フランスの社会学者、民族学者。20世紀の代表的社会学者の一人であるエミール・デュルケームの甥(おい)で、その協力者であり、フランスにおける科学的・実証的人類学の礎石を築いた。ボルドー大学で哲学をデュルケームに師事し、その後、高等学術研究院およびコレージュ・ド・フランスで教鞭(きょうべん)をとる。デュルケームによって創刊された『社会学年報』(1898~1913)の編集に参加し、デュルケームの死後は『社会学年誌』(1934~1942)を主宰してその推進力となって活躍した。生涯、現地調査を行ったことはなかったが、デュルケームの理論と方法を継承し、「単純な形態の社会現象を表している」がゆえに未開社会を研究対象として、社会学と人類学の統合を図った。モースの関心はきわめて広範で、社会形態と生態環境の関係、経済、呪術(じゅじゅつ)・宗教論、身体論にまで及ぶが、とりわけ交換の問題に新次元を切り開いた『贈与論』(1925)は彼の代表的業績とされる。このなかで、交換を、法、経済、親族、宗教から人間の身体的・生理的現象、さらには象徴表現までを含む「全体的社会的事象」という新しい概念によって理解した。モースの方法はレビ(レヴィ)・ストロースの構造人類学をはじめとし、現代人類学に限りなく深い影響を与えている。
[加藤 泰 2019年1月21日]
『M・モース著、有地亨他訳『社会学と人類学』Ⅰ、Ⅱ(1973、1976・弘文堂)』▽『レヴィ・ストロース他著、足立和浩他訳『マルセル・モースの世界』(1974・みすず書房)』
アメリカの動物学者、日本研究家。6月18日メーン州ポートランドに生まれる。ハーバード大学の新ハーバード博物館でL・アガシー教授の学生助手として動物学を学ぶ(1859~1862)。ピーボディー・アカデミーの主事(1868~1871)、メーン州立大学(1870~1871)、ボードウィン大学(1870~1873)、ハーバード大学(1872~1873)などの比較解剖学と動物学教授を歴任。腕足(わんそく)類研究のため1877年(明治10)来日、横浜より東京へ向かう途中、線路の切り割りに貝殻の堆積(たいせき)をみつけ、大森貝塚の発見に至った。秋からその学術的発掘調査を開始し、画期的な報告書Shell mounds of Omori(1879年刊、邦訳『大森介墟(かいきょ)古物篇(へん)』)を刊行、日本の考古学、人類学に道を開いた。東京大学の招請を受け、同大動物学生理学教授(1877~1879)となり、日本人学者の養成にあたる。またダーウィンの進化論を初めて紹介した。1879年帰国後、ピーボディー博物館長(1880~1914)、同名誉館長(1914~1925)。1882年再来日し、陶器の収集と日本の制度や風習を研究、収集した4646点の代表的な日本陶器はボストン美術館に収蔵された。日本の学問と文化に貢献した功績で、勲二等瑞宝(ずいほう)章を授けられる(1922)。1925年12月20日マサチューセッツ州セーレムにて死去。87歳。
[渡辺兼庸 2018年8月21日]
『E・S・モース著、石川欣一訳『日本その日その日』全3巻(1929・科学知識普及会/平凡社・東洋文庫)』▽『E・S・モース著、東京都大森貝塚保存会編『大森貝塚』(1967・中央公論美術出版/近藤義郎・佐原真編訳・岩波文庫)』▽『D・G・ウェイマン著、蜷川親正訳『エドワード・シルベスター・モース』全2巻(1976・中央公論美術出版)』
アメリカの画家、電信の発明者。モールスともよばれる。マサチューセッツ州チャールズタウン生まれ。父ジェディダイアJedidiah(1761―1826)は有名な組合協会牧師で地理学者であった。1810年エール大学を卒業、肖像画家を志し、ナショナル・デザイン・アカデミーの初代校長、ニューヨーク大学の美術教授を務めた。1829~1832年フランスとイタリアに美術遊学、その帰途の船中で最新の電磁気学のことを知り、航海中に電信機の構想をまとめた。ニューヨーク大学のアトリエを実験室にし、大学の同僚ゲールLeonard Gale(1800―1883)の協力を得、点と線で表す電信符号は彼自身がくふうした。
