明代美術(読み)みんだいびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「明代美術」の意味・わかりやすい解説

明代美術 (みんだいびじゅつ)

1368年(洪武1),朱元璋が応天府(南京市)で皇帝(太祖)位についてより,1644年(崇禎17),李自成の反乱軍が北京城を陥落させ,毅宗縊死(いし)するまで,約300年間を明代とする。異民族の支配を受けた元朝の後に漢民族の建てた王朝であるため,その前期の美術には復古的ないし国粋的な要素が指摘されているが,しかし各ジャンルにおいて元代に興った新しい造形傾向が継承,展開された。その後期,およそ16世紀に入るころよりは,文芸,思想における革新的な思潮に呼応して,新しい美術理論が打ち建てられ,新様式による創作活動が行われたが,これらは次の清朝へと受け継がれることとなった。

明代の建築は,おおよそ前代の様式を継承したものであるが,大規模な土木工事がしばしば行われた。例えば万里長城は,唐以来初めて修理され,今日見られる煉瓦で築かれた姿は,明代の補修の結果である。また1403年(永楽1),元の大都の跡に首都として造営された北京は,明初の南京の宮城を模倣して営まれたもので,建造物の多くは清代に再建されているとはいえ,今日の北京にその旧制がうかがわれる。

 道教は,元代の新発展の後を次いで隆盛し,世宗(在位1522-66)の廃仏によりいっそうの発展を示し,道観も多数建築された。現存するものでは,山西省霍県(かくけん)の太清宮金闕玄元之殿(明初),河北省定県の天慶観玉泉殿(1511),大道観大殿(1512),河南省済源県王屋山の陽台宮大羅三境殿(1515)などがある。仏寺の遺構華北に多く見られるが,北京の智化寺は,山門鐘楼,大智殿,蔵経閣,如来殿など,1444年(正統9)の落成当時の様子を残している点で,注目に値する。また北京市北,昌平県にあるいわゆる明十三陵は,3代成祖より後の皇帝の陵墓であるが,雄大な規模を持つ建築群である。ことに成祖長陵の稜恩殿は,当代を代表する建築である。

明代の絵画は,山水画を中心として展開したが,その山水画は,およそ15世紀後半を境として,前後2期に分かれ,前半には浙派が,後半には呉派が流行した。浙派の名は,後にその祖と目された戴進銭塘浙江省杭州)の出身であったことから名づけられたものだが,初期には浙江省,福建省出身の画家達がその中心をなしていた。代表的な画家として戴進のほかに,李在,周文靖,石鋭などがいる。その画風は,浙江省に南宋時代以来伝わった地方的な水墨山水画様式に,元代に行われた李郭派(李成,郭煕)の山水画様式を折衷したもので,様式上の振幅はかなり広い。彼らの多くは専門の画工であり,宮廷の画院に入って活躍した。当時の画院は,武英殿ないし仁智殿にあり,画院画家は直武英殿待詔等の職名をもって,また下級の武官である錦衣衛の官名(指揮,鎮撫,千戸,百戸など)をもって活動した。呉偉が活躍するころになると,その影響のもとに,浙派の画風は河南,湖北,江蘇,安徽等,地域的な広がりを示すのみならず,文人画家にも広がり,その画風も大きく変容していった。すなわち筆墨の粗放性が著しく増す一方で,奇狂な形態や抽象的な墨色対比が追求され,何良俊や高濂らのやや後の文人評論家によって,〈狂態邪学〉と貶評されるに至った。この時期の代表的な画家に鍾礼,張路,蔣嵩(しようすう),汪肇(おうちよう),鄭顚仙(ていてんせん)らがいるが,これより後,浙派は衰退してゆく。通常,明末の藍瑛をもって浙派の殿将とするが,この時期に至ると,すでに呉派との様式的融合が進んでおり,画風上の区別はほとんど解消している。

 一方,明の中ごろ,元末に芸術が大いに栄えた蘇州に沈周が出て,元末四大家の画風を復興したが,その弟子,文徴明が出るにおよんで,蘇州は画壇の中心地となった。この流れを引く流派を,蘇州の古名によって呉派と呼ぶ。呉派の担い手は文人画家であったが,彼らは文人(利家)の教養性を尊び,専門画工(行家)の絵画を人格の反映のないものとして軽蔑したが,その画風は元末四大家のほか,南宋院体山水画の持つ装飾性,色彩性を採り入れたものであった。その後の蘇州には,文徴明の子の文嘉,文彭,甥の文伯仁を初め,門人の陸治,銭穀,居節,陳淳などの画家が輩出し,呉派の全盛期を現出した。なお,浙派,呉派の端境期に,通常,院派と称される画家達(周臣,唐寅,仇英)が蘇州で活躍していたが,彼らは文徴明らと親しく,相互の画風上の影響関係も密接である。

 明末に至ると,松江に董其昌(とうきしよう)が出て,文人画の中心地は上海周辺に移った。彼は黄公望の画風をよりどころとして独自の画風を打ち立て,明末・清初の個性派山水画風への道を切り開いたほか,一方で同じ時期の典型主義の祖ともなった。また彼は,禅の宗派になぞらえて絵画における南北宗論を唱え,浙派の絵画を唐の李思訓に起源する北宗画,呉派の絵画を唐の王維に起源する南宗画とし,また北宗画を行家によるもの,南宗画を利家によるものとして後者の優越を説き,後世の創作,評論に決定的な影響を与えた。

 このような山水画の隆盛に対して,人物画,花鳥画は明代にはあまり振るわなかった。人物画では,明末の個性派画家である陳洪綬,崔子忠,丁雲鵬らの奇狂な作品のほか,見るべきものは少ない。花鳥画では,前期に辺文進,呂紀らの着色花鳥画を描いた写生派,林良らの水墨花鳥画を描いた写意派があったが,後期に入ると沈周,陳淳,徐渭らは粗放な水墨の技法をもって花卉(かき)雑画を描き,後の八大山人への道を開いた。

明代においては,前代までと異なり,磁器が宮廷の祭器として用いられたこともあり,陶磁器が大いに発展した。明の陶磁器を特色づけるものは,染付赤絵であったが,それらを製作した代表的な窯は,明初に官窯(御器厰)が置かれ,以後大いに栄えた景徳鎮窯(江西省)である。

 明初の景徳鎮窯においては,おもに元代の染付が踏襲されていたが,宮廷用の祭器を製作するようになると,素材,技術とも改良され,宣徳年間(1426-35)には〈明窯極盛時〉と後世評されたように,重厚な官窯の様式が完成した。ことに染付は,評価が高い。成化年間(1465-87)の官窯の染付は,宣徳に次ぐものといわれ,繊細優美さを増した。嘉靖年間(1522-66)は景徳鎮の最盛期であり,官窯の数も58座に達し,人口は50万に及んだといわれるが,遺品もきわめて多く,作風も変化に富んでいる。この時代は,とくに赤絵が流行し,ことに金襴手が製作されるなど,豪華けんらんたる装飾性が追求された。万暦年間(1573-1619)の五彩は日本では万暦赤絵と呼ばれて有名であるが,色はどぎつく,器面は文様でうめつくされ,筆致はやや粗放であるなど,爛熟期の様相を示す。

 明代の工芸としては,ほかに漆工が元代に引き続き盛んであり,彫漆,沈金,塡漆,螺鈿等の技法が行われた。しかしこれらは,いずれも明後期になるときわめて細密な,技巧的なものと化し,清代へと受け継がれていく。
元代美術 →清代美術
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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