各個人に頭割りに課す税をいう。ヨーロッパ諸語ではpoll tax(英語),Kopfzins(ドイツ語),capitation(フランス語)といい,いずれも〈頭〉を意味する語を含んでいる。人頭税に相当するものは古代ギリシアではメトイコイ(在留外人)から,またローマではコロヌスなどから徴収された(カピタティオ)。中世のヨーロッパでの人頭税は,領主が各領民に課し,その負担は隷属を示す身分的標識であった。しかし中国における人頭税は,身分税としての性格はなく,文字どおり各個人を対象とする頭割り税として理解できる。人頭税の内容規定を幅広くとれば,現代,前近代を問わず世界に多様に存在すると考えられるが,本項では近代以前におけるヨーロッパ,イスラム社会,中国,沖縄の人頭税について記述する。
中世には,特定領主への人身的絆(きずな)を確認するために,個々の領民から労働,現物,ないし貨幣の形で人頭税が徴収されることがあったが,額は比較的少額であった。中世初期には,領主制は一般に個別人身的支配を行っており,領主と密着して生活する領民について人頭税の徴収の形でそれを確認する必要はなく,徴収はまれであった。中世盛期に個別人身的支配が後退すると,土地所有による支配や裁判権による領域支配と,人身的支配との区別が明確となり,領民の流動性が強まるに応じて,日常生活で具体的な姿を取りにくい後者は時効によって消滅する可能性が大きくなった。これを防ぐため,領主は世襲的に支配する領民,ことに遠隔居住者のおのおのから,年々一定額の負担を徴して,人身的絆を確認することとなった。人頭税支払者は,人身的支配に服する層として区別されて非自由人=農奴とされることも多く,通例の人頭税額4デナリウスが,非自由身分の象徴となりえたほどである。他方,世俗領主の支配からの保護を求めて教会に托身した多くの者は,教会との人身的絆を誇示すべく,祭壇への灯明料などの形で人頭税を支払い,これが超越的権威との結合に由来する相対的自由の象徴とされる場合もあった。こうした二つの意味での人頭税は,領主制が人身的絆の側面をもつ限り存在するが,これとは別に,中世末期から近世にかけて中央集権を進めた政府によって,個々の臣民から税が徴収されることがあった。これも,人頭税と呼ばれることが多い。
執筆者:森本 芳樹
イスラム法で人頭税を意味する用語はジズヤで,それはイスラムの主権のもとにある非イスラム教徒ジンミーの,自由身分で心身健全な成年男子のみに課せられ,貨幣で徴収された。行政用語としてはジズヤのほかにジャーリヤjāliya(原義は流亡者),その複数形ジャワーリーjawālīが,主としてエジプトで後世まで用いられた。ジズヤはコーラン9章29節に啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)から徴収すべきものとされ,預言者ムハンマドはアラビア半島で啓典の民からジズヤを徴収したが,それは1人当り毎年1ディーナール(金貨1枚)の人頭税であった。コーランの前掲個所に,〈彼らがへり下って手からジズヤを支払うまで戦え〉とあるように,それはイスラムの支配に対する啓典の民の服従の象徴で,ジズヤのこのような性格は,のちのイスラム法においても継承された。ムハンマド没後の大征服時代に,アラブは征服地の住民から租税を徴収しはじめたが,最初それは都市においては人頭税の総額を,農村にあっては人頭税の総額に地租の総額を加えたものを一括徴収するもので,住民の宗教の違いはなんら考慮されなかった。ウマイヤ朝カリフのウマル2世(在位717-720)が征服地の住民のイスラムへの改宗を奨励するに及び,ジンミーとイスラムに改宗したマワーリーとの租税負担に差を設ける必要が生じ,人頭税はジンミーだけに課することとして,それがイスラム法の規定となった。しかしムガル帝国の皇帝アクバル(在位1556-1605)のように,ジンミーへの人頭税を廃止した君主もある。
執筆者:嶋田 襄平
