曹源寺(読み)そうげんじ

精選版 日本国語大辞典 「曹源寺」の意味・読み・例文・類語

そうげん‐じサウゲン‥【曹源寺】

  1. [ 一 ] 東京都台東区松が谷にある曹洞宗の寺。山号は巨岳山。駒込吉祥寺の末寺。天正一六年(一五八八和田倉門の付近に創建。開山は元照。明暦大火(一六五七)後現在地に移る。かっぱ寺。
  2. [ 二 ] 岡山市円山にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は護国山。元祿一一年(一六九八池田綱政が絶外宗純を開山に創建。池田氏代々の菩提所となる。

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日本歴史地名大系 「曹源寺」の解説

曹源寺
そうげんじ

[現在地名]岡山市円山

臨済宗妙心寺派、山号は護国山、本尊は十一面観音。岡山藩主池田家の菩提寺で、開基は池田綱政、開山は絶外。元禄一一年(一六九八)還暦を迎えた綱政が、高祖父信輝の位牌を安置する京都妙心寺護国院の廃壊を嘆き、併せて自らの冥福を祈らせるため、こおり村の永昌えいしよう庵を円山まるやま正覚しようかく谷に移して、現寺号に改め、新たに造営させたもの。同年五月には鎮守山王宮の遷宮が行われ、綱政は円山村山崎やまさきのうち田二六〇石を寺領として寄進するとともに、妙心寺から絶外を招請して開山第一世とした(「池田家履歴略記」池田家文庫)。山号は信輝の院号にちなむ。綱政は狩野派の絵師狩野常信に自影を描かせ、自筆で和歌一首を書添え、本尊入仏供養時に当寺へ納めている。正徳四年(一七一四)七七歳で没した綱政の遺骸は、生前、自ら当寺裏山に築いた寿蔵(墓)に葬られ、「曹源寺殿堪然徳峯大居士」の法号を送られた(前掲略記)


曹源寺
そうげんじ

[現在地名]三朝町曹源寺

曹源寺集落の西端、山麓に位置する。梅翁山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。「伯耆民談記」によれば定光じようこう(現倉吉市)の末で、開基は河村かわむら郡の長者入道源賛、開山は越前じげん(現福井県今庄町)二世機堂長応とする。慶長年間(一五九六―一六一五)に書写された開山由来記(寺蔵文書)によれば、応永八年(一四〇一)長応が越前より帰国、父南条伯耆守貞宗(法名霊光院殿像外源賛大居士)の援助で当寺を開いたというが、伯州山名代々次第(相国寺光源院文書)には「大膳大夫氏之霊光院殿ママ外源賛大禅定門」とみえており、源賛は南条貞宗ではなく山名氏之のこととみられる。応永九年五月、山名源賛(氏之)によって、曹源寺に寄進された所領の境が、東は「中島西大川」、南は「こくるぎの大谷川」、西は「大峰」、北は「小よふちの石仏をかなふき谷木こり道」と定められ、安堵されている(「源賛証状写」寺蔵文書)


曹源寺
そうげんじ

[現在地名]石狩市弁天町

石狩川河口左岸にある。曹洞宗、本尊は釈迦如来。一八六二年(文久二年)四月、松前藩領の曹洞宗寺院である松前法源ほうげん寺・同龍雲りゆううん院、江差正覚えさししようがく(現江差町)連名の蝦夷地への末寺建立願が受理され、同八月に幕府寺社奉行から許可された(「木村時義御用留」木村時義資料)。三寺院の末寺建立願書提出は一八五七年(安政四年)二月であったから(「法源寺公宗用記録」法源寺文書)、建立許可までに足かけ六年を要したことになる。地所は箱館奉行所からの割渡しとされ、教団における寺号認可は一八六四年(元治元年)である(「同役衆進達留」旧幕引継書)


