浦村
うらむら
[現在地名]加治川村金山
願文山西麓に位置し、北は貝屋村、南は境新村、西は貝塚村。中世までは金山郷・金山村と称された地で、建治三年(一二七七)四月二八日の高井道円(時茂)譲状案(中条町役場所蔵文書)に奥山庄のうち「かな山」とみえ、孫の三浦和田義長(義基)に譲られている。この譲状は鎌倉幕府により偽文書であると判断されているが、関沢氏の祖義長に譲られたことは事実であったと考えられ、のち「不慮之時儀」により幕府に没収された(享徳三年四月二八日「中条秀叟(房資)記録」三浦和田中条氏文書など)。永仁元年(一二九三)八月二九日には由井尼是心の所領となっており、是心は養女平氏(金沢貞顕の娘)に譲り、同二年一一月二〇日に安堵を受けている。この後、金沢称名寺(現神奈川県横浜市)雑掌は元徳三年(一三三一)九月六日に同寺へ寄進されたと主張するが、平氏死去により夫の時如に相伝され、幕府崩壊に伴い建武政府より元弘没収地とされたらしく(貞和二年七月一九日「室町幕府下知状案」三浦和田氏文書)、以後、称名寺と三浦和田氏および一族の間で当郷地頭職をめぐって訴訟が繰返される。
元弘三年(一三三三)一〇月七日、三浦和田(黒川)茂実は後醍醐天皇より金山・中条両郷を安堵されたが(「後醍醐天皇綸旨」三浦和田氏文書)、これに反対して、一族の和田又次郎(関義胤か)らが城郭を構えて合戦した(建武元年二月五日「越後国国宣案」同文書)。
浦村
うらむら
[現在地名]えびの市浦
島内村の南にあり、南西流する川内川南の河岸段丘の切れた所から霧島山麓の駆上がり地帯にあたる。大隅国へ抜ける道として、西長江浦村から北の溝園へ向かい、そこから西向して灰塚―島内―下浦へ通じさらに吉田筋の岡元に通じる吉田筋と高牟礼神社―柳水流―幣田を経て吉松(現鹿児島県吉松町)へ至る山麓筋があったといわれる(えびの市史)。江戸時代には馬関田郷に属した。古くは裏村・高牟礼村・岡本(岡元)村の三ヵ村であったとされ(三州御治世要覧)、寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳では表高は各々裏村一六六石余・高牟礼村三二二石余・岡本村二二二石余とあり計七一〇石余規模の村となる。
浦村
うらむら
[現在地名]東浦町浦
楠本村の南にあり、東に海(大阪湾)を望む。海岸沿いを岩屋街道が北から南へ通る。小田村(現北淡町)辺りを水源とする浦川が西から東へ蛇行しながら流れて海に入る。大永三年(一五二三)六月一日、八日市善兵衛尉光家が北新左衛門に売却した伊勢道者株のなかに、「浦ノ里一円」とみえる(「道者売券案」来田文書)。天正一四年(一五八六)一一月三日の羽柴秀吉知行方目録に「浦庄」とみえ、二千八七石が脇坂安治領となっていた。
正保国絵図では高六七九石余。天保郷帳では高九九二石余。来馬組に属した。寛政二年(一七九〇)には家数一七五・人数七〇〇、牛一三六・馬七八、船数八(「来馬組家数人数等相約帳」正井家文書)。
浦村
うらむら
[現在地名]越路町浦
岩野村の北、西は来迎寺村、北は道半村。集落は信濃川左岸にある。正保国絵図に三島郡「上村」五三石余・「浦村」二四〇石余・「浦村新田」四四三石余・「鑓水村」一五八石余とある地域。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高一千八五石七斗余で、うち山高五斗・漆高三石四斗。ほかに高三五七石二斗余・高六三石七斗余・高一九石四斗余の新田三ヵ所がある。
浦村
うらむら
[現在地名]倉岳町浦
上島の南部にあり、南端はリアス海岸が複雑に入組む。古くは湾奥の岬角であった名桐の名桐古墳群には箱式石棺群がみられる。慶安四年(一六五一)の肥後国大道小道等調帳(県立図書館蔵)に「本戸瀬戸口ヨリ大河内村通浦村迄六里」とある。正保郷帳に村名がみえ、高一八八石六斗余とある。砥岐組に属し、庄屋は吉原家、後に小松家。万治二年(一六五九)石高半減により一四四石一斗余となった(天草風土考)。
浦村
うらむら
[現在地名]長谷村大字浦
北流する三峰川の上流左岸最南端にあたり、入野谷郷の奥の村。山腹の高原台地に開けた村で、直下に谷底の清流を、東方眼前に赤石山脈(南アルプス)の連峰を望む。北及び対岸は市野瀬村に接し、北に前浦、南に奥浦の集落がある。
正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻に「高三拾石 浦村」とあり、元禄一五年(一七〇二)の信濃国郷帳に「高五拾七石七斗六升 浦村 古ハ市野瀬村」とあり、分村したことがわかる。
昭和一一年(一九三六)刊の「長野県町村誌」に、「浦村は、昔時平惟盛潜伏の村と云。依て往古は此の地を壇の浦と云。
浦村
うらむら
[現在地名]酒田市飛島 中村
