精選版 日本国語大辞典 「マン」の意味・読み・例文・類語
マン
マン
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ドイツの作家。北ドイツの商都リューベックの穀物商会を営む豪商の家に生まれた。作家のハインリヒ・マンは兄で,父の死後,家族とミュンヘンに移り住んだ。19歳の頃から創作にふけり,1898年短編集《小男フリーデマン氏》を刊行,次いで1901年に発表した長編《ブデンブローク家の人びと》によって作家としての地歩を確実なものにした。03年には《トニオ・クレーガー》を含む短編集《トリスタン》,05年には唯一の戯曲《フィオレンツァ》を発表するが,重厚な文体の作品にはショーペンハウアー,ワーグナー,ニーチェの影響がうかがわれる。とくにこの三者に共通する心理主義的傾向には,マンの作家的資質に通じるものがあり,後年フロイトに共感を寄せたのも同じ理由からである。自己自身の芸術性をも対象化して知的,倫理的に吟味しようとする生得のモラリズムも,マンの大きな特徴である。
14年第1次大戦が勃発するとマンはドイツ的,国民的立場から帝政ドイツを擁護して,知識人にみられた反帝政的平和主義の傾向に批判的な立場をとった。そのため,ヨーロッパ的,普遍的立場に立つ兄ハインリヒとのあいだに疎隔対立が生じたが,これを契機に書かれたのが論集《非政治的人間の考察》(1918)である。反帝政派知識人の支持する民主主義体制をドイツに導入することはドイツ文化の浅薄化を招くと判断したトーマスであったが,戦後の混乱のなかでドイツ文化とその基底にある人間愛の精神に危険をもたらすのが,実はワイマール共和国の民主主義体制を敵視する反動的保守層であると洞察したマンは,22年頃から明確に民主主義擁護の立場をとるに至った。《魔の山Der Zauberberg》(1924)や《創世記》に題材を求めて1927年から書き始められた四部作《ヨゼフとその兄弟たち》(1943完成)は,マンのこの政治姿勢を反映したものである。前者は,スイスの国際サナトリウムを舞台に,〈平凡な〉青年ハンス・カストルプの前に展開される第1次大戦前のヨーロッパの精神状況を描いたもので,華麗な思想の万華鏡のなかで,人間存在のあり方が追求されている。29年ノーベル文学賞を受けたが,33年ヒトラーの政権掌握後マンは国外講演旅行に出たまま帰国を断念,52年ヨーロッパに戻るまで主としてアメリカで亡命生活を送った。その間第2次大戦たけなわの頃書き始めた《ファウスト博士》(1947)は,ファウスト的・ニーチェ的主人公に托してドイツの運命を描いた作品で,ドイツの〈自己批判の書〉と評価されている。第2次大戦後,ドイツの東西分割に表現される東西対峙のなかで,この状況に批判的なマンの政治姿勢は世界的に高く評価されていた。
作品には上に触れたもののほか《ベニスに死す》(1912),《すげかえられた首》(1940),《掟》(1943)などの短編,《大公殿下》(1909),《ワイマールのロッテ》(1939),《選ばれし人》(1949),《詐欺師フェーリクス・クルルの告白》(1954)などの長編がある。小説家クラウス・マン,歴史家ゴーロ・マンは彼の息子である。
執筆者:森川 俊夫
ドイツの作家。トーマス・マンの兄。北ドイツの商都リューベックの豪商の家に長男として生まれたが,作家生活の初めから社会主義的傾向を示し,いわゆる〈ウィルヘルム期〉の権威主義的,俗物主義的な諸現象に対する痛烈な批判者であった。第1次大戦の勃発にさいしてにわかにドイツ的,国民的なものへの共感を表明した弟トーマスに対して,ハインリヒはヨーロッパ的,普遍的立場を堅持してエッセー《ゾラ論》(1915)で弟に批判を加え,兄弟のあいだに深刻な亀裂が生じた。この不和は大戦後解消する。やがて勢力を伸ばしてきたナチズムに厳しい対決姿勢をとったハインリヒは,1930年プロイセン芸術アカデミー文学部門の総裁に選出される。33年亡命をやむなくされるが,フランスにあってH.バルビュスやE.ブロッホらと協力しての反ファシズム闘争のなかでその中心的・象徴的存在となった。40年スペイン経由でアメリカに脱出,戦後の49年東ドイツの国民栄誉賞の第1回受賞者となり,翌50年ドイツ芸術アカデミー総裁に擬せられてアメリカから東ドイツに帰還することになるが,出発直前サンタ・モニカで急死した。
