイツ的,国民的なものへの共感を表明した弟トーマスに対して,ハインリヒはヨーロッパ的,普遍的立場を堅持してエッセー《ゾラ論》(1915)で弟に批判を加え,兄弟のあいだに深刻な亀裂が生じた。この不和は大戦後解消する。やがて勢力を伸ばしてきたナチズムに厳しい対決姿勢をとったハインリヒは,1930年プロイセン芸術アカデミー文学部門の総裁に選出される。33年亡命をやむなくされるが,フランスにあってH.バルビュスやE.ブロッホらと協力しての反ファシズム闘争のなかでその中心的・象徴的存在となった。40年スペイン経由でアメリカに脱出,戦後の49年東ドイツの国民栄誉賞の第1回受賞者となり,翌50年ドイツ芸術アカデミー総裁に擬せられてアメリカから東ドイツに帰還することになるが,出発直前サンタ・モニカで急死した。

 初期の作品には社会主義的傾向とならんで新ロマン派的色彩もみられ,スタンダール,ゾラなどの影響はもちろん,ダンヌンツィオフローベールの唯美主義に通じる側面もうかがわれる。《ウンラート教授》(1905。映画化され邦題《嘆きの天使》)や《帝国》三部作(《臣下》《貧しき人びと》《頭》,1914-25)では,市民社会の偽善性,脆弱性,権威主義と卑屈さなどがえぐり出され,フランス亡命中に完成した《アンリ4世の青春》(1935),《アンリ4世の完成》(1938)などの16世紀フランスに題材をとった歴史小説も社会主義リアリズム文芸理論の立場から高い評価を受けているが,作品の根底にある力強いヒューマニズムは党派性を超えている。
執筆者:


マン
Horace Mann
生没年:1796-1859

アメリカの教育行政家,政治家。〈アメリカ公立学校の父〉といわれる。マサチューセッツ州フランクリンに生まれる。1819年ブラウン大学卒業,23年弁護士となり,マサチューセッツ州下院議員(1827-33),上院議員(1833-37),および上院議長(1837)として慈善事業,医療事業,社会事業関係の立法に尽くした。また,37年同州においてアメリカで最初の教育委員会の創設の立法を推進し,みずからその教育長を12年間にわたって務めた。後に奴隷制反対の立場で国会議員(1848-53)に選出され,53年からオハイオ州のアンティオク大学の初代学長を務め,徹底した男女共学と,黒人学生の入学を断行するなど,新しい大学経営を行った。教育長在任中に毎年公刊した12冊の教育長年次報告書は教育統計,学校建築,教授法,教育課程,教員養成,外国の教育事情など多岐にわたり,広く国内で読まれた。また,《マサチューセッツ普通学校誌》を創刊編集して公教育の目的,必要性などを民衆に説き,その在任中に公教育経費の倍増,学校その他の施設の増設,校舎の改善,学区図書館の設立,教育課程と教授法の改善,州立師範学校の創設,教員給与の改善に力を尽くした。こうした教育行政家の活動とともに,公立学校を当時の貧民学校や慈善学校と区別して,アメリカ国民共通の教育を与える学校として位置づけた業績は,高く評価されている。
執筆者:


マン
Klaus Mann
生没年:1906-49

ドイツの小説家,評論家。トーマス・マンの長男。18歳の頃から,第1次大戦後の,可能性をはらんだ混沌の申し子のように,新進の流行作家として,創作,評論に多彩な活動ぶりを示したが,折から勢力を強めてきたナチズムに鋭い対決姿勢を示し,作家の社会的責任についての認識と行動を深めていった。1933年の亡命はそうした信念と活動の帰結で,35年にアメリカへ移るまではアムステルダムで雑誌《集合》を刊行して,亡命者結集の精神的中心をなしていた。第2次大戦中はアメリカ軍に入隊してヨーロッパでドイツ降伏を体験。戦後ヨーロッパに戻ったクラウスは,平和回復後の現実に対する絶望からか,カンヌで自殺をとげた。主要作品はほとんど第2次大戦前に成立刊行されているが,名優グリュントゲンスをモデルにして物議をかもした《メフィスト》(1936),ワイマール時代の時代の証言ともいえる自叙伝《転回点》(1942,邦訳《マン家の人々》ほか)をはじめとして多くの作品が再刊されている。
執筆者:


マン
Thomas Mun
生没年:1571-1641

イギリスの重商主義理論家。イギリス東インド会社の重役で,同社が銀を大量に輸出することに対する批判にこたえて,《外国貿易によるイングランドの財宝》(1664)を著し,輸入された東インド物産が他国に再輸出されることで,同社がむしろイギリスの国際収支の改善に貢献していると主張。個別取引の差額を問題にする立場から全体としての収支を考える〈貿易差額〉論への重商主義理論の展開の契機となった。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マン」の意味・わかりやすい解説

マン
Mann, Thomas

[生]1875.6.6. リューベック
[没]1955.8.12. チューリヒ
ドイツの小説家,評論家。 H.マンの弟。富裕な穀物商の家に生れたが,1891年の父の死後家運は傾いた。 93年ミュンヘンに移り,保険会社に勤務しながら,ミュンヘン大学で美術史,文学史などを聴講。 1933年亡命,38年アメリカに逃れた。第2次世界大戦後はスイスに定住。ショーペンハウアー,ニーチェ,ワーグナーらの影響を受け,完成された文体と,神話への志向,パロディーの駆使などにより,20世紀の最も重要な作家の一人に数えられる。最初の小説『ブッデンブローク家の人々』 Die Buddenbrooks (1901) における市民性と芸術性,生と精神の対立は,短編『トーニオ・クレーゲル』 Tonio Kröger (03) ,『ベニスに死す』 Der Tod in Venedig (12) などにも形を変えて追究され,彼の終生のテーマとなった。『魔の山』 Der Zauberberg (24) ,『ファウスト博士』 Doktor Faustus (47) などは,文化・時代分析の書ともいえよう。ほかに4部作『ヨーゼフとその兄弟たち』 Joseph und seine Brüder (33~43) ,『ワイマールのロッテ』 Lotte in Weimar (39) ,『選ばれし人』 Der Erwählte (51) ,『詐欺師フェーリックス・クルルの告白』 Bekenntnisse des Hochstaplers Felix Krull (54) ,政治評論『非政治的人間の考察』 Betrachtungen eines Unpolitischen (18) など。 29年ノーベル文学賞受賞。

マン
Mann, Heinrich

[生]1871.3.27. リューベック
[没]1950.3.12. カリフォルニア,サンタモニカ
ドイツの小説家,評論家。トーマス・マンの兄。富裕な穀物商の家に生れ,出版社に勤めたのち,イタリア,フランスに滞在,特にフランスの思想,教養から深い影響を受けた。ウィルヘルム体制下の権威主義的な社会に攻撃を加えた時代批判の小説で知られる。第1次世界大戦中は急進的デモクラシーを唱道して弟トーマスとさえ対決。 1930年プロシア・アカデミーの文芸部門の長となる。 33年チェコスロバキアを経てフランスに亡命,反ファシズム運動を行う。 40年アメリカに逃れ,49年東ドイツ・アカデミー院長に任じられたが,帰国を前にして死亡。『逸楽郷にて』 Im Schlaraffenland (1900) ,『ウンラート教授』 Professor Unrat oder das Ende eines Tyrannen (05) ,『小さな町』 Die kleine Stadt (09) ,3部作『帝国』 Das Kaiserreich (14~25) ,歴史小説『アンリ4世の青春』 Die Jugend des Königs Henri Quatre (35) ,『アンリ4世の完成』 Die Vollendung des Königs Henri Quatre (38) などのほか,『精神と行動』 Geist und Tat (31) などの文明批評,政治評論がある。

マン
Mun, Thomas

[生]1571.6.17. 〈洗礼〉ロンドン
[没]1641.7.21. 〈埋葬〉ロンドン
イギリスの経済著述家。イタリア,レバント貿易に従事したのち,1615年東インド会社理事。同社の貿易がイギリスの鋳貨を流出させるとの非難にこたえて『イギリスの東印度貿易に関する一論』A Discourse of Trade,from England unto the East-Indies: Answering to Diverse Objections which are usually made against the Same (1621) を著わし,さらに『東インド会社の請願と進言』 The Petition and Remonstrance of the Governor and Company of the Merchants of London,trading to the East-Indies (28) を公刊して会社を弁護,また 30年頃に執筆した『外国貿易によるイギリスの財宝』 England's Treasure by Foreign Trade (公刊 64) で個別的貿易差額説に基づく重金主義を批判し,全般的貿易差額説に立つ重商主義経済理論を展開した。

マン
Mann, Delbert Martin, Jr.

