大光院(読み)ダイコウイン

デジタル大辞泉 「大光院」の意味・読み・例文・類語

だいこう‐いん〔ダイクワウヰン〕【大光院】

群馬県太田市にある浄土宗の寺。山号は義重山。慶長18年(1613)徳川家康新田義重菩提所として建立開山は、呑竜どんりゅう関東十八檀林の一。新田寺。子育て呑竜。太田の呑竜

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精選版 日本国語大辞典 「大光院」の意味・読み・例文・類語

だいこう‐いんダイクヮウヰン【大光院】

  1. 群馬県太田市金山にある浄土宗の寺。山号は義重山。慶長一八年(一六一三)徳川家康が新田義重の菩提所として創建。開山は呑龍(どんりゅう)上人。関東十八檀林の一つ。新田寺。子育呑龍。太田の呑龍。

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日本歴史地名大系 「大光院」の解説

大光院
だいこういん

[現在地名]太田市金山町

かな山の南麓にあり義重山新田寺と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。太田宿かみ町北側に大門があり、そこから大門通と称する参詣路が通じていた。関東十八檀林の一つに数えられる。徳川家康が新田義重をはじめ同家代々の追善のため、開山に江戸芝増上寺の観音国師の弟子然誉(呑竜)を迎えて慶長一八年(一六一三)に建立した寺で、翌一九年朱印地三〇〇石を与えられている(寛永一三年「徳川家光朱印状」寺蔵)。家康は義重の四男でのちに得川を名乗った新田義季を直接の始祖として、松平姓を徳川に変えたといわれ、義重を祀った当院も幕府から厚い保護を受けた。開山の入寺に際しては、前住の武州滝山大善たきやまだいぜん(現東京都八王子市)より当院まで馬五〇疋・人足三〇人が伝馬宿に仰せ付けられている(慶長一八年「徳川秀忠伝馬朱印状」寺蔵)


大光院
だいこういん

[現在地名]中区大須二丁目

興国山と号し曹洞宗。本尊は釈迦牟尼仏境内四千八二八坪が除地(寺社志)松平忠吉清須きよす在城のとき同地の雲門うんもん廃寺を復興し、清善せいぜん寺ととなえた。その後父家康ともども帰依していた武州の人明嶺を招いて開山に据えた(尾張名所図会)。忠吉は生前、明嶺から大光院なる法名を授けられたので、大光院と改称。慶長一一年(一六〇六)七月、朱印状をもって寺野てらの(現西春日井郡新川町)で高一〇〇石の寺領を寄付し、別に毎年の江湖会執行のため一〇〇両ずつを与えた(尾州御領分中寺社領付)


大光院
だいこういん

[現在地名]柴田町西船迫 寺前

旧奥州街道から北へ南面の丘陵を登った所にあり、南は東流する白石しろいし川越に舟岡ふなおか城跡のある四保しほ山を望む。松光山神宮寺と号し、真言宗智山派、本尊は不動明王。天安二年(八五八)空海十大弟子のひとり柿本紀僧正の開山と伝える。文永三年(一二六六)一〇月三日銘の鉄造阿弥陀如来坐像四体、南北朝期のものと思われる絹本着色両界曼荼羅図(二幅)があり、いずれも県指定文化財。ほかに大般若経六〇〇巻、源頼朝奉納と伝える絹地十六善神の軸などが什宝として残る。鉄仏はもと五智如来(五体)がそろっていたが、大日如来を欠き四体になったといい(封内風土記)残存のものはそれぞれ別の鋳型によって造られたと推定される。


大光院
だいこういん

[現在地名]岡山市円山

日蓮宗、本尊釈迦如来。元禄一一年(一六九八)曹源そうげん寺の塔頭として創建された。開山は日遥。創建時に曹源寺領のうちから寺領一〇石を付与されていたが、その後二〇石に加増された(備陽国誌)。明治維新後、寺領を失ったが、御野みの津高つだか赤坂あかさか磐梨いわなし・上道・岡山各郡市に檀徒若干を有していたこともあって第二次世界大戦後、曹源寺から独立した後もよく法灯を守っている。およそ五〇〇坪の境内には本堂・大覚だいかく堂・庫裏などの伽藍があり、境内の一角に題目塔(県指定重要文化財、花崗岩製石造笠塔婆・総高一八二センチ)がある。


