土橋村(読み)つちばしむら

日本歴史地名大系 「土橋村」の解説

土橋村
つちばしむら

[現在地名]伊集院町土橋

清藤きよふじ村の北東に位置し、中部・北部は標高一六〇メートルから一七〇メートルの台地、南部は長松ちようまつ川流域に平地が開けている。上土橋と下土橋集落がある。出水いずみ筋が南部を東西に通る。

〔中世〕

薩摩国建久図田帳に伊集院のうちとして「土橋十三町 万得」とみえ、名主は紀四郎時綱であった。ただし喜入肝付家本の建久図田帳では「万得」の記載はない。大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)領である万得領の集計から、当地は万得領ではなく国衙領であったと推定される。名主時綱は伊集院院司の紀姓伊集院氏一族であったと思われる。上神殿迎祐が買得した土橋のうちの田平田六反と下神殿しもこうどの内の地などをめぐり伊集院郡司祐継(迎念)が訴えを起こし、嘉元四年(一三〇六)三月一二日にいったん和与が成立した(「伊集院郡司沙弥迎念和与状案」島津家文書)。正和二年(一三一三)迎祐はこの和与を確定するため鎮西探題に裁許を申請したが、迎念の所帯を相続した宗継(および代官長賢)はこの和与を反故にしたため、文保二年(一三一八)三月一二日、宗継に先の和与状を守るようにとの裁決が下されている(「鎮西下知状案」同文書)。祐継・宗継は紀姓伊集院氏、上神殿迎祐は父方が税所氏、母方が紀姓伊集院氏であった(「税所氏系図」地誌備考など)

土橋村
つちはしむら

[現在地名]上野市土橋

西条にしじよう村の西。柘植つげ川を挟み北は標高約四〇〇メートルの山地で、南は印代いじろ村に接し、南北に細長い。山麓の宮田みやた新堂山しんどうやま、山間の高丸たかまる塔の峰とうのみねの各古墳群、西畝にしうね寺山てらやま古墳がある。柘植川の乱流のためか条里遺構はほとんど認められない。「三国地志」は宮田の「龍王峰」を「○東塔峰○新堂山○西塔峰 按、寺山以下並長福廃寺ノ故址アリ」、長福ちようふく廃寺を「按 天正兵火ニ廃ス、旧記一巻存シ、浄久寺ニ蔵ム」と記す。「伊水温故」には「土橋山長福寺、院号延命院 浄家 上野念仏寺下」とある。

土橋村
つちはしむら

[現在地名]橿原市土橋町

豊田とよだ村・中曾司なかぞし村の中間に位置。西大寺田園目録に「高市郡廿三条二里十坪南辺三段字ハリ路ノ西浦」とあるハリみちは、当村小字ハリミチで、高市郡路西ろせい二三条は路西二里を一里として起条することがわかる。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「大乗院寄、土橋庄四丁(中略)高市郡」とあり、永仁二年(一二九四)の大仏灯油料田記録には「土橋つちはし 字新堂 十市郡西郷廿条一里」とある。「五郡神社記」には「昔、石此云伊波槌村与金箸村両村後為一邑、兼云磐橋邑、亦云槌橋村乎、彼此有拠勾川者蘇我川之末到此少北西勾号云曲川也」とみえる。

文禄四年(一五九五)検地奉行は御牧景則。慶長郷帳の村高は六二三・九七石。村高のうち三八五・五七石は旗本神保相茂領、一二七・一石は旗本松平正綱領。

土橋村
つちはしむら

[現在地名]宮前区土橋一―七丁目・宮前平みやまえだいら一―三丁目・小台こだい一―二丁目など

東は矢倉沢やぐらさわ往還を境に馬絹まぎぬ村と対し、西は下菅生しもすがお村、北はたいら村に接する。大野原おおのはら牢場谷ろうばやと太田前おおたまえ持田谷もちだやと原台はらだい西台にしだいの小字がある。大野原にある秣野は溝口みぞのくち(現高津区)との入会。明治一〇年(一八七七)の皇国地誌によれば用水は持田谷より流れ八町を経て馬絹村に至るたに堀で田三町を灌漑。また南北に山が連なり、西から東は谷間となっているため運輸が不便で、地味は悪いと記す。

土橋村
つちはしむら

[現在地名]袋井市土橋

山名やまな郡に所属。木原きわら村の北に位置し、太田おおた川と宇刈うがり川に挟まれた平地に立地する。奈良時代末期―平安時代前葉と推定される土橋遺跡から「国厨」「里当」「上人」などと記された墨書土器が発掘されている。永禄九年(一五六六)九月三日の今川氏真判物(清見寺文書)に「遠州土橋」とみえ、氏真は由比縫殿左衛門が沽却していた当地を、駿府の天沢てんたく寺の寺領として安堵している。同一二年一月一一日、徳川家康は小笠原氏興の同心中山又七に当地内で一〇〇貫文を宛行い(「徳川家康判物写」富永文書)、同年一二月二三日には「山(名カ)庄」のうち土橋郷の八貫文の地を紀州熊野山実報じつぽう院に寄進している(「夏目広次奉書」熊野夫須美神社文書など)

