安養院(読み)アンヨウイン

デジタル大辞泉 「安養院」の意味・読み・例文・類語

あんよう‐いん〔アンヤウヰン〕【安養院】

神奈川県鎌倉市大町にある浄土宗の寺。開創は嘉禄元年(1225)、開基北条政子。境内に政子の墓がある。

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日本歴史地名大系 「安養院」の解説

安養院
あんよういん

[現在地名]鎌倉市大町三丁目

逆川さかさがわ橋の東、北側きたがわにある。祇園山長楽寺と号し、浄土宗。開山願行房憲静、開基北条政子。本尊阿弥陀如来。もと名越派の本山。初め律宗で、嘉禄元年(一二二五)源頼朝の菩提を弔うため政子が建立、願行を開山に迎えたと伝える。古くは長谷佐々目はせささめやつにあり、元弘三年(一三三三)鎌倉幕府滅亡後に善導ぜんどう寺跡の当地に移ったといい、昌誉の時に当宗に改めたという(鎌倉志・風土記稿)。また、はじめ隆寛の門弟の願行房円満が稲瀬いなせ川の辺りで念仏をすすめ、一寺を建立して迎講をとり行ったのが当院創建の起源であるとの説も最近になって主張されている。


安養院
あんよういん

[現在地名]板橋区東新町二丁目

石神井しやくじい川の北岸にある真言宗豊山派寺院。武王山最明さいみよう寺と号し、本尊は阿弥陀如来。寺号からもわかるように、鎌倉時代に得宗北条時頼が全国行脚をした折、この地に持仏「摩利支天」を安置して一宇を建立したことに始まるという(「略縁起」安養院文書)。中世史料は存在せず、確かなことはわからないが、おそらく当寺の地は得宗領であった板橋の政庁的なものが設置されていた場所と思われる。延宝年間(一六七三―八一)に火災により諸堂宇が焼失したといわれ、元禄年間(一六八八―一七〇四)湯島霊雲れいうん寺住職浄厳の高弟祐淳が阿弥陀三尊を本尊とし、本堂などの伽藍を建立して寺勢を整えたという(延宝五年「寺院山号之事」安養院文書など)


安養院
あんによういん

[現在地名]高野町高野山

高野山大学の東方、小田原おだわら谷の支谷実相院じつそういん谷東側に位置する準別格本山。本尊金剛界大日如来。鎌倉時代に金剛三昧こんごうさんまい院の一別院として建立されたと伝えるが、開基は不詳。文明五年(一四七三)の諸院家帳には「修理亮骨也、同塔、同鐘楼、御骨堂、佐々目僧正頼助骨納之」とある。「続風土記」は中興を頼賢意教とし、門前に意教の祠があると記す。また弘治年間(一五五五―五八)に当院一六代勢尊が毛利元就と師檀の契りを結び、毛利輝元からは毛利家宿坊との一札をもらったと伝える。


安養院
あんよういん

[現在地名]美浜町野間 東畠

鶴林山と号し真言宗。本尊阿弥陀如来。もと大御堂おおみどう寺一四坊中のみなみノ坊で、宝暦五年(一七五五)現名に改称し、寺領一二石余を大御堂寺から分与された(徇行記)

文政五年(一八二二)の大御堂寺書上によれば、天正一一年(一五八三)羽柴秀吉に敗れた織田信孝内海うつみ(現南知多町)に落ち、五月二日当寺で自殺した。


安養院
あんよういん

[現在地名]川西町大字結崎

中村なかむら垣内にある。仏生山と号し、律宗。本尊阿弥陀三尊像は鎌倉時代の作。開山は道慈律師といい、境内に開山塚とよぶ五輪塔(高さ二・六メートル)がある。創建・沿革はつまびらかでないが、奈良県吉野町河原屋かわらや仏国ぶつこく(浄土宗)の涅槃像画幅の墨書銘には「奉図画涅槃像 大永五年乙酉十二月結崎安養院 住持比丘尊誉」と記される。


安養院
あんよういん

[現在地名]早島町早島

塩津しおづにある。単立(真言宗系)、多聞山願福がんぷく寺と号する。開山は不詳。中興とされる増真は寛永(一六二四―四四)頃の人と伝えられる。本尊は地蔵菩薩。「備中誌」に「四世宥遍は鳥羽宝幢寺良正の弟子也。本尊古仏有しか余り大也とて代銀五百にて売払、小き新仏を求むとて、其以前呑海寺改宗せし時行基の作地蔵尊を捨しを、其村の助九郎と云もの拾ひ取て当寺に寄進すと云。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「安養院」の意味・わかりやすい解説

安養院
あんよういん

神奈川県鎌倉市大町にある浄土宗の寺。「あんにょういん」ともいう。祇園(ぎおん)山長楽寺安養院という。1225年(嘉禄1)北条政子(まさこ)が夫源頼朝(よりとも)の菩提(ぼだい)を弔うため阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊として長楽寺を建立。政子の発願による最後の寺で、願行上人を開基とする。1333年(元弘3・正慶2)焼失したため、尊観が当寺を善導寺跡に再建、合併した。以後、安養院という。1673年(延宝1)再度焼失し、比企谷(ひきがやつ)の田代(たしろ)観音堂を移し合併再建した。現在の本堂は1928年(昭和3)の再建。千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)は坂東(ばんどう)三十三札所第3番霊場の観世音として庶民の信仰を集める。

[清水 乞]

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デジタル大辞泉プラス 「安養院」の解説

安養院

神奈川県鎌倉市にある浄土宗の寺院。祇園山長楽寺と号する。嘉禄年間、北条政子による開基。本尊は阿弥陀如来。宝篋印塔は国の重要文化財に指定。延宝年間に比企ヶ谷にあった田代寺の観音堂を境内に移築。本尊の千手観音像は「田代観音」と呼ばれ、坂東三十三観音の第3番札所。

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朝日日本歴史人物事典 「安養院」の解説

安養院

生年:生没年不詳
室町幕府11代将軍足利義澄の室。日野永俊の娘。8代将軍義政室の日野富子の姪に当たる。<参考文献>田端泰子『日本中世の女性』

(西尾和美)

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事典・日本の観光資源 「安養院」の解説

安養院(第3番)

(神奈川県鎌倉市)
板東三十三箇所」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の安養院の言及

【救貧制度】より

… 南宋の国都臨安では,冬期に3日ないし5日に1回穀物を支給される貧民が5000人以上を数え,飢饉などの年には周囲よりの流入人口も加えておびただしい数にのぼった。救貧施設は,財源としての不動産などが有力者によって侵奪される場合が多く,必ずしも円滑に運営されなかったが,熱心な地方官や篤志家が出ると300人,500人を収養するよう施設が整備され,養済院,安養院などさまざまな名称がつき,また旅行中の病人のための安楽廬や,捨子の施設,慈幼局などに分化した。また施設の人員としては得度前の童行(どうぎよう)が多く加わっていた。…

※「安養院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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