曹源寺
そうげんじ

[現在地名]栃尾市北荷頃

集落の北にある。曹洞宗、万年山と号し、本尊は泰澄作と伝える聖観世音菩薩。越後七ヵ道場の一といわれる。もとは森上もりあげどうたいらにあって修験であったという。口碑によると、寛正四年(一四六三)の創建といわれ、開基は栃尾城主北畠山城守、開山は公器憲章という。創建当時は山門諸堂を備える大伽藍であったが、二度にわたる火災で寺容を変えたという。公器憲章は乙吉おとよし(現長岡市)龍穏りゆうおん院の開基とも伝える。末寺に栃堀の高徳とちぼりのこうとく寺、中の東昌なかのとうしよう寺などがある。明治一〇年(一八七七)の荷頃村地誌(諸橋ミサヲ氏蔵)によると、北畠山城守から寺領として数十町の山地が寄付され、五世文誉のときに栃尾城主神子田長門守の菩提所となる。


曹源寺
そうげんじ

[現在地名]太田市東今泉

金山かなやま丘陵東端にあり、東方には沖積地が展開。祥寿山と号し、曹洞宗、本尊は阿弥陀如来。境内周辺は小高い林地状となり、山門は東(沖積地に向かう)と西(金山丘陵に向かう)と二ヵ所に存在。寛政五年(一七九三)の祥寿山曹源寺略記写(曹源寺文書)によると、文治三年(一一八七)新田義重によって娘祥寿姫菩提のために建立され、祥寿院として新田家に代々崇敬されてきたが、南北朝動乱期、義貞の戦死、新田氏の没落により同院も零落した。その後文安元年(一四四四)金山城主横瀬新六郎が同院に葬られ、嫡子貞国により寺号を曹源寺と改め再興したと記され、中世初頭から新田一族および金山城主と深い関係があったことが考えられる。


曹源寺
そうげんじ

[現在地名]豊明市栄町

清涼山と号し曹洞宗。本尊は釈迦如来。もとは現在地東南一キロ隔てて庄戸しようど(正土川)に近い元屋敷もとやしきの地にあったが、延宝元年(一六七三)現在地に本堂などを建造した。開基は永正二年(一五〇五)実田以耘。


曹源寺
そうげんじ

[現在地名]横須賀市公郷町三丁目

公郷くごうの北西にあり、東光山と号し、曹洞宗、本尊は薬師如来。古くは宗元寺・宗源寺とも記した。寺伝によれば行基の草創で、薬師像は行基の作と伝える。「吾妻鏡」建久三年(一一九二)八月九日条に、北条政子安産祈願のため加持が命ぜられた寺社のうちに「宗元寺」がある。文亀二年(一五〇二)九月二六日の寿井譲状(県史三)に「三浦郡広徳庵領久郷之内崇賢寺薬師堂免事」とある。


曹源寺
そうげんじ

[現在地名]麻生町於下

曹洞宗、鷲生山と号し、本尊は釈迦如来。曹源寺濫觴之事(高木家文書)によれば、開山は虚叟英仲、開基は下河辺義親で、長享元年(一四八七)船子ふなこ村に創建。下河辺氏滅亡後、慶長一三年(一六〇八)於下おした村に移転したという。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「曹源寺」の意味・わかりやすい解説

曹源寺
そうげんじ

岡山市中区円山(まるやま)にある臨済(りんざい)宗妙心寺派の別格寺院。護国山(ごこくさん)と号する。本尊は十一面観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)。1698年(元禄11)岡山藩主池田綱政(つなまさ)が信輝(のぶてる)(護国院殿)はじめ祖先の追福菩提(ぼだい)のために開基し、絶外宗純(ぜつがいそうじゅん)を開山として建立。以来、岡山藩池田家の菩提寺として栄え、経蔵、開山堂、三重塔、鐘楼鼓楼、二つの禅堂、小方丈(ほうじょう)、茶席、総門、山門などの諸堂をもつ典型的な禅宗寺院形式の寺である。仏殿には本尊ほか、歴代藩主の等身大の坐像(ざぞう)を安置している。現在、京都国立博物館蔵の『餓鬼草紙(がきぞうし)』は当寺の旧蔵である。

菅沼 晃]

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デジタル大辞泉プラス 「曹源寺」の解説

曹源寺

群馬県太田市にある曹洞宗の寺院。正式名称は「祥寿山曹源寺」。18世紀末に建てられた3階建て回廊式の観音堂があり「さざえ堂」とも呼ばれる。「曹源寺栄螺堂」として国の重要文化財に指定されている。

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