旧中国の税制は,土地税と専売を2本の柱としたが,古代・中世には人頭税も重要な役割をになった。すなわち秦・漢時代の算賦・口賦と北朝から隋・唐に行われた租・調の制がそれに当たる。春秋戦国時代を通じて発達した軍役の割当てから物納となった賦が,秦・漢統一帝国では階層を問わず全住民に課されるようになった。前漢の前203年(高祖4)8月,〈初めて算賦を為す〉と史に伝え,毎年度末の算人(人口調査)の際に,1人当り1算(120銭)を徴収するのが定制であった。課税対象は15~56歳の成人男女(一説では成丁)であり,なお7~14歳の少年男女からは23銭を徴収し,これを口賦と呼んだ。なお商人と奴隷は倍額の算銭を課された。算賦は国家財政を管掌する大司農に収納され,武器や車馬の整備等に供用されるたてまえであった。後漢後期に国家権力の衰退と貨幣流通の縮小のため,算賦の制も漸次行われなくなり,三国時代からは実物納の戸調に変わった。貴族制が栄えた六朝時代には,丁口把握を実現しえず,戸を対象とし戸等を勘案して穀物・布帛を徴する戸調を課税の主体とせざるをえなかったのである(戸調式)。
しかし5世紀末北魏の鮮卑政権下で中央権力の強化を推進し,均田・三長制と併行して造籍徹底の下で,丁男・丁妻を対象に奴婢も含め租・調を賦課する制度が採用された。当代も貨幣に乏しく,穀物(租)・絹と綿(まわた)あるいは麻布と麻糸(調)が徴収された。隋代に戸口充実などの理由から,丁妻と奴婢が賦課対象より除かれ,21~59歳の丁男と18歳以上の中男に対象がしぼられ唐に及んだ。唐代には中央の力役も原則的に布帛(庸)で徴収されるようになり,租庸調が〈課〉として公課の中心となる。中唐に律令制支配の弛緩,逃戸・客戸の増大等に対応して租庸調は行われがたくなり,780年(建中1)両税法の発布により人頭課税はその役割をほぼ終え,以降宋代の身丁銭米や明・清の丁税など,徭役の代納的賦課が一部に残るにとどまった。
執筆者:池田 温
1902年まで沖縄にもこの税制度が存在した。起源は不明だが,15,16世紀に〈ツカカナエ〉と称された租税はすでに人頭に割り付けられていたと推定されるので,中世(古琉球)にさかのぼると見る意見が有力である。島津侵入事件(1609)後の近世に入ると人口調査が実施され,年齢による賦課制度に変化した。すなわち,かぞえ15~50歳の男女を〈正頭(しようず)〉,それ以外の男女および身体障害者を〈頭迦(ずはずれ)〉と称し,〈正頭〉をもって賦課対象とする制度となった。〈正頭〉はさらに上(21~40歳),中(41~45歳),下(46~50歳),下々(15~20歳)の4等級に区分され,これに各村の生産力水準を上・中・下の3等級に区分する〈村位(そんい)〉を加味して1人当りの税負担を決定した。このような賦課方法を〈頭懸(ずがけ)〉〈人頭に割符(わつぷ)する〉などと呼んでいた。納入物は米・麦・粟などの穀類が主体をなすが,これとならんで労働の使役も人頭に賦課された(夫遣(ぶづかい)と呼ばれた)。沖縄全域で実施されたが,とくに宮古・八重山でこの税制度が典型的な形で現れた。その理由は,この両地域が米・麦・粟などのかわりに反布(たんぷ)を納めることを義務づけられていたからである。1人当りの租税負担額に応じた反布を織らせるためにきびしい監督体制が設定されていたが,そのとき生産された布が今に伝わる〈宮古上布〉〈八重山上布〉である。過酷な税制度であったため各地に悲劇的なエピソードが伝わっているが,中でも宮古の〈人頭税石〉,与那国(よなぐに)島の〈久部良割(くぶらばり)〉は有名である。前者はその石の高さになると人頭税が課されたと伝え,後者は税負担に耐えかねて島中の妊婦に割れ目をとばせ人口調節を行ったと伝える。1879年の琉球処分で沖縄県が設置されて以後もなおこの税制度は温存されたが,宮古島人頭税廃止運動や土地整理などを契機に廃止されることとなり,1903年からは近代的税制度に切り換えられたため消滅した。
執筆者:高良 倉吉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
国家または荘園(しょうえん)領主が、支配下の全住民(とくに戸主)あるいは特定身分の隷属民に課する税、もしくは地代。ドイツでは10世紀前後、大教会領主の荘園で、領主直属の奴隷のなかに、人頭税(ケンススcensus)を納めて賦役を免除された者がおり、人頭税納入民(ケンスアレスcensuales)とよばれた。他方フランス北部の人頭税納入民は、直営地で賦役に服する事実上の奴隷であった。その後、両者はともに一般荘園農民に同化され、ドイツでは一部が市民に上昇した。