[生]1920.1.30. カンザス,ローレンス
[没]2007.11.11. カリフォルニア,ロサンゼルス
アメリカ合衆国の映画監督,テレビドラマ演出家。テレビでの低予算の手法を映画に応用し,『マーティ』Marty(1955)や『独身者のパーティ』The Bachelor Party(1957)といったテレビドラマの映画化作品を制作した。2作とも脚本はパディ・チャイエフスキーによる。『マーティ』は予想外にヒットし,アカデミー賞作品賞と監督賞を受賞した。長編映画とテレビ映画を数多く手がけ,NBCで放送された高視聴率ドラマシリーズ「フィルコ・テレビジョン・プレイハウス」Philco Television Playhouseでは 100以上のドラマを制作した。また,1969~71年には全米監督協会の会長を務めた。

マン
Mann, Horace

[生]1796.5.4. マサチューセッツ,フランクリン
[没]1859.8.2. オハイオ,イエロースプリングズ
アメリカの教育家。「アメリカ公教育の父」と呼ばれており,その改革案は多くの点で現代公教育の基盤をなしている。貧困と逆境のなかで育ち,ようやくブラウン大学に入学を許され,1819年卒業。生涯の仕事として法曹界入りを希望し,23年弁護士となる。 27~33年マサチューセッツ州議会議員,35~37年同州上院議員,37~48年同州教育委員会初代教育長。この間公立学校制度の改革,教師の待遇改善などを行い,またアメリカ合衆国初の師範学校の創設 (1839) に尽力した。のち連邦下院議員 (48~53) ,アンティオーク大学学長 (52~59) をつとめ,教育改革に貢献した。

マン
Mann, Klaus

[生]1906.11.18. ミュンヘン
[没]1949.5.22. カンヌ
ドイツの小説家。トーマス・マンの長男。 18歳で文筆生活に入り,ベルリンで劇評家,ジャーナリストをしていたが,1933年アムステルダムに亡命。同地で亡命者の雑誌『集合』 Die Sammlungを発行。 36年渡米し帰化,アメリカ兵としてアフリカ戦線で戦った。行動的に自由の世界を切り開こうとしたが,フランスで自殺した。第2次世界大戦後の混乱のなかで精神の無力に絶望した世代の典型といえる。小説『悲愴交響曲』 Symphonie pathétique (1935) ,自叙伝『転回点』 The Turning Point (42) などがある。

マン
Mann, Thomas(Tom)

[生]1856.4.15. ウォリックシャー,フォールズヒル
[没]1941.3.13. ヨークシャー,グラシントン
イギリスの労働運動指導者。通称トム・マン。 1881年合同機械工労働組合に加入。 89年ロンドンの港湾労働組合初代委員長となり,最低賃金制,8時間労働制,労働権を要求して港湾ストライキを指導。独立労働党の結成に尽力し,94~97年全国書記。 96年国際船舶・港湾・河川労働組合連盟を創設し,初代委員長となった。 1916年イギリス社会党に加入,20年にはイギリス共産党の創立に加わった。

マン
MAN AG

ドイツのエンジン,機械会社。 1986年 M.A.N.マシネンファブリク・アウクスブルク=ニュルンベルク (持株会社) とグーテホフヌングスヒュッテとの合併により設立。トラックやバス,印刷機械,鉄鋼の生産を中心にプラント建設,ディーゼルエンジン,タービン,ボイラ,土木機械などを手がける。輸出は全体の約6割,そのほぼ半分がヨーロッパ向けである。年間売上高 213億 5400万マルク,総資産 140億 2200万マルク,従業員数6万 2564名 (1997) 。

マン
Mun, Albert, Comte de

[生]1841.2.28. セーヌエマルヌ,リュミニー
[没]1914.10.6. ボルドー
フランスの政治家。キリスト教社会主義者。 1870年普仏戦争の際,メッスで捕虜となったが,そのときキリスト教的社会活動に献身することを決意。 71年「労働者カトリック・クラブ」を設立,81年より雑誌『カトリック協会』を発行した。ブーランジェ事件に共鳴し,反教権主義政策に反対した。 97年アカデミー・フランセーズ会員に選ばれた。

