元禄時代(読み)ゲンロクジダイ

デジタル大辞泉 「元禄時代」の意味・読み・例文・類語

げんろく‐じだい【元禄時代】

江戸中期、5代将軍徳川綱吉の時代。文治政治が展開し、町人の勢力が台頭して社会は活気を呈し、上方を中心に独特の文化が生まれた。

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精選版 日本国語大辞典 「元禄時代」の意味・読み・例文・類語

げんろく‐じだい【元祿時代】

  1. 江戸中期、五代将軍徳川綱吉の時代。元祿年間を中心にその前後約三〇年間をいう。幕府の権威の最も盛んな時期で文治政治を展開。農業、商業の発展、町人の台頭がみられ、学問、文化に清新な気風がみなぎり、華美な元祿文化が開花した。一方、生類憐みの令が強行され、側用人柳沢吉保の重用、勘定奉行荻原重秀の放漫支出により幕府財政は窮乏し、貨幣改鋳、年貢増徴などの政策がとられ、次第に不健全さがあらわれる時代でもあった。

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改訂新版 世界大百科事典 「元禄時代」の意味・わかりやすい解説

元禄時代 (げんろくじだい)

最も狭義に解すれば,1688年9月に貞享5年から元禄と改元し,1704年3月に元禄17年が宝永と改元するまでの元禄年間をいう。しかし元禄年間は徳川綱吉の将軍在職期(1680年(延宝8)5月から翌年改元の天和年中等をふくみ1709年正月まで)の主要期間なので,広義にこの間を元禄時代と呼ぶことも多く,文化史のうえではさらにやや前後に広げた時期をさすことがある。綱吉将軍期は,1684年8月大老堀田正俊が殺された事件を境に,老臣に依拠した天和の善政期(天和の治)と,以後江戸中野犬小屋の設置等将軍の恣意による悪政と世相風俗退廃の時期とに分ける見方が古くからあり,この場合の元禄時代とは1684-1709年となる。これに対して,いわゆる天和の善政を復古的な消費抑制と風俗矯正の策とし,1688年元禄改元の年に側用人に登用された柳沢吉保らを中心に,95年質流れによる田畑移動の公認,貨幣の質を落としての通貨量の増大等の政策がとられた時期を,社会経済の発展に即応したものとする有力な反対意見がある。この場合は狭義の元禄時代が近代社会への一歩を踏み出した時期ということになり,綱吉初政の天和期と区別される。奢侈禁令や風俗矯正令は1688年以後にも頻発し,生類憐みの令とされるもののなかにも,そのような意味をもつものがある。質流れ地の公認等と方向の差はあるが,消費水準の向上と貨幣経済の進展という事態への,権力の対応という点は共通する。同時点で,二様の対応がされたとみえるのであり,ここでは綱吉の将軍在職期を一応元禄時代として考える。

 元禄時代を経済成長期ととらえるのはよいとしても,太平謳歌の世というイメージは必ずしも正しくない。大名,旗本,代官を通じて改易に処せられた者は,この時期に多い。様斬(ためしぎり)や私闘もなお頻繁に行われ,かぶき者と呼ばれたアウトローの暴れ者がしばしば処刑された。また1680-81年の飢饉にはじまり,1707年の富士山噴火と元禄地震までの間,江戸の元禄の大火や諸国の洪水等の災害も多かった。地震は別として,洪水の頻発は自然界へのかかわり方にもよっている。山野開発の進行が各地で治山治水の必要を生み,淀川・大和川水系にはこの時期に幕府の手で画期的な工事が施行された。山野入会論や用・排水施設をめぐる争論が各地で起こり,幕府の裁許をうけたのもこの時期に多く,以後数百年に及ぶ慣行がこの期に定まった例が少なくない。1697年に幕府の命令で諸国の国絵図郷帳とが作成されたが,これも以後の争論裁許の典拠となった。諸国の国境の多くはこの時期に定まったのである。生類憐み政策の一環として幕府が鷹狩を廃止し,これに先立って全国の在村鉄砲の多くを取り上げ,農民が害鳥獣を銃撃するのを禁じたことも,自然界との関係に大きな変化をもたらした。従来,山野河水を支配し,村民諸活動の結節点として村住民の支配者でも保護者でもあった村の親方層がその地位を低落させ,個々の小農民が村を構成するかたちがようやく一般化してきていた。彼らの支配と保護の権を,幕府・諸藩がみずから掌握していく動きが,その山野河水への支配権を強めた。幕府の人民支配は,前代以来のキリシタン統制や捨子禁圧の強化,将軍家による江戸の寛永寺,護国寺等の造営の反面で,新地寺院の禁止と悲田派の弾圧,また生類憐みや飲酒規制等々もふくむ風俗取締りや,忠孝道徳の制札,孝子の表彰にも示されるように,精神面にも強く及んだ。

