妙国寺(読み)ミョウコクジ

デジタル大辞泉 「妙国寺」の意味・読み・例文・類語

みょうこく‐じ〔メウコク‐〕【妙国寺】

大阪府堺市にある日蓮宗の寺。山号は、広普山。永禄11年(1568)豪商油屋常言が堂舎造営、子の仏心院日珖が開山高麗こうらいから移植したという大ソテツがある。蘇鉄そてつ寺。

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精選版 日本国語大辞典 「妙国寺」の意味・読み・例文・類語

みょうこく‐じメウコク‥【妙国寺】

  1. 大阪府堺市材木町東にある日蓮宗の本山。山号は広普山。永祿一一年(一五六八)開創。開基は油屋常言。開山は日珖(にちこう)境内に大きなソテツ(国天然記念物)があり、蘇鉄寺と呼ばれる。

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日本歴史地名大系 「妙国寺」の解説

妙国寺
みようこくじ

[現在地名]堺市材木町東四丁

土居川どいがわ公園の西、府立泉陽せんよう高校の北にある日蓮宗の寺。山号広普山、本尊十界大曼荼羅。摂河泉を領した三好之康(実休)は京都頂妙ちようみよう寺の日に帰依、日の故郷堺で伽藍建立を企図して寺地を寄進したが、永禄五年(一五六二)三月、志を遂げないまま久米田くめだ(現岸和田市)で戦死した。同八年日はその寺地を受取り、日の父で堺の豪商油屋常言が堂宇造営料を寄進、翌年から建立が開始された。元和三年(一六一七)の目安状(寺蔵文書)に「屋敷ハ三好実休寄進、伽藍ハ油屋建立候妙国寺出来候」とみえる。開基日の日記「己行記」(寺蔵)の永禄九年条に「妙国寺 春中土囲クツレ地平付坪事」とみえて寺地整備の始まったことが知られ、同一一年四月条に「妙国寺本堂石居事」、同一二年条に「妙国寺堂之瓦葺并内造作在之」、元亀元年(一五七〇)条に「仏師大弐下向シテ二尊作立」とあり、同二年八月二四日遷座式が行われた。


妙国寺
みようこくじ

[現在地名]高知市塩屋崎町二丁目

真如寺しんによじ山南東麓にある。日蓮宗。天高山と号し、本尊は十界大曼荼羅。古くは桂昌けいしよう寺・大乗だいじよう寺とも称した。

「南路志」によれば、文亀元年(一五〇一)京都頂妙ちようみよう寺の開山妙国院日祝が香美郡上田かみた(現南国市)に創建したのに始まり、同地に居館を構えていた守護代細川氏の菩提寺となったという。当時は桂昌寺と称し、細川氏より四五〇石の寺領を寄進されており、当寺を中心に四方に正善しようぜん寺・観音寺東光とうこう寺・最念さいねん寺・八大竜王はちだいりゆうおう寺・常願じようがん寺・清正せいしよう寺・中道ちゆうどう寺・如来寺・十王じゆうおう寺・蔵福ぞうふく寺・本正ほんしよう寺の一二ヵ寺が立並んでいたという。


妙国寺
みようこくじ

[現在地名]岡崎市宮地町 寺北

宮地みやじ地籍の東南部に位置する。本寿山と号し、日蓮宗。もと越後国本成寺末。

寺伝では上和田かみわだ城主宇都宮泰藤の妻徳子の父である美濃国里見城主の土岐頼直法華経を信仰し、興国二年(一三四一)に里見の一寺を上和田郷の釈迦堂しやかどうの地に移転。土岐頼直は家督を嫡子に譲り、本成寺の日院を師と仰ぎ沙弥日道と号した。当寺の開山は日道で、宇都宮泰藤は一〇〇石の田を寺領として寄付し、祖先を供養したと伝える(長福寺文書)。宇都宮氏は宇都・大窪と姓を変え大久保氏の祖である。泰藤は文和元年(一三五二)に没し、源心院殿蓮常と称し和田郷妙国寺に葬られる。


妙国寺
みようこくじ

[現在地名]小樽市入船二丁目

日蓮宗。最上山と号する。本尊は一塔両尊。明治の初め小樽の妙見堂で日蓮宗の布教が始まり、明治一二年(一八七九)津軽法立ほうりゆう(現青森県弘前市)三六世の石沢日富が余市よいちに滞在、金龍きんりゆう(現石狩市)の承諾のもと妙見堂の留守居となり、さらに住職を勧められた。しかし函館の日蓮宗事務出張所が許可せず、金龍寺から広木日盛を推薦してきた。