初期の作品には社会主義的傾向とならんで新ロマン派的色彩もみられ,スタンダール,ゾラなどの影響はもちろん,ダンヌンツィオやフローベールの唯美主義に通じる側面もうかがわれる。《ウンラート教授》(1905。映画化され邦題《嘆きの天使》)や《帝国》三部作(《臣下》《貧しき人びと》《頭》,1914-25)では,市民社会の偽善性,脆弱性,権威主義と卑屈さなどがえぐり出され,フランス亡命中に完成した《アンリ4世の青春》(1935),《アンリ4世の完成》(1938)などの16世紀フランスに題材をとった歴史小説も社会主義リアリズム文芸理論の立場から高い評価を受けているが,作品の根底にある力強いヒューマニズムは党派性を超えている。
執筆者:森川 俊夫
アメリカの教育行政家,政治家。〈アメリカ公立学校の父〉といわれる。マサチューセッツ州フランクリンに生まれる。1819年ブラウン大学卒業,23年弁護士となり,マサチューセッツ州下院議員(1827-33),上院議員(1833-37),および上院議長(1837)として慈善事業,医療事業,社会事業関係の立法に尽くした。また,37年同州においてアメリカで最初の教育委員会の創設の立法を推進し,みずからその教育長を12年間にわたって務めた。後に奴隷制反対の立場で国会議員(1848-53)に選出され,53年からオハイオ州のアンティオク大学の初代学長を務め,徹底した男女共学と,黒人学生の入学を断行するなど,新しい大学経営を行った。教育長在任中に毎年公刊した12冊の教育長年次報告書は教育統計,学校建築,教授法,教育課程,教員養成,外国の教育事情など多岐にわたり,広く国内で読まれた。また,《マサチューセッツ普通学校誌》を創刊編集して公教育の目的,必要性などを民衆に説き,その在任中に公教育経費の倍増,学校その他の施設の増設,校舎の改善,学区図書館の設立,教育課程と教授法の改善,州立師範学校の創設,教員給与の改善に力を尽くした。こうした教育行政家の活動とともに,公立学校を当時の貧民学校や慈善学校と区別して,アメリカ国民共通の教育を与える学校として位置づけた業績は,高く評価されている。
執筆者:深山 正光
ドイツの小説家,評論家。トーマス・マンの長男。18歳の頃から,第1次大戦後の,可能性をはらんだ混沌の申し子のように,新進の流行作家として,創作,評論に多彩な活動ぶりを示したが,折から勢力を強めてきたナチズムに鋭い対決姿勢を示し,作家の社会的責任についての認識と行動を深めていった。1933年の亡命はそうした信念と活動の帰結で,35年にアメリカへ移るまではアムステルダムで雑誌《集合》を刊行して,亡命者結集の精神的中心をなしていた。第2次大戦中はアメリカ軍に入隊してヨーロッパでドイツ降伏を体験。戦後ヨーロッパに戻ったクラウスは,平和回復後の現実に対する絶望からか,カンヌで自殺をとげた。主要作品はほとんど第2次大戦前に成立刊行されているが,名優グリュントゲンスをモデルにして物議をかもした《メフィスト》(1936),ワイマール時代の時代の証言ともいえる自叙伝《転回点》(1942,邦訳《マン家の人々》ほか)をはじめとして多くの作品が再刊されている。
執筆者:森川 俊夫
イギリスの重商主義理論家。イギリス東インド会社の重役で,同社が銀を大量に輸出することに対する批判にこたえて,《外国貿易によるイングランドの財宝》(1664)を著し,輸入された東インド物産が他国に再輸出されることで,同社がむしろイギリスの国際収支の改善に貢献していると主張。個別取引の差額を問題にする立場から全体としての収支を考える〈貿易差額〉論への重商主義理論の展開の契機となった。
執筆者:川北 稔
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1875~1955