 1697年6月,1万石以上の領主に死刑執行権を認めた自分仕置令も,幕府権力の至上性確立の方針と矛盾するものではなく,本来幕権に由来するものという形式を整える意味をもった。1703年の赤穂浪士一件の処分も,公権力の立場を明確にする趣旨で決定された。暦法の改訂(貞享暦)や服忌令(ぶつきりよう)の制定は,天皇政権の機能をさらに江戸に吸収するものでもあった。消費生活の向上の反面,幕府権力の人民生活への徹底が目につき,貨幣流通の発展が近代社会への一歩を進めたかにみえる反面,小農経営からなる村を幕藩領主が支配するかたちの確立期という面を指摘できる。元禄時代についての評価は分かれるが,人や物資の交流が進展するなかで,国家権力の人民掌握が進んだとみて,両面を矛盾なく理解することができる。田畑売買証文類が必ずしも1694年の質地処分令の結果ではなく,この時期からみられる土地も多い。その盛行を意味するだけでなく,文書による契約が村社会に及んだことの表現ともみることができる。

 元禄時代は,中国では清の康熙帝の長い治世の時期に当たる。清が遷界令を廃止した結果,幕府が長崎貿易の制限強化(定高(さだめだか)貿易法)をせまられたのもこの時代であり,朝鮮国王と琉球王の使節(朝鮮通信使琉球使節)が初めて同じ年に江戸に来たのは,綱吉初政の1682年のことであった。
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元禄期およびそれを前後する時期(17世紀末~18世紀初期)に形成された文化。町人と呼ばれる社会階層が文化の主体的な担い手となったこと(町人文化),上方の都市的発展とその環境が推進力となったこと(都市文化),奢侈的風潮にともない衣・食・住ほか生活の諸相に文化としての表現が認められること(生活文化),劇場や出版といったマス・メディアが成立したこと(大衆文化)などの諸傾向を指摘することができる。これらの傾向は総じて〈近世的〉といわれる特色を示しており,したがって元禄文化は,一面で17世紀前半~寛永期に頂点に達した上層町衆の文化(寛永文化)をモデルとしつつ,そこにみられた古典志向,貴族趣味,サロン性を克服し,より広範な町人層の参加のもと,18世紀以降における近世都市大衆文化の展開を用意したものと位置づけることができる。

元禄文化の第1の特徴は,文化の荷担者が都市の商工業者,いわゆる町人層によって構成されていたことにあり,日本文化史のうえで初めて庶民と呼びうる階層の生活,心情,思想が主題として表現されるに至った。文学における井原西鶴の小説(浮世草子,ことにその好色物,町人物)(上方文学),芸能における近松門左衛門の戯曲(歌舞伎,浄瑠璃,ことにその世話物,心中物),坂田藤十郎の写実芸・科白(せりふ)術,竹本義太夫の演奏,絵画における菱川師宣の風俗画(浮世絵),思想界における伊藤仁斎の活動など,彼らの出自のいかんを問わず,いずれも町人社会の動向に沿って生み出され,町人大衆によって享受,愛好されたものにほかならなかった。一方,町人社会にみられた富の蓄積は奢侈への欲望を生み,町人生活を構成する衣料,家具,食器などさまざまな物品に芸術的装飾をこらすこととなり,生活文化のいちじるしい充実がみられた。それは宮崎友禅友禅染の創始をはじめ,陶磁,染織など各種工芸の発展,普及に結実し,また京風町家に代表される都市型の民家建築を生み出した。ことに町家における座敷の普及は,文化を営む具体的な場を町人の生活空間に用意するものであり,彼らの文化的生活の向上を端的に示すものであった。

 都市の商工業者は経済的な上昇とともに,自然の制約を強くうける農民の場合とは違い,労働を計画的に集約し余暇を生み出すことができる。そこで町人の間には遊芸(お稽古事)というかたちで趣味的な活動が広がり,町人大衆が直接参加する文化の形態ができ上がった。彼らが遊芸として身につけようとしたものは,歌舞音曲の類はもとより詩歌,書画,園芸など多様な領域にわたり,今日の目からみれば文芸,学問,科学の分野に属すると思われるものまでを含み込んでいた。その遊芸を通じての交際が町人社会における新しい社交の場となり,遊芸を趣味とすることは彼らの社会的地位のシンボルともみなされるに至った。なお元禄期に発行された都市案内書にしばしば諸芸を教授する師匠の名簿が掲載されており,都市と町人と遊芸の密接な関係を物語る。もっとも,社会変動の激しい都市の住人である町人たちは,その地位を維持し向上させるために奢侈や遊芸におぼれることを警戒し,むしろのちに石田梅岩の心学によって体系化されることになる禁欲的で勤勉な生活態度を重視する傾向も顕著になりつつあった。ほかでもない西鶴の町人物にすでにそれがうかがえるし,商家の家訓といった通俗道徳のかたちでも町人社会に定着をみていた。したがって元禄町人が,遊芸に代表される奢侈的な消費による開放感へのあこがれと,家業に専念し蓄財に努める現実的な生活信条との矛盾にさいなまれる状況にあった一面を否定できないであろう。