飛島の東側にあり、南は勝浦村、北は法木村に接する。寛文二年(一六六二)の年貢割付状(酒井家文書)によると年貢いか一二駄、家数二三・人数四四、田六間二分余・畠二千一四四間。天和三年(一六八三)の飛島村数並家数人数書上(鶏肋編)では家数四五・人数二一五、猟船六八艘。享保一〇年(一七二五)家数五四(飛島誌)。
浦村
うらむら
[現在地名]新発田市浦
八幡村の西南に位置し、東南からは丘陵が張出し村域は西北部に広がる。五十公野からの荒川往来が通り、東の城山の頂には山城跡が、西の字館ノ腰には館跡がある。天正二年(一五七四)の安田氏給分帳(北方文化博物館蔵)に、神田美濃寿丸の給分六貫五〇〇文のうち「弐貫六百五十文田地、うら村有」と記されるが、これは当地か。慶長三年(一五九八)新発田藩領となる。当時の御領内高付帳(新発田市史資料)に村名がみえ、隣村の法正橋村と合せて三四〇石二斗余。同一〇年の給知方村々高目録(同資料)では浦村は毛付三六〇石二斗余・荒一八石八斗余。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)によると、二石二斗五升のほど役が一二軒に課されている。
浦村
さかきうらむら
[現在地名]宿毛市小筑紫町栄喜
小筑紫港が大きく南に切れ込んだ湾奥にある漁村(浦方)。「栄喜」とも書く(西郡廻見日記)。「土佐州郡志」は「東限小尽浦、西限西泊浦界、南限芳生野沢村、北至海際、東西二里、有港北向、其縦二百五十間・横百四十間、戸凡十四、船数艘、其土黒」と記す。
天正一七年(一五八九)の榊浦地検帳によると検地面積七町二反余、屋敷数一三うち居屋敷九。
浦村
うらむら
[現在地名]マキノ町浦
山中村の南にあり、村域北方を知内川が西流する。幕府領から慶安四年(一六五一)上野館林藩領、延宝八年(一六八〇)幕府領に復し、享保九年(一七二四)以降大和郡山藩領。慶長七年(一六〇二)の海津内浦検地帳と名寄帳(いずれも滋賀大学経済学部付属史料館蔵)があり、検地帳では高四七三石余、登録人数一〇四、屋敷筆数二八、名寄帳では高四七一石余、登録人数三九、屋敷筆数三二。寛永石高帳に高四九七石余とあり、慶安高辻帳では田方四三一石余・畑方三四石余・永荒三一石余、ほかに小物成銀六七匁余。享保九年大和郡山領郷鑑によれば高四九七石余、反別四五町四反余、家数五一・人数二二九、馬八・牛一八。
浦村
うらむら
[現在地名]龍郷町浦
現龍郷町の中央部に位置し、集落は笠利湾の深い入江の最奥部に臨む。平家落人の平行盛の子と浦娘の悲恋物語が伝承され、地内に城・弓城・里・前里・大道などの地名がある。正保琉球国絵図に「名瀬間切之内うら村」とあるのが当村と考えられ、沿岸の諸村を結ぶ道が記される。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳にも「奈瀬間切」のうちとして同じく「うら村」とみえる。正徳二年(一七一二)から田畑佐文仁が行った新田開発のうちに当地も含まれるといわれ(奄美大島史)、その干拓のために掘削したトシンメ(通し穴)が集落の北側にある。
浦村
うらむら
[現在地名]唐津市浦
黒崎が村の東端で唐房湾に突き出し、かつては入江であった。東松浦半島の上場の岩野村(現東松浦郡鎮西町)に発する浦川が村内を東流する。浦川は、もと村の北東にあたる幸多里浜に出ていたが、藩政末期に改修して唐房浜へ川口を変え、もとの河床は開拓田となった。この工事をした庄屋村山周平の顕彰碑が幸多里浜にある。
康永元年(一三四二)一一月七日の源(佐志)勤から三男六郎湛への譲状に「肥前国松浦西郷佐志村内浦河内のぼり」とある浦河内は浦村に比定され、いまも浦河内の字名が残る。
浦村
うらむら
[現在地名]高田町田浦
田尻村の東方、山間部にある。三池郡に属する。永正九年(一五一二)四月二五日の田尻治種知行坪付(田尻家文書/佐賀県史料集成七)に三池郡の「浦」六町がみえ、以後田尻氏領で、天正一一年(一五八三)頃のものとみられる年月日欠の田尻鑑種本領村数等覚書(同上)に「うら」がある。現瀬高町大草の叡興寺にある天文二〇年(一五五一)仲秋彼岸日在銘の自然石板碑には「万部本願田尻浦村前浄雪庵慶順」とある。文禄四年(一五九五)の知行方目録では高一五七石余。
浦村
うらむら
[現在地名]田原町浦
蔵王山東麓の田原湾に面し、吉胡村の北に隣接する。延享四年(一七四七)の田原領高根付並免付帳(田原町蔵)に「浦村分一、浮役高一石一斗三升三合塩浜高ニ入」とあり、当村組頭中神源三郎の「本朝年代要覧」(中神家蔵)によれば、明治三年(一八七〇)以来浦村大洲・青尾新田・沖新田などで塩田法によって塩を生産し、「塩一升六百文誠ニ高値」「塩問屋ヲ設立」などとある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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