リッチ
Rich, Richard, 1st Baron Rich
[生]1496頃.ロンドン
[没]1567.6.12. エセックス,ロックフォード
イギリスの法律家,政治家。 T.モアを陥れた無節操な出世主義者として悪名高い。弁護士,下院議員を経て,1533年法務次官になり,モアや J.フィッシャーを卑劣な作為的証拠と偽証によって有罪に追込んだ。 36年下院議長。 T.クロムウェルを助けて修道院解散を遂行したが,クロムウェルが不評になると彼を見捨てて保身をはかり,40年枢密顧問官,47年男爵,48~51年大法官。その間ノーサンバーランド公に味方してサマセット公の失脚 (1551) に協力。 53年エドワード6世死後 J.グレーを支持したが,形勢の不利をみてただちにメアリー1世支持に転じ,彼女の治世には新教徒迫害に精出した。
リッチ
Rich, John
[生]1682頃
[没]1761.11.26. ロンドン
イギリスの劇場経営者,俳優。ドルアリー・レーン劇場とリンカーンズ・イン・フィールド劇場の経営者クリストファー・リッチ (?~1714) の子。父の没後両劇場を経営,さらに 1732年にはコベントガーデン劇場を開設した。また,フランスから入ってきたパントマイムを普及させ,みずからハーレクィンを演じ,イギリスのパントマイムの父と称された。
リッチ
Rich, Barnabe
[生]1540
[没]1617.11.10. ダブリン
イギリスの軍人,作家。 J.リリーばりの文体でかなりの量の小冊子や物語集を発表。なかでもシェークスピアの『十二夜』に素材を提供した「アポロニオスとシラ」を含む伝奇物語集『軍人生活への決別』 Riche his Farewell to the Militarie Profession (1581) が有名。
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リッチ
〘形動〙 (rich)
① 裕福であるさま。金銭的・物質的に豊かなさま。金持であるさま。
※当世書生気質(1885‐86)〈坪内逍遙〉三「君の家だって。大してリツチ〔金満(かねもち)〕といふじゃアなし」
② 内容が豊富で充実しているさま。また、飲
食物などが、こくのあるさま。
※ロッパ食談(1955)〈古川緑波〉甘話休題II「
ガトーの味は、リッチな感じで、贅沢なものだった」
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リッチ Ricci, Matteo
1552-1610 イタリアの宣教師。
イエズス会。ゴア,マカオをへて1601年北京にはいる。漢文教書「天主実義」や世界地図「坤輿(こんよ)万国全図」などの出版を通じて布教をはかった。これらの書は日本にもつたわり,宗教,思想,地理,天文・暦学などに影響をあたえた。1610年5月11日死去。58歳。中国名は利瑪竇(り-まとう)。
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リッチ(rich)
[形動]
1 金銭があって物質的に恵まれているさま。裕福なさま。「リッチな生活」
2 料理などの内容が豊富で、充実しているさま。食物、料理の味わいや香りが豊かで濃いさま。「リッチな味のワイン」
[類語]裕福・富貴・富裕・巨万・潤沢・有産・富強・豊か
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リッチ【Matteo Ricci】
1552‐1610
イエズス会士。イタリアに生まれ,イエズス会(中国では耶蘇会)に入り,同会のローマ学院でC.クラビウスから数学,天文学を学んだ。東方伝道を志し,明代,1582年(万暦10)に澳門(マカオ)に到着した。中国語を学び,利瑪竇(りまとう)と名乗る。ルッジェーリM.Ruggieri(羅明堅)の先導により中国大陸に入ることに成功し,やがて明末におけるキリスト教布教の先駆者となった。広東省肇慶(ちようけい)では月食を利用してこの地の経度測定に成功した。
リッチ【Sebastiano Ricci】
1659‐1734
イタリアのベネチア派の画家。ベルーノに生まれる。ベネチアで教育をうけP.ベロネーゼの強い影響をうける。ローマに赴きピエトロ・ダ・コルトナの激しいバロック表現に魅せられる。その後,ミラノ,モデナ,ベルガモ等イタリア各地を旅し,さまざまの画家の表現法に接する。ウィーンにも旅し,1712‐16年には甥のマルコMarco Sebastiano(1676‐1730)とともにロンドンに滞在,バーリントン・ハウスの装飾を手がける(未完)。
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世界大百科事典内のリッチの言及
【アジア】より
…
[中国における亜細亜]