1837年9月、最初の公開実験を、大学構内に張り渡した電信線によって行った。これを参観した鉄工場主ベイルAlfred Vail(1807―1859)が資金と工場を提供することになった。またベイルは電信符号も改良した。1838年ワシントンで公開実験をしたが議員たちの支持は得られず、ヨーロッパでの特許権の獲得にも失敗。1843年ようやくワシントン―ボルティモア間の試験線架設費3万ドルの予算を獲得、翌1844年5月24日、有名なことば「What hath God wrought(神がなせし業(わざ))」をベイルに送信した。1856年に実業家シブリーHiram Sibley(1807―1888)の指導でウェスタン・ユニオン電信会社を設立し、多くの企業を合併して成功、長年の労苦が報われた。没年までにモースの電信機とモールス符号はヨーロッパのほとんどの国に採用され、17か国から勲章を授与された。
[山崎俊雄]
ドイツの鉱物学者。ゲルンローデに生まれる。ドイツのハレ、フライベルクで教育に携わった。オーストリアに行き、1811年グラーツ大学の鉱物学教授、1816年フライベルク大学教授、1826年ウィーン大学教授となる。1812年、鉱物の硬度(ひっかき硬度)を計るための基準となる鉱物を10種選び、相対的な硬度計を考案した。これがモースの硬度計とよばれるものである。現在用いているものでは、モースが定義したときにつけられていた基準鉱物となるべき条件はすべて取り払われている。主著に『鉱物学概論』Grundriss der Mineralogie(1822)がある。
[松原 聰]
アメリカの政治家。ウィスコンシン州生まれ。ウィスコンシン大学卒業後、ミネソタ大学で法律を学ぶ。1929年からミネソタ大学、オレゴン大学などで教鞭(きょうべん)をとったのち、1944年にオレゴン州選出連邦上院議員(共和党)に当選。1954年民主党に移籍。1968年の選挙で敗北するまで四期上院議員を務めた。1960年代にはベトナム戦争を一貫して批判し、ハト派上院議員として活躍。とくに大統領に白紙委任状を与えた1964年のトンキン湾決議にE・グリューニングとただ2人反対した上院議員として有名。
[藤本 博]
アメリカの中国研究者。1874年ハーバード大学を卒業し、同年中国税関に就職。87年副税務司、96年税務司、1903~08年総税務司署の統計局長を務め、09年に退職。在職中から中国を研究、退職後もイギリスで研究を続けた。主要著書に『支那(しな)ギルド論』(1909)、『中国の国際関係』全三巻(1910~18)、『イギリス東インド会社の対中国貿易編年史』全五巻(1926~29)などがあり、高く評価されている。
[加藤祐三]
『増井経夫訳『支那ギルド論』(1939・生活社)』
フランスの社会学者,民族学者。エピナルに生まれ,ボルドー大学を経てパリ高等研究院でインド宗教史を専攻した。1902-30年,同研究院〈非文明民族の宗教史〉講座,31-39年コレージュ・ド・フランス社会学講座担当のかたわら,1926-39年にかけてレビ・ブリュール創設のパリ大学民族学研究所で民族誌学を講じた。みずからの実地調査を試みることはなかったが,インド古代社会からポリネシア,オーストラリア,北米インディアン社会に及ぶ該博な知識を背景に多くの民族学者を育成し,フランス人類学の基礎を作った。教育機関での活動と並行して《社会学年報》(第1期,1898-1913)では,叔父É.デュルケームのよき協力者としてH.ユベールとともに宗教社会学部門等の編集に携わり,フランス社会学派の最も実り多い領域の開拓に尽くした。デュルケーム亡き第1次大戦後は学派の中心人物として同誌の復刊(1925-26),デュルケーム,R.エルツ,ユベールらの遺稿編纂を手がけた。