マン
Man

コートジボアール西部の町。マン県の県都。ブワケ西南西約 280kmに位置。ダン族の交易中心地で,カカオ,コーヒー,木材,畜産物などを集散。南方に豊富な鉄鉱石の鉱脈が発見され,ヨーロッパ,アメリカ,日本の協力により,1980年代に開発が始まった。象牙細工の伝統工芸も有名。国内空港がある。人口8万 8294 (1988) 。

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百科事典マイペディア 「マン」の意味・わかりやすい解説

マン

ドイツの作家。リューベックの穀物商の家に生まれる。《ブデンブローク家の人びと》で文名を確立。短編《トニオ・クレーガー》(1903年),死に魅せられた芸術家の肖像《ベニスに死す》(1912年)を経て,第1次大戦では評論《非政治的人間の考察》(1918年)などで,英仏の文明国に対して,ドイツ精神を擁護,保守的ロマン主義の立場を主張。《魔の山》で民主主義的ヒューマニズムへの転換を完成。ナチスに対しては評論や講演で果敢な抵抗を示し1933年亡命。スイスから米国へ移住,1944年には米国の市民権を得る。その間《ヨゼフとその兄弟たち》四部作(1933年―1943年)で生と精神の対立を調和的に止揚する理想的人間像を描く一方,《ファウスト博士》(1947年)でドイツ的精神の危険な一面を鋭く批判。人間性回復の物語《選ばれし人》(1951年)の後すでに1910年に着手されていた長編《詐欺師フェーリクス・クルルの告白》第一部(1954年)を完成,孤独な芸術家を描く。1952年末以来住んでいたスイスで死去。1929年ノーベル文学賞。
→関連項目北杜夫ファウストフィッツナーマン

マン

米国の映画監督。カリフォルニア生れ。低予算のスリラー映画を手がけた後,J.スチュアート主演の西部劇《ウィンチェスター銃'73》(1950年)で注目される。その後も《怒りの河》(1951年),G.ミラーを主人公とした音楽伝記映画の代表的作品《グレン・ミラー物語》(1954年),《遠い国》(1954年)など,スチュアートとのコンビは8作に及んだ。他の作品にG.クーパー主演《西部の人》(1958年),C.ヘストン主演《エル・シド》(1961年)などがある。スパイ映画《殺しのダンディー》(1968年)を撮影中に急死。1950年代ハリウッドの代表的職人監督の一人。

マン[島]【マン】

英国,グレート・ブリテン島とアイルランドのほぼ中間,アイリッシュ海中の島。最高点は標高610m。風光に恵まれ,気候温暖な観光地。燕麦,小麦,大麦,ジャガイモ,カブを主産物とし,酪農,漁業も行われる。14世紀初め英領となり,英国に属するが,独自の議会があり,大幅な自治が認められている。英国議会通過の法律も特に明記されていない限りこの島には適用されない。先住民はケルト系のマンクス(マン島人)でマンクス語を話す(その数は1951年の355人以後年々減少)。オートバイのTTレース開催地。主都ダグラス。572km2。8万4497人(2011)。
→関連項目イギリス

マン

ドイツの作家。T.マンの兄。初期には小説《ウンラート教授》(映画《嘆きの天使》の原作)など。早くから西欧的民主主義と反戦の立場に立ち,《臣下》(1914年)などで第二帝国の体制を批判。1933年以後の亡命中は評論その他で反ファシズムの中心的存在となる一方,社会主義的ヒューマニズムを理想に《アンリ4世》二部作(1935年―1938年)を完成。大戦後米国から東ドイツへ帰国直前に病没。

マン

英国の重商主義経済学説の代表者,東インド会社理事。イギリス東インド会社貿易が金銀を流出させるとの非難に対して,東インド商品の再輸出により流出金銀以上の利潤がもたらされるとの貿易差額説を唱えた。主著《外国貿易による英国の財宝》。

マン

米国の教育行政家。教師,弁護士を経て,マサチューセッツ州下院議員,上院議員,上院議長(1837年)。1837年米国で最初の教育委員会設置の立法を推進し,1848年まで同州教育長に在任(この間の12冊の年次報告書は著名)。普通教育制度の改革に貢献し,〈米国公立学校の父〉と称される。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マン」の解説