土橋村
つちはしむら

[現在地名]新見市土橋

足見たるみ村の東、唐松からまつ村の南に位置。下組しもぐみ中組なかぐみ上組かみぐみ田屋たや氏名戸うじなど落方おちかたふた新屋原にんやばら新屋にんや立石たていしの集落がある。寛永備中国絵図に村名がみえ、高二七三石余、松山藩領。正保郷帳でもほぼ同高、同藩領。松林少・雑木小・柴山中・芝草山中の記載があり、枝村として新屋村・落方村をあげる。元禄六年(一六九三)松山藩水谷氏の断絶により収公され、検地を受けた。

土橋村
つちはしむら

[現在地名]矢巾町土橋

現町域の南東端、北上川右岸の平坦地に位置し、南は高水寺こうすいじ村、東は東長岡ひがしながおか村・西長岡村(以上現紫波町)、北は東徳田ひがしとくた村、西は間野々あいのの村。奥州街道が通る。北上川対岸の西長岡村との間に十日市とおかいち渡があり、渡船が二艘置かれた(「邦内郷村志」など)。初め十日市村と称したが、寛文(一六六一―七三)の頃土橋村に改称されたという。正保国絵図に十日市村とみえ、高一三〇石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には土橋村とみえ、蔵入高五一〇石余、七ヵ年平均の免三ツ八分五厘三毛。

土橋村
つちはしむら

[現在地名]大郷町土橋

大谷おおや郷の西部、吉田川の南岸に位置する。南北に長く、中央部が細い。南は丘陵、中央が低い台地、北端に水田がひらける。高城たかぎ(現宮城郡松島町)から吉岡よしおか(現大和町)に至る脇街道が中部を横切る。東は鶉崎うずらさき村、南は成田なりた村、西は大平おおだいら(現大和町)、北は吉田川を隔て桧和田ひわだ村・さんうち(現同上)。集落は中央台地上に集中している。北部水田に突出した台地先端に、正安元年(一二九九)菅原氏一族供養碑があり、鎌倉後期まで泉田いずみだ村・味明みやけ村の地頭であった菅原氏のためのものと推定される。また同所の二渡にわたり神社は、伝承によれば昔開墾の長者とよばれた人を氏神として祀ったものが、のち村鎮守となったといわれる(「宮城県神社明細帳」宮城県庁蔵)

土橋村
つちばしむら

[現在地名]芸北町土橋

雲月うづき(九一一・八メートル)を北西に仰ぎ、その山麓に広がる標高約七〇〇メートルの地に集落が散在。東は石見国都川つがわ(現島根県那賀郡旭町)、南は奥原おくばら村、西は石見国波佐はざ(現那賀郡金城町)、北は鼠原ねずみばら(現旭町)に接する国境の村。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では高は六七石。「国郡志下調書出帳」によれば、その後正保三年(一六四六)の地詰で一一九・六八石となった。

土橋村
つちはしむら

[現在地名]中山町土橋

おか村の南に位置し、白鷹しらたか丘陵の東縁を南北に走る街道(岡街道)に沿う。元和八年(一六二二)山形藩領となり、正保元年(一六四四)からは幕府領、貞享二年(一六八五)山形藩領に復し、翌三年陸奥福島藩領、元禄一三年(一七〇〇)山形藩領、延享元年(一七四四)幕府領、寛政一二年(一八〇〇)高畠藩(のち天童藩)領となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高三八四石余。寛文・延宝検地では高六一八石余(最上記)。宝永七年(一七一〇)頃の村々大概帳(横山文書)によれば反別田二七町三反余・畑一九町九反余、人数二一三(うち本百姓一八)、文政七年(一八二四)の本新田畑書上帳(佐東文書)では田方二四町六反余・畑方一四町四反余。

土橋村
つちはしむら

[現在地名]小野市広渡町こうどちよう

中島なかしま村の北に位置し、加古川左岸の標高約五〇メートルの河岸段丘面に立地する。当村や中島村など七ヵ村を含む地域は原田はらだと称する。江戸時代の領主の変遷は門前もんぜん村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方一〇六石余・畑方七石余。灌漑用水こも池・池・さら池・観音かんのん池・みなみ池の五ヵ所の溜池により本田高一〇六石余・新田高六石余を潤していたらしい。のちにうわ池が築造されているが、おそらく石高の増す天保期(一八三〇―四四)頃であろう(「両郷村々用水掛控」前田家文書)。天保郷帳では高一二九石余。嘉永四年(一八五一)の家数六四・人数三〇五(「覚」河島家文書)

土橋村
つちはしむら

[現在地名]檜山郡厚沢部町緑町みどりまち・字上の山かみのやま・字富栄とみえい・字美和みわ

近世から明治三九年(一九〇六)までの村。目名めな村の東、厚沢部川下流域南岸に位置する。ツチバシ(大小区画沿革表)、ドバシ(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)ともいう。当村は延宝二年(一六七四)に津軽から来た喜三郎が檜山稼と農業に従事したのに始まるという(明治一九年「青江理事官諮問回答書」同館蔵)。天保郷帳には目名村枝村として土橋村とみえる。「蝦夷日誌」(二編)には土橋村が二村記され、とまり(現江差町)支郷の「土橋村」は目名村の南、広い沢地に人家が一三軒ばかりあり、「土橋ハ皆支郷の惣名にして、惣而此名何村の土橋、何村の土橋と書て有也。

