に帰依、日
の故郷堺で伽藍建立を企図して寺地を寄進したが、永禄五年(一五六二)三月、志を遂げないまま
はその寺地を受取り、日
の父で堺の豪商油屋常言が堂宇造営料を寄進、翌年から建立が開始された。元和三年(一六一七)の目安状(寺蔵文書)に「屋敷ハ三好実休寄進、伽藍ハ油屋建立候而妙国寺出来候」とみえる。開基日
の日記「己行記」(寺蔵)の永禄九年条に「妙国寺 春中土囲クツレ地平付坪事」とみえて寺地整備の始まったことが知られ、同一一年四月条に「妙国寺本堂石居事」、同一二年条に「妙国寺堂之瓦葺并内造作在之」、元亀元年(一五七〇)条に「仏師大弐下向シテ二尊作立」とあり、同二年八月二四日遷座式が行われた。
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大阪府堺(さかい)市材木町にある日蓮(にちれん)宗本山。山号は広普山(こうふざん)。俗に蘇鉄(そてつ)寺という。三好之康(ゆきやす)(実休)の菩提(ぼだい)のため、弟の義長が之康の別荘を寄進し、堺の豪商油屋常言(あぶらやじょうごん)が堂舎を造立して、1568年(永禄11)に落成。常言の子仏心院(ぶっしんいん)日珖(にちこう)(1532―98)を開山とする。日珖は寺内に学室を設け、もと叡山(えいざん)学僧の日詮(にっせん)、日諦(にったい)とともに『法華玄義(ほっけげんぎ)』など天台三大部を講義した。これを三光無師会(さんこうむしえ)といい、宗風がそれまでの折伏(しゃくぶく)から摂受(しょうじゅ)に転ずる機縁をつくった。大坂夏の陣(1615)に焼けたが、まもなく復興した。第二次世界大戦によりふたたび焼失し、1973年(昭和48)再建された。境内に、高麗(こうらい)から移植したと伝えられる樹齢1100年といわれる大きなソテツ(天然記念物)がある。
[浅井円道]
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