マン
Thomas Mann

1875~1955

ドイツの作家。リューベックの富裕な商人の家に生まれ,第一次世界大戦中および戦後の体験から,新たなヒューマニズムにめざめ,以後一貫してその擁護のため戦った。ナチス政権が成立するとアメリカに亡命したが,第二次世界大戦後はここも去り,スイスで死去した。代表作に『ブッデンブローク家の人々』(1901年)『魔の山』(24年)などがある。1929年ノーベル文学賞受賞。

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367日誕生日大事典 「マン」の解説

マン

生年月日:1885年11月17日
ベルギーの政治家,社会学者
1953年没

マン

生年月日:1571年6月17日?
イギリスの経済著述家
1641年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のマンの言及

【マグウェー[管区]】より

…ミャンマーの7管区の一つ。国の中西部,北緯18゜~23゜,東経93゜~96゜に位置し,北はサガイン管区,東はマンダレー管区,南はペグー管区,北西はチン州,南西はアラカン州とそれぞれ接する。面積4万4200km2,人口407万(1994)。…

【臣下】より

…ハインリヒ・マンの長編三部作《帝国》の第1部で,1911年から雑誌に逐次発表され,14年第1次世界大戦の勃発直前に完成した(これに《貧しき人びと》《頭》が続く)。この作品のドイツ帝国批判はきわめてきびしく,出版社は開戦当初の愛国的熱狂をおもんばかって,単行本の刊行を控えたほどだったが,18年刊行されるやたちまち10万部も売れた。…

【嘆きの天使】より

…スタンバーグに発見されたマルレーネ・ディートリヒが一躍スターとなったことでも知られる。帝制ドイツの教育制度と教育者のまやかしの権威と偽善性を告発したハインリヒ・マンの小説《ウンラート教授――ある暴君の末路》(1905)の映画化で,ふとしたことからキャバレー〈青い天使〉(《嘆きの天使》の原題)の歌手(ディートリヒ)の色香に迷う道学者ぶった謹厳な高校教師(エミール・ヤニングス)の堕落とその末路を描く。ディートリヒによる〈セックスの化身〉とそのサディズムによって世界中で大ヒット,パリでは封切り後まもなく映画の題名と同じ名のナイトクラブがオープンしたと伝えられる。…

【反ファシズム】より

…日独伊三国軍事同盟締結と大政翼賛会,大日本産業報国会の結成は,40年のことであったが,このときにはすでに反ファシズムの組織と言論は皆無に近かった。【鈴木 正節】
【国際的な反ファシズム文化運動】
 国際的な反ファシズム文化運動の先駆としては,反戦を掲げてロマン・ロランとバルビュスが呼びかけ,ゴーリキー,アインシュタイン,ドライサー,ドス・パソスらが発起人に名を連ねる,1932年8月アムステルダムの国際反戦大会に29ヵ国2200名を集め,翌年パリで第2回大会を開催した〈アムステルダム・プレイエル運動〉,フランスの急進社会党代議士ベルジュリが主唱し,J.R.ブロック,ビルドラックらの協力した33年5月結成の〈反ファシズム共同戦線〉,ジッド,マルローらによる〈革命作家芸術家協会〉の33年における反ファシズム運動などがあげられる。しかし,それが政治的立場を超えた知識人の統一運動として定着するのは,34年の2月6日事件をまたなければならない。…

【アメリカ合衆国】より

…ことに,ホワイト・ハウス事務局の補佐官は,大統領の政策決定に大きな影響力をもち,大統領とこれらのスタッフに広範な権限が集中され,ついにはニクソン大統領時代の〈帝王的大統領〉制との批判をうけるまでにいたる。 副大統領は,大統領と共に選出されるが,大統領事故ある場合の大統領職継承権第1位にあり,事実第2次大戦以降トルーマン,ジョンソン,フォードの各大統領は副大統領から昇格している。従来,副大統領は平常は上院議長の役割のみの閑職とされていたが,現在では多忙な大統領の代役をつとめることが多くなった。…

【学校】より

…これは地域の実情を考慮した制度であり,順次9年制への移行がすすめられた。 早くから複線型の学校制度を脱却したのはアメリカであり,H.マン(1796‐1859)は自然法的権利としての教育を受ける権利を強調し,この考えから公教育費の増額,学校数を増加させる運動がすすんだ。さらにこれを受けて,1860年代には統一基礎学校としての初等学校(コモン・スクールcommon school)がつくられ始め,19世紀末には,これに中等学校(ハイ・スクールhigh school)を接続させる方式がとられるようになった。…

