イエズス会士。イタリアに生まれ,イエズス会(中国では耶蘇会)に入り,同会のローマ学院でC.クラビウスから数学,天文学を学んだ。東方伝道を志し,明代,1582年(万暦10)に澳門(マカオ)に到着した。中国語を学び,利瑪竇(りまとう)と名乗る。ルッジェーリM.Ruggieri(羅明堅)の先導により中国大陸に入ることに成功し,やがて明末におけるキリスト教布教の先駆者となった。広東省肇慶(ちようけい)では月食を利用してこの地の経度測定に成功した。肇慶より北上して江南地方に移ったが,その科学知識によって中国人の尊敬を集め,熱心な信徒を獲得した。また世界図を幾種類か描いたが,その一つは1602年に李之藻の手で《坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)》として刊行された。1601年1月に北京に入り,万暦帝に拝謁し,北京在住と中国全土におけるキリスト教布教の許可を得ることに成功し,これ以後多くのイエズス会宣教師が渡来した。リッチはキリスト教布教にヨーロッパ科学の紹介が必須であると考え,後続の宣教師にはすぐれた科学知識の持主が多かった。こうした科学知識の紹介に重点を置くことは,これ以後イエズス会の方針となった。中国側では大臣に昇った徐光啓,イエズス会側ではリッチが中心となり,ユークリッドの《ストイケイア》をはじめ,ヨーロッパの天文学,数学などの書物の漢訳が盛んに行われた。これらの多くは1602年に李之藻が編集した《天学初函》に収められている。その死にあたり万暦帝より賜った墓地が北京市内に残っている。
執筆者:藪内 清
イタリアのベネチア派の画家。ベルーノに生まれる。ベネチアで教育をうけP.ベロネーゼの強い影響をうける。ローマに赴きピエトロ・ダ・コルトナの激しいバロック表現に魅せられる。その後,ミラノ,モデナ,ベルガモ等イタリア各地を旅し,さまざまの画家の表現法に接する。ウィーンにも旅し,1712-16年には甥のマルコMarco Sebastiano(1676-1730)とともにロンドンに滞在,バーリントン・ハウスの装飾を手がける(未完)。16年にはパリにも立ちより,アカデミー会員となる。その後はベネチアにとどまる。ベロネーゼ伝来の華やかな色彩を好み,ロココ様式の求める装飾的表現にすぐれ,リッチの世界はG.B.ティエポロに継承された。
執筆者:木村 三郎
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アメリカのバイオリン奏者。メニューイン(1916―1999)と同じくルイス・パーシンガーに師事して10歳で生地サンフランシスコでデビュー、翌年ニューヨーク、1932年にはヨーロッパ演奏旅行に成功して神童として評判になった。技巧家で、パガニーニをはじめとする19世紀の難曲をもっとも得意とする。1960年(昭和35)初来日。1970年代に入ってからはインディアナ大学、ジュリアード音楽学校で、さらに1982~1987年ミシガン大学の、1989年以後ザルツブルク・モーツァルテウム音楽学校の教授として後進の指導にあたった。
[岩井宏之]
「マテオ・リッチ」のページをご覧ください。
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[中国における亜細亜]
さて2000年余にわたって意味を変えてきた,このアジアという単語が,中国,日本に伝来し,しだいに定着していく過程はどのようなものであったのか。漢字によって〈亜細亜〉と表記されたのは,現存する地図では,マテオ・リッチ(利瑪竇)の《坤輿(こんよ)万国全図》(1602)が最初である。〈亜細亜〉の記載場所は地図の中のウラルあたりであり,ほかにも〈大明国〉などの記載があって,このほうが字が大きいから,この〈亜細亜〉が現在の用法,すなわち,〈亜細亜〉が大概念で,その中に〈大明国〉その他が含まれるという考え方は,この地図と説明を読んだ当時の漢人に,明白な概念として伝わった保証はない。…
…また《日葡辞書》の編纂や活版印刷術の導入のように,イエズス会がもたらした文化的功績は大きい。キリシタン 中国では,リッチが1583年に広東に布教活動の第一歩をしるした。教団は皇帝や中央,地方の士大夫など主として当時の指導層と接触し,彼らの改宗を心がけた。…