フランスでは11世紀以後、大部分の農民に人頭税(シュバージュchevage)が課された。それは本来少額の戸別地代であったが、ときには各荘園の農民全体に課された額を、農民間で保有地の大小に応じて割り当てた。この人頭税はしばしば農奴身分の象徴とされたので、農民の抵抗が強まり、ほぼ13世紀までに廃止された。これを農奴解放とよぶこともあるが、大領主が農民反乱の予防のため行った有償廃棄も多く、実は農奴制の部分的緩和にすぎなかった。なお、中国の人頭税については「租庸調・雑徭」などの項を、イスラムのそれについては「ジズヤ」の項を参照されたい。
[橡川一朗]
1902年(明治35)まで沖縄に存在した租税賦課制度。起源は不明であるが、古琉球(りゅうきゅう)(中世)にさかのぼるとみる見解が有力である。近世では、まず村位を定め、人口調査に基づいて賦課対象となる年齢により、上(じょう)(21~40歳)、中(ちゅう)(41~45歳)、下(げ)(46~50歳)、下々(げげ)(15~20歳)の区分を行い、それぞれに定められた割合に応じて頭割りに租税を課した。沖縄全域で施行されたが、近世ではとくに宮古(みやこ)、八重山(やえやま)において、より直接的な形で施行されていた。その理由は、宮古、八重山に対しては米・粟(あわ)をもって納めるべき租税の一部を反布にかえて納めるよう義務づけていたためである。上納する反布はおもに女性に対して頭割りに課せられ、品質検査も厳しく、さまざまな悲話を生んだ。現在に伝わる宮古上布(じょうふ)や八重山上布、久米島紬(くめじまつむぎ)はその遺産である。琉球処分(1879)後もこの租税制度は温存されたが、宮古島人頭税廃止運動(1893~94)などの高揚により廃止されることとなり、1903年からは近代的税制度に切り替えられた。
[高良倉吉]
①〔ヨーロッパ〕poll tax[英],Kopfsteuer(Kopfzins)[ドイツ],capitation[フランス]原則として各個人に均等に課す租税であるが,場合によっては,年齢,身分,財産の多寡に応じて差別を設けることがある。古代や中世では人頭税は通常,隷属身分にのみ課された。イギリスでは1377年,フランスでは1695年,プロイセンでは1690~1710年,ロシアでは1718年に,それぞれ国王権力により創設されたが,近代社会になると廃止された。
③〔中国〕中国では春秋時代の賦(ふ)以来,漢の算賦・口賦,北朝,隋唐の租庸調など,唐代までは人頭税が税の主流であった。五代以後も地方により身丁銭があり,明の一条鞭法(いちじょうべんぽう)の丁銀(ていぎん)も人頭税であったが,清代これが地銀に合併されて地丁銀が成立し,人頭税は消滅した。
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「にんとうぜい」とも。首里王府が近世期において宮古・八重山地方の住民に課した人頭割の税。住民の頭数に対する単純均等制ではなく,年齢と性別を重要な基準にした賦課方式であった。1636年宮古・八重山の人口調査が行われ,翌年から従前の税制を改めて人頭税を実施した。その後59年までに4回の人口調査が行われ,村の等級と年齢区分に応じて定額人頭税が課された。以来,1903年(明治36)1月に廃止されるまで続いた。近世期における沖縄本島地方の地割制も人頭割的な租税の賦課方法であり,農民の負担も重かったが,人頭税地域,とりわけ宮古・八重山住民のほうがより過酷な負担を強いられた。
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…西表島と周辺海域は西表国立公園に指定されている。【田里 友哲】
【近代の歴史】
[人頭税廃止運動]
ここでは琉球処分(1872‐81)以後について述べる。それ以前については〈琉球〉の項を参照されたい。…
…スペイン植民地下のフィリピンで施行された人頭税制度。スペイン政庁はトリブート,ポーロpolo(強制労働)の二つの制度を用いて,フィリピン住民から過酷な収奪を行った。…
※「人頭税」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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