【女子教育】より

…その後,オーエンに刺激されたウィルダースピンSamuel Wilderspin(1792‐1866)は1824年にインファント・スクール(幼児学校)協会を設立し,イギリス各地に幼児学校を普及させたが,これらの学校の一部はのちにイギリス公教育制度の一環に組み込まれていった。一方,アメリカでも,産業革命の進展と深くかかわりながら,男子とともに女子にも教育をという動きが,無月謝公立学校運動の父と呼ばれたH.マンらの努力で30年代から展開された。彼は,教育権思想を下敷きにしたうえで,教育の振興が男女を問わずすぐれた労働者を育て,労働者自身の幸福を保証するだけでなく,工場主にも多くの利益をもたらすことを事実に即して訴え続けた。…

【屍鬼二十五話】より

…本書はインドの内外に伝わり,多大の影響を与えた。特に〈首のすげかえ〉の物語はゲーテ(《パリア》の〈聖譚〉)に着想を与え,またトーマス・マンはこの物語に基づいて短編小説《すげかえられた首》を書いた。【上村 勝彦】。…

【トニオ・クレーガー】より

…1903年に発表されたトーマス・マンの短編小説。〈トニオ・クレーゲル〉とも呼ばれる。…

【ファウスト】より

…悪魔は彼に魔術の世界を開く鍵を伝授し,数々の奇跡を実行する能力を彼に授けたのである。これに続いてまずイギリスのC.マーロー(1588)が,ドイツではレッシング(断片),ゲーテ,F.M.クリンガー(1791),N.レーナウ(1836),ハイネ(1851,バレエ台本),20世紀に入って,トーマス・マンの《ファウスト博士》(1947),バレリーの《モン・フォースト》(1946)がこのテーマを扱い,ファウスト伝説を豊富にした。ファウスト〈テーマ〉は救済型と破滅型に分かれるが,ゲーテのファウストのみが救済され,他はそれぞれの時代思潮からとられたテーマに従って一般に破滅型である。…

【ブデンブローク家の人びと】より

…1901年に刊行されたトーマス・マンの最初の長編小説。北ドイツのハンザ同盟都市リューベック指折りの豪商で父は市参事会員という有力者の家に生まれた作者は,出版社主S.フィッシャーのすすめをうけて自身の一族をモデルにこの作品を完成したが,20代前半の作者の手になるとは思えない完成度を示し,この作品を対象に1929年のノーベル賞が授与されている。…

【サンディカリスム】より

… アメリカにおけるIWW(世界産業労働者)の運動も本来土着的な運動が思想的表現を借用したものである。イギリスではT.マンらのシンディカリスト・リーグがサンディカリスム型(イギリスではトレード・ユニオニズムと呼ばれた)の運動を指導し,港湾労働者などの間に影響力を与えた。イタリアにおける同種の試みは社会党内少数派のものにとどまり,労働組合運動に影響を与えることはなかった。…

【重商主義】より


[重金主義から貿易差額主義への転換]
 この転換は,第1次土地囲込み運動と国内産業の発展とに基づいて進行し,直接には1620年に始まる毛織物輸出の不振と国内の貨幣不足とを契機とする〈外国為替論争〉(歴史上最初の経済論争)によって表面化した。この論争は,重金主義者G.deマリーンズと貿易差額論者E.ミッセルデンおよびT.マンとの間で行われ,前者が直接的,個別的な貿易統制政策による貨幣的富の国外流出防止と流入促進とを主張したのに対し,後者は総括的貿易バランス論を主張し,最終的にはマンの主著《外国貿易によるイングランドの財宝》(1664,死後出版)によって体系化された。A.スミスはこのマンの主著を〈すべての他の商業国の経済学の基本的命題になった〉ものと評価し,それ以来この著書は長いあいだ重商主義の古典とみなされてきた。…

【商人】より

…イギリス,オランダ,フランスなどの対立は貿易差額主義に基づく重商主義の理論を生み出し,商人の利益と国家の利益を結びつける見解が生じた。その代表的論者がイギリスのトーマス・マン(1571‐1641)である。彼は著書《外国貿易によるイングランドの財宝》(1664刊)において〈外国貿易は国王の偉大な歳入であり,わが王国の栄誉であり,貿易商人のりっぱな職業であり,わが国の貧民の仕事の供与者であり,わが国土の開発者であり,わが国の水夫の養成所である〉と述べている。…

※「マン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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