研究者としてのモースはデュルケーム流社会学主義に立ちながらも,異文化の個別性を重視する民族誌的素養と,人間の生理的・心理的側面をも包括せんとする柔軟な理論的視野をあわせもち,19世紀的進化主義や社会有機体説から自由な社会学,民族学への橋渡しの役割を果たした。初期の供犠,分類,呪術,社会形態,祈り等に関する研究,後期の交換・身体技法等の研究はいずれも現代の社会諸科学になお論点を与えつづける先駆的なテーマの発掘である。とりわけ《贈与論Essai sur le don》(1925。《社会学と人類学》(1968)所収)はポトラッチ,クラなどの交換体系の分析を通じて,宗教,法,道徳,経済の諸領域に還元できない〈全体的社会事実faits sociaux totaux〉の構想を打ち出したもので,レビ・ストロースの構造人類学に大きな影響を与えた。またフランス社会史,オランダ構造主義,イギリス社会人類学への理論的貢献を忘れることはできない。
→贈物
執筆者:関 一敏
アメリカの動物学者。日本ではモールスとも呼ばれた。メーン州に生まれる。製図工として働く一方,幼少のころから貝を収集して貝殻の収集研究家として知られるようになり,ハーバード大学のJ.L.R.アガシーのもとで助手を務め腕足類の研究に携わった。フロリダでは貝塚を発掘し,現生種との比較研究を行っている。1877年6月,腕足類などの採集の目的で来日,はからずも東京大学理学部動物学生理学教授に招かれ,79年8月までその職にあった。その間,東洋で初めての臨海実験施設を設け,近代科学としての動物学・考古学の基礎をつくり,関連資料の収集・整理・展示を実践・指導した。またダーウィンの進化論を初めて日本に紹介し,東京大学生物学会(のちの日本動物学会)を発足させ,東京大学に図書館設立を進言して図書充実に尽力した。さらに教育博物館(現,国立科学博物館)を指導,一般向けの講演会にも積極的に参加し,巧みな話術と両手で描く絵で聴衆を魅了するなど多方面で活躍した。
1877年モースは大森貝塚(現,東京都品川区大井6丁目)を発見し,同年から翌年にかけて発掘調査したが,この成果を東京大学は彼の進言によって,和英両文(《大森介墟古物編》《Shell Mounds of Omori》)で79年に東京大学理学部会粋第1冊として刊行した。この報告書は同貝塚出土遺物のセッコウ模型とともに欧米の大学・博物館に配布され,また出土遺物と欧米の先史遺物との交換も行われた。82年,再来日したモースは,もっぱら日本陶器の収集に専念する。彼が収集した陶器(ボストン美術館),民族資料(マサチューセッツ州セーレムのピーボディ博物館)は,一般美術愛好家や研究者が対象としないものまで網羅してある点で意義をもつ。モースの日本滞在記《Japan Day by Day》(1917,邦題《日本その日その日》1929)は,百年前の日本を描いた好読物である。
執筆者:佐原 眞
アメリカの画家,技術者。電信のモールス符号を発明し,アメリカにおける電信の実用化を推進した。マサチューセッツ州チャールズタウンで牧師の子として生まれた。イェール大学在学中に電気に興味をもった。ロンドンのローヤル・アカデミーで絵を学び,肖像画家として知られるようになった。38歳のときに,イタリアでさらに修業すべく再度渡欧し,パリで腕木式信号機を見てこれに郵便よりもすぐれた点があることを感じた。1832年に帰国する航海の船上で,ドット〈・〉とダッシュ〈-〉の符号を用いる電信を着想した。帰国後,新設のニューヨーク大学で美術教授をつとめるかたわら,ヘンリーJ.HenryやベイルA.Vailに助けられてリレー式電信機をつくった。ヨーロッパではすでにクックW.F.CookeやホイートストンC.Wheatstoneその他によって指針式の電信がつくられていたが,モースの電信は符号式(モールス符号と呼ばれている)でしかも簡単なリレー式であることなどにおいてすぐれていた。モールス符号は今日まで広く使われている。