ドイツの作家。リューベックの富裕な商人の家に生まれ,第一次世界大戦中および戦後の体験から,新たなヒューマニズムにめざめ,以後一貫してその擁護のため戦った。ナチス政権が成立するとアメリカに亡命したが,第二次世界大戦後はここも去り,スイスで死去した。代表作に『ブッデンブローク家の人々』(1901年)『魔の山』(24年)などがある。1929年ノーベル文学賞受賞。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…ハインリヒ・マンの長編三部作《帝国》の第1部で,1911年から雑誌に逐次発表され,14年第1次世界大戦の勃発直前に完成した(これに《貧しき人びと》《頭》が続く)。この作品のドイツ帝国批判はきわめてきびしく,出版社は開戦当初の愛国的熱狂をおもんばかって,単行本の刊行を控えたほどだったが,18年刊行されるやたちまち10万部も売れた。…
…スタンバーグに発見されたマルレーネ・ディートリヒが一躍スターとなったことでも知られる。帝制ドイツの教育制度と教育者のまやかしの権威と偽善性を告発したハインリヒ・マンの小説《ウンラート教授――ある暴君の末路》(1905)の映画化で,ふとしたことからキャバレー〈青い天使〉(《嘆きの天使》の原題)の歌手(ディートリヒ)の色香に迷う道学者ぶった謹厳な高校教師(エミール・ヤニングス)の堕落とその末路を描く。ディートリヒによる〈セックスの化身〉とそのサディズムによって世界中で大ヒット,パリでは封切り後まもなく映画の題名と同じ名のナイトクラブがオープンしたと伝えられる。…
…日独伊三国軍事同盟締結と大政翼賛会,大日本産業報国会の結成は,40年のことであったが,このときにはすでに反ファシズムの組織と言論は皆無に近かった。【鈴木 正節】
【国際的な反ファシズム文化運動】
国際的な反ファシズム文化運動の先駆としては,反戦を掲げてロマン・ロランとバルビュスが呼びかけ,ゴーリキー,アインシュタイン,ドライサー,ドス・パソスらが発起人に名を連ねる,1932年8月アムステルダムの国際反戦大会に29ヵ国2200名を集め,翌年パリで第2回大会を開催した〈アムステルダム・プレイエル運動〉,フランスの急進社会党代議士ベルジュリが主唱し,J.R.ブロック,ビルドラックらの協力した33年5月結成の〈反ファシズム共同戦線〉,ジッド,マルローらによる〈革命作家芸術家協会〉の33年における反ファシズム運動などがあげられる。しかし,それが政治的立場を超えた知識人の統一運動として定着するのは,34年の2月6日事件をまたなければならない。…
…ことに,ホワイト・ハウス事務局の補佐官は,大統領の政策決定に大きな影響力をもち,大統領とこれらのスタッフに広範な権限が集中され,ついにはニクソン大統領時代の〈帝王的大統領〉制との批判をうけるまでにいたる。 副大統領は,大統領と共に選出されるが,大統領事故ある場合の大統領職継承権第1位にあり,事実第2次大戦以降トルーマン,ジョンソン,フォードの各大統領は副大統領から昇格している。従来,副大統領は平常は上院議長の役割のみの閑職とされていたが,現在では多忙な大統領の代役をつとめることが多くなった。…
…これは地域の実情を考慮した制度であり,順次9年制への移行がすすめられた。 早くから複線型の学校制度を脱却したのはアメリカであり,H.マン(1796‐1859)は自然法的権利としての教育を受ける権利を強調し,この考えから公教育費の増額,学校数を増加させる運動がすすんだ。さらにこれを受けて,1860年代には統一基礎学校としての初等学校(コモン・スクールcommon school)がつくられ始め,19世紀末には,これに中等学校(ハイ・スクールhigh school)を接続させる方式がとられるようになった。…