従来の文化は,主として社会の上層に位置するものの趣味,教養であるか,もしくは有力者に隷属する立場のものの手によって生み出されてきたといってもよかったが,元禄期文化人の活動のきわだった特色は,それが自立した職業人としての仕事となりえたところにあったと考えられる。その前代からの推移は,京都上層町衆の家系に生まれた尾形光琳・乾山兄弟が,町衆として身につけた素養を生かしつつ,しだいに職業的芸術家として地位を確立していく過程にみることができる。中世の文化人の生き方に共感を示した芭蕉の場合にしても,その活動は全国に分布する連衆(俳諧人口)を基盤にして成り立っていたのであり,彼の存在形態がすでに中世の文化人と遥かにかけ離れたものであった(元禄俳諧)。

 元禄期に確立した職業人としての文化人の形態には,少なくとも(1)あたかも商人が商品を扱うように不特定多数のユーザーに作品を供給することを稼業とするものと,(2)教師のように技術や教養を素人大衆に教授することを稼業とするものとの2種があった。(1)には町人大衆を市場とすることで特定のパトロンに隷属もしくは従属する立場を克服した文化人の姿をみることができるし,(2)においては求道者から啓蒙者に転じた文化人の形態が認められるであろう。なお(1)は町人層の台頭にともなって生じた文化的消費の拡充(奢侈)に対応して成立した形態であったし,(2)は元禄町人の社会にみられた遊芸(お稽古事)の流行に支えられて可能となったものにほかならず,元禄期における町人を主体とする大衆文化状況の出現を前提とするものであった。しかも文化的消費の拡充と遊芸の流行という二つの現象は,たとえば各種の遊芸がおびただしい美術工芸品を必要とし,また美術工芸品の大量生産が大衆的遊芸の流行を可能としたといったぐあいに,相互に深くからみあっていた。

さらに芝居(劇場),本屋(出版),塾(学校)などの諸施設が広範に成立し,これが,町人層に新たに生じた文化的ニーズと職業的文化人との間を結ぶ媒体として,重要な役割を演じることになった。これら各種メディアの出現は,作品の〈作り手〉と〈受け手〉の間に,その組織的な〈送り手〉いわば流通機構が形成されたことを意味し,文化の創造と享受とが個人的な関係で完結する状態から脱して,大衆的な参加・普及へ向かう契機をもたらした。遊芸の町人社会への普及にしても,劇場を通じての刺激,出版による啓蒙,町のお稽古場での教授などが基礎になっており,これらの媒体の形成と無関係には論じえないものである。ことにこの時期,板木印刷の技術的発展に支えられた出版業の活発化,それと連動した本屋,貸本屋の活動には注目すべきものがあった。近世の出版には〈物の本〉と呼ばれた仏書,漢籍を中心とする高度な教養書と,〈草子〉と称される大衆的書物があったが,元禄期にはとりわけ草子類の出版物の増加が顕著となり,従来の口伝や写本による情報伝達からマス・コミュニケーションへの展開が進行しつつあったことをうかがわせる。それは浮世草子など文学作品の普及に寄与したばかりでなく,各分野における図録,全集など多彩な出版文化を展開させ,文化的情報の伝達に大きな変化を与えた。むろん出版文化の成立の前提には,〈読み,書き,そろばん〉に代表される大衆の基礎学力の向上がかたちづくった幅広い読書人口が存在した。当時の風俗画が,本屋の2階で行われている手習い光景を描いているのは,出版と初等教育の密接な関係を暗示するものである。

 出版の普及は,それまで肉筆による一品製作以外に方法をもたなかった絵画の分野にも,多大な影響を及ぼした。17世紀後半に絵画は草子の挿絵として出版媒体と結びつき,絵本ないし絵入り本と呼ばれる書物群を派生させ,専門の挿絵画家の登場をもうながした。それは絵画の享受層を一挙に拡大させ,なかでも〈雛形〉と通称されたデザイン・ブックが流行衣装の源泉となるなどの事実をともなった。また元禄期を画期として単色一枚摺りの浮世絵版画が独立し,鳥居清信らによって彩色を施した丹絵など彩色版画が作られ,やがて18世紀後半には多色摺りの錦絵に発展していくことになる。さらに劇場芸能も浄瑠璃本,狂言本,役者評判記,番付などの多様な出版物を随伴し,それらが提供する情報は劇場に客を呼び寄せることになるとともに,劇場そのものが情報源としての機能を果たす結果ともなった。