37年にモースは,1700フィート(518.16m)の距離にわたる電信デモンストレーションに成功した。彼は政府に電信を採用させようと努力し,44年にはワシントンとボルティモア間37マイル(約60km)に電信回線が敷設された。大統領候補者決定のための民主党大会の結果がこの電信で送られ,モースの電信は一躍有名になった。電信は結局のところ民営で行われることになった。モースはマグネティック・テレグラフ社を設立し,また,特許紛争などで忙しくなった。その結果,彼は画家としての道を55歳のときにあきらめざるをえなかった。モースは奴隷制擁護者で,南北戦争に際してはリンカンの大統領当選をはばもうとした。しかし,電信網の発達は北軍の勝利を助ける結果となった。
執筆者:高橋 雄造
ドイツの鉱物学者,モース硬度計(鉱物硬度表)の製作者。ハルツ河畔のゲルンローデに生まれ,小さいときから自然科学に興味をもった。ハレ大学で物理学と数学を学び,1798年フライベルク鉱山学校に入り,A.G.ウェルナーのもとで鉱物学を学んだ。1802年にはイギリスに招かれ,アイルランドとスコットランドの地質と鉱物の研究を行った。各地の大学の教職を務めながら,師ウェルナーの体系を改定して,新しい鉱物分類法の確立に努めた。ウェルナーの死後,17年フライベルク鉱山学校の教授となり,26年ウィーン大学教授になった。鉱物の硬度を比較測定するために,22年に滑石を1とし,ダイヤモンドを10とする尺度(モース硬度計)を確立したことは有名で,この硬度計は現在でも利用されている。また,鉱物の外形の対称性から結晶形を分類したが,同じころ発表されたドイツの結晶学者ワイスChristian Samuel Weiss(1780-1850)のものと比べて,単斜晶系と三斜晶系を識別したことで優れている。
執筆者:清水 大吉郎
アメリカの中国研究家。ハーバード大学を卒業後,30年以上もの長い間,中国の海関に勤務した。彼は在職中から中国研究に着手し,引退後はイギリスに住んで著述に専念した。おもな著書に,中国の貿易,政治制度を対象とした《The Trade and Administration of China》(1908),詳細な中国の対外関係史研究である《The International Relations of the Chinese Empire》(1巻,1910。2・3巻,1918),イギリス東インド会社の中国貿易に関する基礎的研究である《The Chronicles of the East India Company Trading to China1635-1834》(1~4巻,1926。5巻,1929)がある。
執筆者:井上 裕正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(磯野直秀)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1838.6.18~1925.12.20
明治初期に来日したアメリカ人動物学者。メーン州ポートランド生れ。ハーバード大学卒。1877年(明治10)日本に多い腕足類を研究するため来日し,大森貝塚を発見・調査。翌年再来日し東京大学初代の生物学教師となる。大学の講義ばかりでなく,各地の講演会で進化論を紹介。79年帰国,セーラムのピーボディ博物館館長となる。82年再々来日。動物学の研究に多大な貢献をし,自筆の挿絵を多くつけた「日本その日その日」などにより日本文化を紹介した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
1855~1934