妙国寺
みようこくじ

[現在地名]会津若松市一箕町八幡

滝沢たきざわ町より東へ旧白河街道を進むと北側に参道があり、約二五〇メートル入った所にある。もと宝塔山、享保年中(一七一六―三六)宝光山と改号。日蓮宗で、本尊は十界大曼荼羅。「新編会津風土記」は妙国寺について、「此地は妙法寺の開山日什が墓所なり、明徳三年日什寂せし時、父母の遺跡なるにより、此所に葬り弟子日仁此寺を草創して住し」と述べ、続いて日什の伝記を詳述している。五輪塔の日什塔は今は日什御霊廟と称し、そののち慶長年中(一五九六―一六一五)に建てた堂があり、今は亡失したが、同一九年の棟札があった。


妙国寺
みようこくじ

[現在地名]日向市細島

細島ほそしま商業港の南岸、こめノ山の北麓丘陵に立地する。興福山と号し、日蓮宗。本尊十界大曼荼羅。行縢むかばき(現延岡市)別当の真言修験者甲斐法橋隆覚の次男日叡(薩摩法印)が日郷に帰依後、康永元年(一三四二)に創建したという。延岡藩主有馬氏時代、寺地年貢は免除されていたが、元禄五年(一六九二)幕府領となってからは年貢を上納した。しかし同一〇年代官小長谷勘左衛門のとき年貢を赦免され、以後除地となった(天保九年「臼杵郡七ヶ村明細帳」旧文書)

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改訂新版 世界大百科事典 「妙国寺」の意味・わかりやすい解説

妙国寺 (みょうこくじ)

大阪府堺市堺区にある日蓮宗由緒寺院の一つ。広普山と号する。1562年(永禄5)三好之康(実休)の戦死後,その屋敷を改め,豪商油屋常言が仏心院日珖(につこう)を開山として建立。近世の寺領120石。霊元天皇のとき勅願所となり,公武の保護のもとに栄えた。境内に高麗から移植されたと伝える大きなソテツがあり,俗に〈蘇鉄寺〉と称される。1868年(明治1)フランス水兵と争って当寺で切腹させられた土佐藩士11名の墓がある(堺事件)。第2次大戦で戦災にあったが近時再建した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「妙国寺」の意味・わかりやすい解説

妙国寺
みょうこくじ

大阪府堺(さかい)市材木町にある日蓮(にちれん)宗本山。山号は広普山(こうふざん)。俗に蘇鉄(そてつ)寺という。三好之康(ゆきやす)(実休)の菩提(ぼだい)のため、弟の義長が之康の別荘を寄進し、堺の豪商油屋常言(あぶらやじょうごん)が堂舎を造立して、1568年(永禄11)に落成。常言の子仏心院(ぶっしんいん)日珖(にちこう)(1532―98)を開山とする。日珖は寺内に学室を設け、もと叡山(えいざん)学僧の日詮(にっせん)、日諦(にったい)とともに『法華玄義(ほっけげんぎ)』など天台三大部を講義した。これを三光無師会(さんこうむしえ)といい、宗風がそれまでの折伏(しゃくぶく)から摂受(しょうじゅ)に転ずる機縁をつくった。大坂夏の陣(1615)に焼けたが、まもなく復興した。第二次世界大戦によりふたたび焼失し、1973年(昭和48)再建された。境内に、高麗(こうらい)から移植したと伝えられる樹齢1100年といわれる大きなソテツ(天然記念物)がある。

[浅井円道]

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百科事典マイペディア 「妙国寺」の意味・わかりやすい解説

妙国寺【みょうこくじ】

大阪府堺(さかい)市にある日蓮宗の寺。1562年三好義賢(みよしよしかた)(実休(じっきゅう))の戦死後,豪商油屋常言(じょうげん)が実休の屋敷を改め,日【こう】(にっこう)を開山として建立。境内に高麗から移植されたと言う蘇鉄(そてつ)があり,蘇鉄寺とも言われる。1868年フランス水兵と争って当寺で切腹させられた土佐(とさ)藩士11名の墓がある。→堺事件

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デジタル大辞泉プラス 「妙国寺」の解説

妙国寺

宮崎県日向市、米ノ山中腹にある寺院。宗派は日蓮宗、本尊は十界大曼荼羅。1342年創建とされる。庭園は国の名勝に指定。

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