…その後,オーエンに刺激されたウィルダースピンSamuel Wilderspin(1792‐1866)は1824年にインファント・スクール(幼児学校)協会を設立し,イギリス各地に幼児学校を普及させたが,これらの学校の一部はのちにイギリス公教育制度の一環に組み込まれていった。一方,アメリカでも,産業革命の進展と深くかかわりながら,男子とともに女子にも教育をという動きが,無月謝公立学校運動の父と呼ばれたH.マンらの努力で30年代から展開された。彼は,教育権思想を下敷きにしたうえで,教育の振興が男女を問わずすぐれた労働者を育て,労働者自身の幸福を保証するだけでなく,工場主にも多くの利益をもたらすことを事実に即して訴え続けた。…
…本書はインドの内外に伝わり,多大の影響を与えた。特に〈首のすげかえ〉の物語はゲーテ(《パリア》の〈聖譚〉)に着想を与え,またトーマス・マンはこの物語に基づいて短編小説《すげかえられた首》を書いた。【上村 勝彦】。…
…1903年に発表されたトーマス・マンの短編小説。〈トニオ・クレーゲル〉とも呼ばれる。…
…悪魔は彼に魔術の世界を開く鍵を伝授し,数々の奇跡を実行する能力を彼に授けたのである。これに続いてまずイギリスのC.マーロー(1588)が,ドイツではレッシング(断片),ゲーテ,F.M.クリンガー(1791),N.レーナウ(1836),ハイネ(1851,バレエ台本),20世紀に入って,トーマス・マンの《ファウスト博士》(1947),バレリーの《モン・フォースト》(1946)がこのテーマを扱い,ファウスト伝説を豊富にした。ファウスト〈テーマ〉は救済型と破滅型に分かれるが,ゲーテのファウストのみが救済され,他はそれぞれの時代思潮からとられたテーマに従って一般に破滅型である。…
…1901年に刊行されたトーマス・マンの最初の長編小説。北ドイツのハンザ同盟都市リューベック指折りの豪商で父は市参事会員という有力者の家に生まれた作者は,出版社主S.フィッシャーのすすめをうけて自身の一族をモデルにこの作品を完成したが,20代前半の作者の手になるとは思えない完成度を示し,この作品を対象に1929年のノーベル賞が授与されている。…
… アメリカにおけるIWW(世界産業労働者)の運動も本来土着的な運動が思想的表現を借用したものである。イギリスではT.マンらのシンディカリスト・リーグがサンディカリスム型(イギリスではトレード・ユニオニズムと呼ばれた)の運動を指導し,港湾労働者などの間に影響力を与えた。イタリアにおける同種の試みは社会党内少数派のものにとどまり,労働組合運動に影響を与えることはなかった。…
…
[重金主義から貿易差額主義への転換]
この転換は,第1次土地囲込み運動と国内産業の発展とに基づいて進行し,直接には1620年に始まる毛織物輸出の不振と国内の貨幣不足とを契機とする〈外国為替論争〉(歴史上最初の経済論争)によって表面化した。この論争は,重金主義者G.deマリーンズと貿易差額論者E.ミッセルデンおよびT.マンとの間で行われ,前者が直接的,個別的な貿易統制政策による貨幣的富の国外流出防止と流入促進とを主張したのに対し,後者は総括的貿易バランス論を主張し,最終的にはマンの主著《外国貿易によるイングランドの財宝》(1664,死後出版)によって体系化された。A.スミスはこのマンの主著を〈すべての他の商業国の経済学の基本的命題になった〉ものと評価し,それ以来この著書は長いあいだ重商主義の古典とみなされてきた。…
…イギリス,オランダ,フランスなどの対立は貿易差額主義に基づく重商主義の理論を生み出し,商人の利益と国家の利益を結びつける見解が生じた。その代表的論者がイギリスのトーマス・マン(1571‐1641)である。彼は著書《外国貿易によるイングランドの財宝》(1664刊)において〈外国貿易は国王の偉大な歳入であり,わが王国の栄誉であり,貿易商人のりっぱな職業であり,わが国の貧民の仕事の供与者であり,わが国土の開発者であり,わが国の水夫の養成所である〉と述べている。…
※「マン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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