アメリカの近世中国史学者。1874年ハーバード大学を卒業し,1909年まで中国海関に勤務。以後中国の外交・貿易・制度史の研究に専念し,多くの優れた業績を残した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…cadeauは元来〈飾り文字〉の意で,食事の折に室内楽の演奏を提供することをも指していることからわかるように,〈お返し〉の拘束力の少ない〈気軽な贈物〉である。またM.モースは,ゲルマン語のGiftが贈物を示すと同時に毒の意味を含むことと,ゲルマン古伝説に不運の因となる贈物というテーマがよく見られることを指摘している。 ヨーロッパの王侯貴族の重要な徳目は〈気前のよさ〉であって贈物には馬,武具,装身具,衣服,食品といった序列があった。…
…また儀礼の面の強い贈与行為が,この物に含まれる霊ゆえに,贈与,うけとり,返礼という一連の連鎖,贈答となり,呪力をもつ物品が交換という形式をつくりだす,ともされる。これらはM.モースによって論じられている。(4)宗教説 この説は牛が貨幣となっていたり,牛をかたどった鋳貨が貨幣となっていたことと,牛を聖なる動物とみたてる宗教が古代ギリシア,インドに存在することとに着目したものである。…
…羅列的に並べてみると,いかにもその目的には一貫性がないかにみえるが,いずれも状態変更や場所的移動あるいは時間的推移のなかでの状況変化の境において行われ,この点では,その境界状況で状態変更を確認する儀礼として,ファン・ヘネップやV.ターナーなどが一般化した通過儀礼の機能と重なる。 フランスの人類学者M.モースは犠牲の一般的パターンを次のように示した。儀礼とは,人と象徴的意味を与えられたものとが,定められた手順に従って,一定の場所で時系列にそって関係しあう,一連のできごとの連鎖とみることができる。…
…人類学者B.K.マリノフスキーは,西太平洋メラネシアのトロブリアンド諸島での原住民生活の多岐にわたる実地調査をもとに《西太平洋の遠洋航海者》(1922)を著し,文化が異なれば経済活動も異なった制度,習慣,法律のもとで異なった動機に基づいて営まれることを示し,異文化の経済生活を説明するのに経済学が想定する最少努力の原理を担う〈原始的経済人〉は〈想像上の役立たずの生きもの〉だと論じた。ほぼ時を同じくして社会人類学を主唱するM.モースが,未開社会における贈与に関する民族誌資料を広く渉猟し,《贈与論》(1925)を著した。贈与という行為が,与え,受け取り,返済するという一連の行為のつながりとして成り立っており,これらの連鎖は,経済はもちろん,道徳,宗教,法などほかの社会関係が絡みあった,まとまりのある一つの事象になっていることを明らかにした(贈物)。…
…このような行為を動機づける観念,あるいはこの種の観念によって基礎づけられた社会関係を互酬と呼ぶ。M.モースは古代社会,未開社会にみられる,食物,財産,女性,土地,奉仕,労働,儀礼等,さまざまのものが贈与され,返礼される互酬的システムを義務的贈答制,あるいは全体的給付関係と名づけ,これを社会的紐帯の根幹とみた。またマリノフスキーはトロブリアンド諸島の調査によって,その部族生活のすべてにギブ・アンド・テークの関係が浸透していて,すべての儀礼や法的・慣習的行為は贈与と返礼を伴って行われると報告し,互酬のうちに法の基本原理を見いだしている。…
…もう一つは民族文化に対する世界文化ともいうべきもので,文化がたいていの場合民族や言語や伝統と結びついていて,国境を越えていくことがないのに対し,文明は民族や国家を超えて普及していくものをさす。このように国境を越えて広まるものをM.モースは〈文明事象fait de civilisation〉と呼んでいる。 現代文明は,科学技術の生み出した機械,コンピューター・システムが人間生活のあらゆる領域に浸透し,そこに広範かつ濃密なネットワークをつくりあげ,〈技術環境〉とでも名づけられうる新しい人間環境をつくりあげていることで,過去の文明とは区別される。…