土橋村
つちはしむら

[現在地名]豊田市土橋町・清水しみず町・あけぼの町・もと町・聖心せいしん

逢妻女あいづまめ川の上流と逢妻男川の上流に囲まれる。現在、北部はころもはら、南部には名鉄三河線が通る。東名高速道路が南北に縦貫し、衣ヶ原にはトヨタ自工元町工場が控えている。衣ヶ原の台地は、挙母面の上に形成され、標高は高い所で八〇メートル内外である。

近世初めは本多氏領と巨勢氏領の相給支配であったが、寛永一五年(一六三八)本多氏領は刈谷藩領、巨勢氏領は西尾藩領となる。以後変遷は激しいが、近世を通じて相給であった。寛延二年(一七四九)内藤氏入部時の目録(七州城沿革小史)に「土橋之内上鴻巣下鴻巣山林」とあり、「鴻巣山林」は挙母藩に属していたことがわかる。

土橋村
つちはしむら

[現在地名]愛知川町石橋いしはし

沓掛くつかけ村の北に位置し、磯部いそべ村に近接する。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名がみえ高四〇一石余。文久二年(一八六二)上知。しかし領民の反対などにより彦根藩預所として明治維新に至る。宝暦六年(一七五六)の村の小入用は夫米四石余、郷中間米一石余、伝馬銀一石余、村役人への給米六石余、井水入用・普請入用など合せて総計二八石余(「近郷小入用品上申控」春田文書)。天保九年(一八三八)の巡検目録(小泉文書)によれば、上田一〇町九反余・中田五町九反余・下田三町一反余・下々田二反余・木荒田二畝余・永荒田一町五反余、上畑七反余・中畑四畝余、屋敷地一町二反余・畑屋敷二町余、村高四〇一石余のうち毛付高三六六石余・川成高一四石余・永荒高二一石余。

土橋村
つちはしむら

[現在地名]羽咋市土橋町

立開りゆうがい村の南、邑知おうち平野南部の低平地に立地。集落東縁を子浦しお川が北流する。天正五年(一五七七)一一月一日の気多社免田指出案(気多大宮司家文書)に「つちはし村」とみえ、同社衆徒方に三俵二斗を納入している。正保郷帳に村名がみえ、高八三三石余、田方四八町三反余・畑方七町二反余、新田高四六石余、田方二町四反余・畑方六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高八九八石、免五ツ二歩、小物成は山役一九九匁・苦竹役一二匁、鳥役七匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細によると高八八五石、免は同じ、家数五一(うち頭振三)・人数二一二、馬一、稼は苧・木綿。

土橋村
どばしむら

[現在地名]高槻市土橋町・城南じようなん町一―三丁目・西冠にしかんむり一―三丁目・深沢ふかざわ町一丁目

西天川にしあまかわ村の西にあり、あくた川中流左岸東方に位置する。北から西は高槻村と高槻城下に接し、村内を東西に富田とんだ街道が走り、西の村境を高槻城下六口の一つ大坂口から南へ大坂街道が延びる。古代条里制の遺称とされる小字に四ノ坪・五ノ坪などがある。もとは高槻城下町のうちであったが、元和元年(一六一五)の城地整備で冠村に含まれ(→冠村、永井氏入部ののち分村したといわれ、「大阪府全志」は天和元年(一六八一)とする。

土橋村
つちはしむら

[現在地名]上越市土橋・さいわい町・さかえ

藤巻ふじまき村の南に位置し、南は高田城下に続いて北陸街道が通る。応永一八年(一四一一)八月一九日の居多神社社領注文(居多神社文書)に、頸城くびき郡下郷「九段三百二分 土橋税所給」がみえるが、この土橋は当地のことであろう。下って本願寺教如が府内浄興ふないじようこう寺下講中に宛てた年未詳九月一〇日付の銀子一〇〇匁の礼状(浄興寺文書)に「ツチハシ」が記載されている。

土橋村
つちはしむら

[現在地名]菊川町土橋

奈良野ならの村の東、菊川と牛淵うしぶち川のほぼ中間に位置する。正保郷帳に村名がみえ、田方三一九石余・畑方六九石余、「日損」の注記がある。横須賀藩領。「寛文朱印留」でも同藩領。国立史料館本元禄郷帳では三河吉田藩領。その後享保二年(一七一七)の本多忠通領知目録に村名があり、相良藩領となっていたが、寛延二年(一七四九)所替により同藩領から外れる。

土橋村
つちはしむら

[現在地名]福井市土橋町

安竹やすたけ村の北に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では藤島下ふじしましも之郷に含まれたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方三一八石余・畠方二二五石余。福井藩領。村内白山神社北側の畑地に宇田彦太郎という者の屋敷があったが、水害のため一乗谷へ引越したと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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