元禄期の文化は,芝居と遊里という都市内部に計画的に設置された施設を拠点として,多くの成果を生み出した。芝居と遊里は近世を通じて絵画や文芸に多くの題材を提供し文化形成の温床となったが,それ自体が独特の文化の表現形態とみなしうるものであった。それらはともに17世紀を通じて進行した幕府の風俗政策の結果として創出されたものであり,遊興にかかわる要素を都市の日常的生活空間から排除し,かつそれに従事する人々を管理することを目的として,都市の縁辺部に遊女町および芝居町という名のもとに,明瞭な区画をもって設置されたのである。しかしこれらが日常生活空間から隔離された結果,芝居や遊里には日常の秩序とは異なった論理が適応され,現実社会の身分や制約にとらわれない人間の自由な欲望と感情を許容する場となるとともに,文芸や絵画にかっこうの素材を提供することになったのである。もっとも,幕府の当初の政策意図は必ずしも町人を対象としたものではなく,公家ないし武士を念頭においた政策であったとみられる。それはまた,17世紀前半の芝居や遊里が今日から想像するほどに庶民のものではなかったことのあかしでもあった。事実,初期の遊里には寛永文化の特色である古典的で貴族的な雰囲気がみなぎっており,そこからは畠山箕山の《色道大鏡》に集約されるような格調の高い色道論が著されることともなった。
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百科事典マイペディア 「元禄時代」の意味・わかりやすい解説

元禄時代【げんろくじだい】

狭義には元禄年間(1688年―1704年)をいうが,将軍徳川綱吉(つなよし)治政(在職1680年―1709年)をもいう。綱吉は将軍の権威を高め幕政を主導(この間大名・旗本の改易断行)して,固定化した制度・格式を改革,勘定吟味役を設け幕府直轄領支配を刷新。諸国国絵図・郷帳を作成(以降の相論裁許の典拠となる),風俗取締まり・忠孝道徳の制札など幕府権力の人民生活への徹底化を図った。この時期農業生産・商品経済の発展・貨幣流通の増大(元禄金銀改鋳)などによる経済成長期で,町人層が台頭し元禄文化が開花した。しかし側用人柳沢吉保(よしやす)の重用,生類憐みの令による弊害が表面化,1703年の大地震,1707年の富士山噴火など天災もあいつぎ,幕府経済,世相などを次第に後退させた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「元禄時代」の意味・わかりやすい解説

元禄時代
げんろくじだい

江戸幕府5代将軍徳川綱吉の治世,特に元禄年間 (1688~1704) を中心とする時代。幕府は家康,秀忠,家光の3代の間にその基礎を確立し幕藩体制を整え,4代家綱を経て綱吉の代には最盛期を現出するにいたった。政治の基調も武断政治から文治主義へと転換していった。経済的には,積極的な新田開発,農業技術,器具の改良などに伴って農業生産力が増大し,商品流通の拡大につれて貨幣経済が発展し,大坂,京都をはじめとする商業都市が繁栄した。商人の勢力が増大し,諸大名の財政が徐々に町人に左右されるにいたると,貨幣の改鋳といった財政建直し策が打出された。その晩年になると柳沢吉保の登用による側用人の偏重,『生類憐みの令』の発布などの悪政を招いた。また町人層の台頭によって町人文化,とりわけ上方文化の開花をみるにいたった。 (→元禄文化 )  

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旺文社日本史事典 三訂版 「元禄時代」の解説

元禄時代
げんろくじだい

江戸中期,元禄年間(1688〜1704)を中心とした5代将軍徳川綱吉の治世(1680〜1709)の総称
前代までに幕府機構はととのい,藩体制も整備され,幕府支配体制の安定期を迎えていた。綱吉は将軍の権力を強化し,専制的政治を実施した。そのため側用人政治(柳沢吉保ら)も出現。諸藩についで幕府財政に危機が訪れたため,荻原重秀の進言で初めて貨幣が改鋳された(元禄金銀)。一方,産業の発展はめざましく,新田開発や肥料・農具の改良で商品生産が増大し,貨幣経済が進展,都市生活も向上した。それとともに新興町人が進出し,京坂地方の町人を担い手として町人文化が開花した。文治政治のもとで朱子学をはじめ,儒学が武士の教養として重んじられ,歴史や農学・暦学・和算などが発達し,国学の芽ばえもみられた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「元禄時代」の解説

元禄時代
げんろくじだい

狭義には「元禄」を年号とする1688~1704年の17年間だが,一般にはもっと幅広く,5代将軍徳川綱吉が在位した1680~1709年(延宝8~宝永6)頃の約30年間をさすことが多い。幕藩体制の基礎がほぼ固まり,政治的には文治政治の時代といわれ,上方を中心とした流通経済の発展を基礎にして町人たちの学芸や文化が開花した。

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