…したがって全財産をかけてポトラッチを行うこともあり,また,贈物の贈与ではなく,相手の目の前でみずからの毛皮や毛布,油入りの樽,家屋などを焼却したり,貴重な銅のプレートなどをたたきこわしたり,ときにはみずからの奴隷を殺したりすることによって,気まえのよさを誇示することもあった。 フランスの社会学者M.モースはポトラッチの本質を,贈与する義務,受け取る義務,返礼の義務,の三つの義務と規定した。社会的地位を保つためには,来客に対し贈物を贈与しなければならず,来客はその贈物を受け取り,返礼しなければならない。…
…まず鉱物学者ワイスC.S.Weissは結晶の異方性に注目し,晶帯および結晶軸の概念を用いて結晶形態の研究を行ったが,斜交軸をとることに考え及ばなかったために,一部の現象の解釈に混乱が残った。斜交軸をとる必要がある場合もあることは,間もなく鉱物学者モースF.Mohsが指摘し,彼の弟子ナウマンC.F.Naumannがその必要性を確立した。1830年に鉱物学者ヘッセルJ.F.C.Hesselが32種の結晶学的点群の導出に成功したが,この重要な発見はその後60年もの長い間世に知られないままであった。…
…まず鉱物学者ワイスC.S.Weissは結晶の異方性に注目し,晶帯および結晶軸の概念を用いて結晶形態の研究を行ったが,斜交軸をとることに考え及ばなかったために,一部の現象の解釈に混乱が残った。斜交軸をとる必要がある場合もあることは,間もなく鉱物学者モースF.Mohsが指摘し,彼の弟子ナウマンC.F.Naumannがその必要性を確立した。1830年に鉱物学者ヘッセルJ.F.C.Hesselが32種の結晶学的点群の導出に成功したが,この重要な発見はその後60年もの長い間世に知られないままであった。…
…東京大学理学部動物学科を卒業(1882)。学生のころ初代の動物学教授となったアメリカのE.S.モースの影響を受け,進化論に関心を示す。1883年モースの講義をまとめた《動物進化論》を著したのを手始めに進化論の啓蒙活動を行う。…
…60年代の後半からアメリカのビンフォードL.R.Binfordらが提唱している〈新しい考古学(ニュー・アーケオロジーnew archaeology)〉も,この二つの伝統の上に,一般システム論や統計学の原理を導入したものである。 日本における科学的な考古学は,1877年,アメリカ人E.S.モースが大森貝塚の発掘を行ったときに始まるとされている。86年,坪井正五郎らは東京大学理学部を中心として東京人類学会を結成,95年,三宅米吉らが帝室博物館を中心として考古学会を結成,この二つの組織が明治期の日本考古学を推進した。…
…
【日本の進化論】
江戸時代末期近く石門心学者の鎌田柳泓(りゆうおう)(1754‐1821)が著した《心学奥の桟(かけはし)》(1816稿,1822刊)に進化の観念がのべられており,それは蘭学書よりの知識にちがいないが,詳細は不明とされる。明治時代に入り,松森胤保(たねやす)《求理私言》(1875)に進化のことが書かれたが,進化論の最初の体系的な紹介は1878年に東京大学動物学教授として来日したアメリカ人E.S.モースによってなされた。その講義はのち石川千代松訳《動物進化論》(1883)として刊行された。…
…
[電信の始まり]
電気通信の実用化は電信から始まっている。1837年にニューヨーク市立大学の美術教授であった画家のS.F.B.モースが実用的な電信機を発明し,文字や数字を符号化して伝達する方式を考案した。これが電気通信の事実上の幕あけといってもよいであろう。…
…しかし,その労働集約的特性ゆえに,電話,ファクシミリ,電子メールといった他の近代的なメディアに比較してコストが割高となり,日本のみならずほとんどの先進工業国で電報の経営状態が悪化している。 電報は1845年,アメリカの画家であり,モールス符号の発明者であったS.F.B.モースによって発明された。モールス符号による電報の事業化は,その優れた簡便さによって,しだいに軌道に乗ることとなった。…
※「モース」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新