大光院
だいこういん

[現在地名]川西町上小松

川西町立病院の西隣、字大光院にあり、松光山と号し、新義真言宗。本尊大日如来。承和一一年(八四四)京都神護じんご寺二世真済の創建と伝える。真済は承和年中隠遁の身となり、真言密教によって奥地を済度せんとの悲願により京を出発し当地に来たところ、光り輝いている松があったので霊地として山麓長岡ながおかに寺を建て、大光院と称して地蔵を本堂に安置した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大光院」の意味・わかりやすい解説

大光院
だいこういん

群馬県太田市金山町にある浄土宗の寺。義重山新田(にった)寺と号する。1613年(慶長18)、徳川家康が祖先新田義重(よししげ)の追善のため呑竜上人(どんりゅうしょうにん)を請(しょう)じ開山。呑竜は民間の堕胎風習を悲しみ、子育てに努めたので、同寺は太田呑竜、また子育て呑竜さまとよばれ親しまれている。徳川家より寺領300石の寄進を受け、1622年(元和8)常紫衣(じょうしえ)の勅許を賜る。翌23年建立の開山堂には呑竜自作の木像を安置する。本尊阿弥陀如来(あみだにょらい)像は伝快慶(かいけい)作。境内には義重の霊廟(れいびょう)、呑竜の墓(無縫塔(むほうとう))がある。寺宝として新田義重、徳川家康・秀忠(ひでただ)の像、新田氏関係古文書を蔵する。

[中山清田]

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デジタル大辞泉プラス 「大光院」の解説

大光院

群馬県太田市にある寺院。浄土宗。1613年、徳川家康が新田義重の追善供養を目的として建立。開山にあたり芝増上寺から迎えられた呑龍上人が、捨て子や貧民の子を多く寺で養育したことから、寺は「子育て呑龍(どんりゅう)」「呑龍さま」とも呼ばれ、安産子育て祈願で知られる。

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世界大百科事典(旧版)内の大光院の言及

【太田[市]】より

…中世は新田氏の所領で,金山には金山城が築かれた。徳川家康が建立した大光院(子育呑竜)の門前町として,また日光例幣使街道の宿場町として発達した。1919年中島飛行機製作所が設立され,第2次大戦中は一大軍需工業地帯の中心となった。…

【関東十八檀林】より

…しかし最後にできた深川霊巌寺は24年(寛永1)の開山であるので,制度としての確立はそれ以降のことである。かくして成立した十八檀林は,開山の年代順に相模鎌倉光明寺,武蔵鴻巣勝願寺(埼玉県鴻巣市),常陸瓜連常福寺(茨城県那珂郡瓜連町),江戸芝増上寺,下総飯沼弘経寺(茨城県水海道市),下総小金東漸寺(千葉県松戸市),上総生実(おゆみ)大巌寺(千葉市),武蔵川越蓮馨寺(埼玉県川越市),武蔵滝山大善寺(東京都八王子市),武蔵岩槻浄国寺(埼玉県岩槻市),常陸江戸崎大念寺(茨城県稲敷郡江戸崎町),上野館林善導寺(群馬県館林市),下総結城弘経寺(茨城県結城市),江戸本所霊山(りようぜん)寺(東京都墨田区),江戸下谷幡随院(東京都小金井市,もと台東区浅草神吉町),江戸小石川伝通院,上野新田大光院(群馬県太田市),江戸深川霊巌寺(東京都江東区)である。学問所としての檀林はやがて幕府の寺院統制下で行政の一端をにない,一,二の変動はあったが宗教行政の中心となった。…

【上野国】より

…蘭医学では種痘の村上随憲,帝王切開を創始した伊古田純道,脱獄した高野長英をかくまった福田宗禎らをあげることができる。宗教の面では徳川家康が新田義重の菩提のため太田に大光院を開き,世良田の長楽寺に天海を派遣するなど,みずからの遠祖と称する新田徳川氏の供養につとめ,また前橋妙安寺から親鸞木像を東本願寺に遷座させた。黄檗宗の少林山(高崎市)は達磨寺の寺号にちなんで,幕末から福だるまの風習を生んだ。…

【呑竜】より

…2年後増上寺学寮に入り存応(ぞんのう)に師事した。1584年(天正12)林西寺,1600年(慶長5)武州滝山(東京都八王子市)の大善寺住職を経て,13年徳川家康が,新田義重追善のために上野国太田の地(群馬県太田市)に創建した大光院に,師存応の推挙によって開山として入寺し,悪竜をのむ夢をみて名を呑竜と改めた。貧困のため行われていた堕胎や間引きの惨状に対して,寺の禄米を施して小さな生命を救った。…

※「大光院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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