…〈幾何〉とは中国語で量的な問いを意味する疑問詞である。明末にイエズス会士マテオ・リッチ(漢名,利瑪竇)が来朝し,その指導により徐光啓が1606年(万暦34)にその前半6巻を漢訳した。後半の9巻は,清末の1856年(咸豊6)にイギリス人宣教師ワイリーAlexander Wylie(漢名,偉烈亜力)が李善蘭の協力を得て訳出した。…
…この碑は,明の天啓年間(1621‐27)に偶然に発見されてから内外の注目をひき,今は西安の陝西省博物館内の碑林に陳列されているが,その複製は京都大学文学部陳列館と高野山にある。なお西方からの伝教士ガブリエルが玄宗の恩寵をえて布教に便せんと奇器異巧を造って献上し,非難されているが,これなど,明末のイエズス会宣教師マテオ・リッチらが天文儀器や時計などを朝廷に献上したことの先駆といえよう。唐の武宗が845年(会昌5)の会昌の廃仏(三武一宗の法難)の際,外来の宗教をも一律に禁断したので,景教も迫害されることになり,急速に衰え,宋初には景教徒の姿は中国本土では見かけられないまでになった。…
… ほんとうの意味で東西両洋の地図学が交流を見せるのは16世紀後半以降であり,ポルトガルの史家J.deバーロスの手もとには1552年以前に地図を載せる便覧的な中国地誌が,60年ころには中国全図がもたらされている。ヨーロッパ地図学の中国社会への紹介は,82年に中国に来たマテオ・リッチ(利瑪竇(りまとう))により先鞭がつけられたが,彼はたびたび漢字表記の地球儀や世界地図を作った。砂漠を散点記号で地図上に表現することは,リッチが中国での流儀をまねてからヨーロッパに広まったものである。…
…唐代のインド数学,元代のイスラム数学の場合とちがって,ヨーロッパ数学はかなり根を下ろしたが,アラビア数字はもちろん,数式などもヨーロッパ風のものは採用されずに終わった。1582年(万暦10)に来たマテオ・リッチ(漢名,利瑪竇)は開明的な高官徐光啓の助力を得て,ユークリッド幾何学書《ストイケイア》の前半の6巻を《幾何原本》として漢訳し,論証的幾何学を中国に紹介した。なお後半の9巻は清末に漢訳された。…
…全羅道光州の人。1630年(仁祖8)に陳奏使として明に使いし,翌年マテオ・リッチの《天文書》《遠鏡書》《千里鏡説》《職方外記》《西洋国風俗記》等の漢訳西洋書や火砲,千里鏡(望遠鏡),自鳴鐘(時計)等の器機を携えて帰国した。これは一行の訳官李栄後がイタリア人ロドリゲス(陸若漢)に西洋暦法の推算法をたずねた〈問答書簡〉とともに,西洋文物・科学の朝鮮移入の最初の記録となった。…
…神の訳語として〈天主〉を用いて,天主教,天主公教と称した。中国に渡来したキリスト教としては,唐代の景教,元代の也里可温教などがあるが,組織的に伝道活動を展開し,中国の宗教界,学術界に大きな影響を与えたのは,イエズス会のマテオ・リッチ(中国名は利瑪竇(りまとう))が1582年(万暦10)に来た明代末期以後のことである。 リッチは,鎖国体制をしき中華意識の強い中国で多大の困難にあいながらも中国の言語,習慣,儒教の学問などを学習して,中国知識人の信頼をかちえ,さらに西欧ルネサンスの自然科学の知識を活用して,尊敬をかちえていった。…
…中国,明末・清初,カトリック教会が中国で布教するに際し,中国人信徒にどこまで中国伝統の典礼を許容しうるかという点をめぐって引き起こされた論争。マテオ・リッチの死(1610)前後からイエズス会解散までの160余年にわたる大論争であった。カトリックの東洋布教に先鞭をつけたのはイエズス会であるが,軍隊式に組織されたこの会は,布教に関してはきわめて現実的な方法を採用していた。…
…巻頭に〈未だ他見を許さず〉と記され,公刊されなかった著述。漢名を利瑪竇(りまとう)と名のったマテオ・リッチの《畸人十編》その他,漢訳されたキリスト教文献の読書ノートである。篤胤はここから得たカトリックの教義を換骨奪胎し,自己の神道的世界観に取り入れた幽冥信仰と来世観とを結合して体系化している。…
※「リッチ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
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