さて2000年余にわたって意味を変えてきた,このアジアという単語が,中国,日本に伝来し,しだいに定着していく過程はどのようなものであったのか。漢字によって〈亜細亜〉と表記されたのは,現存する地図では,マテオ・リッチ(利瑪竇)の《坤輿(こんよ)万国全図》(1602)が最初である。〈亜細亜〉の記載場所は地図の中のウラルあたりであり,ほかにも〈大明国〉などの記載があって,このほうが字が大きいから,この〈亜細亜〉が現在の用法,すなわち,〈亜細亜〉が大概念で,その中に〈大明国〉その他が含まれるという考え方は,この地図と説明を読んだ当時の漢人に,明白な概念として伝わった保証はない。…
【イエズス会】より
…また《日葡辞書》の編纂や活版印刷術の導入のように,イエズス会がもたらした文化的功績は大きい。キリシタン 中国では,リッチが1583年に広東に布教活動の第一歩をしるした。教団は皇帝や中央,地方の士大夫など主として当時の指導層と接触し,彼らの改宗を心がけた。…
【幾何原本】より
…〈幾何〉とは中国語で量的な問いを意味する疑問詞である。明末にイエズス会士マテオ・リッチ(漢名,利瑪竇)が来朝し,その指導により徐光啓が1606年(万暦34)にその前半6巻を漢訳した。後半の9巻は,清末の1856年(咸豊6)にイギリス人宣教師ワイリーAlexander Wylie(漢名,偉烈亜力)が李善蘭の協力を得て訳出した。…
【景教】より
…この碑は,明の天啓年間(1621‐27)に偶然に発見されてから内外の注目をひき,今は西安の陝西省博物館内の碑林に陳列されているが,その複製は京都大学文学部陳列館と高野山にある。なお西方からの伝教士ガブリエルが玄宗の恩寵をえて布教に便せんと奇器異巧を造って献上し,非難されているが,これなど,明末のイエズス会宣教師マテオ・リッチらが天文儀器や時計などを朝廷に献上したことの先駆といえよう。唐の武宗が845年(会昌5)の会昌の廃仏(三武一宗の法難)の際,外来の宗教をも一律に禁断したので,景教も迫害されることになり,急速に衰え,宋初には景教徒の姿は中国本土では見かけられないまでになった。…
【地図】より
… ほんとうの意味で東西両洋の地図学が交流を見せるのは16世紀後半以降であり,ポルトガルの史家J.deバーロスの手もとには1552年以前に地図を載せる便覧的な中国地誌が,60年ころには中国全図がもたらされている。ヨーロッパ地図学の中国社会への紹介は,82年に中国に来たマテオ・リッチ(利瑪竇(りまとう))により先鞭がつけられたが,彼はたびたび漢字表記の地球儀や世界地図を作った。砂漠を散点記号で地図上に表現することは,リッチが中国での流儀をまねてからヨーロッパに広まったものである。…
【中国数学】より
…唐代のインド数学,元代のイスラム数学の場合とちがって,ヨーロッパ数学はかなり根を下ろしたが,アラビア数字はもちろん,数式などもヨーロッパ風のものは採用されずに終わった。1582年(万暦10)に来たマテオ・リッチ(漢名,利瑪竇)は開明的な高官徐光啓の助力を得て,ユークリッド幾何学書《ストイケイア》の前半の6巻を《幾何原本》として漢訳し,論証的幾何学を中国に紹介した。なお後半の9巻は清末に漢訳された。…
【鄭斗源】より
…全羅道光州の人。1630年(仁祖8)に陳奏使として明に使いし,翌年マテオ・リッチの《天文書》《遠鏡書》《千里鏡説》《職方外記》《西洋国風俗記》等の漢訳西洋書や火砲,千里鏡(望遠鏡),自鳴鐘(時計)等の器機を携えて帰国した。これは一行の訳官李栄後がイタリア人ロドリゲス(陸若漢)に西洋暦法の推算法をたずねた〈問答書簡〉とともに,西洋文物・科学の朝鮮移入の最初の記録となった。…
【天主教】より
…神の訳語として〈天主〉を用いて,天主教,天主公教と称した。中国に渡来したキリスト教としては,唐代の景教,元代の也里可温教などがあるが,組織的に伝道活動を展開し,中国の宗教界,学術界に大きな影響を与えたのは,イエズス会のマテオ・リッチ(中国名は利瑪竇(りまとう))が1582年(万暦10)に来た明代末期以後のことである。 リッチは,鎖国体制をしき中華意識の強い中国で多大の困難にあいながらも中国の言語,習慣,儒教の学問などを学習して,中国知識人の信頼をかちえ,さらに西欧ルネサンスの自然科学の知識を活用して,尊敬をかちえていった。…
【典礼問題】より
…中国,明末・清初,カトリック教会が中国で布教するに際し,中国人信徒にどこまで中国伝統の典礼を許容しうるかという点をめぐって引き起こされた論争。マテオ・リッチの死(1610)前後からイエズス会解散までの160余年にわたる大論争であった。カトリックの東洋布教に先鞭をつけたのはイエズス会であるが,軍隊式に組織されたこの会は,布教に関してはきわめて現実的な方法を採用していた。…
【本教外篇】より
…巻頭に〈未だ他見を許さず〉と記され,公刊されなかった著述。漢名を利瑪竇(りまとう)と名のったマテオ・リッチの《畸人十編》その他,漢訳されたキリスト教文献の読書ノートである。篤胤はここから得たカトリックの教義を換骨奪胎し,自己の神道的世界観に取り入れた幽冥信仰と来世観とを結合して体系化している。…
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